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遊廓、花街の類形 その十一

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                京都府 綾部 月見町は花街の風情をよく残します
城下町の花街・遊郭の成立過程はさまざまで、江戸の吉原や大阪の新町は前も述べたようにC 人目につくところから隔離を目的としたもので、幕府の意向に添い出来上がりました。

ただし大阪でも、新町以前に幕府でなく大阪城代が許可した今の道頓堀、ちょうど松竹座の裏あたりにあったとされる下灘波領の遊里は、その後非合法遊里としての起源を持つ島之内や北之新地と同じくBの人を集めようとした処に入るはずです。

もう一つの大都市、名古屋の築城の際できた飛田町の遊郭はA の人が集まる所に設置されたものの、その役目が終わると廃止の憂き目を見たのですが、異端の殿様宗春が七代目尾張藩主として赴任すると、西小路さらには富士見原、町に遊郭を新設しました。これは経済活性の目的でBにはいります。尤もこの試みは宗春失脚のため十年持たず、以後名古屋市中心には明治まで遊所というものが有りませんでした。

宗春が異端だった事で浮かび上がるように、江戸幕府は、特に元禄の奢移時代の反動で、以後極端な倹約令を引き、遊郭や芝居などは目の敵といった具合であり、城下に城代公認の遊里は中々持てなかった筈です。

ですから東海道を通る、浜松、吉田(豊橋)、岡崎などの城下町にあった遊里は非合法であり、宿場型として飯炊き女の名目で遊女を置いたものです。

江戸から離れた金沢の東廓は外様の加賀藩が散らばっていた茶屋を集めて公認したものですが、文政三年(1820)設置となれば江戸時代の終盤ですし、彦根の袋も藩政時代には無く、明治になって幕府の箍が外れて開業したものです。

ただ私としては、龍野、赤穂などの小城下町型花街といった類型は可能だと思いますので今後の課題としたいと思っています。

企業城下町型として、一つの企業が独占に近い形で遊郭、花街を支えていた類型が成立するかもしれません。

綾部の月見町の花街と、この町に大きな影響をもつ婦人衣料メーカー、半田市の花街と上客であった大手醤油メーカー、小松市にかつて存在した、特定の企業と従業員御用達の様な遊郭といった具合ですが、こちらも現在資料集めの段階です。




by gionchoubu | 2014-11-21 11:52 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

新三本木ぞめき 一

かつて三本木とも、東三本木とも、新三本木とも呼ばれた花街がありました。
この三本木は町名ではなく通りの名前で、丸太町大橋西から鴨川北に伸びる最初の筋が東三本木通りで、一本西が西三本木です。

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                      鴨川から望む山紫水明処
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                     現在の東三本木通り


何故新をつけるかというと、もともと東洞院通にあったのですが、宝永五年(1807)の大火を機に京都御所が拡張されることになり、三本木一丁目より三丁目の人家を鴨川西岸の現在地に移しかえ開町したからです。

新三本木を町名で表せば、頼山陽が文政五年に移り済み、今も残る山紫水明処があるのが南町、真ん中の中之町、その北、園通寺あたりの上之町のごく短い区画で、花街としては実にこじんまりとした区画になります。

芸者町になったのは、ここが開町したころからで、山紫水明処のネーミングで分かるように、鴨川があり、東山が綺麗に眺められる、町中の雑踏からもほどよく離れ、遊興の地としては申し分のない立地が大きいのでしょう。

『京都府下遊廓由緒』には新三本木の舞芸者は白拍子の流れを汲み、高台寺で北の政所が育んだ一種の町芸者と流れが同じというような事がかいてありますが、この文は明治の五年に各遊廓、花街から自所の由緒を提出させたものなので、三本木にそういう伝承があったものだと思われます。

天保年間の改革で、嶋原、撞木町、中書島の遊所以外は祇園も上七軒も皆廃業か嶋原に移転を命じられましたが、この三本木が見過ごされたのは、ここに娼妓が一切いない芸妓の町だったからとされています。しかしながら遊廓として認識されていたからこそ、上記の京都府下遊廓由緒でも、下京十六区の嶋原の傾城町出稼五として下京二十二区の新三本木が位置づけされていました。

天保の改革がなし崩しになった嘉永(1848~54)以来、三本木は大いに賑わい、不夜城とよばれました。

幕末、桂小五郎と浮名をながした三本木の幾松は、あるいは日本人にとって一番馴染みの深い芸妓でしょう。その他にも近藤勇の駒野、後藤像二郎の“いろ”も三本木の芸妓とされています。そのころ料亭吉田屋、清輝楼、上井筒、大岩、月波楼、芸妓置屋として美濃徳、瀧中などがありました


by gionchoubu | 2014-09-12 12:19 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十四

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                    道楽橋があったとされる先斗町側

納涼床
 寛政十一年(1799)刊の『都林泉名勝図絵』を見ると鴨川の四條河原にて、多くの料理茶屋が行燈に名前を掲げ、酒や料理で涼を求める人をもてなす様子がうかがわれます。今のように鴨川東側に床が組まれたのは明治以後のようです。
現在は二条から五条までの禊川の上に初夏には床を並べます。先斗町のお茶屋で床をだすのは、初乃屋、大市、井ふみ、丹米など。

十五大明神 十五番路地には千社札で埋め尽くされた十五大明神があります。これは昭和五十三年に火事が起きた時、酒房「ますだ」の所でピタリと止まり、狸の置物が割れていたといいます。これはお狸様が身代わりになってくれたものに違いないと、ますだの名物お女将おさださんが祀ったものです。
以前はお賽銭を入れると、お神楽のような音楽がなり、おたかさん本人の声で運勢をうらなってくれました。この占いはおさださんの人生観が窺える大変魅力のあるものでしたが惜しいことに故障したままです。この装置が壊れたのは、私の記録によると2008年のことです。ますださんのお店のなかには常連であった司馬遼太郎の直筆の屏風があります。

道楽橋 かつて先斗町と川端通りを四条大橋のすぐ北で結んでいた橋。
『鴨川の景観は守られた』木村万平著、では先斗町の北100メートル(現在お地蔵さんがある場所)から川端にかけて菊水という鳥すき屋が大正時代に自費で建設したもので、人幅三人ほどの木製の橋で「菊水橋」というのが正式名だったとの事。実際この店主片岡金七が写した菊水橋の写真が載ります。昭和十年の鴨川の氾濫で流されたとあります。

ちなみに、この洪水では祇園芸妓によるねりものが中止になりましたが、先斗町では若い芸妓に紫、年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、明治二十六年以来中断してした四十三年ぶりの復活ねりものを盛り上げようという話があったそうです。

一方『決定版先斗町のすべて』先斗町歌舞会監修によると、作家の杉田博明氏の文筆で、これは料亭「竹村家」が私費で差し架けたもの、泉鏡花の短編小説『笹色紅』に竹村橋が出ている、と言った紹介があり、さらに、昭和三年ごろこの橋がなくなったという証言が、画家田中善之助の『京ところどころ』に記されている、とも書かれています。

どちらも祇園と先斗町という京都の象徴的な二花街を結んでいたので道楽橋と呼ばれていたのは共通しています。最初は竹村家が架けたが流され、その後菊水が架けたとすればなんとか辻褄は合います。

上記『鴨川の景観は守られた』によりますと、この道楽橋復活の議論が突如1980年におきました。架橋の場所はオリジナルの道楽橋より北、四條大橋と三条大橋の真ん中辺り、先斗町公園のすぐ北が予定地で鴨川の東側は賛成、先斗町はおおむね反対でした。その後数年を経て京都市による架橋理由として1、東西の中心街の一本化 2、消防署の迅速な到着 3、親水空間の多様化が京都地域商業近代化地域計画報告書にあったそうですが、1の理由はともかくとして、2はこういった計画の大義名分を表明したもので、官側が提唱したもっともらしい言い分。3にいたっては何をいっているのか分かりません。

その後、1996年、フランスのシラク大統領が来日の際、「鴨川にポン・デ・ザールの理念を生かした橋を架けては」と提案してこの問題が再燃にましたが、景観を損なうものとして反対運動がおこり、市はこの計画を白紙撤回しました。

先斗町側でこの反対運動の中心となったのが料理店「山とみ」の女将さんでした。市が山とみの鴨川側の看板が美観地区の条例違反として一ヶ月以内に取り除くよう通達してくるなどのいやがらせに出たのにもめげず、一人で立ち上がるや、署名、カンパを募り、集会で訴え、勝利に結びつけました。

勝利集会で、平成のジャンヌ・ダルクと持上げられたとき、「ジャンヌ・ダルクやて、人を火あぶりにする気どすやろか」と返したそうです。
山とみは、もともと先斗町で五十年続いたお茶屋さんでした。

ポン・デ・ザールはセーヌにある橋で、ポンはフランス語で橋を意味し、ポンと発音しますが綴りはpontです。先斗とpontは全くの偶然とはいえ、先斗町の語源がいまだに謎ですのでなにか因縁のような物を感じます。




by gionchoubu | 2014-08-24 11:43 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 十

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                      先斗町少女レヴィユー

昭和五年には今も続く水明会がはじまりました。舞妓さんがメインともいえ、普段花街に馴染みのない人も十分楽しめる鴨川踊りと違い、温習会である水名会は選ばれた芸妓による技芸の成果の発表会で、観客も目の肥えた人が多く、会場の雰囲気も趣きも随分違った物なのは、今も昔も変わらないようです。

同時に時代の趨勢もあり、先斗町でも、お客が花代をつければダンスの相手もつとめる、洋装によるダンス芸妓が登場し、京都では宮川町と共にダンス熱が盛んになりました。

先斗町にはさらにお茶屋の娘さんを中心に結成された少女レビュー団まで出来ました。昭和五年、先斗町歌舞練場で四月一日から一週間催された「レビューわが京都」のプログラムをみると、ダンスは石井行康、日本舞踊は若柳吉蔵が担当しており、

一、ジャズ春の宵
二、オリエンタルキャメルトーン、
三、お人形さん
四、人魚の戯れ、
五、蛙ダンス、
六、支那幻想曲武艶舞、
七、角兵衛獅子、
八、メイボールダンス、と和洋混沌とした内容でした。

昭和六年の一月八日、先斗町遊廓新年始業式を覗いてみても、浄瑠璃とダンスが同時に披露されるという、明治以前も、現在も見られない、この時代特有の混沌とした舞台で、午前十一時挙行、式場上手に祭壇を設け、皇大神宮を奉仕し、まず寺井取締より新年の挨拶、営業成績良好各妓に受賞、祝杯の上解散しました。

午後二時に、会場二階に招待客を招き、舞妓のお手前で抹茶を饗したあと、別室にて女紅生徒の裁縫、編み物、習字、手工品等を展示、鑑賞、さらに式場に案内され、各種芸能が一同に披露されたわけですが、そのプログラムは

浄瑠璃、壽式三番叟 勅題舞踊、社頭雪 清元、花がたみ 常磐津舞踊、常盤の老松 長唄素囃、娘七種と続いたのち、ダンス芸妓による、追羽、そして最後を飾ったのが、少女ダンスによる、スパニッシュジプシーフリーダンスでした。芸妓名を見ると義太夫系が菊之助、富太郎と男名が多く、きれいどこは豆千代、市などのそれらしい芸名が目立つのに対し、ダンス芸妓は良子、米子、少女ダンサーも良子、徳子などすべて現代名でした。


by gionchoubu | 2014-08-14 15:18 | 先斗町 | Comments(0)

先斗町ぞめき 八



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木造の先斗町歌舞練場


鴨川踊りの再開は明治二十八年の先斗町歌舞練場の落成を期に、第十三回が催されました。この建物は間口十軒、奥行十五軒半、翆紅館と名づけられています。この間、明治二十三年には祇園甲部、先斗町、宮川町芸妓が北垣国道知事に対して市税徴収不服訴訟が大阪控訴院により却下、二十六年にも先斗町の芸妓が減税を請願、却下されています。(京都地方労働史)

明治四十三年の鴨川をどりのパンフレットを見ると、この年の貸座敷は東側(鴨川側に61軒、西側に91軒の合計152軒、芸妓188人、義太夫芸妓20人、娼妓8人、伯人19人とあります。白人は玄人に対しての素人、転じて私娼を指したものでしたが、嶋原ではこのころでは太夫の次位(以前は天神と唱えていました)の女のことを言ったもので、嶋原より出稼ぎをしていたものとおもわれます。


大正四年発行の『京都府誌下』によれば大正二年,貸座敷178、芸妓221、娼妓30とあります。


この頃、松竹が鴨川踊を東京歌舞伎座で一週間興行を計画、一列車をチャーターし、上野の精養軒を借り切り寝泊りして連日満員にしたという快挙もありました。

大正十五年の技芸倶楽部では、取締りと鴨涯女紅場の場長が出雲房次郎、貸座敷数169軒、

石屋町  芸妓1人
橋下町  芸妓7人
若松町  芸妓36人 舞妓1人 義太夫芸妓3人 娼妓2人
梅ノ木町 芸妓15人      義太夫芸妓2人 娼妓4人
松本町  芸妓21人 舞妓3人 義太夫芸妓3人
柏屋町  芸妓3人       義太夫芸妓1人
鍋屋町  芸妓43人 舞妓1人 義太夫芸妓4人
下樵木町 芸妓83人 舞妓2人 義太夫芸妓7人 娼妓15人
材木町  芸妓46人 舞妓4人 義太夫芸妓2人

芸妓合計253人、舞妓11人、義太夫芸妓22人、娼妓21人


by gionchoubu | 2014-08-11 18:36 | 先斗町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 四

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                    四条京阪、出雲の阿国像

祇園と歌舞伎といえば仮名手本忠臣蔵七段目の祇園一力の場が有名ですが、実は内蔵助が一力で遊んだという記録はなく、これは実際内蔵助が通った伏見の撞木町遊廓の笹屋を演出上祇園に移したものとされています。

ただ口伝ではありますが、元禄十四年、主税が京都山科に滞在中に宮川町の蔭間となじみになったという話が伝わっています。この陰間(かげま)の語源は、若衆歌舞伎の時代、実際の舞台に立つ役者が舞台子なら、控えの役者である陰の間が転じたのが陰間、すなわち色子でありました。

この宮川町の若衆に群がったのが、女に飽きた金持ち、未亡人、そして僧侶達で「叡山の水、宮川町に抜け」「釜の座は、宮川町と和尚いい」女犯の戒律には背かないという理由で若衆にうつつをぬかしたのは、西鶴の「男色大鏡」に妙心寺の開山三百五十年忌に諸国から上洛した金持ちの僧侶たちが宮川町で散財する話でも明らかであります。

さらに宮川町が歌舞伎の世界に残したもので、いわゆる役者の屋号の内でいくつか、たとえば音羽屋など、宮川町の若衆茶屋の屋号が由来であろうと田中緑江氏は推察しておられます。

衆道の地としての宮川町の歴史は承応元年(1652)女歌舞伎が禁じられた頃から始まり、具体的な記録としては貞享五年刊『諸国色里案内』に、宮川町の記述があり「こゝは、ぶたい子・かげ間・野郎のすみか、ぶたい子銀壱枚、かげ間屋金子壱歩、あるいは廿匁」と見え、この風は天明(1781〜1788)頃まで続いたと言われています。

野郎歌舞伎の時代、宮川筋一丁目に、玉水や・水木や・えびすや・中村屋・花屋・や・ゐづつ屋・若木や・竹屋などの酒席が軒を並べたといいます。(京の花街)

さて、遊女街としての宮川町の歴史に戻ると、『京都府下遊廓由緒』によれば、「宝暦元辛末五月宮川筋一町目ヨリ六町目迄十ヶ年限茶屋株差氏許相成追々年継続済致シ候由記録アリ」と記されていますが、宝暦元年は1751年、これを許可したのが京都所司代松平豊後守資訓で、町奉行は稲垣能登守正武でした。

町割りとしての宮川町は五丁目までが四条河原、六町目より建仁寺領に属していたのですが、茶屋株がおりてから、すなわち非公認ながら実質遊女町になってからこの境界線はなくなったようです。

それから十九年後、明和七年(1770)、祇園町とともに茶屋株継続を許されるのですが、『月堂見聞集』によると、享保八年(1723)五月二日夜、宮川筋四丁目の露地より出火し、三丁目、四丁目で百八十軒あまりが焼け、この中に歌舞伎役者二十一人の家も被害にあったのですが、実際火元も歌舞伎役者瀬川菊之丞という噂が広がったといいます。その後も翌享保九年、同十五年、さらに寛保元年(1741)と立て続けに火事があり芝居櫓は消失、多くの舞台子が道頓堀に移り、そのころあった六座の内二座が廃絶、あるいはこれを機に宮川町も衆道の町から遊女の町へ比重が移っていったのかもしれません。



by gionchoubu | 2014-07-27 11:38 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 三

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『当代期』によれば出雲阿国が北野でかぶき踊りを見せたのが慶長八年(1603)とされ、その後宮川町のすぐ隣りの四条河原では、島原の前身である六条三筋の廓の遊女による歌舞伎が人気を博しました。

『孝亮宿禰日次記』の記述に、慶長十三年の四条河原の興業に数万人の群集が押し寄せたと有るので、その人気はすさまじいもので、寛永六年(1629)には女舞、女浄瑠璃を含め女歌舞伎は禁止されます。

『京童』に女歌舞伎の観客は「皆六根をなやまし、心を六塵にとらかし、宝をなげうち、あるいは父母の養いをかえりみず」と、これはまさに江戸幕府の人民に対する政策方針の間逆をいくもので、遊女歌舞伎自体も、自廓の宣伝のため興業したに他ならず、この間元和期(1615〜1624)京都所司代板倉勝重は、四条河原の七つの櫓に興業権をしぼることで歌舞伎の取締りを掌握し、町中にあった六条三筋の廓も郊外である島原に移転させ風俗統制に乗り出しました。

ちなみに、女歌舞伎が禁止された年、四条河原で女性による能が催されたのですが、それを見に来た侍集団の喧嘩の結果により多くの死者を出した事例を見ると、江戸時代が始まって暫く、まだ侍にも民衆にも戦国時代の気質が残っていたのかもしれません。

阿国歌舞伎、遊女歌舞伎の後に現れたのが若衆歌舞伎で、それまでマイナーであった稚児や若い美少年の踊りや狂言に時代が移行します。しまつのわるい事に、男性の中には戦国時代からの風習である同性愛の衆道に走り美少年であるがゆえ大名、武家の奥方まで若衆歌舞伎に熱中し、『江戸名所記』によれば「若衆どもの髪うつくしく結い、うす化粧して小袖の衣紋じんじょうに着なし、ほそらかなる声にて小歌うたい」「桟敷にある方々は耳元まで口をあき、よだれを流し」という状況に至った為、承応元年(1652)幕府は体制維持、社会秩序の点からこれをも禁じ、若衆は前髪を切り、月代の成人頭での舞台を余儀なくされ、歌舞伎は今の歌舞伎の原型である野郎歌舞伎としての道を歩んだのであります。

それまで武士や僧侶の間でのみ行われた衆道は若衆歌舞伎以後、野郎歌舞伎になり女形が生まれ、庶民にも広がったわけですが、宮川町はこういった役者を抱えたお茶屋を若衆茶屋、蔭間茶屋と呼び衆道の地として盛んになり、この風は天明の頃まで続きました。

『近世風俗史』によれば、江戸ではこの男色は、芳町、木挽町、湯島天神、麹町天神、塗師町代地、神田花房町そして芝神明前で盛んであったが、やがて芳町、湯島天神、芝神明前に限られ、天保の改革後は湯島天神のみで密かに行われたとあり、大阪では、明治以後、南地五花街の一つに吸収された坂町も衆道が盛んでしたが、天保後消滅したとされています。

さらに、「京師は宮川町と云ふ遊女町の中にあり。」「因みに記す。京師宮川町某の家にて通和散、一名ねりぎと云ふ白き末薬を製し、三都にこれを売る。男色かならずこれを用ふ。」と衆道の宮川町について述べています

京の宮川町は勿論、東京の芳町、湯島天神、芝神明前、大阪の阪(坂)町ともども、男色が無くなった後でも高名な花街たりえたのは、歌舞伎と花街との密接な関係を窺わさせるものです。

浅草芸者の地方の芸風はとにかく清本でも小唄でも浄瑠璃でも何でもこなすことで、一つの道を究め、客の求めに応じた曲を弾くなどは芸者としてのプライドが許さない芸所の花街からは五目と揶揄されるほどなのですが、この浅草芸者の歴史をたどれば、中村座、市村座、河原崎座という江戸三座の芝居茶屋に生まれた猿若町芸者つまり櫓下芸者にいきつきます。

また大阪道頓堀五座(角座、中座、朝日座、弁天座、浪速座)にあった南地五花街の内、特に今の松竹座の南にあった難波新地にたくさんいた、座敷に入ると「コリャ珍しい顔じゃなあ」というのが極まり文句であり、色気をはなれ面白く座をもつヤケ芸妓が存在したこと、そして南座を含七つの櫓の役者を擁した町で、いまでも一年目の舞妓でさえ座持ちの良さは京都五花街一であると、私が信じて疑わない宮川町など、もし歌舞伎街型花街という類型がなされるならば、その特色は気持ちよくお客を遊ばし、満足させるという所にあるとさえ私には思えてきます。

実際、特定の花街は於いて、芸妓が歌舞伎役者のパトロンのような存在であったという様な話はたくさんあり、花街が歌舞伎の後ろ立てのような時代がありました。芝居と花街は密接な関係を持ち、とくに明治から終戦までどんな名優でも花街の応援がなければ芝居は成功しないと言われたほどです。

祇園では昔、歌舞伎役者は座敷に上げないという不幸な時代もありましたが、明治以後、祇園は街を挙げ、時には総出で東京の歌舞伎総見に出かけ、このため祇園で芸舞妓を座敷に呼べないという事まであったそうです。


by gionchoubu | 2014-07-26 12:21 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 二

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                      宮川町を通る舞妓さん。

祇園の一角としての、宮川筋一丁目=石垣町=東石垣ですが、『好色一代女』に「石垣町茶屋といへど、此処には一軒に七、八人づゝも有て、衣服の仕出しよき相手に、分里の事も聞おぼえ云々」と、これが書かれた貞享三年(1686)以前にはすでにここが遊里化していた事を物語っています。

さらに『武野燭談』(ぶやしょくだん)という書物に「石垣茶屋、河原を見下ろし、がけ造りにして、四壁金襴純子にて張、床をば畳をやめて天鵞絨(ビロード)を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえて内はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止される。」という記述があります。

天和年間は1681〜1683年、江戸時代の初期にこのような遊興が非合法の遊里でまかり通っていたとは信じがたいのですが、これを嬉遊笑覧で引用した喜田村?庭も、「さまでの花美ならば其頃の草子にみゆべきに、さる事聞こえず」といささか懐疑的です。

さらに喜田村は『西鶴大鑑』で「祇園、石垣、上八軒、穴奥(こっぽり)、八坂、清水の茶屋」と述べられた、祇園周辺の遊里を紹介しています。

天保以前の全国の遊里を相撲の番付に見立てた『諸国遊所競』でも、東石垣は宮川町と分けられており、東石垣は西の十三枚目を占め、両所ともに先斗町、上七軒よりも上位、東石垣の領域の狭さをも考えると、認知度は相当なもので、大いに賑わっていたと考えられます。しかしながら東石垣は正式名称としては宮川筋一丁目になります。

さて、宮川筋二丁目以下の様子を『京都市の地名』で探して見ると、『月堂見聞集』に享保八年(1723)、祇園新地団の辻子(一丁目と二丁目の間)で当局の一斉取締りがあり、白人(私娼)三十余人が今で言う検挙され、親元に帰されたとあり、さらに同書によれば、享保十七年(1732)宮川筋五町目の米屋喜兵衛の借家の市懸茶屋井筒屋よつ、と言う者が市掛下女の名目で女を抱え、町々所々に遊女を遣わしたことが露見し、よつは所払い、家財も欠所を申し付けられていますので、宝暦以前に遊女が居たことは間違いありません。

もう一つ、同書によれば、祇園祭の神輿洗いに出された、一種の仮装行列である練物が宮川町でも享保六年、雨乞の題で、さらに同十八年にも鬼一法眼の題で出されていたことが分かります。この練物は後年、遊女や芸妓が練り子となった祇園で大変有名になり、何度も中断したものの、昭和三十五年まで続いた祇園の一大風物詩でした。

ただし、当時祇園もそうであった様に、宮川町の妓女がこの仮装に加わったというわけではなく、まだ町方の練物であった事でしょう。

雨乞いは切実な願いであったでしょうし、鬼一法眼は前年初めて上演された浄瑠璃でしたので、人々は大いに活目してこれを見たに違いありません。

諸国遊所競では宮川町、即ち宮川筋二丁目以下は前頭西五枚目と大健闘しています。



by gionchoubu | 2014-07-25 16:05 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 一

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宮川筋は鴨川に沿って四条通りから五条通りまでの南北の通りですが、一本道ではなく、宮川筋一丁目は四条から団橋までの川端通りに当り現在は存在しません。団橋より松原通りまでが宮川町筋二丁目より五丁目、そして宮川町六丁目から
八丁目までは、ここから現れる一本鴨川寄りの道に通りを変え、五丁目までの筋は五条通りまで西御門町、西川原町町、田中町と名前を変えます。つまり宮川筋は三本の別の筋の総称ということになります。

現在の花街、宮川町のお茶屋が存在するのは、この内宮川筋三丁目〜六丁目、そして西御門町になります。

宮川筋一丁目が開発されたのは、寛文六年(1666)祇園新地外六町の一町としてで、二年後鴨川にそって石垣を築いたので、石垣町とも呼ばれましたが、後鴨川の西にも町並みがありましたので、西石垣(さいせき)に対して東石垣(とうせき)とも呼ぶようになり、東石垣の方が通称になりました。

延宝二年(1674)の荻原家文書に二丁目から五丁目の記載があるので一丁目のあとすぐ開発されたと見え、『改正増補京羽二重大全』によれば六丁目以下が開けたのは正徳二年(1712)以降のことです。しかしながら『坊目誌』によれと宮川町筋二丁目から五丁目が開通したのが寛延三年(1750)とずいぶん開きがあることも付け加えておきます。(京都市の地名より)

宮川の語源については諸説あり、『京町鑑』にはかつて四条の南東川端に、夏の禹王の廟が有ったからから、加茂の斉王の宮がここで鴨川の水をせき止めて清斉せられたから、などがありますが、田中緑江氏は祇園祭では、四条下がった辺りの鴨川の水を神輿洗いの儀式に使うので、つまり宮川の宮は八坂神社そのものであるという説に与されています。

宮川町遊郭としての歴史は、祇園社への門前花街としての一面と、歌舞伎役者が住む衆道(男色)風俗の町という二面性があり、これが共存したところに特色があるのですが、さらに、宮川筋一丁目のみは、祇園新地六町の一町として独自の道を歩んできましたので、まずはこの三つの歴史を分けて辿ってみます。



by gionchoubu | 2014-07-24 13:16 | 宮川町 | Comments(0)

祇園東ぞめき 三

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その後、祇園は祇園廻り・祇園社境内・祇園の三地区で呼ばれる様になるのですが、天正十年『言経卿記』あたりからこのあたりの茶屋の記述が見え始め、江戸時代初頭の元和年間に所司代板倉勝重が祇園、八坂、北野、に茶屋を認めるとすぐ茶立女の名目で遊女体の女が現れました。

これが遊廓そして花街としての祇園の歴史の始まりとなります。この流れで言えば、歌舞伎でおなじみの『鳥辺山心中』のヒロイン、おそめこそ歴史上祇園に現れた最初の女の一人と言えるかもしれません。。

この物語は寛永三年、三大将軍家光が上陸の際同行した、二条普請奉行の軽輩、菊池半九郎という二十一才の若侍が、九月二十九日、祇園の水茶屋の娘、十七歳のおそめとの別れをおしみ、鳥辺山の井戸に身をなげた実説をもとにしたものですが、おそめは茶屋の娘で=遊女という設定は、真実を知るすべはないにしても、少なくとも近松の時代にはごく自然な設定だったことが分かります。

応仁の乱後消失した祇園が復興するのは四条通りをはさんだ南側、北側、そして八坂神社の南側の清井町が最初ですが、その後寛文六年(1666)川端町、宮川町一丁目、中之町、弁財天町、常磐町、二十一軒町、今の南座辺りから四条をはさんだ縄手、川端通り間の北の部分が開発された外六町(そとりくちょう)が祇園新地と呼ばれ、さらに正徳三年(1713)清本町、林下町、元吉町、末吉町、富永町が開発され、これが内六町(うちりくちょう)、又は新家(しんや)と名づけられたのですが、この内六町のうち林下町殆どすべてと、清本町の一部、祇園町北側の一部が現在の祇園東の領域で、外六町に祇園東を除いた内六町があらたな祇園新地となり、今の祇園甲部の北側を形成しています。

つまり祇園東が田畑から誕生したのがいまからちょうど三百年前になるのですが、この内六町に(非公であれ)遊廓を形成する上でかかせない要素。茶屋渡世三十株が許されたのが享保十七年(1732)、その上納金で大和橋をかけかえました。ただし末吉、清本、富永町に人家が立ち始め、青楼が並ぶのは延享(1744)以降とされます。つまり遊郭としての祇園東が渡世を始めたのは江戸時代の中ごろとみていいでしょう。


この新地開発と株の関連をみると、これを最も得意としたのが大阪の町で、近世の大阪の歴史は新堀の掘削と、それに伴う新地開発の歴史といっても過言ではありません。

為政者はここぞという場所に堀を通すと、煮売株、旅籠株、湯屋株、茶屋株、芝居株などの権利をトランプのカードを切るが如く新地開発の尖兵として送る込み、上手に手が揃えば、曽根崎新地(北之新地)、堀江新地、島之内などの見事な役ができ、大阪の代表的な遊所に育ちました。

祇園に話を戻せば、すでに南座あたりは元和年間(1615〜1624)七つの芝居小屋の興行師に櫓が許されており、大阪と前後開発されていったのですが、内六町には松湯町(現在の切り通しから巽橋まで)、薬湯町(現在の花見小路、四条上がる)などの名が昔の文献で散見するのですが、文政時代の『鴨東佳話』に祇園町に大和湯、松湯、薬湯、亀湯の四箇所の混堂(風呂屋か湯屋)が有ったと記されますので、新地開発の後、こういった株が与えられたのでしょう。

ちなみに、江戸期において風呂屋とは蒸し風呂であり、お湯に入るのが湯屋でした。

さて、祇園東はかつて膳所裏と呼ばれていたのですが、これは膳所藩の筋横通称膳所裏を中心に栄えたためで、現在で言うと富永町通りの東(東富永町)、四条通りの一本北、即ち祇園会館南の筋から花見小路までをいいます。

膳所藩邸は東大路(かつての小堀通り)、新橋通りのすこし南、花見小路(かつての薬湯町通り)の少し北、富永町通りにかこまれた四千三百五十坪の土地で、万治二年(1650)十月に創建された江州膳所藩本多の京屋敷で、亀山、篠山、高槻、郡山各藩と共に御所の守護と御所火の番を将軍より仰せ付かりました。

昔から遊郭では火事が多く、これは世をはかなんだ遊女が火をつける事も原因の一つで、吉原炎上が江戸大火の八割を占めたこと、吉原原因による吉原全焼二十一回の内十三回が遊女の手によるものとされた事を考えると、ここ祇園の密集地に消防の役目を与えられた膳所藩を置いたのは、あるいは幕府にそういう意図が働いていたのかもしれません。


by gionchoubu | 2014-07-17 12:51 | 祇園東 | Comments(0)