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京都パンパン赤線時代  七十四

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昭和31年6月20日の京都新聞が一面を使って「赤線地帯どの道を生きるか」の記事を載せました。

買春防止法が5月21日国会を通過、施行は32年4月1日、罰則の発行が昭和33年4月1日、買春防止法は国家の意思として「買春は犯罪である」と言い切りました。

“業者は泣きっ面 甘かった法案への認識”

「ほかに重要法案がどっさりある。その方の議論で会期が一パイとなり、よもや今度の議会で買春法が通過することはあるまい。」というのが全国の赤線の大方の観測であったようで、法案が通った5月21日の直後、業者の受けた精神的な打撃は大きく、ラジオの街頭録音でも東京、大阪の市の業者は八つ当たりに当りちらかしていました。

東京の吉原の業者は

「戦後GHQから公娼廃止の覚書が出た時には、日本も敗戦で再出発するのだから、われわれも再出発だと腹をきめていた。

ところが警察を通じて“進駐軍が両家の子女にどんな乱暴をはたらくかわからないから“どうか日本女性のための貞操の防波堤になってくれ”とたのまれ、女には無賃乗車証までだしてくれたのでやっとはじめた赤線だ。

それをわずか十年たらずで刑事犯としてくくろうとは何事だ。」

と憤懣の声をあげました。

京都の七条新地の某幹部の意見

「貞操の防波堤として赤線地帯があるからこそ社会の風紀が保たれてきたのだ。〜略〜買春は古来からあってなくなるものではない。ワクの中に入れておかないと、ワクの外で私娼が跋扈する。

七条新地の外側では既に青線の動きがはなはだしいではないか。衛生設備がないから性病は蔓延する。

フランスがそのいい例だ。結局収拾のつかない状態になって終戦直後と同じようにわれわれに頭を下げてくることは見えすいている。」

日本全国の業者の胸の内を代弁していると見ていいでしょう。

京都赤線業者のこれからの動きは

「営業は自粛しながら現在のままで罰則発行の前日まで続ける。

その間に転廃業や抜け道営業の方法を考える。

買春は根絶出来ないから世論の好転をまつ

全国業者と共同歩調をとって転廃業に対する保証金を獲得する。

税金を軽減してもらう。」

この時店で京都府下従業婦二千四百二十名、赤線業者は千七百四軒ありました。



by gionchoubu | 2019-07-21 11:58 | パンパン、赤線 | Comments(0)

赤線地帯

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                      大和郡山、洞泉寺にあった妓楼             

昭和30年7月12日の京都新聞『必要なモグリ業者の処置=法網をくぐる女性は50万人=取締り強化 再びカゴの鳥の恐れ』の前半を載せます。筆者は東大講師の村田宏雄氏です。

“売春等処罰法案が国会にも提出され売春問題が議論の花を咲かせているが、果たしてこれが売春のペニシリンとなり得るだろうか。

成程、売春婦及びその客、売春業者とその援助者及び周旋人ポン引の類は一応処罰の対象となっており、ことに売春婦と客以外のいわゆる売春を婦女にさせてもうける側に対しては厳罰を以て臨むようにはなっている。

そのためこの法案に対しては売春業者の猛烈な反対運動工作が行なわれていると取りざたされている。

我国売春の実情をながめると、既に占領当時から勅令が出て、売春業は禁じられている。従って本来ならば売春業者は絶無のはずなのだが、ただ必要悪という誠にチンプな言葉で黙認されている地域があった。

これが赤線地帯と呼ばれる特飲街である。

黙認されているだけに、公然と営業するところから人目につき売春対策といえば、たちまちこれがヤリ玉にあげられている。

だが日本の売春の真の姿は、こんなところにはない。なぜかといえば、特飲業者として業者自身相互に認め合っている業者の数が約一万、そこに働く女性は約五万にすぎぬのにたいし約その十倍の業者、女性が現実に法の禁止の網を潜って売春を営んでいるからだ。

してみれば、いくら特飲業者を取締ったところで、その数は十分の一にすぎず、その十倍は、今でさえ取締りのきびしい中を生きているのだから、こんな処罰法ができようができまいが関係なく生きつづける。

「甘い汁吸うヤミ業者」

併もこんな上すべりな対策では、もっと悪い事態がおこる。

というのは黙認とはいえガラス張りの中におかれた特飲業者にしてみれば、世論の監視もきびしいし、警察の取締りの目もとどき易いので、無茶なことはできない。

そこで婦女からの搾取、自由の拘束は極力さけねばならぬ。見た目にもできる限り彼女らの待遇をよくする必要が起る。

こうなると待遇の悪い店には女性がいなくなるから、いきおい加速度的に待遇は改善される。”

上記を踏まえて『日本売春史・考』吉田秀弘著を読むと、女たちにとって、赤線を取り巻く情況と遊郭制度の中の情況の大まかな違いは、

○ 外出や遊びは自由で休日も拘束されることがない

○ 借金と売春は全く別で売春を強要する制度はない

○ お互いに決めた歩合制度があり窃取はされない、としています。

勿論、上記は表面的な部分もあるでしょうが、遊郭時代のひたすら暗いイメージの娼妓に対し、赤線時代の接客婦の奔放でしたたかなイメージは、いくらか救いのあるものに私は感じ取るのです。


尚、記事の後半は、問題は税金を納めている赤線業者よりも、その十倍の女に売春させる闇業者で、こちらの方が大きな問題としております。


by gionchoubu | 2019-06-07 15:48 | パンパン、赤線 | Comments(0)

大和郡山 岡町ぞめき三

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奈良県には赤線地帯が3箇所ありました。奈良市の木辻に一箇所、そして人口二万の大和郡山には岡町と洞泉寺の二箇所もありました。

赤線廃止のニュースは、趣旨に反対するものは殆どないものの、成立にこぎつけるのに、マリヤルーズ号事件以来八十年以上かかりました。

売春撲滅を願う婦人団体とこれを悪法ときめつけた赤線業者のギャップは天と地ほども違ったのです。

売春防止法完全施行二年前『サンデー郡山』に竹山岡町組合長の談話が載ります。

「法案が決まるまで反対したが、成立すれば法治国民であり法を守るべきである。マッカーサーの指令により占領の始った時に吾等は廃業を覚悟したが、軍隊に慰安婦を出せという政府の要求があり、吾々も一般婦女子の防波堤の積りで協力した。その後次官通達で黙認ということで今日まで営業してきた。

組合本部では転廃業の国家補償か、融資を陳情することになっている。まだ二ヵ年猶予期間があるので、今の処すぐにどうすると言うことはないが、一日も早く目鼻をつけた方がよいと思っている。組合の廃業によって飲食店などは淋しくなるだろう。」と切迫感は感じられず、どこか他人事のようである。

また当時の水田市長も同書で

「人道上から見てもやむをえない当然の法案であるが現実の問題としては赤、青線区域の売春行為が撲滅されるかどうか、郡山としては市の経済的利益という点を考えれば痛手である。」

京都の八幡市は橋本遊郭が廃止になった時税収の三分の一が跳んだといいます。二つも遊郭、赤線のあった郡山市の損失は想像に難くありません。

売春防止法完全施行の昭和三十三年四月一日の前、洞泉寺遊郭が三月三十一日で完全廃業を決めたのに対して、岡町に二十六軒の赤線業者は旅館などに転業を目論でいました。その内訳は旅館16、料理店5、カフェー1、廃業3、アパート1というものでした。

この岡町の方が全国的な赤線業者の一般的な態度で、いずれ赤線は別の形で再興されるとタカをくくって言わば旅館なども偽装転業で様子を見るというのが本音でした。

さらに業者は女性との出会いの場所を提供するだけ、そこで自由恋愛や“一夜だけの恋愛結婚ならさしつかえない”という抜け道も考えていました。

ちなみに売春防止法以外に取り締まる当時の方法は、勅令九号(婦女に売淫させた者等に関する勅令)刑法、民法、労働基準法、女子年少者労働基準規則、職業安定法、児童福祉法、性病予防法、風俗営業取締法、軽犯罪法、旅館業法、道路交通取締法、道路交通取締法施行令の十三が大なり小なり関係していたのです。

参照:大和タイム




by gionchoubu | 2018-11-08 14:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その三

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                          東新地

昭和二十年九月二十三日の『滋賀新聞』

動員されていた「工場からの復帰姐さん二十七名が出揃い、終戦このかた(中略)娯楽境を志し、紅燈絃歌の敢闘を約す女性群が続々と馳せ参じて開業を届出ている現状」と伝えています。

終戦直後は芸妓がさっぱり売れず、もっぱら従業婦の名の、戦前なら娼妓という立場の女性が多く、一時はその数も六十人を越えました。所謂赤線地帯としての営業でした。

戦前と違うのは、客が近郷の農家や商家の主人以外、昭和二十二年から二十四年ごろまで進駐軍の兵士が来るので、カウンターを設けて洋酒バーを設置した貸座敷もあったといいます。

昭和二十九年には当時の町長が観光対策の一案として新地の門前に大ネオン一基を建てることになり町からその補助金四万五千円を出すことになり、これに対し町民から非難の声が上がりました。

なぜなら総工費十二万の大鉄骨ネオン灯にはなまめかしい裸の女性が夜空の星を眺めて寝そべっているもので、通学の学童にとって風紀上好ましく無い物だったからです。

草津新地は創業当時、構えは吉原土堤八町を模したものと言われ、その入り口の大ネオンはさぞかし人の目を引いたことでしょう。

昭和三十年ごろから渋川町地先に綾羽紡績が誘致され、隣の守山町に日窒アセテートが建設工事を進めるようになってから思わぬ糸ヘン景気が訪れました。

そして周辺の八号線工事の活発化と併せ糸ヘンの行員さんや建設工事関係者で新地は毎夜超満員でその相手の従業婦も五十人いたといいます。

さらに、国道一号線の横にあったので、トラックの深夜運転の運転手の運ちゃんの休憩場所となり、東は岐阜、西は大阪まで、多くの運転手が利用したということです。

そして遊びの費用が安いのも東新地の特徴でした。昭和三十三年の閉鎖ぎわの花代は正味一時間四百五十円、泊り千円で、大津柴屋町より時間で五十円、泊りで二百円安く、草津遊廓の安いのは昔から大津、京都でも知られていて汽車で行ってもその方が安上がりとされていました。

当時の大津の古老の話では「カエルの鳴声ききながら、遊興三まいにふけるのも案外田舎臭い情緒もまってオツなもの、生き馬の目をぬくというような都会とちがった気安さがあったもんだ。」

と、むかしの草津新地廓をなつかしむ声もきかれたといいます。

参照:滋賀日日新聞 昭和33年2月26日



by gionchoubu | 2018-06-24 12:08 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

五条楽園ぞめき 赤線地帯

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宮川町を通り抜けて五条に出る。五条の大橋を渡って南へかけて橋下(五条新地)が有る。牛若丸は京の五条の橋の下でベンケイにひっぱられる。橋下といっても自由学校ではない。五条南にあるから『下』という(京都では北を上ル南を下ルと謂ふ)

橋下になると、乙部や宮川町と違ってグット近世風な遊廓になる。まず入口に赤いネオンで五条新地としてある。

建物も和洋ゴタゴタ型で、ネオンがあかあかとついている。だがやはり特飲店
ではなく遊廓だ。各家に女が居る。こゝは人通り十二時を過ぎるまで絶えない。

大部分がひやかし客だ。ひやかし客の種類も色々だ。サラリーマンから百姓のアンチャン連に到る。それだけに柄も悪い。

それだけに場所も一番広く、家も一番多く、全体からみればC級だが、中でも一級、二級、三級位ひにわかれ、一級などは乙部の近代化といふ感じだ。

廓の真中を有名な高瀬川が流れている。加茂川にそった所が三級、高瀬川にそった東側が一級、西側から河原町にかけてが二級といふ所だろう。

女も色々だ。一級には美人型で味、サービス、テクニック共に、乙部などはるかにおよばないのが居る。値段もまちまちで一級だと乙部並、二級で宮川町並、三級だと値切れば時間だと二百五十円、泊りだと十二時からでも四百円で泊まる。

一級でも乙部と違ふところは、十二時過ぎれば、時によっては五百円で泊る時もある。ひやかして端から端までへまんべんなくぶらつくと、二時間は優に掛かる。

高瀬川にそった所は、さすがに路へ進出せる突撃型は少ない。交番が目を光らせてるからだ。それでも、入口に立つと、中から黄色い声の一斉射撃を受ける。

婆さんにつかまって中に入れられるともう逃げられない。声の射撃が肉体の射撃に変わる。まともにだきつくのや、後ろからだきつくの、そして腰をぐいぐいくっつけてくる。

ひどいのになると男の急所をつかまれる。オトナが逃げようとしてもセガレが逃げない。そうなれば色男も台なしだ。

今しも客を送り出した女が長ジュバンだけで表へ出て、もう次の男にだきついてる。軒下でも結構暗いので何をしているかわからん。

女は着物で、男と何か話している。体をしっかりくっつけてる。よく見ると、男の一方の手は、女のそで口から中に入り、片方の手は、女がにぎってごそごそしてる。

まさにギョギョだ。心臓が弱い者なら眼を廻してしまうだろう。


この文は、青春タイムス社『新日本艶笑地図』(じゃぱん・えろちっく・びゅーろー)昭和二十六年五月号『新日本艶笑案内京都の巻』からのものです。(カストリ出版の復刻版)

七条新地から五条楽園に移る過程、この区域の赤線時代の様子を映しだしたもので・・・この臨場感と言ったら、実際その場所でルポタージュしなければ得られないであろうもの・・・その生々しさは半端ではありません。

公許の遊廓と言うタガが外れたた赤線地帯・・・写真で娼妓を選ぶわけでもなく、女が直接出て来たり、やり手婆さんに捕まったらもう逃げられないという・・・規則がある様な無いような、戦前の遊廓時代ならとても考えられない・・・まるで江戸時代の初期の遊里の絵図に描かれたある種のおおらかさ、したたかさが赤線の一つの特徴ではないでしょうか?

文士、映画製作関係者を含む、この時代を通り過ごした男達が赤線に大した思い入れを持っていたような気がするのは、赤線に囲まれた区域が・・・一種の大らかさと強かさから生み出された人間が本来備えている感情にまみれていたからでは無いでしょうか?




by gionchoubu | 2017-07-22 12:02 | 五条楽園 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十一


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小島屋→(料理旅館)大津会館→ビジネスホテル大津会館→現在は営業しておりません。



昭和三十三年二月十六日と十七日の滋賀日日新聞のシリーズ『消えゆく赤線地帯』の七、八に載った「県庁芸妓、おせん “玉のコシ”はなかった」は明治、大正、昭和の八十年に渡って、柴屋町の“英吉ねえさん”として芸妓生活をここで送った、当時八十八歳の若山タミさんの四方山話がとても味わい深いので二回に渡って紹介させて頂きます。

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私は京都の生れで、六つでここへ子供に来たんのんですさかい柴屋町で八十二、三年生きていることになりますやろ。

耳が遠くなって、目もうすうなり、もうあきまへん。

知ったお方はみな死んでしまはって、独り残されました。

柴屋町もすっかり変ってしもうた。昔の面影がなくなったは惜しいこっちゃ。

上柴は女ばかりで、物いうのに男気がなかったのでこんなことになったんや。

昔は車ひきが“ここが大津の柴屋町どす”といわはったくらい盛んやった。小島屋はんの先代(谷口弁二郎氏)でも生きてはったら、こんなことにならしませんでしたやろ。

私は六つからケイコして十八の年に金屋からツマをとった(芸妓になる)が、はじめて出たのは十四ぐらいどした。

私はブッチョウヅラやから“あの人芸妓にでやはるのか、こわい人やなァ”といわれました。

やめたのは六十四、五だったかいな。“もっと出とい”といわはるがイナカでは年よりの芸妓買わはらしまへん。

しかしなじみはよいもので七十くらいまで私のようなおばあさんを呼んでくれはりました。

そうどすな、昔の柴屋町は上(柴屋)も下(柴屋)も一緒どしたが、ぎょうさん娼妓ができたので上と下に別れたもんどす。

角に門がありましてな。ちょうど島原の角屋の出口の柳のような大きい柳があったことをおぼえていますが、いつのまにか門も柳もないようになりました。

そのころお茶屋では金屋、橘屋、今のうどん屋はんの五、六軒が富永屋のあとで、小稲半兵衛が心中しはったとこや。

半兵衛は呉服屋の手代やといわれてますが、本当は富永屋のオトコシどした。

三階で死にはったが、その部屋へ物をとりに行くと白ヘビがでるいうて、やかましいことどした。小稲はオヤマどす。

小島屋は今の大津会館のとこでちっちゃい茶屋でした。

金屋が一番大きうて、おじいさんが遊芸がすきで、今の丸信さんのとこに梅の屋という女紅場がおした。

金勝、金茂?、金たね、品良というよい舞妓がいやはって、仲居のひいきどした。

そのころ、金屋のおじいさんが、舞妓を十人そろえて出さはりましたし、柴屋町では若手芸妓が九十七人いやはりました。

金繁のおやまさんは不細工やったが、しっかりした人で度胸があるえらいもんどした。

その金繁はんに吉勇というよい芸妓がいやはったし、小島屋のおせんさんもよい芸妓で、ええ客ばっかりひかはった。

四ノ宮の郭にもよい妓がいましたなァ。県庁ができて、柴屋町に移ってきやはりましたが、あのころは大したもんどした。

大津によい芸妓がいるというので、よい客が多かった。

江頭の井狩さん、八幡の西川さん、彦根の前川さん、みんな今の人のお父さんどすが、よう遊ばはりました。

下郷さんがきやはったらお殿様のように金ぶちまでかざったりしました。

県庁の人もよう遊ばはりました。知事さんの川島さん(純幹)のころも遊ばはったが、中井さんの遊び方はちょっとちがう。

陸軍の九連隊でも偉い人がいやはった。内藤連隊長のころや。大きい宴会で、みんな若い芸妓にお酒を飲してよろこんでいやはったがみんなヘベレケになったもんや。

そのころ長浜から船で夜の一時ころ浜大津の大湖社へ着かはったが、今のように芸妓が駅に迎えにゆくようなことはせず、お茶屋で待ったものどす。

小島屋のおせんさんは中井知事さんのヒイキで県庁の芸妓ちいうたぐらい。下郷さんの相手もこの妓でした。

しかし、大津では玉のコシに乗ったいう芸妓はいまへんな。

金繁の吉勇さんはとても賢い妓で、芸妓はだれでもお金にほれるもんやが、あの妓は芸だけで有名な、それはよい芸妓どした。

お客さんが吉勇はんを一ぺん見たら、必ずまた訪ね“吉勇をなんとかならんか”とだれでもがあたりをつけはるが、これにはみんなが困ったもんです。

紅葉館に踊りの名人の猿之助はんが来て、踊らはったら、その地方をしらん顔してやってのけたくらいの腕で、そんな芸妓はちょっとおへん。

それだけ芸一本で、ようできた妓でしたが、ダンナと一人の子供に死なれ、またよそに嫁入れして、ママ子で苦労してやはる。

オヤマは別ピンでないといかんが、芸妓は顔がようても芸ができて、かしこないとあかん。

とにかく昔の柴屋町は楽しおした。みんなよう飲んで、お客ものんびりしてよう遊ばはりましたからなァ。

でも今の柴屋町はもうつぶれてますさかいあきません。

・・・次回に続きます・・・






by gionchoubu | 2017-01-12 11:49 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その二十一

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もう一度灯りをともして見たい・・・

つい先日(平成28年10月19日)の京都新聞の朝刊の地域プラスに『旧花街(京都市下京区・菊浜学区)“お茶屋情緒で活気再び”の記事が載りました。

菊浜学区はおよそ「北は五条通り、南は旧柳原村の各町、東は鴨川、西は北方が河原町通、南方が土手町通にわたる旧学区」『京都市の地名』とあり、ほぼかつての五条新地・六条新地・七条新地を併せた領域になります。

記事によれば、10月1日の推計人口は1278世帯1883人、大正から昭和初期に建てられた、お茶屋の意匠を凝らした木造の建物が今も多数残るとあります。
2011年にお茶屋組合が解散して、街の明かりが一度は消えかけたが、景観に引かれて観光客が訪れるようになりました、ともあります。

私の印象では、解散以前は、昼でも地元の方以外、そうそう気軽に立ち寄れる感じでは無く、徐にカメラを構える雰囲気も有りませんでした。

現在は、景観に引かれて人が集まるというより、新しい若い方が住みはじめたり、通勤路として使ったり、特にこの一年は民泊の外国人が大変増えたと思います。

記事には1958年に戦前から続いた遊廓が廃止された、と書かれていますが、実際には1946年に日本国内の総ての遊廓は廃止されました。ただし旧遊廓地帯での売春に罰則は無いという、所謂赤線地帯の通称で、旧七条新地地域として1958年まで営業を続けたのです。

売防法が実施された後、七条新地は新たに五条楽園の名で2011年まで営業を続けました。

この売防法直前の七条新地の様子を、錦織綱男著『遊女と街娼』で

“居かせぎ制の七条新地は時間で四百円、泊りは千円平均。組合費、衛生保険費などで三万円程度の収入となるわけである。「転業しろといったって、これぐらいのサラリーを出す会社ある?」と彼女達は業者の意を含んで白い歯を見せる。その上、府警本部の調査だと、前借金は彼女達の八割が持っており、最高十一年万円から最低二万円、平均して五万二千円といったところ。前借金を持っていない女も四00名ほどいるが、足を洗うところまで決心つかないのは、この収入が魅力なのである。”

「なーに、売春防止法で売春がなくなりますかいな。いままでの廓とは形の変ったモグリの赤線地帯が出来まっせ。」

と、七条新地の業者はにやりと笑ったといいます。

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                 残って頂きたい風景、ウサギは左の建物です。

by gionchoubu | 2016-10-27 12:42 | 五条楽園 | Comments(10)