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洛中、洛外半ば皆妓院なり その七

洛中、洛外半ば皆妓院なり その七_f0347663_13262515.jpg
        上木屋町の席貸には祇園のお茶屋と同等以上の格式を持ったものも有りました。

鴨川沿いの西側は三条より、先斗町、西石垣、五条橋下、七条新地と遊廓、花街のラインが出来たのですが、東三本木、上木屋町、中木屋町、下木屋町と遊廓でも花街でもない、酌人(町芸者から雇仲居まで)のもう一つのラインがありました。

* 東三本木 丸太町大橋西入上ル、江戸期に栄えた酌人の町。幾松はここの酌人(以前説明しましたが幾松は芸妓ではありません。)

以下の貸席群は京都明細図から浮かび上がったものです。上木屋町と八坂通りは芸妓が、その他は雇仲居(やとな)が入ったと思います。

* 上木屋町 上阪町に貸席の並ぶ一画あり。

* 中木屋町 先斗町公園の西の交番、パーキングの辺りは多くの貸席あり。

* 下木屋町 天王町に貸席あり。

* 八坂通り

* 安井金比羅周辺

以上が貸席群です、実際は貸席でなく席貸のはずですが、この説明は、貸座敷も含めて別の機会にもう一度考察します。

享和二年(1802)、京都滞在中の滝沢馬琴は七月三日から二十四日まで京都に滞在し、『羇旅漫録』に、当時の京都市内の遊女町45箇所を挙げています。短い滞在中に良く調べたものです。ただしこれには、二条新地を構成した7町を7遊女町と数えたり、七条新地も5遊女町としたり、遊女町の数え方に一貫性がありません。

私も、過去から現在に渡り、遊所、花街を*印で百近くあげました。一応、通称を中心に挙げましたので、町単位にすると、その数は数百町に膨れ上がるはずです。

ただし、私の調べも、遊女屋や遊女屋の集合体でなく、桂女のいた桂や、勧進、熊野比丘尼の巣、薬師辻子のように、集娼地でなく、遊女置屋の集合地も*をつけて挙げたりしており、随分不備があると思います。

たとえば、熊野比丘尼は、薬師辻子に客を引き入れたのでなく。江戸で言う中宿のような、宿屋で商売したものと思われますが、よく分かりません。

最後に『羇旅漫録』にて、「京にて見世付ある妓楼は、縄手、二条新地、北野、内野、御所うら等なり」と、別の項で書いています。見世付とは遊女を外から品定めできる張見世の事ですが、*御所うら、がどこか分かりません。



by gionchoubu | 2016-10-07 13:33 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

花街度数 前編

花街度数 前編_f0347663_10534601.jpg
          鳥取県倉吉の梅乃家さん、ネットで見ると取り壊された様です。残念!         

『全国遊廓案内』の遊廓語(さとことば)のしおりに貸座敷を「芸娼妓の置屋、揚屋、又は兼営の家等を総称したもの」とあります。

貸座敷という言葉が生まれた背景には明冶五年の「マリー・ルイーズ号事件」があります。この名を冠した南米ペルーの船が横浜に寄港したとき、奴隷の一人が停泊中の英国軍艦に助を求めました。困った英国軍の館長は日本側に奴隷の処遇を委ねます。日本側は国際法違反として奴隷を解放しました。

激怒したペルー側が弁護士を通して主張したのが「日本には、奴隷と全く処遇の替わらない公認娼妓がたくさんいるじゃないか、そんな日本が国際法を縦に奴隷のことをとやかく言う資格はない!」と、これには日本側も抗弁できず、その結果、外圧によって生まれたのが芸娼妓解放令なのです。

そしてその副産物として便利な言葉、貸座敷が生まれました。その解釈は、貸座敷の経営者は娼妓を身代金によって束縛しているのでなく、只、彼女達を寄宿させ、部屋代や設備の貸与料をもらっているだけです。その稼業は自由意志によってなされていうレトリックを用いたものです・・・こういった法律上の詭弁が今の日本の他の分野でも根付いて、利権を生んだりしていませんか?

とにもかくにも貸座敷とは便利な言葉で、島原の揚屋も、祇園のお茶屋も、上七軒の置屋も、七条新地妓楼も遊女屋も、東京の引き手茶屋も待合も全部貸座敷一言で済ますことが出来るのです。

しかし困ったことが一つあります。それは貸座敷とあれば、それが芸妓の入るお茶屋なのか、舞妓が住む置屋なのか、はたまた娼妓が入る妓楼なのか、それとも娼妓置屋か区別できないことです。

昭和四年に春陽堂が発行した上村行彰著『日本遊里史』の付録にある日本全国遊廓一覧には当時の全国の遊廓の所在地、俗称、貸座敷数、娼妓数から健康診断所、その廓の指定病院から病床数、健康診断及び治療に関する諸費まで載ります。

花街や遊廓には時代によっても、色んな捉え方ができ、定義するのが難しいのですが、今回はざっと大まかに、1、娼妓のみで芸妓のいない所、2、芸妓も娼妓もいる所、3芸妓のみで娼妓のいない所の三つのみに分けて考えてみます。娼妓とは公認遊女の事です。

日本遊里史が対象にしているのは1,2のみで3の芸者町には一切触れていません。たとえば東京でいうと、芳町、柳橋、駒込、芝浦、新川、根岸、神田、日本橋、下谷、駒込、神田、新宿、新富町、浅草、五反田、深川、四谷、新橋、目黒、渋谷、大塚、芝神明、白山、湯島天神、向島、九段などの花街は含まれていませんし、関西では明冶四十二年の大火後、梅田駅に近い為公証業者を廃し、芸妓一本になった曽根崎新地(北新地)が含まれていません。


by gionchoubu | 2015-05-10 10:59 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

朝代遊郭 後編

朝代遊郭 後編_f0347663_19421393.jpg


                     一若さんの芸妓姿

貸座敷とは便利な言葉で、芸娼妓の置屋、揚屋、又は兼営の家等を総称しており、女郎屋から祇園のお茶屋まで総てを指すことが出来るのです。逆に貸座敷だけではそれが、妓楼なのか、待合なのか、はたまた島原の揚屋なのか区別が出来ない事にもなります。

昭和四年刊、上村行彰著の『日本遊里史』の付録に、その頃の日本全国の遊廓所在地、俗称、貸座敷数、娼妓数からその病院所在地等々が記された表があります。芸妓数が載らないのですが、芸妓が所属する置屋や芸妓が入るお茶屋は貸座敷の総数に含まれる事になります。

完全な花街、つまり娼妓が一人もいなかった東京の新橋、赤坂や大阪の北新地はこの表から省かれており、つまり、この表に載っている花街は当然遊廓の側面を持っていたことになります。

京都府を例にとれば、

俗称    貸座敷数     娼妓数
上七軒    33        2
北新地   112      470 (五番町)
祇園甲部  408       86
祇園乙部  215      262 (祇園東)
宮川町   359      314
島原     93      237
先斗町   196       33
七条新地  208      987
中書島    67      234
北恵美須   13       51 (撞木町)
橋本     27       60 
朝代     41       53 (舞鶴)
加津良    25       78 (舞鶴)
猪崎     54      127 (福知山)
龍宮     34      205 (舞鶴)
新浜     41       42 (宮津)

つまり、朝代には当時、四十一軒の貸座敷があり、五十三人の娼妓さんがいた事になります。
朝代が送り込みだった事を考え、貸座敷は芸妓置屋、お茶屋、娼妓置屋、妓楼でなりたっていることを踏まえると、当時の朝代に娼妓置屋一軒に対し8人娼妓が所属とするとすれば、娼妓置屋ざっと7軒、置屋一軒に対して2軒の妓楼と考えれば妓楼数14軒、娼妓関係の貸座敷21軒、是を貸座敷総数から引くと20軒が芸妓関係の貸座敷で、25%が置屋と考えると5軒が芸妓置屋、お茶屋が15軒、芸妓(舞妓、地方)が8人所属したとして、多分40人ほどの芸妓さんがいたと私は推察しました。

廓内の千野宮神社に昭和三十年九月再建、朝代貸席組合と掘られた玉垣に当時の貸座敷の名が連なります。貸席は以前京都で揚屋の事を指していたのですが、ここでは貸座敷の意味で使われており、藤ひさ、中徳、朝代芸妓一同、いろは、君の家、天橋楼、一文字、はな、すみ家、朝代睦会一同、国の家、紅春?、ふみ家、霞月楼、胡蝶、三島家、松竹、梅の家などの名前が並びます。

朝代遊廓は昭和三十一年売防法成立から三十三年の同法完全施行の間に花街として営業を続けましたが、昭和四十年の中頃その歴史も閉じることになったのは、矢張り時代の流れというものでしょう。

*昭和三十四年の『京都名鑑』に朝代お茶屋組合、お茶屋十七、芸妓十八、昭和三十八年版に芸妓十三とありました。(2016、3月七日付記)

昭和四十年頃、お茶屋一文字のお抱え芸妓として立方をされていた一若姐さんが、現在、かつての一文字と朝代検番の直ぐ並びでお料理屋さんをされていますので、手料理とコーヒーを楽しみながら朝代花街のお話をお聞きすることができました。

朝代の踊は若柳で峰山と同じ流派、宮津の新浜の花柳流もありましたが、こちらは町のお嬢さんがよくお稽古をされていたようです。其の他花月という舞台のある料理屋、さわい楼というよく賑ったお茶屋、玉垣に刻まれたふみ屋は大手の芸妓置屋であったとの事です。一若さんの時代には芸妓の検番のみのはずですが、娼妓の検番というのもあったと記憶されていました。前回画像を載せた歌舞練場は全く記憶にないそうで、必要な際は空き地に櫓を立て踊ったそうです。歌舞練場は相当昔に無くなったのでしょう。

一若姐さんの一文字は玉垣にも名前を留め、朝代でさわい楼と人気を競ったお茶屋で、お抱え芸妓が八人いたそうです。このお茶屋一文字は朝代の人達の心に強く刻まれているようで、『舞鶴市西地区歴史的建造物調査報告書』にその外観の写真が載り、『西舞鶴の街角と渚の風景』の、平成十三年に描かれた『朝代界隈』というスケッチにも、お茶屋一文字の看板を掲げた勇姿を偲ぶ事が出来ます。

検番の隣にあった一文字は何年か前、台風で屋根が破損して取り壊され、現在検番ともども駐車場になっています。尚、朝代の路地に印象的な三階建てのお宅がありますが、一若さんによると、遊廓とは関係のない、素人さんのお宅のようです。

一若さんは、宮津新浜の名妓、から代姐さんの事もよくご存知で、先日私がお会いした事を告げると、大変懐かしんでおられました。

朝代遊郭 後編_f0347663_19495620.jpg
                        朝代の街並み
朝代遊郭 後編_f0347663_19521076.jpg
                       一若さんのお店


by gionchoubu | 2015-04-03 19:52 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その二

宮津 新浜ぞめき その二_f0347663_12512438.jpg
                        新浜
明冶十年一月二十五日、宮津万年新地として、当時の京都府権知事の槙村正直に命ぜられ、他の府下の遊廓とともに、その由緒を提出したのですが、それによれば万年新地に移住したのは二十数軒の業者のみでした。

移ったのは良いものの、万年新地は三方を山に囲まれ眺望が良くない上、海からも遠く不便な地で、遊ぶ客の評判も良くなかったようで、新浜(以後東新地の呼び名は使いません)復帰の機運が高まり、移転を許され新浜に引っ越す業者と、移転復帰を拒む業者との間で対立を生んだ末、明冶三十年頃には万年新地は跡を絶ち、新浜のみが宮津の遊廓となりました。

この間、明冶十五年八月布達された、京都府甲第158「貸座敷取締規則」によると、貸座敷営業免許地として、当時の京都市内九ヶ所以外に市外六ヶ所の免許地が記されています。その六ヶ所とは、伏見、墨染、中書島、福知山柳町、宮津万年町、同新浜、とこの両者が共存している事が明白に分かります。

ちなみに貸座敷という名称は明冶六年に傾城屋、遊女屋、茶屋などと別々に呼んでいた業種を「貸座敷」と総称で呼ばせたもので、芸妓、娼妓という言葉も、この時、官製用語として統一されたものです。

宮津の遊廓が新浜一本になった頃、水島保布の『旅の収穫』に「その桟橋が遊廓の一角へ架せられて、そこからつゝく狭い道路は、軒端屋号を記した角行燈が、黄昏早く点す薄い燈心の火に挟まれた、枝垂柳の影から透くれ色の長暖簾を両脇に眺めて、本通りへと通している〜略〜汽船を待って潰し島田に赤い手柄をたらりと垂れ、荒んだ頬桁に白粉を刷きかけた、見るからに舟着き所の女郎の型をした女達がだらしなく小褄をかゝげて、ぞろりぞろりと草履穿きでその桟橋近くまで出歩いて来た。」と、当時の新浜遊廓の娼妓さんが、たぶん客引きの為であろう、汽船の乗客を迎える瞬間を捉えています。

ここで、明冶四十二年、ドイツの作家 Bernhard Kellermann (以後ケラーマンと表記)の宮津滞在記で、ケラーマン自身が新浜のお茶屋体験を通して、当時の花街新浜の具体的な様子が浮かび上がりますので、紹介させていただきます。

この、当時長編小説『トンネル』という世界的な人気をもったベストセラー作家が長期の日本滞在中、どっぷり浸かったのは、東京でも横浜でも京都でも宮島でも大阪でもなく、宮津、とりわけ新浜であり、その旅行記を残したのは、宮津にとっても貴重な財産のはずです。

ケラーマンは『日本印象記』の宮津の項で「日本に滞在中、この町が一番面白かった。この町の話をするのは、友人の事を話すように嬉しい・・・」

そして花街新浜を、

「この町の通りで一番美しいのは、茶屋町通りである。茶屋は、普通の家に比べると、まるで豪奢な別荘と見える。二階作りで、廊下や庭や、立派な門がある。茶屋の前を通りながら一寸覗くと、何処にも必ずその家の格式や富裕を示す品物が飾っている。その品物といふのは、鹿や魚や鳥を描いた立派な屏風であったり、人気の無い部屋に置かれて、暗闇で金色に光っている、綺麗な漆塗りの箱であったりする。三味線が鳴る。太鼓が聞こえる。異様な歌声がする。通りをちょこちょこ行く小さな踊り子を見ると、白粉を付けて、唇に紅をさしている。遊女の真黒な眼が、隙間から覗く。夕方暗くなって来ると、この通りには、明るい提灯が一杯点く。幻想的な華やかな世界を現出して、千一夜物語中の都市のやうに思われる。」

ケラーマンは多くの国を旅したことでも知られていますが、千一夜物語りの架空の都市と比べるなど、まさに宮津に岡惚れして、そしてベタ惚れになってしまったのです。
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by gionchoubu | 2015-02-19 12:52 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その二

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江戸時代、橋本には数十件の妓楼があったとされたものの、明冶五年十月二日、太政官布告295号、即ち娼妓解放例で全国の遊里は大打撃を受け、橋本の廓も中断を余儀なくされました。

さらに明冶十年、淀川対岸に当時の国鉄、京都、大阪間の東海道線が開通したため、橋本は対岸に繁栄を奪われ、決定的な衰微に見舞われます。

娼妓解放令の後、それこそ数百年、旅客に酒、魚、茶菓子を提供し、遊里で糧を得ていた人達に遊廓はだめだ、商売を替えろ、正業に就け、といっても途方にくれるばかり、生活に困り他所に移るものあり、橋本は寂れるばかり、もっとも手早く地域の賑わいを取り戻すには、けっして良策とはいえないでしょうが、遊廓復活しか道はなし、そこで明治二十年六月、知事の許可を受け、遊廓区域橋本駅として見事復活したのです。

再興と同時に貸座敷、芸妓、娼妓、引手茶屋、紹介業による五業組合を設立、場所は仲之町の十番地、組合長は奥西松之助氏で、貸座敷七戸、芸妓九名、娼妓九名の小規模な再スタートでした。

当時の橋本遊廓は木津川警察署の管轄の為、営業鑑札は木津川警察署から受けたものの、芸妓税などは娼妓検黴場の所在地の関係上伏見警察署に上納しました。

その後八幡紡績会社をはじめ、工場などの設立もあって明冶三十年、取締植村藤吉氏の元で、貸座敷十三戸、芸妓十余名、娼妓二十三名になりました。

明冶三十三年、京都府令第百号を以て貸座敷取締規則公布を期に、五業組合を解散、橋本地域貸座敷組合と改称、貸座敷十三戸、芸妓十一名、娼妓三十九名

明冶四十年、貸座敷二十一戸、芸妓十六名、娼妓三十名

この橋本に明冶四十三年に京阪電車が開通により、京都、大阪の境界にある橋本にはどちらからもアクセスがあるという地の利を得、そして男山八幡への参詣客の増加、さらには第一次世界大戦による空前の好景気も追い風になり、大正十一年に貸座敷四十六戸、芸妓六十名、娼妓百二十七名と数倍の規模になりました。

この頃が橋本に一番芸妓がいた様で、同年七月、焼野に十万円をかけ、辻本幸之助取締の時代、立派な歌舞練場兼芸娼慰安余興場を建設しました。その中には料理部も兼ね備えていました。

大正十一年に是だけの歌舞練場を持つ花街はそうそう無く、地元の人が今でも、この歌舞練場を誇りに思うのは肯けます。
橋本遊郭ぞめき その二_f0347663_12310208.jpg
                      歌舞練場跡

by gionchoubu | 2014-12-11 12:31 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)