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飾磨町遊郭 湛保

f0347663_10561327.jpg
『兵庫県大百科事典』神戸新聞センターの『湛保』(たんぽ)の項を見ると、江戸時代、飾磨津の最南端に建設された港湾。弘化3年(1846)新規築港されると、湛保の岸には船問屋・遊廓などが立ち並び港として活気を呈するようになった、と書いてあります。

掘り下げた土砂は南の海岸に積み上げられ弘化山と名づけられると、文久3年(1863)姫路藩により外国船に対応すべく砲台が設けられ、お台場と呼ばれたといいます。

明治十年八月、飾磨津の内 須賀町に貸席ならびに娼妓営業地域の一つとして指定されました。

須賀町は湛保を含んだ町で、元文5年(1740)の姫路町飾万津町地子銀控に「須賀町」と有るそうです。(『兵庫県市町村合併史 上巻』)

『兵庫県統計書』によると摂津国飾磨津須賀町に

明治12年貸座敷11軒に娼妓18人おりました。

明治13年貸座敷18軒に娼妓24人と増加したもののその後暫時減少

明治21年貸座敷3軒に娼妓18人となりました。  

昭和四年刊の『全国遊廓案内』では飾磨町遊廓として紹介され、貸座敷十軒、娼妓が約六十人、店の制度は写真式、娼妓は居稼制、廻しはとりませんでした。

主なる店として高島楼、朝日楼、栄松楼、大黒楼、花月楼、初開楼、宮本楼、八幡楼、三笑楼がありました。

昭和10年5月飾磨には10軒の貸座敷業者に64人の娼妓がいました。
(『旭影』昭和12年1号)

公娼廃止時(昭和21年1月)飾磨の貸座敷業者10軒に娼妓74人なっていました。(『兵庫県警察史 昭和編』)

その後湛保は赤線時代を迎え8軒の業者がありましたが3軒が廃業、朝日新聞兵庫版昭和33年2月21日によると、業者5軒に23人の従業婦がおりました。(昭和32年12月31現在、兵庫県警調べ)

そして昭和33年3月6日の読売新聞、播磨版ではさらに2軒が廃業従業婦は18人まで減少して赤線湛保も程なく終焉を迎えました。

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海神社にて、お料理屋さんでしょうか?
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      遊里につきものの思案橋ですが湛保から1キロ離れているので無関係でしょう。



by gionchoubu | 2019-11-03 11:08 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 七十三

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              五条楽園(旧七条新地)にあった新浅とみの玄関

昭和29年7月14日の京都新聞にヒロポン問題をあつかう三つの記事が載りました。

まずは京都府衛生部薬務課ではヒロポン中毒患者や密売買ブローカーを即座につきとめて動かぬ証拠にすることが出来る簡易試験液が完成し、又ヒロポンを所有していない場合でも、小便から探知でき患者の検挙に役立つ試験薬も目下厚生省に申請中だという記述があります。・・・さらに

『ヒロポン一掃 島原で追放実行委員会』の記事を要約すると、

全国に先がけて“ヒロポン追放は遊里から”とさきごろから結成準備を続けていた島原覚せい剤追放実行委員会の発表式が十五日午後一時から島原新地歌舞練場で行われ、府衛生部薬務課長、七条署長、市警本部保安課長、六条保険所長、下京民生安定所長、平安病院所長、島原貸席お茶屋業組合、同芸妓組合養柳会、同女中組合友愛会ら四百人が集結、啓蒙幻灯会の発会式に移り、友愛会長による“私どもはただ今から覚せい剤追放撲滅運動に努力します”と全会員を代表して力強く宣誓を行いました。

そして京都でのヒロポンの販売網に関する四人の証言がありそのうちの一人は明らかに中毒症状を持ち

「好奇心から覚えたが、パチンコ屋へ行ったらオレぐらいのは沢山いるさ。家に注射器をおいたら隠されるので家ではうたない。オレは顔が広いから店はいくらでも知っている。三ノ宮に二軒、内浜には五、六軒ある。日当をくれれば案内したっていいが、入口には若いもの四、五人見張りしているのでちょっと恐いぜ。」と証言していました。

内浜は旧七条新地辺りなので、三ノ宮も神戸の三ノ宮でなく内浜のすぐ近くの旧七条新地三ノ宮町のはずです。

とにかく遊里、パチンコ屋に患者が多かったのは容易に想像できます。

この日の同紙夕刊にも『酌婦に焼火バシ 七新の暴れポン中男逮捕』の見出しがありました。

これは通行人や接客婦にささいなことから因縁をつけ、つぎつぎに傷害事件を起こしたヒロポン中毒の二十三歳の男が七条署に逮捕されました。

逮捕されたYTは二之宮通七条上ルでHさん(二十二)を呼び止めていいがかりをつけ“生意気だ顔をかせ”と殴り刃物で刺した事件がきっかけとなりましたが、上ノ口通加茂川西入ル貸席業Yさん(二十一)が“やくざ者はきらい”といったのを耳にし、帳場にあった焼火バシを持って遊客と就寝中のYさんの部屋に侵入“二度とみられぬ顔にしてやる”と焼火バシで火傷を与えたことを自供、さらに余罪を追及している。

同人は極度のヒロポン中毒で、七条新地のヤクザ仲間として持て余され、逮捕のとき、手錠をはめたまま同警察裏口から逃げ出したり、取調べに黙秘権を行使して係官をてこずらせました。



by gionchoubu | 2019-02-16 16:03 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 七十

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売春防止法が発令される2年前の昭和29年1月30日の京都新聞の夕刊に「性犯罪がふえる 全国の赤線業者 売春取締法に反対」の記事が載りました。

内容は全国赤線区域の業者約一万三千人で組織する全国性病予防自治会は、目下立案中とされる売春取締法に善処を要請するため、二十六日から東京日比谷の松本楼に鈴木理事ら全国の代表六十余人が集まって協議、自由党、改進党、社会党の代議士を招き各地の赤線の実情を訴えました。

赤線業者側の意見の多くは、過度の取締は性犯罪を増加させ、生活に困った接客婦は健康を無視して稼ごうとするのでかえって性病が蔓延する、ということでした。

同会では特定区域(つまり赤線)以外での売春行為の禁止、非会員の接客業務の禁止などを要望した陳述書をもって厚生省、国会をはじめ関係方面に陳情し、「性病予防」という立場から具体的な売春取締法反対運動に乗り出すことは必至とみられました。

赤線業者はこの取締法を利用して、自所のみ合法売春の専売に相応しく、当時赤線を脅かす存在であった完全非合法の青線業者のみを駆逐するというウルトラCの道を代議士を利用して模索していました。

そして翌月の同紙夕刊に「売春問題 賛否両論」の記事が載りました。その意見を紹介させて頂くと・・・

売春問題対策協議会委員久布白落実女史・・・娼婦制度の賛成者はこの制度がないと性犯罪が増え、業者の監督が無いと娼婦は健康や衛生を無視して客をとるため性病がかえって蔓延すると主張していますが、“防波堤”として娼婦を利用するという考え方は人権擁護上大変な暴論です。娼家が性病の温床であるのは統計が立派に証明しています。政府は“売春なき国家”という理想のため努力すべきです。

犬養法務大臣・・・「集娼(赤線の女)は黙認、街娼を取締る」という二十一年の次官通諜は早速取止める。緊急予算で娼婦の更生施設の予算的裏付けは困難だが、まず取締法令を作ったうえ婦人ホームや相談所の設置など必要な諸処置をとりたい。

全国性病予防自治会事務局長(業者代表)・・・売春の絶滅は理想としては結構だが昭和二十一年マ(ッカーサー)指令で公娼制度廃止直後米兵、日本人の性犯罪が激増して一般婦人に大恐慌を来した。必要な程度の公娼はやはり存続させた方が無難だろう。業者も接客婦を不当に束縛することなく医療施設の拡充、前借の廃止など人権問題は十分考慮している。

婦人少年審議委員神崎清氏・・・各地の赤線区域を視察して気付いたのは接客婦の無知、無反省と業者と政治勢力の固い結びつきだ。性病にかかりながら客をとり更生の意欲のない者が多い。売春禁止制定を阻止するため代議士が業者に金をもらっている話をいくつも聞いた。全国民が協力してこうした働きをつぶすのが先決だ。

赤線業者は全国性病予防自治会という尤もらしい名の元、自分たちの存在を全否定する法案の骨抜きに活路を見出すべく、あらゆる知恵を絞ったのです。



by gionchoubu | 2019-01-11 12:02 | パンパン、赤線 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その八

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昭和33年3月15日 京都新聞より

赤線きょう千秋楽 あすから消える“橋本の灯”千二百年の歴史に幕 貸席組合は大衆温泉へ衣がえ

全国の赤線はきょう十五日で姿を消すが、八幡町の橋本遊郭も一斉に店じまい、十六日午前十一時からは組合講堂で業者と授業婦が集り「橋本遊郭解散式」を行うことになった。同遊郭の生れたのは神亀元年、これで千二百年三十余年の歴史に終止符をうつ。

同遊郭には現在七十八業者があるが、うち十七軒は従業婦が一人もおらず、このところ開店休業の有様―。しかし営業しているというものの、引手を出せないためか最近のお客は顔なじみもお得意ばかりなので、楼主の方も最後とあって花代を割引したりしてサービスに努めている。

また中には、料理屋への転業準備にかかり、店先には部屋つくりの砂や大工道具が置かれ、職人が昼夜の別なく出入りしているなかで客をとる風景もみられるがさすがに転業を控えてあちこちの電柱には従業婦の職業に一役かってか「求女中」や「仲居募集」の広告がはってある。

一方橋本貸席組合(増田末吉組合長)では、いまある組合講堂を利用して大衆的なラジウム温泉にすることを決め、組合員らの共同出資で経営することになった。

ラジウム温泉の計画は、橋本の地を大衆的なものにしていこうというところから考えられたもので、岐阜県多治見市の某鉱山会社の協力を得てラジウムを含んだ砂を買い、いまある役三百坪の講堂を改築して砂フロや温泉を造ろうというもので転業後の橋本に活を入れるものとして期待されている。

そして二日後の十七日の京都新聞では

『立派に更正して 八幡 橋本遊郭の解散式』

綴喜郡八幡町橋本遊郭従業婦互助会(高熊夏江会長、会員二百二人)の解散式は十六日午前十一時半から貸席組合講堂で行われ、千余年の紅灯の灯を消した。

この朝、従業婦たちは朝ブロで身を清めたのち、二百人のほとんどがフリ袖姿の和服会場に集った。

まず来賓として田辺警察署長、府婦人相談員らから「立派に更正して下さい」とお祝いの言葉が述べられ、また高熊会長は涙を浮かべながら「善悪は別として永年住みなれたこの地もきょう限りと思うともう胸がいっぱいになって・・・・。これからはどんな惑いにも負けず強く生きて行きましょう」とあいさつ、別れを惜しむ従業婦たちで一時は沈黙が続いた。

最後に立派に更正をするため万歳を三唱した。なお同貸席組合(増田末吉組合長)から従業婦らに帰郷費として一人二千円、同互助会から九百円の二千九百円が贈られた」。





by gionchoubu | 2018-05-25 15:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

八日市延命新地ぞめき 廃業届

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第二次世界大戦後、八日市の新地も再開され、間も無く貸席二十一軒で芸妓七人、娼妓二十人になりました。

昭和二十年の十月には、八日市飛行機の残存軍用機の処理で米兵七、八十人が乗り込んできた時新地では料理屋、飲食店も休業中でしたがやむなく開業、このために県の警察本部から特製の布団の配給、八幡の税務署からビールの特配を受け、昭和二十一年の正月から日本人相手の通常営業まで、上記の連合軍兵士と能都川にいた元白人兵捕虜が遊客となりました。

その後延命新地は貸席業として営業、そして娼妓は接客婦となり所謂赤線となりました。接客婦は一応芸妓として登録され二枚鑑札として客の求めに応じました。

昭和三十三年の売防法完全施行直前に貸席二十一軒、女の登録二十三人、ただ実際に客席に出ているのは毎日十五、六人でした。花代は一時間四百円、泊りが千円、連日大変賑わいました。

明治・大正のころ延命新地のお客は五個荘のお客が多く、近江商人独特の勘定高い遊び手が多く、豪遊したような粋人の話も伝わりません。郭の生え抜きの話によると「たまさか情死ざたなどがあったとしても全くつまらぬ出来事からで気の利いた物語はありません」とつれない。

だから女も男に身受けされて出たという例は少なく、年期一杯つとめて借金を返済し郭を去っていきました。

さらに八日市の新地の特徴として、置屋の親方が大ていお抱えの妓たちを家族なみに扱って、そのため借財を負った妓で、二、三年のうちに借金抜きができ他の都市に移っていくか、又男のために借金をして元の家に戻ってくるのも多かったようです。

これは八日市の土地柄がそうさせるのかもしれない、とのことでした。

昭和三十三年三月一日の日日新聞

「八日市 延命新地では二十八日午前十一時貸席組合員二十一名が一斉に廃業届を八日市署に出した。

このうち完全廃業するのは朝日屋と千成の二軒、また芸妓置屋を営もうとするもの浜屋と清定、料理屋店営業準備のもの角笑、千代幸、吉勝、角菱、すし宇、大正楼、花の家、相生、入船、若松の十軒。

旅館営業準備中は魚善、清里、浅常、万遊楼、いろは、五月楼、新角笑の七軒である。

従業婦は全部で二十人で、前からの芸妓三人はそのまま残り、結婚生活に入るもの一人、その他結婚を希望しているもの七、八人あるが、いずれもまだはっきりせず、中には新地以外の場所で仲居をするものもあるが、大半は帰郷する。

最終の二十七日、二十八日も一般商店街はほとんど店を閉じた午後十時以後、新地ばかりは明るく灯が輝き、人の往来もちらほらながら絶え間なく、たまたま和服のショールの女、赤色の和装トッパーの女などが貸席に出入りするのが眼につく。」






by gionchoubu | 2018-05-01 11:48 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

五条楽園ぞめき 赤線地帯

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宮川町を通り抜けて五条に出る。五条の大橋を渡って南へかけて橋下(五条新地)が有る。牛若丸は京の五条の橋の下でベンケイにひっぱられる。橋下といっても自由学校ではない。五条南にあるから『下』という(京都では北を上ル南を下ルと謂ふ)

橋下になると、乙部や宮川町と違ってグット近世風な遊廓になる。まず入口に赤いネオンで五条新地としてある。

建物も和洋ゴタゴタ型で、ネオンがあかあかとついている。だがやはり特飲店
ではなく遊廓だ。各家に女が居る。こゝは人通り十二時を過ぎるまで絶えない。

大部分がひやかし客だ。ひやかし客の種類も色々だ。サラリーマンから百姓のアンチャン連に到る。それだけに柄も悪い。

それだけに場所も一番広く、家も一番多く、全体からみればC級だが、中でも一級、二級、三級位ひにわかれ、一級などは乙部の近代化といふ感じだ。

廓の真中を有名な高瀬川が流れている。加茂川にそった所が三級、高瀬川にそった東側が一級、西側から河原町にかけてが二級といふ所だろう。

女も色々だ。一級には美人型で味、サービス、テクニック共に、乙部などはるかにおよばないのが居る。値段もまちまちで一級だと乙部並、二級で宮川町並、三級だと値切れば時間だと二百五十円、泊りだと十二時からでも四百円で泊まる。

一級でも乙部と違ふところは、十二時過ぎれば、時によっては五百円で泊る時もある。ひやかして端から端までへまんべんなくぶらつくと、二時間は優に掛かる。

高瀬川にそった所は、さすがに路へ進出せる突撃型は少ない。交番が目を光らせてるからだ。それでも、入口に立つと、中から黄色い声の一斉射撃を受ける。

婆さんにつかまって中に入れられるともう逃げられない。声の射撃が肉体の射撃に変わる。まともにだきつくのや、後ろからだきつくの、そして腰をぐいぐいくっつけてくる。

ひどいのになると男の急所をつかまれる。オトナが逃げようとしてもセガレが逃げない。そうなれば色男も台なしだ。

今しも客を送り出した女が長ジュバンだけで表へ出て、もう次の男にだきついてる。軒下でも結構暗いので何をしているかわからん。

女は着物で、男と何か話している。体をしっかりくっつけてる。よく見ると、男の一方の手は、女のそで口から中に入り、片方の手は、女がにぎってごそごそしてる。

まさにギョギョだ。心臓が弱い者なら眼を廻してしまうだろう。


この文は、青春タイムス社『新日本艶笑地図』(じゃぱん・えろちっく・びゅーろー)昭和二十六年五月号『新日本艶笑案内京都の巻』からのものです。(カストリ出版の復刻版)

七条新地から五条楽園に移る過程、この区域の赤線時代の様子を映しだしたもので・・・この臨場感と言ったら、実際その場所でルポタージュしなければ得られないであろうもの・・・その生々しさは半端ではありません。

公許の遊廓と言うタガが外れたた赤線地帯・・・写真で娼妓を選ぶわけでもなく、女が直接出て来たり、やり手婆さんに捕まったらもう逃げられないという・・・規則がある様な無いような、戦前の遊廓時代ならとても考えられない・・・まるで江戸時代の初期の遊里の絵図に描かれたある種のおおらかさ、したたかさが赤線の一つの特徴ではないでしょうか?

文士、映画製作関係者を含む、この時代を通り過ごした男達が赤線に大した思い入れを持っていたような気がするのは、赤線に囲まれた区域が・・・一種の大らかさと強かさから生み出された人間が本来備えている感情にまみれていたからでは無いでしょうか?




by gionchoubu | 2017-07-22 12:02 | 五条楽園 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 三

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昭和二十一年、六月二十二日の京都新聞の見出しに「先斗町で一悶着 受検者僅か九名に医官怒る」の記事が載りました。これによって先斗町が閉鎖されるかもしれないという出来事が起きてしまったのです。

芸妓の検黴実施が各方面から注目を浴びる中、先斗町の順番となりました。ところが検査を受けたのが、百七十名の芸妓がいるにもかかわらず、わずか九名、他は全部旦那がいるか、有夫がいるという届出をして検黴を忌避したのです。

さらに状況を悪化させたのは、検査を受けた九名の内一人が病菌保管者だったことが判明したからです。

立会いの医師は「かかる届出では他廓へも及ぼす影響が大である。」と当廓閉鎖も辞さぬと激怒、寺井取締りは陳謝、全芸妓の再検査をやることになって漸く火の手は収まりました。

寺井徹郎は遠州から来て先斗町に住みつき、やがて頭角を現し取締となって、その新鋭の気質が積極的な諸政策を生み出し、先斗町の発展とモダーン化に尽力した人です。

先斗町に洋装のモダン芸妓を打ち出したり、昭和四年五月、鴨川踊りに英国グロスター公殿下が観劇の際、殿下と握手をしたり、昭和十一年にチャップリンがゴダード嬢と矢張り鴨川踊りの観劇の際も寺井取締の時代で、昭和二年現在の歌舞練場を建てた出雲取締りの後、長きに渡って先斗町の発展に努めてきた人です。

「これはなかなか六ケしい問題で、此方にも手落ちがあったわけですが、今後は万全を期す考えです。」と寺井徹郎取締は語りました。

この時点で受検した遊廓は北新地(五番町)九名、上七軒二十二名、宮川町二十六名で何れも罹病者がなく、たまたま先斗町で一名でてしまった事になります。

今後芸妓の検黴は祗園甲部、乙部、島原が行う予定です。

検査を前に妓乙の松村取締は

「現在芸妓の該当者七十三名で、検査の前日に廃業するものが相当あると思います。却て除外例があるのがいけません。皆その陰にかくれようとするので、その点の判別が苦労です。」

検査の済んだ宮川町榊取締は

「内娘で、ハッキリ旦那の決まっているものでも、此方は認めぬことにしました。旦那の奥さんが二号として認めるというなら除外者とするということにしました。それがため廃業する者は仕方がない。しかし廃業した者が闇でかせごうとするので、この監視が大変で、もし廃業者を客席に侍らした青楼があったら組合は取引を停止することを申してあります。」

記事は宮川町の廃業芸妓は三十余名、祇園甲部は八十余名が廃業するものと見られている、と結んでいます。




by gionchoubu | 2017-06-29 10:47 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 一

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加藤政洋著『敗戦と赤線 国策売春の時代』を読むと赤線とは

集団的な管理売春(組織売春)を黙認するかたちで、戦前の遊廓や私娼街の業者を風俗営業として許可し、営業場所を指定した地域。地域によっては店舗の商業統計上の分類が「特殊飲食店(「特飲店」と略される」)や「特殊喫茶店」とされたことから、特殊飲食街(「特飲街」と略される)と呼ばれることもあった。特に旧遊廓の貸座敷の一階部分に喫茶室やダンスホールを設えるなどの部分的な改築をほどこし、特殊飲料店として使用される例が多かった。尚昭和二十三(1948)年九月一日に施行された風俗営業法にもとずき、個々の店舗は「カフェー」として営業を認められる地域もあった。

という事になります。厳密な期間は、赤線時代は公娼が廃止された昭和二十一年一月二十四日から売春防止法が完全施行された昭和三十三年四月一日までの十二年六十七日間という事になります。

そして京都の区域は七条新地、五番町(北新地、西陣新地)、祇園乙部、島原、中書島、橦木町という事になるのでしょう。

公娼が廃止された翌日、京都新聞の昭和二十一年一月二十五日号に「公娼を廃止」の記事が載り、直接、間接に日本の公娼制度を存続する権利を認め許可を与えるべくすべての法律規則その他の法令はすべて無効にする、と書かれています。又連合軍のサムス大佐は公娼制度に関し、「この制度の最大の弊害は日本国民全体を通じて年々多数の婦女子を公然と経営される法律の保護を受けた娼家に遣込む習慣は存在し得ない」と言いました。

花街の動きも見てみましょう。一ヶ月後の二月二十四日の紙面に、京都新聞主宰で、戦災者を飢餓から寒さから救い厚生の第一歩を踏み出させるのを目的に、祗園甲部、乙部、先斗町、上七軒、宮川町、島原の協賛を受け、厚生新日本の芸能文化再建を兼ねての芸能大会を京都新聞会館で、二月二十五日と二十六の二日に渡って催されるの記事が載りました。

そして三月十六日の紙面で「四条大橋で“夜の女”挙る」の記事が踊ります。

最近四条大橋畔を中心に若い女たちが春の夜を彷徨しているが、府警察部では去る七日から十二日までの六日間彼女等を取調べたところ、五十名を突破する未婚婦人の色遊戯が黄金を代償として演ぜられていた。

五十名の彼女達の年齢、職業、学歴別にすると

十八歳二人、十九歳六人、二十歳十二人、二十一歳九人、二十三歳三人、二十五歳一人、二十六歳三人、二十七歳二人、二十八歳三人、三十三歳三人

職業は元ダンサーが断然多く十八人、次は現職ダンサー十五人、無職七人、会社事務員七人、女給、ホテル?人各二人、女工一ということになっている。

学歴は女学校卒業八人、同中退五人、実務学校卒業六人、同中退三名、高小卒業十四人、尋卒十三人、無就学一人という数字が出ている。

これからみれば全然無智なための行為とは考えられないが、夜の女の堕ちた原因として彼女達は真剣な表情で婚約者と逢って楽しい物語をしているのだと頑張っているものもある。

併し健康診断の結果、十三人が淋病、二名が梅毒をもっている事が判り、今更ながら不自然な生活を疾病カードに露呈している。

五十名中保護者のないのは十三名であとは両親揃ったのが十三名、父だけが七名、母だけが十七名という数字が出ている。出身地は京都が一番多く、京阪電車を利用して大阪、大津方面から出かけてくる者もあり、一ヶ月三百円の契約で、某旅館の一室を貸切っていたチャッカリ娘もあった。

以上が全文です、それにしても、未婚婦人の色遊戯が黄金を代償として演ぜられていた・・・随分回りくどい表現をしたものです。

そして花柳病率30%と非常に高い罹病率です。





by gionchoubu | 2017-06-26 11:07 | パンパン、赤線 | Comments(0)

室蘭 幕西遊廓 後篇

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                      幕西見番と芸妓たち

明冶末ごろの幕西遊廓には蛇の目、有馬、兼松、いろは楼が人気で、娼妓数は併せて百人ほど、泊まりが二円五十銭、時間制で一円程であったといいます。

大正元年の貸座敷、料理屋は近江楼、清花楼、蛇之目楼、常盤楼、市川楼、政菊楼、菊本楼、三益楼、金盛楼、喜久満楼、三栄楼、新野楼、榮楼、巴楼、長栄楼などで、娼妓数九十七、芸妓二十八、酌婦三十、娼妓の平均稼動数九十回、遊客は一万四千七百九十七人。

下の表は町役場調べの抜粋です。

      貸座敷  芸妓   娼妓   酌婦
明冶四十    九  二十五  七十九  四十
  四十三  十五  二十九  九十   五十
大正  二  十六  二十八  九十七  三十八
    四  十七  二十五  百    四十二
    六  十七  三十   九十八  三十九  

昭和五年発行の『全国遊廓案内』によれば、当時貸座敷が十六軒、娼妓数九十五人で北海道出身の女性が多かったようです。店は写真店、娼妓は居稼ぎ、遊興は廻し制、乙は三円、甲は四円で本部屋に通されます、ともに台の物がつきの料金です。

居稼ぎ、廻し制、台の物については以前説明しました。写真式と本部屋についての説明は近い内に試みます。幕西遊郭が舞台となる曽根富美子のコミック『親なるもの断崖』の時代設定はこの頃以後の話になります。

妓楼は第一長栄楼、昭和楼、菊本楼、恵比須楼、蛇ノ目楼、富山楼、清花楼、いろは楼、第三長栄楼、芸備楼、菊栄楼、清明楼、手留喜久楼(たるきくろう)栄太楼、清川楼、明冶楼など。

昭和十九年三月を期限に風俗店に併せ料理屋も営業停止、職場を失った芸妓、酌婦は会社の寮の雑役婦や、掃除婦等に転業、貸座敷、料理店はアパート、旅館あるいは軍に徴用され陸海兵軍の宿舎、もしかは廃業になりました。

終戦後はアメリカの進駐軍が室蘭にもやってきましたが、商工会議所の前身である北海道経済会室蘭支部は、幕西遊廓の一部、三等小路と呼ばれた地域を赤の斜線で囲いoff limitの看板を掲げ、進駐軍立ち入り禁止にしました・・・いわゆる赤線地帯です。

この時、幕西にはもう一つ公認慰安所である第一清明楼が立ち上げられ、幕西に残った娼妓のうち、ここの接客婦になるものがおりました。

昭和三十年頃、全国花街連盟が調査した全国の花街所在地に室蘭が載りますので、芸妓町として、即ち花街として認識されていた事が分かります。

昭和三十一年、売防法が公布、約二年後に実施、幕西遊廓は自分に与えられた役目を全うし、娼妓たちは開放され、遊廓としての一生を終えることが出来たのです。

この幕西遊廓の消長を見守ってきた“日本一坂”という“くの字”の坂があるらしいのですが、それがどこにあるのか、今でもそう呼ばれているのか、そもそも何故日本一なのか、室蘭を訪れたことのない私には知る手立てがありません。

参照:星霜 北海道史、北海道新聞社編・新室蘭市史第四巻・北海道遊里史考、小寺平吉著



by gionchoubu | 2015-05-05 11:12 | Comments(6)