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タグ:飯盛女 ( 10 ) タグの人気記事

枚方の遊郭 鍵屋

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                      河内名所図会 枚方駅

淀宿と守口宿の中間にあった枚方宿は岡新町から、泥町村の南端まで十三町十七軒、京阪枚方駅から枚方公園駅までおよそ1、5キロと非常に長い宿場町でした。

宿場の経営は、今で言う補助金が出る場合もありましたが、基本宿場維持は宿場側の持ち出しであり、公用の貨客輸送の任を帯びた枚方宿の財政維持は困難を極めました。さらに、枚方宿は京街道を通る紀州、泉州の大名行列や長崎奉行の往来もあり、財政を圧迫しました。

幕府は宿場運営にお金は出さない代わりに、飯盛女の名で遊女を黙認しました。

宿場維持の為飯盛女が消耗品として酷使されるという図式は容易に想像されます。

枚方宿の四村の一つである三矢村では文政十三年から元冶元年の三十三年間で三十四件の飯盛女死亡の記録があります。これは史料に恵まれた事例とされ、枚方宿の飯盛女全体ではいったい何人亡くなっていたのか分かりません。

さらに遊廓につきものの心中事件も以上に多いのが枚方宿の特徴と。宝暦五年より文政十年まで六件の心中事件の記録があります。

享保七年大賀越前守は幕府の方針として心中御法度のお触れだし、心中という言葉すら相対死という言葉を充て重犯罪としました。

明和二年四月十八日、伊八女郎・中振村新七の心中があり、男は死そんじ、女は埋められました。その後八月六日、新七は打ち首、女郎は掘り起こされ、二人とも晒されたほど厳しいものでした。

諸国遊所競には、最下段であるものの、かはち、ひら方で顔を出しています。

もう一つ、枚方は水路交通の要所として、三十石船が昼夜別なく行きかったことで、枚方付近にくると、くらわんか船という小船がこぎ寄せて、河内弁で「餅くらわんか、酒くらわんか」と物を売りつけにきました。

客が拒絶反応をしめすと、汚い言葉でののしり、三十石船の苫を手荒く引き上げ、寝てい客を驚かせしましたが、天下の特権としてお咎めは無かったそうです。

現在も残る鍵屋のある三矢村堤町一帯は弦歌さざめく歓楽の地で「淀川三十石船唄」に

√ここはどこじゃと 船頭衆に問えば

ここは枚方鍵屋浦

鍵屋浦には 碇はいらぬ

三味や太鼓で 船止める


『宿場町』芳賀登著:『枚方市史』:『新版 郷土枚方の歴史』

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                         鍵屋
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中は博物館になっており、くらわんか船の再現など見所満載でした。


by gionchoubu | 2019-08-01 11:48 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

枚方の遊郭 枚方宿

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                       枚方宿

江戸の日本橋から京都の三条まで東海道五十三次があります。この京都から大阪に至る、伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えて東海道五十七次といいました。

この大阪までの四宿は淀川が併走しているのが特徴で、伏見から下り船を利用する者が多く、それが元に片宿で呼ばれました。

旅籠屋は天明(1781~89)から天保(1830~44)にかけ増加し、飯盛女も天明に4名であったものが寛政(1789~1801)には127名以上に増え、枚方留女、隠売女躰(いんばいおんなてい)売女芸子躰などと呼ばれ、在郷に不似合なほど諸事華美をつくし、奢侈の風を増長し、旅籠屋は茶屋遊所同様となりました。

元禄四年、二月二十八日、オランダ領東インド会社の随行者であたエンゲルベルト・ケンプェルは

「此処には多数の旅亭・飲食店ありて、そこにて少数の銭にて茶を喫し、酒を飲み、又種々の温かき食物を得べし。

(是等の宿屋及び公衆の立寄る家々は)各戸に化粧したる若き私窩もあり(戸口に立ち、旅人を見蒐けて呼び込みつつを以て、容易に其と知らるるなり)

又、文政九(1826)年三月十七日に枚方を通ったフィリップ・シーボルトは

「枚方は一大村なり。大坂の住民が遊楽地としてよく来る所にして、そのため町は遊女にてうまりたり、それは余が我一行に一時間も先立ちて、少数の同行者と此町を歩み通りて、町の人々を好奇心より戸の前に喚起でしために、いよいよ多く目に入りしなり。」と書いています。

枚方宿は岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の四村から成り、近世後期、三矢村では旅籠屋が置屋の役割も呼び、「子方呼屋」と称する小楼へ飯盛女を置り込んでいた。

想像するに、旅籠屋は飯盛女の名目の遊女を自所で旅人の相手をさす以外、席貸である子方呼屋に飯盛女を送り込み、在郷の者の相手をしたのでありましょう。

文政時代十一軒あった煮売屋はもともと仕出屋として旅籠屋や子方呼屋にも料理を仕出ししていました。

しかし天保になると煮売屋自体が料理茶屋になり、飯盛女が送り込まれる様になると子方呼屋の方は衰退を余儀なくされた様です。

その後は旅籠屋と煮売屋との間には「札代」の支払や料理の仕出をめぐって対立が絶えず、村方の仲介で和談が成立したりしていました。

参照:枚方市史研究紀要 第八号 『近世枚方宿と飯盛女』福山昭・山口尚子著

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                      枚方宿の本陣、旧三矢村


by gionchoubu | 2019-07-25 13:48 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

今津 女奉公人

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                       今津

平成八年、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」明治四年今津の茶屋として魚屋、中村屋、米屋、伊勢屋、舟屋、傘屋、大和家、亀屋、正木屋そして浜屋二軒の十一軒を確認しています。

さらに同研究では今津町史編纂室所蔵「(明治2年―9年)所用書留帳」を調査し、今津町へ奉公に来たと考えられる者十六人を掲げています。奉公先は十一軒の内、魚屋、中村屋、米屋、舟屋、亀屋、浜屋軒でこの六軒が置屋と思われます。

それ以外の伊勢屋、傘屋、大和家、正木屋ともう一軒の浜屋が揚屋になるのでしょう。

この十六人は明治二年から四年にかけて今津に奉公、差遣、年期奉公、養子縁組、商用、出稼の名目で、十三人が京都、二人が大津、一人が平ヶ崎村より、内八人が八坂新地(祗園)と宮川町(一人)から来ています。

年齢は記されているものは十四歳より三十歳です。

北野裕子氏はこの女達の大半が今津に来たのが、明治四年の五月に集中しているのは、その年の二月に飯盛女を抱え商売している者へ、七月までに移転が申し渡されたのを受け、茶屋が不景気を理由に翌年五月までに猶予を申し出た間に相当するので、経営不振に陥った茶屋が巻き返しを図らんがために京都から女を呼んだのであろうか、むしろ、京都の方から維新による打撃のため流失してきたのでは無いだろうか、と鋭い分析をされています。

面白いのは、上記とは別に明治四年五月に男性の三味線引き三人が米屋と亀屋を引受請人として今津に入り、さらに祗園の富永町の芸妓、玉木妹くミが伊勢屋に六月から七月二十日まで出稼ぎを申しこんでいます。

ここからは私の推測です。

まず明治二年から四年にかけて今津に来た十六人の内、八坂新地と宮川町からの八人は酌人として、他の女はあるいは飯盛女として売られてきたのだと思います。

酌人は芸妓より一段下の資格で、座敷で遊芸も芸妓と同じくすることが出来ますが、ゆるやかな資格です。

そして伊勢屋に来た祇園の芸妓はこの酌人に稽古をつける目的できたのだと思います。伊勢屋にいたのは実際六月から七月の頭までで、その間みっちり座敷舞の指導をしたのだと考えます。

舞の師匠が当時の今津村にいたとは考えられず、こういった風に京、大阪の花街の芸妓が期間を決めて地方の花街の指導に当たるというのは他でもあったのかもしれません。

さらに当時の祗園は、少なくとも明治五年までは踊りの流派が井上流と篠塚流の二本立てだったので、厳しい井上流でなく、比較的習い易い篠塚流の芸妓だったと思います。ちなみに、宮川町を含め江戸期の京都の花街はほぼ篠塚流でした、

明治四年に食盛女(飯盛女)と酌人が旅籠屋や料理屋に立ち入る事を今津役所が禁じたあと、食盛女を抱えた店のみ移転を申しつけられたのは、食盛女が不特定多数の男に対する売色が全ての仕事で、酌人は、茶屋が選んだ特定の男に売色もさせたでしょうが、一応芸が表であったためだと思います。

役所はこの二つを明確に区別していたはずです。




by gionchoubu | 2018-07-15 14:29 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

今津 飯盛女

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                       今津の町並

中世以来、湖西有数の湊として栄えた今津湊。近世では若狭からの物資は九里半街道を越えて当地に入り、丸船に積まれて大津や湖東の湊に運ばれました。

また若狭方面から琵琶湖に浮かぶ竹生島へ参詣に行く人々でも繁昌しました。

実際現在でも竹生島のアクセスは琵琶湖東岸の長浜や彦根以外、西岸の今津のルートもあります。

近世初期から中期にかけては貨物・藩米の扱いが年間二十万駄馬あったものの、西廻航路の発達に依よりしだいに衰退、幕末ころには扱いは十分の一ほどに減少したといいます。

今津湊を有する今津村は秀吉時代より芳春院の御粧田として加賀藩領になり、西近江路の宿駅で荷物問屋数軒あり公用の継立の用を果した。安永三年には五百余の家数がありました。

以上が平凡社『滋賀県の地名』による今津宿の江戸期までの略歴になります。

江戸期に今津宿で飯盛女が他の街道宿のように売女として渡世をしていたかを知る手立てはありません。しかし『近江研究35号』、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」を読むと、その土壌は、少なくとも江戸期の後期にまで遡れそうだと考えるのが自然と思います。

江戸期に於いて滋賀の彦根藩は自藩に遊廓の設立を認めず、井伊直弼大老にいたっては彦根藩飛び地領の下野国佐野領(栃木県)の売女(遊女)まで廃止するという徹底振りでした。

今津藩の母体である加賀藩も遊廓には厳しい藩で金沢の東の廓が公認されたのは文政三(1822)年のことでした。

ただし加賀藩の支藩の大聖寺藩には公認の遊廓として串茶屋が北陸街道で栄えており、文政以降なら今津で遊女渡世が黙認されていても不思議ではないと私は思います。

さて、「明治初頭の茶屋と女奉公人たち」によれば、明治四年の一月の諸用書留帳に、近年食盛女や酌人が町屋に横行し風儀が乱れるので旅籠屋や料理屋に立ち入ってはいけない、という今津役人のお達しがだされています。

さらに二月、以上の申しつけが全く功を奏しなかったとみえて、食盛女を抱えて商売するものが市中に合い混ざって収支がつかないので河童(子)町裏屋敷地へ移転して、そこで盛大に商売をしてくれ、と趣旨を変えています・・・続く



by gionchoubu | 2018-07-13 11:53 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その一


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                      草津宿本陣

『旅枕五十三次』に「駅中に札の辻あり、木曾街道のそれ道なり、此宿の遊女五百文、また四百文もある。ある説に云。此宿の下品のめしもりも近在貧賤のものゝ娘、あるいは下女、はしたの類、ひそかに此宿へ出て客をとり、小遣いとする故に下者多し。名物、うばが餅」とあります。

木曾街道は中山道のこと、大津宿とともに東海道と中山道を兼ねた草津宿は本陣、脇本陣とも二軒ずつあり、旅籠は文政二年(1819)百八十軒あったといいます。

さらにお伊勢参りのお客もほとんどここに一泊して賑わい、大名、小名、町人もここで旅装を解いたと言います。

「草津の買物は姥(うば)が餅とお女郎さん」と飯盛女も名物だったようです。『諸国遊所見立角力並に直値段』によれば草津の遊女の位は、前回紹介した近江八幡より劣るものの、水口宿、石部宿よりは上位にあります。

『草津市史第二巻』によると、飯盛女の横行に手を焼いた幕府は度々取り締まりをしました。ところが享保三年(1718)、幕府自ら課した負担ばかり多いい宿場経営維持の為に、やむなく旅籠屋一軒に飯盛女二人という名目で事実上遊女を認めたのです。

この間草津にどれくらいの遊女がいたか不明ですが、文化二(1805)年の「間之村休泊御差止方等請書」や同十一年の「飯売女取締方請書」で定の人数以外に飯盛女を置かない、いささかも華麗の義がないように取り締まるとの請書に草津の問屋・年寄が連印しているので、確実に草津に飯盛女の名の遊女がいたことになります。

さらに「膳所領郡方日記」によれば、文政九(1826)年二月草津宿宮町の?屋文右衛門ら四名は“風儀宜しからざる下女共抱え置き、衣服等倹約ニ背キ候趣ニ付き〜”罰金、手錠、宿払い等の処罰をされています・

同じ文政九年には六丁目の徳兵衛が下女に客を取らせ、法外の折檻を加えたために下女は自殺、これを届けず隠そうとしたので全財産没収の上追放の処分を受けました。

これは旅籠一軒につき飯盛女二人では到底需要に間に合わず、下女の名目で売女を置いたのを見せしめで取り締まったのだと考えられます。

天保九(1838)年の飯盛の数は六十人で、二十人を一組とし、取締人をひとりずつ置いていました。

そして同年幕府の令で飯盛女自体が禁止、しかし草津宿では請願により同十三年に給仕女を置く事が許されました。この給仕女は三味線・太鼓・酒の相手、歌舞、売春行為は決してなさぬ事。衣服、帯、襟、袖、下駄、草履まで全て木綿製にする事、櫛や髪飾り、笄に鼈甲や金銀を用いない事、蛇の目傘やもみじ傘を用いない事などが申し渡されました。

つまり天保九年以前の草津の飯盛女は衣服、帯、襟、袖に木綿を使わず、櫛や髪飾り、笄に鼈甲や金銀を用い、酒の相手をしながら歌舞、三味線、太鼓で旅人ををもてなし、春を売っていたことになるのです。

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                 東海道と中山道を兼ねていた草津宿


by gionchoubu | 2018-06-11 12:09 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 宿場女郎

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   水口宿

渡辺寛は『全国女性街ガイド』の貴生川の欄に「国宝的な草葺きの女郎屋が六軒建っていて、女たちも古典的存在。草津線で草津から三十五分のちか間にあるのに、お訪(おと)なうものは風ばかり。」の一文に誘われて以前貴生川を歩いたもののそんな雰囲気は微塵もありませんし記録も一切残りません。

思うにこれは貴生川町を含むその先の水口町の石倉新地を指していたものと思います。

水口の遊里は明治に誕生したこの高倉新地とその前身にあたる江戸時代に東海道五十三次の一宿であった水口宿の宿場町の遊里の時代がありました。

愛知の岡崎宿や吉田宿などと同じように、水口の遊里は城下町型と宿場型の二面をもつ複合色里でした。つまり遊客は街道の通行者以外に城下に住む侍、町人達もなじみとなっていたと考えられます。

『東海道名所記』に宿場女郎が旅人の胸倉を捕らえ無理に家に引き込み

「これはいかに、まづ物を言わせよ」

と旅人を有無を言わせず捕らえる様子が書かれているそうだし、

淫水亭開好という物騒な名の人が書いた『東街道五十三次』の水口に

「此宿にやどりをもとめ翌日は早都入りにて道中のおじゃれも今夜かぎりと、めしもり二人呼て大洒落にしゃれ、其夜は主従とも陰茎骨かぎり犯のめし、足も腰も口も陰茎もはっつり草臥打伏(くたびれうちふし)けり。」

と、明日は京都に入るので、羽目を外すのもこれが最後と、これまた物凄い事がかかれているそうです。

年代的に遊女関係を中心に水口宿の歴史を見ていくと、

慶長六(1601)年東海道に宿駅宿次制がとられ、水口宿は本宿ときまる。

やがて飯盛女の名で遊女が跋扈したらしく

寛文九(1669)年の代官、猪飼次郎兵衛条々には「一、遊女一切抱置候間鋪事、」という一項がはいります。

その後また次第に飯盛女は盛んになったので。

明和九(1772)年三月再び藩主加籐氏から町奉行の手で禁止されました。

十年後の天明二(1782)年旅籠屋から「宿場維持の為相当の冥加金を納入するから飯盛女を置かせてくれ」と嘆願するとこれが認められ一戸あたり五人の遊女(飯盛女)が認められました。

幕府令では一戸あたり二人なので、ずい分思い切った政策といえるでしょう。

ただしそれ以後藩士が旅籠屋へ出かけて遊興することは厳禁されました。

参照:艶本紀行 東海道五十三次 林美一著






by gionchoubu | 2018-05-14 12:36 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

石部宿の飯盛女

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   旅籠の部屋の様子(関宿)

今は死後に近い石部金吉を広辞苑で見ると「石と金と二つの硬いものを並べて人名めかしたもの、きわめて物堅い人。融通のきかない人」と有りますが、滋賀の石部宿の石部が由来という説もあります。

そんな色恋とは間逆の金吉を生んだ石部にも宿場女郎はいました。諸国遊所見立角力並に直段附には近江水口と並んで下層遊里の一つとして四百文の料金で紹介されています。この四百文は旅籠ゆえ、当然女郎とのお泊り料金と思います。

『滋賀県の地名 平凡社』を見ると、慶長六年(1601)徳川氏によって東海道の宿として整備され、天保十四年(1843)当時、本陣二軒、旅籠屋三十二軒を数えました。

『艶本紀行 東海道五十三次』林美一著によると、「石部おやまと目ざしのひもは、あたまそろえて売りにでる」とあります。おやまとは京阪の遊女で太夫、天神の二妓以外のものを指してごく一般に使われたものです。

ちなみにおやまの語源は小山次郎三郎という人形使いが技にすぐれ、美女をさして小山人形の様なり、が転じて遊女の総称なり江戸の女郎買いを関西ではおやま買いといいました。

安政五年(1858)には旅籠は六十二とずい分増え、田中屋、近江屋、八百屋、俵屋などの飯盛旅籠として繁昌した店の名が伝えられており、『石部町史』には古老の話として、宿内のみのや橋の下から赤前垂れの女が客引きに現れたという話が載るそうです。

さて、石部の飯盛が400文、一文25円で計算すると1万円になります。

さらに最下層の女郎、京都では、しらみのづし(白梅辻子)清水前(阿古屋新地)などが最下層で100文僅か2500円で女を買えたことになります。

最高級は島原の太夫で76匁(1匁=67文)といいますから今でいうと13万円といったところ、ちなみに天神はその半額です。

その他、京都でみていくと西の関脇、祇園町(四条通り)が花代1万4千円ほど、泊れば4万三千円ほど、東の小結、祗園新地(富永町や元吉町、末吉町あたり)で花代は祇園町の半額といったところ。七条新地と五条橋下は一切二百文で五千円、お泊りでも一万二千五百円ほどです。

又五十三次の宿で高いのは現在名古屋の宮宿や静岡の浜松宿で1万六千円ぐらいから、となっています。

石部に話を戻すと『膝寿里日記』という本に「固い石部の木枕よりも、わたしやお前の膝まくら」の歌のある挿絵で、一度枕をかわした飯盛女が、もう沢山の表情の男を再度お床に引き入れようとする様子が載っています。


参照:艶本紀行 東海道五十三次 林美一著

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by gionchoubu | 2018-05-10 14:12 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

京都私娼考 その七

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                    佐藤要人著、江戸水茶屋風俗考

幕府は旅籠屋に飯盛女(公文書では食売女)一軒につき二名までと決めたり、東京でも南品川宿に150人と制限を設けたりしています。つまり幕府は飯盛女名目で一軒につき遊女二人、南品川なら全体で150人まで遊女を置いても構わないといっているのと同義で、眼に余るようなら検挙するよ、と言外に匂わしているのです。

旅籠で食事を給仕したり、なにかと旅人の世話をする女性は必要で、本来飯盛女が何人いようが、仲居の仕事なら制限する必要はないはずです。これをわざわざ何人と申しつけるのは、幕府も、宿屋も、御客も、飯盛女=遊女と認識していたことになるのです。

なぜお上がこんな周りくどい言い回しをするかと言うと、幕府は公用や特権者(公家、門跡等)の人馬の宿立てを無賃使用させたり、行政的な責務を宿駅に無償で求めた見返りで、宿場経営の必要な要素として一般の旅行客に維持費を求める事を認めざるを得なかったのです。

公式では絶対だめでも、逃げ道をつくり非公式に認める・・・現在でも色んな所でみられるようです。私は日本しか知りませんが、他国にもどこでもあるのでしょう。ただ日本はこの傾向がすこし過ぎるのかもしれません。

話しを京都に戻すと、茶立(点)女や茶汲女も同じ事がいえます。茶屋があれば、お酒を出したり、料理を運んだりする女がたった一人では、小規模な茶屋でも回るはずがありません。

ところが祇園でも、承応年中、水茶屋も煮売茶屋も料理茶屋でも茶立女や酌取女は一軒につき制限一人、享保年中にもわざわざこれを確認するお達しが渡されています。

つまり茶屋株が許された店は表向きはだめだが、派手に風紀を乱さない限りは私娼を置いてもいいよ、と言っている事になるのです。

と、私は以前から思っているのですが、これをこうだとはっきりと説明してくれている著作等に出会ったことがありません。もし私の曲解ならごめんなさい。

参照:芳賀登著『宿場町』、『講座 日本風俗史 旅風俗 第3集 宿場編』、雄山閣


by gionchoubu | 2016-02-22 11:48 | 私娼 | Comments(0)

遊廓・花街の類形 その二

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                   広重 東海道五十三次 御油宿
しかし、何といっても一番遊所が出来たのは矢張りA の人が集まるところだったのは間違いなく、以下その代表の一つ、宿場型として分類したものの中で、東海道五十三次だけとって見ても、『近世風俗志』に「官許の妓院あるは駿府の弥勒町のみ、その他は飯盛女なり。五十三駅のうち売女なきは、草津、石部、水口、坂下なり」とありますが、実際草津に水口にも宿場が育んだ遊所はありましたので、これに他の街道を加えると、日本全国宿場型遊里だけでも、二百では済まないはずです。

宿場型 宿駅はもともと公用伝馬の通じの為に幕府が設けたもので、私の旅行は頭に有りませんでした。幕府がずるいのは、宿場運営には自ら金をださず、義務、労役、維持を宿場に一方的に課したことで、宿場としては旅籠経営ぐらいでは到底立ち行かず、殆どの宿場では、遊里渡世をして凌いでいくしか生きる道は無かったのです。

そして幕府の方は表向きには遊里を禁じながらも、飯盛女の名目でこれらの女を事実上黙認しました。これはまさしく日本人の本音と建て前の特性に通ずるもので、現在も、パチンコなどで同じような歪を見る事ができます。

江戸に目を向けると、東海道の第一宿が品川で、参勤交代の半分以上はこの宿駅を通過したとのことで、栄えに榮えました。江戸落語の「居残り左平冶」やめ組の喧嘩で有名な島崎楼もここの話で、戦後まで品川芸妓としてその名を馳せました。

新宿も、宿が示すように、もとは甲州街道の基点として飯盛女が一夜の客をとる旅籠町が起源で、後に権力や暴力の渦巻く町となり、鈴木主水と橋本屋白糸の物語を生みました。

その後、新宿は日本有数の繁華街となり、大正七年に新指定地に移りましたので、起源は A即ち新宿一丁目から三丁目がこれにあたり、移転後の新指定地は Cということになります。

一方奥州道第一の宿駅が千住で、『江戸図解集覧』に宿屋が一四一軒、内八二件に飯盛女がおり、もう一つ中仙道の最初の駅が板橋で『中山道宿村大概帳』によれば「所々に花魁店前に並び、紅粉をよそほふて花簪をさしつらねて、美艶をかざる。格子のうち、ゆきかう旅客をとどめて、あれこれと興ずるもの多し」という状況でした。

もう一回『近世風俗史』に登場して頂くと「江戸にて駅妓を宿場女郎という。三都ともに駅を宿という。今俗の風なり、江戸の四口おのおの娼家あり。品川を第一とし、内藤新宿を第二とし、千住を第三、板橋を四とす。これ妓品をいふなり。」

この宿場形花街の繁栄の上に、我々の現在の暮らしがあるのを決して忘れてはいけません。

参照:宿場町、芳賀登・日本花街誌、加藤藤吉


by gionchoubu | 2014-10-28 14:57 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

墨染

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都林泉名勝図会、墨染、南新町の様子・この街道を右に行けば墨染寺、左が京阪線路のはずです。旅人の傘を奪い宿に引き入れる女がいます。又大枡屋の二階では夜も更けないのに三味線で宴会をしているグループ、伊勢屋の二階では街道の賑わいを見る遊客と妓がいます。芝居小屋もあります。有馬稲荷の鳥居が見えますが、大分前に無くなりました。
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上記の絵図あたりです。有馬神社は疏水付近のはず。

飯売女、飯盛女、飯炊女、出女、留女、おじゃれ、たぼ、柱負い、夜馬、足洗女、伽やろう、道の者、くぐつめ、土地により場所により、所謂宿場女郎にこれだけの異名があるのでの分かるように、江戸時代の街道には、旅人の袖を引っ張り、宿に引き込む女がいました。

お江戸日本橋と京都三条の東海道五十一次には総ての宿駅にこういった遊女がありましたし、中仙道も多くの宿場には赤前垂れをして渡世をするものがおりました。

前回の撞木町のすぐ近く、伏見から京都への交通要所であった墨染めはこの宿場町型の遊里と言ってよく、全国的にはごく普通の遊所ですが、京都では毛色の変わった遊び所でした。

お客は京都、伏見間を往来する町人や東海道からここを経由する旅人達ですが、街道型の遊里としては上記のように全国何処でもあった下級遊里の一つで、遊所番付に載ることもありませんでした。

ただ、あるいはこの風景が京都の人に面白く映ったのか『都林泉名所図絵』で「深草里墨染花魁」と紹介されています。又『東海道中膝毛』でも「墨染といへる所にさしかゝりけるが、爰はすこしの遊所ありて、軒毎に長簾かけわたしたるうちより、顔のみ雪の如く白く、青梅の布子に、黒びろうどのはんゑりまで、おしろいべたべたつけたる女、はしり出て、弥次郎が袖をとらへ」との下りがあります。


元禄十二年巳卯年、南新町、七軒町、墨染横町の三町に茶屋株を得て、この頃は茶立女を置き二十五軒の茶屋で営業していたようです。天保の改革で茶屋は禁止され、明治まで旅人宿や商人宿の名目で遊女を置きました。


明治五年写『京都府下遊廓由緒』にこの遊所の簡単な沿革と地図がのるので、一廓として認められていた事になります。

明治十一年の『都の花競』には七軒町に小浅(21才)南新町に富鶴(20才)、伸吉(21才)の芸妓が載り、娼妓は南新町に八人、墨染横丁に一人、七軒町に二人の登録がありますが、この規模では見番の様な組織は無かったかもしれません。


大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷5、芸妓1、娼妓18とあります。


緑江さんの聞き取りによれば、京阪の線路のところに杉野屋、疎水の所に上田屋があったそうです。日露戦争後は撞木町に吸収され今は面影もありません。

実は現祇園東で地方をされているお姐さんがいらっしゃり、一度座敷でお話を伺ったのですが、自分の生まれた町が花街だった事は全くご存知ありませんでした。

参照:京都市の地名、平凡社・猥褻風俗辞典、宮武外骨、京都遊廓見聞録、田中泰彦編


by gionchoubu | 2014-10-20 16:32 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)