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祇園東ぞめき 八

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                     観亀神社大祭の奉納舞

明治になると、初年すぐに膳所藩は近江に戻り、膳所藩邸も三年に取り壊されども膳所裏(祇園東)は依然祇園の一部でした明治五年には都をどりの第一回が祇園東の敷地内である松の家席という寄席で行われたのですが、松の家席の場所は、東大路新橋西の路地を南に入った場所という事なので、これが最初の筋ならギオン福住の筋か、二本目ならお茶屋岡留の筋にあったことになります。近所の人によれば、この筋には乙部当時の娼妓を連れた、心中でもしたのか三高(今の京大)生の亡霊が今からそんなに遡らない時代まで出たといいます。

ちなみに、二回目から都をどりは花見小路の南にさがった西側にあった清住院の敷地で開催されましたが、さらにその後現在の歌舞練場に移り現在を迎えています。清住院も現在は浮世小路の南端に移りました。

そして明治五年十月二日に、外国の圧力(所謂マリアルーズ事件)などもあり、太政官達 第二九五号、芸娼妓解放令が発布されたのに伴い、祇園でも明治六年、婦女職工引立会社が設立されました。そして明治七年女紅場と改名しました。

女紅場(にょこうば)とは工を後に紅をかけたもので、花街に於いても、女性に読み書きを始め、養蚕、紡績、機織、刺繍、製茶などを身に付けさせようと設置されたもので、これが祇園にとってどれだけ大きい意味をもっていたかは、祇園第一のお茶屋、一力がその敷地を女紅場に明け渡し、一時期ではありますが、清井町に移った事でもわかります。

そしてこの女工場が祇園を甲と乙に分ける直接的な原因となりました。田中緑江氏の『亡くなった京の廓』を引用しますと、「これは府へ納めました賦金参円の内半額を組合へ還附し、それでこの女達の教育費に充てる事になっていました。下附された金は毎月二千円になりますが、実際費つていたのは二百円で、残金が積立てられ、それが相当な金額に達し、その間不審があると膳所裏の人から四万円を納税者へ返えせと十四年春より紛糾して来ました。六月には富永町六ヶ町からも十余万円を返せと訴訟騒ぎとなり」膳所裏は分離し、十月に花街事務所である検番も作り事実上独立しました。ちなみに、乙部分離前、花代をめぐった紛争に侠客、会津の小鉄が調停役を買って出てセンセーションを巻きおこした事件までありました。


そして明治十四年十二月十二日付を以って、京都府知事北垣國道より、林下町中村乙吉に「甲乙ノ名称ヲ以テ区分スベシ」との指令を受け、甲を譲り、中村乙吉氏は祇園乙部の初代取締に就任しました。

この年、美磨女紅場(みまにょこうば)と組合事務所が東末吉町に作られたとされるのですが(明治十九年の資料もあります)、昭和十年頃の地図に組合事務所が富菊と中勇の間に描かれているので、中末吉町通りの北側に建っていたものと思われます。

残念ながら、祇園東お茶屋組合にも美磨女紅場の記録は残っていません。
また、乙部の名を布令命ぜられたのが明治十九年とする本もありますが、祇園新地乙部貸座敷組合発行の祇園會ねり物復興記念帖の記述に即して、祇園乙部誕生は明治十四年十二月十二日と明記されております。



by gionchoubu | 2014-07-22 15:39 | 祇園東 | Comments(0)