人気ブログランキング |


花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
京都の花街・遊廓
遊廓、花街の類形
亡くなった大阪の游所
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
亡くなった兵庫の游所
未分類

以前の記事

2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

>ぞめき様 ありが..
by ignatiusmaria0319 at 17:02
> 文車さん 実は..
by gionchoubu at 11:51
> 文車さん TS..
by gionchoubu at 11:46
ぞめき様 暑中お見舞い..
by 文車 at 17:06
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 19:28
本ブログを読んで、「芸能..
by こうざん at 22:42
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 14:51
こんばんは、近江八幡池田..
by こうざん at 00:23
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 17:59
gionchoubu様 ..
by こうざん at 00:24

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

室津、日本で一番長く続いた遊郭
at 2019-12-03 16:14
西成、カラオケ居酒屋 孔雀
at 2019-11-28 15:49
室津遊郭
at 2019-11-24 13:51
姫路夢前新地、中門新地
at 2019-11-22 12:13
伊丹新地と五番街
at 2019-11-17 14:32

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

タグ:宮川町 ( 11 ) タグの人気記事

わしが在所

f0347663_10375731.jpg


わしが在所は 京の田舎の片辺

八瀬や大原に牛曳いて

柴打盤 床机頭へチョイト乗せ

梯子買わんせんかいな 黒木買わしゃんせ

エ~エ エ~エ エエエエ~


宮川町、駒屋、とし菜希さんの“わしが在所”です。

季節感がないためか、宮川町の舞妓さんはリクエストがあればいつでも踊ってくれます。

とし菜希ちゃんは枚方出身の17歳です。



by gionchoubu | 2019-10-26 10:39 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町 駒屋 千賀遥さん 一

宮川町 駒屋 千賀遥さんのお店出し間もない姿です。

芯の強さが表に出ない、はんなりとした舞妓さんです。

明治以前の祇園は検番がなく、検番機能をもった見世という幾つかのグループに分かれていました。

幕末の名妓に島村屋の君尾がおりましたが、この島村屋がその見世です。

芸妓、舞妓、娼妓が何十人も所属する巨大な置屋と考えた方がいいかもしれません。

今の大手の芸能プロダクションのような感じと思います。

井筒のように、お茶屋と見世を兼ねたところもありました。

舞妓さんのデビューである店出しの語源はこの見世にあると考えています。

f0347663_11263002.jpg
f0347663_11270029.jpg
f0347663_11272461.jpg
f0347663_11274902.jpg
f0347663_11280774.jpg
f0347663_11282881.jpg

by gionchoubu | 2019-02-28 11:28 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その九


f0347663_11235895.jpg

                    宮川町の路地

大正の初期から昭和の始めまでぐらいで花街、宮川町がたいへん賑いました。

大正の中頃には芥川龍之介もよくこの町で遊んだようです。


宇野浩一は「芥川龍之介―思いだすままに―」の中で昭和九年に龍之介に誘われて宮川町に行ったことを回顧しています。

龍之介は慣れた様子で最初に先斗町により、そのあと宮川町で宇野浩一は龍之介の手配で一泊することになり、事の顛末をしたためました。

其処には私の龍之介像とかけ離れた姿が描かれていました。興味の有る方は宇野浩一全集でどうぞ。

宇野浩一は当時の宮川町の様子を

“宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目の格子づくりである。
それらの家家は、両側に、すき間なしに、たっている。それに、町幅は五六間であったから、私は、宮川町に一歩いれた時、北から南へまっすぐに通っているその五六間幅の道の両側に、一階、二階、三階、と、それぞれの高さの、細目の格子が、両側に、一枚の塀のように、ずっとつづいているのを見て、思わず、あッ、と、心のなかで、叫んで、立ちどまった。

一と口にいうと、それは、ありふれた形容であるが、壮観であった。”

又、京大の教授が「遊ぶんだったら宮川町へ行け」といったことがあるそうで、当時の宮川町は花街の要素が非常に強く、それに芸妓と遊んだ後、お客の要求によっては娼妓が相手になるので一般に芸妓の身持ちは硬かったといいます。

それだけに古老の話によると「宮川町に行った」と親に言えばあまりしかられなくてすんだそうです。

日本が国際連盟を脱退して、中国で関東軍が南下を始めた翌年の昭和九年七月八日、歌舞練場に国防婦人会宮川町分会の発会式が挙行され、二十六日から三日間防護演習が行われ、宮川町歌舞練場は新道分団の配給本部に充てられました。

戦時中は一億総決起の言葉で産業動員にかけられる者もあり、数もへりました。また、芸者遊びが色眼鏡で見られたので娼妓に重点がおかれ、戦後の一時期、宮川町は大正、昭和初期の芸者の町としてより接客婦の町と一般に見られるようになりました。

昭和三十二年、同町には二百五十三業者、接客婦二百六十二人、芸者百二十五人と府下十三遊郭中最大の陣容を誇り、水揚花代は昭和三十二年で一億八千九百七十万円に上がりました。

ちなみに当時の接客婦の場合を見ると一時間の花代六百五十円のうち二百五十円が接客婦の取り分で。置屋百円、揚屋二百四十円、税金三十九円、組合二十一円の分配で、月収平均四万三千二百三十八円で、ちょっとした会社の課長クラスの月給並みでした。内半数は前借金がありました。

f0347663_11242255.jpg



by gionchoubu | 2018-09-17 11:25 | 宮川町 | Comments(0)

花名刺と千社札(宮川町編)

f0347663_11232458.jpg
f0347663_11235857.jpg
f0347663_11242894.jpg
f0347663_11245814.jpg
f0347663_11254031.jpg
f0347663_11261130.jpg
f0347663_11264038.jpg
f0347663_11271917.jpg
f0347663_11280040.jpg

f0347663_11285434.jpg
 私が座敷で司会させて頂いた宮川町の舞妓、芸妓、地方さんの花名刺、現役の人、廃業された人、色々です。

“芸妓さん、舞妓さんがお客さんに渡す、小さな和紙の名刺。「花名刺」は幾岡屋さんのオリジナル製品の名称です。現在は、シール・タイプもあります。大正から昭和にかけて活躍した染織図案化・松村翠鳳がお茶屋遊びの折に考案したものです。もとは家紋と名前を和紙に捺したシンプルなものでしたが、次々と季節にちなんだお花や風物などの多様な図案が生み出されていきました。その後、娘の松村幸子さんが花名刺づくりを受けつぎ、現在は幸子さんの姪にあたる林久子さんがお一人で作成されています。

花名刺は木版で、デザインは二百種類ほど、色ごとにわけられた版木は千個はあるそうです。複数の版をくみあわせて絵柄をつくっていきます。ぼかしは、ひわ色、水色、桃色、橙、紫の五色あり、濃淡も使い分けて表現しています。文字入れは文字専門の職人さんが版木を作成しています。名刺の上部に赤い線をいれたり、周囲をすべて赤い枠でかこったりと、注文主の好みでアレンジをくわえていきます。

本来のお客さんである芸舞妓さん以外にも、女優さんや踊りのお師匠さん、男性のお客さんでも作られることがあるそうです”

以上は『舞妓の美―花街を彩る匠の技―』で、山本真紗さんが執筆されたものです。

ちなみに、一般的に、この花名刺は千社札と呼ばれることの方が多いようです。


by gionchoubu | 2016-11-06 11:29 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)

宮川町、駒屋、とし輝さん

f0347663_14464628.jpg
当ブログのアクセスレポートの記事別レポートで、最近とし輝さんが上位にきますので、私が撮影したとし輝さんの画像を年代順に掲げます。 まずは2008年6月23日、曲は“夏は蛍”
f0347663_14573407.jpg
                      2009年6月17日
f0347663_14583598.jpg
                     2009年10月7日
f0347663_15042918.jpg
                     2009年10月13日
f0347663_15020028.jpg
                      2010年5月18日
f0347663_15033634.jpg
                      2010年6月3日
f0347663_15064303.jpg
                      2012年9月27日
f0347663_15075053.jpg
              2013年4月21日 左より とし智、とし暉、とし夏菜

by gionchoubu | 2015-10-16 15:11 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十六


f0347663_14312865.jpg

心斎橋筋より戎橋を渡り東が西櫓町(画像)相生橋より日本橋筋までが東櫓町。この西櫓町に一軒のみ営業はされておりませんが芝居茶屋の建物が残っています。
芝居茶屋型 浅草花街の前身の一つに猿若町の花街を挙げることができます。これは天保の改革で、堺町、茸屋町、木挽町辺に点在していた三座の歌舞伎、二座の芝居茶屋が猿若町に移されると、芝居の幕間の休憩場として芝居茶屋が利用され、ここで座敷に呼ばれたのが猿若芸者で、別名(芝居の)櫓下芸者とも言われました。

ちなみに現在の浅草花街は、この猿若芸者と、吉原の外にあった五十軒、田町、山谷堀辺の引手茶屋や舟宿に通った、山谷堀の芸者(堀の芸者)、もう一つは浅草観音の雷門附近で、酒や料理を提供する必要から生まれた、神社仏閣型の広小路芸者(田楽芸者)、この三つの芸者集団が一箇所に集まった複合型花街と言えるでしょう。

大阪に目を向けると、道頓堀に近年まで存在した南地五花街の一画、櫓町はその名の通り、寛永三年(1626)ここに芝居興業を許されてから大いに榮えた町で、大歌舞伎、操芝居、からくり芝居、浄瑠璃、舞、説教などあらゆる娯楽が道頓堀に集中すると、元禄十二年に、これらの観劇客の面倒をみる「以呂波茶屋」がこの地に立ち並びました。

これはいろは四十七文字にいくつかを足した数の芝居茶屋がその「い」なら「い」、「は」の字なら「は」の字を染めた紺の暖簾を掛け、五十軒ほど櫓町より九郎衛門町まで延びていました。

陰間茶屋型 こちらは衆道、即ち男色を売る遊所で大都会に発生しました。東京では湯島天神が有名で、東叡山の僧侶達の隠れ遊びの場として発展しました。
この型は基本、「舞台子」とか「色子」という歌舞伎の女形を目指す若衆で構成され、宝暦には芳町にも多数存在していました。客は男性に限らず、後家や大奥の女中などもおり、さらに、いわゆる男性客をとる娼妓も併せた色町になりました。

大阪は道頓堀五座の傍、坂町がこれに当り「陰間」といわず「若衆」と呼ばれていました。ただし大阪では若衆茶屋というものは無く、遊女の茶屋に呼ぶと、若衆は島田に大振袖、黒塗りの下駄であらわれたそうです。ただし僧侶に連れられて芝居見物などをするときは袴を着け、大小を差した小姓すがたで従うこともあったそうです。

京都では宮川町がこの型に属し、南座の裏にあたる宮川筋には若衆宿がつらなり、軒並みに屋号の入った軒行燈をかかげ、こうした御茶屋を子供茶屋、若衆茶屋、陰間茶屋とよび、叡山の僧侶も繁くかよい、元禄十四年、大石内蔵助にも、馴染の色子ができたという話も残ります。

紀州藩士本居内遠という人が弘化四年(1847)脱稿した庶民風俗史料に「(男色は)僧の女犯を禁ずるより出しは、おのずからの勢いなり。俗伝に空海よりといい伝う。中世以後、軍陣に婦女を誘う事を禁ずるより起こりて、応仁以来の乱世より武家にも執する輩多く、そのころよりやや盛になりたり、今治世となりて、その俗習残りて元禄享保などの頃までは盛なりしが〜略〜京は宮川町、浪華は道頓堀、江戸は禰宜町なりしが、後は葭町、芝明神社辺など、その群の売楼たり」と、世間周知の事だった様です。

参照:南区志・日本遊里史、上村行彰著・日本花街志、加藤藤吉著・京の花街、度会恵介著


by gionchoubu | 2014-12-03 14:39 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

宮川町ぞめき 四

f0347663_11350780.jpg
                    四条京阪、出雲の阿国像

祇園と歌舞伎といえば仮名手本忠臣蔵七段目の祇園一力の場が有名ですが、実は内蔵助が一力で遊んだという記録はなく、これは実際内蔵助が通った伏見の撞木町遊廓の笹屋を演出上祇園に移したものとされています。

ただ口伝ではありますが、元禄十四年、主税が京都山科に滞在中に宮川町の蔭間となじみになったという話が伝わっています。この陰間(かげま)の語源は、若衆歌舞伎の時代、実際の舞台に立つ役者が舞台子なら、控えの役者である陰の間が転じたのが陰間、すなわち色子でありました。

この宮川町の若衆に群がったのが、女に飽きた金持ち、未亡人、そして僧侶達で「叡山の水、宮川町に抜け」「釜の座は、宮川町と和尚いい」女犯の戒律には背かないという理由で若衆にうつつをぬかしたのは、西鶴の「男色大鏡」に妙心寺の開山三百五十年忌に諸国から上洛した金持ちの僧侶たちが宮川町で散財する話でも明らかであります。

さらに宮川町が歌舞伎の世界に残したもので、いわゆる役者の屋号の内でいくつか、たとえば音羽屋など、宮川町の若衆茶屋の屋号が由来であろうと田中緑江氏は推察しておられます。

衆道の地としての宮川町の歴史は承応元年(1652)女歌舞伎が禁じられた頃から始まり、具体的な記録としては貞享五年刊『諸国色里案内』に、宮川町の記述があり「こゝは、ぶたい子・かげ間・野郎のすみか、ぶたい子銀壱枚、かげ間屋金子壱歩、あるいは廿匁」と見え、この風は天明(1781〜1788)頃まで続いたと言われています。

野郎歌舞伎の時代、宮川筋一丁目に、玉水や・水木や・えびすや・中村屋・花屋・や・ゐづつ屋・若木や・竹屋などの酒席が軒を並べたといいます。(京の花街)

さて、遊女街としての宮川町の歴史に戻ると、『京都府下遊廓由緒』によれば、「宝暦元辛末五月宮川筋一町目ヨリ六町目迄十ヶ年限茶屋株差氏許相成追々年継続済致シ候由記録アリ」と記されていますが、宝暦元年は1751年、これを許可したのが京都所司代松平豊後守資訓で、町奉行は稲垣能登守正武でした。

町割りとしての宮川町は五丁目までが四条河原、六町目より建仁寺領に属していたのですが、茶屋株がおりてから、すなわち非公認ながら実質遊女町になってからこの境界線はなくなったようです。

それから十九年後、明和七年(1770)、祇園町とともに茶屋株継続を許されるのですが、『月堂見聞集』によると、享保八年(1723)五月二日夜、宮川筋四丁目の露地より出火し、三丁目、四丁目で百八十軒あまりが焼け、この中に歌舞伎役者二十一人の家も被害にあったのですが、実際火元も歌舞伎役者瀬川菊之丞という噂が広がったといいます。その後も翌享保九年、同十五年、さらに寛保元年(1741)と立て続けに火事があり芝居櫓は消失、多くの舞台子が道頓堀に移り、そのころあった六座の内二座が廃絶、あるいはこれを機に宮川町も衆道の町から遊女の町へ比重が移っていったのかもしれません。



by gionchoubu | 2014-07-27 11:38 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 三

f0347663_12202531.jpg
『当代期』によれば出雲阿国が北野でかぶき踊りを見せたのが慶長八年(1603)とされ、その後宮川町のすぐ隣りの四条河原では、島原の前身である六条三筋の廓の遊女による歌舞伎が人気を博しました。

『孝亮宿禰日次記』の記述に、慶長十三年の四条河原の興業に数万人の群集が押し寄せたと有るので、その人気はすさまじいもので、寛永六年(1629)には女舞、女浄瑠璃を含め女歌舞伎は禁止されます。

『京童』に女歌舞伎の観客は「皆六根をなやまし、心を六塵にとらかし、宝をなげうち、あるいは父母の養いをかえりみず」と、これはまさに江戸幕府の人民に対する政策方針の間逆をいくもので、遊女歌舞伎自体も、自廓の宣伝のため興業したに他ならず、この間元和期(1615〜1624)京都所司代板倉勝重は、四条河原の七つの櫓に興業権をしぼることで歌舞伎の取締りを掌握し、町中にあった六条三筋の廓も郊外である島原に移転させ風俗統制に乗り出しました。

ちなみに、女歌舞伎が禁止された年、四条河原で女性による能が催されたのですが、それを見に来た侍集団の喧嘩の結果により多くの死者を出した事例を見ると、江戸時代が始まって暫く、まだ侍にも民衆にも戦国時代の気質が残っていたのかもしれません。

阿国歌舞伎、遊女歌舞伎の後に現れたのが若衆歌舞伎で、それまでマイナーであった稚児や若い美少年の踊りや狂言に時代が移行します。しまつのわるい事に、男性の中には戦国時代からの風習である同性愛の衆道に走り美少年であるがゆえ大名、武家の奥方まで若衆歌舞伎に熱中し、『江戸名所記』によれば「若衆どもの髪うつくしく結い、うす化粧して小袖の衣紋じんじょうに着なし、ほそらかなる声にて小歌うたい」「桟敷にある方々は耳元まで口をあき、よだれを流し」という状況に至った為、承応元年(1652)幕府は体制維持、社会秩序の点からこれをも禁じ、若衆は前髪を切り、月代の成人頭での舞台を余儀なくされ、歌舞伎は今の歌舞伎の原型である野郎歌舞伎としての道を歩んだのであります。

それまで武士や僧侶の間でのみ行われた衆道は若衆歌舞伎以後、野郎歌舞伎になり女形が生まれ、庶民にも広がったわけですが、宮川町はこういった役者を抱えたお茶屋を若衆茶屋、蔭間茶屋と呼び衆道の地として盛んになり、この風は天明の頃まで続きました。

『近世風俗史』によれば、江戸ではこの男色は、芳町、木挽町、湯島天神、麹町天神、塗師町代地、神田花房町そして芝神明前で盛んであったが、やがて芳町、湯島天神、芝神明前に限られ、天保の改革後は湯島天神のみで密かに行われたとあり、大阪では、明治以後、南地五花街の一つに吸収された坂町も衆道が盛んでしたが、天保後消滅したとされています。

さらに、「京師は宮川町と云ふ遊女町の中にあり。」「因みに記す。京師宮川町某の家にて通和散、一名ねりぎと云ふ白き末薬を製し、三都にこれを売る。男色かならずこれを用ふ。」と衆道の宮川町について述べています

京の宮川町は勿論、東京の芳町、湯島天神、芝神明前、大阪の阪(坂)町ともども、男色が無くなった後でも高名な花街たりえたのは、歌舞伎と花街との密接な関係を窺わさせるものです。

浅草芸者の地方の芸風はとにかく清本でも小唄でも浄瑠璃でも何でもこなすことで、一つの道を究め、客の求めに応じた曲を弾くなどは芸者としてのプライドが許さない芸所の花街からは五目と揶揄されるほどなのですが、この浅草芸者の歴史をたどれば、中村座、市村座、河原崎座という江戸三座の芝居茶屋に生まれた猿若町芸者つまり櫓下芸者にいきつきます。

また大阪道頓堀五座(角座、中座、朝日座、弁天座、浪速座)にあった南地五花街の内、特に今の松竹座の南にあった難波新地にたくさんいた、座敷に入ると「コリャ珍しい顔じゃなあ」というのが極まり文句であり、色気をはなれ面白く座をもつヤケ芸妓が存在したこと、そして南座を含七つの櫓の役者を擁した町で、いまでも一年目の舞妓でさえ座持ちの良さは京都五花街一であると、私が信じて疑わない宮川町など、もし歌舞伎街型花街という類型がなされるならば、その特色は気持ちよくお客を遊ばし、満足させるという所にあるとさえ私には思えてきます。

実際、特定の花街は於いて、芸妓が歌舞伎役者のパトロンのような存在であったという様な話はたくさんあり、花街が歌舞伎の後ろ立てのような時代がありました。芝居と花街は密接な関係を持ち、とくに明治から終戦までどんな名優でも花街の応援がなければ芝居は成功しないと言われたほどです。

祇園では昔、歌舞伎役者は座敷に上げないという不幸な時代もありましたが、明治以後、祇園は街を挙げ、時には総出で東京の歌舞伎総見に出かけ、このため祇園で芸舞妓を座敷に呼べないという事まであったそうです。


by gionchoubu | 2014-07-26 12:21 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 二

f0347663_15561422.jpg
                      宮川町を通る舞妓さん。

祇園の一角としての、宮川筋一丁目=石垣町=東石垣ですが、『好色一代女』に「石垣町茶屋といへど、此処には一軒に七、八人づゝも有て、衣服の仕出しよき相手に、分里の事も聞おぼえ云々」と、これが書かれた貞享三年(1686)以前にはすでにここが遊里化していた事を物語っています。

さらに『武野燭談』(ぶやしょくだん)という書物に「石垣茶屋、河原を見下ろし、がけ造りにして、四壁金襴純子にて張、床をば畳をやめて天鵞絨(ビロード)を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえて内はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止される。」という記述があります。

天和年間は1681〜1683年、江戸時代の初期にこのような遊興が非合法の遊里でまかり通っていたとは信じがたいのですが、これを嬉遊笑覧で引用した喜田村?庭も、「さまでの花美ならば其頃の草子にみゆべきに、さる事聞こえず」といささか懐疑的です。

さらに喜田村は『西鶴大鑑』で「祇園、石垣、上八軒、穴奥(こっぽり)、八坂、清水の茶屋」と述べられた、祇園周辺の遊里を紹介しています。

天保以前の全国の遊里を相撲の番付に見立てた『諸国遊所競』でも、東石垣は宮川町と分けられており、東石垣は西の十三枚目を占め、両所ともに先斗町、上七軒よりも上位、東石垣の領域の狭さをも考えると、認知度は相当なもので、大いに賑わっていたと考えられます。しかしながら東石垣は正式名称としては宮川筋一丁目になります。

さて、宮川筋二丁目以下の様子を『京都市の地名』で探して見ると、『月堂見聞集』に享保八年(1723)、祇園新地団の辻子(一丁目と二丁目の間)で当局の一斉取締りがあり、白人(私娼)三十余人が今で言う検挙され、親元に帰されたとあり、さらに同書によれば、享保十七年(1732)宮川筋五町目の米屋喜兵衛の借家の市懸茶屋井筒屋よつ、と言う者が市掛下女の名目で女を抱え、町々所々に遊女を遣わしたことが露見し、よつは所払い、家財も欠所を申し付けられていますので、宝暦以前に遊女が居たことは間違いありません。

もう一つ、同書によれば、祇園祭の神輿洗いに出された、一種の仮装行列である練物が宮川町でも享保六年、雨乞の題で、さらに同十八年にも鬼一法眼の題で出されていたことが分かります。この練物は後年、遊女や芸妓が練り子となった祇園で大変有名になり、何度も中断したものの、昭和三十五年まで続いた祇園の一大風物詩でした。

ただし、当時祇園もそうであった様に、宮川町の妓女がこの仮装に加わったというわけではなく、まだ町方の練物であった事でしょう。

雨乞いは切実な願いであったでしょうし、鬼一法眼は前年初めて上演された浄瑠璃でしたので、人々は大いに活目してこれを見たに違いありません。

諸国遊所競では宮川町、即ち宮川筋二丁目以下は前頭西五枚目と大健闘しています。



by gionchoubu | 2014-07-25 16:05 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき 一

f0347663_13152204.jpg

宮川筋は鴨川に沿って四条通りから五条通りまでの南北の通りですが、一本道ではなく、宮川筋一丁目は四条から団橋までの川端通りに当り現在は存在しません。団橋より松原通りまでが宮川町筋二丁目より五丁目、そして宮川町六丁目から
八丁目までは、ここから現れる一本鴨川寄りの道に通りを変え、五丁目までの筋は五条通りまで西御門町、西川原町町、田中町と名前を変えます。つまり宮川筋は三本の別の筋の総称ということになります。

現在の花街、宮川町のお茶屋が存在するのは、この内宮川筋三丁目〜六丁目、そして西御門町になります。

宮川筋一丁目が開発されたのは、寛文六年(1666)祇園新地外六町の一町としてで、二年後鴨川にそって石垣を築いたので、石垣町とも呼ばれましたが、後鴨川の西にも町並みがありましたので、西石垣(さいせき)に対して東石垣(とうせき)とも呼ぶようになり、東石垣の方が通称になりました。

延宝二年(1674)の荻原家文書に二丁目から五丁目の記載があるので一丁目のあとすぐ開発されたと見え、『改正増補京羽二重大全』によれば六丁目以下が開けたのは正徳二年(1712)以降のことです。しかしながら『坊目誌』によれと宮川町筋二丁目から五丁目が開通したのが寛延三年(1750)とずいぶん開きがあることも付け加えておきます。(京都市の地名より)

宮川の語源については諸説あり、『京町鑑』にはかつて四条の南東川端に、夏の禹王の廟が有ったからから、加茂の斉王の宮がここで鴨川の水をせき止めて清斉せられたから、などがありますが、田中緑江氏は祇園祭では、四条下がった辺りの鴨川の水を神輿洗いの儀式に使うので、つまり宮川の宮は八坂神社そのものであるという説に与されています。

宮川町遊郭としての歴史は、祇園社への門前花街としての一面と、歌舞伎役者が住む衆道(男色)風俗の町という二面性があり、これが共存したところに特色があるのですが、さらに、宮川筋一丁目のみは、祇園新地六町の一町として独自の道を歩んできましたので、まずはこの三つの歴史を分けて辿ってみます。



by gionchoubu | 2014-07-24 13:16 | 宮川町 | Comments(0)