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猪崎新地ぞめき ある遊客からの聞き取り

猪崎新地ぞめき ある遊客からの聞き取り_f0347663_11481838.jpg
             猪崎新地の多いいお宅で見られる大黒様、千客万来を願ったものか、             

今回は『猪崎ものがたり』からのエピソードの一つ紹介させて頂きます。

Pさんの話・・・たまたま料理屋で、同級生だったBさんと出会い、旧交を温めていたところ、PさんはBさんから、猪崎遊廓行きを誘われたのです。ところが、どういう訳か、タクシーである貸席へ上がると、Bさんが黙りこんでしましました。

Pさん「おい、どうしたんだ。」

Bさん「実は俺、遊廓は初めてなんだ。」

Pさん「えッ、はじめて、そんなら帰ろうか。わしははじめての人を遊廓へ連れて行く、そんなことはいやだ、あいつに初めて遊里に連れて行かれたなんていわれるだろうから、そんなことは絶対いやだ。」

Bさん「まあ待ってくれ、実は俺最近結婚するんだが、どうするのかさっぱりわからない。いろいろ考えたが遊廓で娼妓に教えてもらうしか方法がない。ところがだれも連れて行ってくれない。君なら俺のほうからさそったら行くかもしれない。そしたら君が連れて行ってくれると、つまり君をだましてこゝへ連れてきたのは俺のほうなんだ。どうか帰るなんかいわないで何とか世話をしてくれ。」

Pさん「そうか、そんなら仕方がない。こゝへ娼妓を一人よんで、どんなふうにするのか講習会を開こうか。わしが実際指導に当たって君がみている。そうしよう。」

Bさん「いや、それは困るし、そんな事はいやだ。俺自身で実際にためしてみたい。それだけはゆるしてくれ。」

結局Pさんは女将に頼んで、Bさんにこの特殊事情に一番向いているCさんという娼妓さんをよんでもらい、滞りなく実地指導が終えることが出来た模様。

あとでBさんに聞いたところでは、非常に親切に、ていねいに教えてもらい、帰るときに「もう決してこんな所へは来ない様にしなさい。そして奥さんをしっかり守りなさい。」とCさんに言われたとのことでした。

Cさんは、当時花代売り上げナンバーワンの売れっ妓で、その後いい人に籍を抜いてもらい、本妻か二号さんかわかりませんが、立派な店をまかされ、幸福な人生を歩んでおり、Pさんと挨拶を交わすこともあったそうです。

さて、Bさんも目出度く結婚、その後組合活動とかで活躍されていたのですが、残念ながら長生きは出来ず他界されたとの事。

ここで一つ疑問が・・・果たして生前のBさんが、Cさんの忠告に従い、奥さん一筋で二度と猪先に足を向けることが無かったか、あるいは奥さんには組合活動と称し、音無瀬橋を渡った事があったのか、無かったのか・・・今となっては確かめようがありません。

遊廓には救いようの無い話が多いのは事実ですが、こういった話もあったのですね。


by gionchoubu | 2015-06-21 11:51 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

遊廓、花街の類形 その十四

遊廓、花街の類形 その十四_f0347663_12270003.jpg
                 呉の朝日町にその形跡を見ることはありません。
軍港型 横須賀は海軍の町で鎮守府、海軍工廠、水雷団、水雷学校、海軍飛行場もあり、この鎮守府の開設と共にできた海軍御用達の遊廓が横須賀市遊廓で、昭和の始め、貸座敷が二十六軒ありました。

佐世保も一漁村であったのが、軍港になると一気に発展して明冶二十六年に勝富遊廓が設立されました。さらにこれだけでは需要の追いつけなかったのか、明冶四十三年に、花園遊廓が誕生し、妓楼が五十軒も立ち並びました。

呉市にも鎮守府が置かれ、江田島には海軍兵学校があり、それまでの一小村が軍港になると、昭和の始めには岡山市を超え、二十万人近い人口を抱える都市になり、明治二十年に吉浦遊廓、続いて明冶二十八年に朝日町遊廓が許可され、後発の朝日町の規模が先発の吉浦遊廓を大きく凌いだのは佐世保と同じ経緯を辿ったようです。

新舞鶴町竜宮遊廓も明冶三十四年鎮守府が出来ると設立され、軍縮以前は貸座敷が四十六軒あったのですが、軍縮後の昭和の初めには貸座敷が二十九軒に減少したのは、まさに軍港型の遊廓だったからに外なりません。もう一つ中舞鶴遊廓も軍港が咲かせた花で、加津良遊廓とも呼ばれ、開業は明冶三十八年でしたが、昭和十八年には海軍命令で、遊廓全家屋を明け渡したといいます。

陸軍型 師団のある都市には遊廓がありましたが、たいがい他の類型との併用型で、一時期大いに遊廓、花街を潤しました。ただ、軍都型として独立したと言える遊廓は案外少ないようです。其の中で、香川県善通寺町の遊廓は日清戦争後、乃木将軍が師団長時代できたもので、軍人の為の遊廓でした。

新潟県の小千谷町遊廓も明冶四十三年、附近に工兵大隊が出来たので必要に迫られ開設したもので、陸軍型の遊廓と言えます。さらに、その他城址が兵営として使用された千葉県佐倉町遊廓もこの類型に入るはずです。

戦前の花街に目を向けると、最盛期には芸者が千人を超えた浅草の花街に於いても、陸軍の将校たちは花柳会の上得意客で、お金はうなるほど持っており、軍人だけに遊びも派手で、一晩で、多くの半玉(舞妓)を引き連れて待合(お茶屋)を何軒も渡り歩いたといいます。

しかし日中戦争が始まると、出征兵士を送る会が重になり、日の丸を背に掛けた若者を料理屋の大広間で送り出す壮行会に芸者が呼ばれ、死んで帰るつもりの当人と、ドンチャン騒ぎをする事が多かったようです。

そして戦時下の昭和十九年には企業整備令が発令され、料亭も置屋も閉鎖、多くの芸者は花街を離れ、疎開地に赴きました。

参照:全国遊廓案内、日本遊覧社・お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか、浅原須美著
遊廓、花街の類形 その十四_f0347663_12311238.jpg
               呉市吉浦も面影は無いのですが、面白い意匠がありました。

by gionchoubu | 2014-11-29 12:35 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十

遊廓、花街の類形 その十_f0347663_15423651.jpg
鉱山型 佐渡の金山を頭に描くと、暗い坑道で命がけで金を掘る罪人達ぐらいの刷り込まれたイメージしか湧かないのが普通だと思うのですが、坑道を出て暫らく歩けば、我々が想像していなかった世界が展開されていたのです。

『慶長年録』(1603)に「佐渡の国に金山繁昌して京・江戸にも御座なき程の遊山見物、遊女等充満す。国々より来る金穿、町人等かようの遊興にふり、元手を失ひ候て悉く疲れ、国元へ帰る事なき者数をしらず」

集まったのは金穿、町人だけでなく、遊女化した熊野比丘尼、六条三筋時代の遊女歌舞伎、さらに世阿弥が流された所以もあって能演も盛んに行なわれました。

『慶長見聞録安紙』によれば、慶長八年の春から女歌舞伎が諸国へ下り、出雲阿国も最初佐渡に渡ってから京都で歴史的な上演をしたことになっています。

もう一つ『慶長見聞集』に、京都の六条三筋の廓を拠点として、遊女歌舞伎の有力な主催者であった佐渡島某、さらに同時期遊女歌舞伎の男舞歌舞伎の大スター佐渡島正吉という遊女、さらに大阪の新町開廓に手を貸した佐渡島与平、新町には吾妻太夫を出した佐渡島屋や新町の一角を占めた佐渡島町、さらに京舞の源流に佐渡島流という流派も見え隠れし、これらは佐渡と京・大阪を結んだ糸が存在した事を如実に物語っています。

佐渡の鉱山は当初、鶴子銀山が主で、遊里も山先町と柄杓町に開かれました。藤本箕山の『色道大鑑』に、諸国二十五箇所の公許の遊里として、江戸の三谷、京都の島原、大阪の新町とならんで、佐渡国鮎川山崎町と紹介されているのはこの為です。

山先町の遊女町は、享保二年(1717)に町の北端、海岸近くの水金町に移転し、昭和の時代まで存続しました。佐渡には江戸時代に、廻船商人によって栄えた、港型の小木町遊里もありました。

銀山に栄えた遊里に、秋田県雄勝町の院内があります。遊廓設置が認められたのは元和三年(1617)で吉原より早いのですが、なぜか『色道大鏡』から外れています。万治三年(1660)『院内銀山記後編』にその成り立ちを「当山繁栄のあまりにや、遊女白拍子の下り始ては慶長十三年の秋の頃、始て京都より五人下りしが、是を始として聞及聞伝へ、毎年ここ三ケの津より美目すぐれたる遊女歌伎の輩下り集りける程に、当山あら町といふ処に傾城白拍子夜発の輩二百余人ぞ徘徊す」

さらに「其内に過半は太夫と号し、諸芸世の常の白拍子にすぐれ、琴、三味線、浄瑠璃にうたはいふに及ばず、連歌、俳諧、謡、鼓に至るまで達したるもの共なり」とここでも高級遊女ぶりと、色濃い京都のつながりを感ずる事ができます。

鉱山型としてもうひとつ、銅山の発掘以後出来た栃木県足尾遊廓も好景気時代は豪遊を極めた町として挙げなければいけません。

鉱山型に金山、銀山、銅山ばかりでなく、明治に出来たものに筑豊炭田と共に発展した、炭鉱型として福岡県直方二字町の遊郭があり、当初私娼中心の溝堀花街として炭鉱労働者を相手にしていましたが、明治四十一年、二字町遊郭として公許になりました。

参照:佐渡金山、磯部欣三・江戸遊里盛衰記、渡辺憲司


by gionchoubu | 2014-11-19 15:43 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十四

先斗町ぞめき 十四_f0347663_11422637.jpg
                    道楽橋があったとされる先斗町側

納涼床
 寛政十一年(1799)刊の『都林泉名勝図絵』を見ると鴨川の四條河原にて、多くの料理茶屋が行燈に名前を掲げ、酒や料理で涼を求める人をもてなす様子がうかがわれます。今のように鴨川東側に床が組まれたのは明治以後のようです。
現在は二条から五条までの禊川の上に初夏には床を並べます。先斗町のお茶屋で床をだすのは、初乃屋、大市、井ふみ、丹米など。

十五大明神 十五番路地には千社札で埋め尽くされた十五大明神があります。これは昭和五十三年に火事が起きた時、酒房「ますだ」の所でピタリと止まり、狸の置物が割れていたといいます。これはお狸様が身代わりになってくれたものに違いないと、ますだの名物お女将おさださんが祀ったものです。
以前はお賽銭を入れると、お神楽のような音楽がなり、おたかさん本人の声で運勢をうらなってくれました。この占いはおさださんの人生観が窺える大変魅力のあるものでしたが惜しいことに故障したままです。この装置が壊れたのは、私の記録によると2008年のことです。ますださんのお店のなかには常連であった司馬遼太郎の直筆の屏風があります。

道楽橋 かつて先斗町と川端通りを四条大橋のすぐ北で結んでいた橋。
『鴨川の景観は守られた』木村万平著、では先斗町の北100メートル(現在お地蔵さんがある場所)から川端にかけて菊水という鳥すき屋が大正時代に自費で建設したもので、人幅三人ほどの木製の橋で「菊水橋」というのが正式名だったとの事。実際この店主片岡金七が写した菊水橋の写真が載ります。昭和十年の鴨川の氾濫で流されたとあります。

ちなみに、この洪水では祇園芸妓によるねりものが中止になりましたが、先斗町では若い芸妓に紫、年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、明治二十六年以来中断してした四十三年ぶりの復活ねりものを盛り上げようという話があったそうです。

一方『決定版先斗町のすべて』先斗町歌舞会監修によると、作家の杉田博明氏の文筆で、これは料亭「竹村家」が私費で差し架けたもの、泉鏡花の短編小説『笹色紅』に竹村橋が出ている、と言った紹介があり、さらに、昭和三年ごろこの橋がなくなったという証言が、画家田中善之助の『京ところどころ』に記されている、とも書かれています。

どちらも祇園と先斗町という京都の象徴的な二花街を結んでいたので道楽橋と呼ばれていたのは共通しています。最初は竹村家が架けたが流され、その後菊水が架けたとすればなんとか辻褄は合います。

上記『鴨川の景観は守られた』によりますと、この道楽橋復活の議論が突如1980年におきました。架橋の場所はオリジナルの道楽橋より北、四條大橋と三条大橋の真ん中辺り、先斗町公園のすぐ北が予定地で鴨川の東側は賛成、先斗町はおおむね反対でした。その後数年を経て京都市による架橋理由として1、東西の中心街の一本化 2、消防署の迅速な到着 3、親水空間の多様化が京都地域商業近代化地域計画報告書にあったそうですが、1の理由はともかくとして、2はこういった計画の大義名分を表明したもので、官側が提唱したもっともらしい言い分。3にいたっては何をいっているのか分かりません。

その後、1996年、フランスのシラク大統領が来日の際、「鴨川にポン・デ・ザールの理念を生かした橋を架けては」と提案してこの問題が再燃にましたが、景観を損なうものとして反対運動がおこり、市はこの計画を白紙撤回しました。

先斗町側でこの反対運動の中心となったのが料理店「山とみ」の女将さんでした。市が山とみの鴨川側の看板が美観地区の条例違反として一ヶ月以内に取り除くよう通達してくるなどのいやがらせに出たのにもめげず、一人で立ち上がるや、署名、カンパを募り、集会で訴え、勝利に結びつけました。

勝利集会で、平成のジャンヌ・ダルクと持上げられたとき、「ジャンヌ・ダルクやて、人を火あぶりにする気どすやろか」と返したそうです。
山とみは、もともと先斗町で五十年続いたお茶屋さんでした。

ポン・デ・ザールはセーヌにある橋で、ポンはフランス語で橋を意味し、ポンと発音しますが綴りはpontです。先斗とpontは全くの偶然とはいえ、先斗町の語源がいまだに謎ですのでなにか因縁のような物を感じます。




by gionchoubu | 2014-08-24 11:43 | 先斗町 | Comments(0)