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まいまい京都 輪違屋コース その二

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                     如月太夫、太夫道中

昭和28年4月19日の京都新聞夕刊に『艶麗、島原太夫道中』という記事がのり、冒頭のみを紹介させて頂くと、

「京名物の一つ島原太夫の道中が今年も、四月二十一日同郭で行われ一般の鑑賞に供することとなったが、この行列は島原がこの地に移されてからおよそ三百年、その間の歌奴たちの風俗の移り変わりを示すもので結髪、服具の着装などを各時代の風俗画家の著作等により新しく考証、江戸時代初めのものを除いては衣服その他ほとんど全部その時代の実物遺品を使用したところにこの時代風俗絵巻の特徴がある」

そして4月22日の京都新聞に『艶麗絵巻 島原の太夫道中』の記事が載りました。

「京の春の年中行事の一ツ島原の太夫道中は二十一日午後三時から花曇りの空のもと可愛い、子供の如く花車を先頭に行列は組合事務所を出発寛永、正保時代から年代順に文化文政、明治、現代と移り玉袖、九重、美吉野、光扇、春日、君太夫と禿、引舟を従えて八文字を踏みながら曲輪の中を練り歩き約一時間に渡り古典艶麗な風俗絵巻をくり展げて同四時過ぎ道中を終わった。

昔にかえって無料公開というのが効いたのか数万の人が押しかけ道中開始二時間前に大門を閉じるという盛況であった=写真・八文字で練る美吉野太夫」

さて、二月二十五日(日)第四回目まいまい京都『輪違屋コース』で20人の参加者の方をお連れしました。まいまい京都のスタッフは第一回からお世話おかけしている門川さんと、先斗町コースで一緒が多い阿比留(あびる)さんなので、最後まで順調そのもの、参加者の方々もご満足いただけたと確信しています。

いつもの様に、邸内で如月太夫に太夫道中の内八文字を踏んでいただいたのですが、高橋利樹、十代目輪違屋御当主から、ほぼ全てを島原を参考に遊郭を立ち上げた吉原に対し、島原の大門(オオモン)を吉原ではオオモンの言葉を控えさせダイモンと呼ばせた事、さらに島原では内八文字の歩き方を吉原では踏むのを許可しなかったので花魁は外八文字になったと教えていただきました。

前回では、島原太夫は内八文字で歩くとき決して横を見ず、真っ直ぐ前を向き
進むのに対し吉原の花魁はお馴染みさんなどに横を向いて挨拶しても良かったと、お話されていました。

まいまい京都の輪違屋コースは私にとっても勉強になるコースなのです。

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by gionchoubu | 2018-02-27 14:41 | 島原、輪違屋太夫 賛姿語録 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中3


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左より引舟、太夫、傘持

昭和四年刊『全国花街めぐり』で松川二郎は名物「太夫道中」とした一文があります。

「花も漸やく盛りをすぎた四月二十一日に毎年行われる。此日は午前中に大門が閉るから、見物人は朝早くから弁当持参の一日がゝりで出かける。両側の家の階上階下は勿論、中央に太夫の通る道幅だけを明けて、路上に莚や茣蓙を敷いて座りこんでいるところは、まるで御大典拝観の騒ぎそっくりである。それで道中の始るのは欠伸も品切れになった午後の三時過ぎ、先づ八名の芸妓に依って曳かるゝ花車がやって来て、次で禿二人を露払として、太夫は右手に裾を持ち、左り手は斯う懐中に入れて、例の三枚歯黒塗の高下駄を素足に穿いて、カラン、コロン、外八文字を踏んでやってくる。髪は立兵庫もあり、横兵庫もあり、勝山もあり、いろいろである。“曳舟”と名づくる介添が付添ってゐて始終着付などを直してゐる。後ろからさし傘を持った男がつゞく。道中は二丁足らず、出場の大夫は年々の編成の都合にもよるが大抵十五、六名から十七、八名である。最後に善美を尽した真打の太夫が八人の禿を連れて、数万の瞳をながし目に、?々娜々として練ってゆく。これを“傘止”と云ひ、傘止めに出れば爾後間もなく、屹度落籍されるという伝説が、昔から此の里には信ぜられてゐる。」

実をいうと外八文字は花魁の足運び、太夫が歩むのは内八文字、曳船は本来引舟を充てるのですが、そんな事より、松川は実に見事に太夫道中を短い文で再現してくれています。

太夫道中に知識の乏しい現代人にも、その様子が手にとるように分かるのは、一つには松川が島原に精通している訳でもないので、我々に近い目線で、物珍しい行列を興味深く眺めたことが挙げられると思います。何度も太夫道中を見た人なら、返って書けない文章だと思います。当然希代のルポライターとしての観察力、文章力があって書けた名文だと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

島原太夫道中は午後三時過ぎに花車から始ります。島原廓の周囲は丸太で厳重に柵が巡らされ、さらに警備員、警官、憲兵、消防士が警戒、取締りを行うので、大門からの入場しか出来ません。

特別入門の許可があれば別ですが、一般の入場は基本十時には定員で締め切られ、島原内に入れません。仮に朝の七時に入場できたとすると、道中が始るまで八時間も待つことになります。

お茶屋の馴染みの紹介客なら、昼過ぎに許可の印を見せて入場できますが、一般客には大変な忍耐が必要とされ、それでも大変な人気でした。県外は勿論海外からの見物も沢山いました。

太夫道中までの時間、人々は、弁当、鮓、みかん、パンの行商から買い求めたり、郭内で販売された番付などを見ながらじっと待つことになります。

角屋の塀外に救護班と7、8人の看護婦が待機しており、太夫がよく道中に、その衣装と髪飾りの重さに耐え切れず卒倒するのに備えてのことでしたが、見物人の介護にもあたりました。

この太夫道中、実は昭和七年まで、一般観覧料は無料でした。この年初めて赤券五十銭、黄券一円を数日前から売り出し、丸物百貨店では商品の景品に供したといいます。この年有料化になりましたが、例年のように10時にはすべて売り切れました。

この年まで太夫道中は赤字続きで、運営費、設備費、警備、救護班、諸々は総て組合や貸座敷の持ち出しでした。

昭和七年の道中が始ったのは午後三時で、一番柝、二番柝、三番柝響くと、歌舞練場から花笠を冠った十数名の少女と派手な元禄模様の粧ひを凝らした若い芸者衆が花車を曳き、間も無く桔梗屋の羽衣太夫が現れると「羽衣さん好いで」の掛け声がかかり、続いて青木楼の菅太夫、同、尾上太夫、輪違屋の胡蝶太夫、菊春楼の雲井太夫、山中楼の大井太夫、菊春楼の高砂太夫、山中楼の小紫太夫、青木楼の君太夫、小島楼の光春太夫、傘止めは青木楼の浦島太夫で、総て終わったのは午後四時半でした。

参照:『技芸倶楽部』、大正十五年五月号と昭和七年の五月号





by gionchoubu | 2016-07-25 12:29 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中2

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    傘止の吉野太夫

昭和二年五月号の『技芸倶楽部』の「廓漫談」でちどり正が、三年前に江戸学研究の第一人者、当然吉原や岡場所にも大変造詣が深かった三田村鳶魚を太夫道中に案内した時の事が書かれています。

松本楼の二階から望遠鏡で古式豊かな行列を見物した後、松本楼の主人から当時の太夫道中の作法を教えてもらいました。

一、 作法は代々習慣的に伝わるだけで、なんら根拠がない。
二、 髷も何髷に結うといった決まりはなく、順次同じものにならぬ様にするぐらい。
三、 一度傘止め(殿の太夫)にでるともう二度と出ない。
四、 道中に出る太夫は、古い太夫とかお花が多い太夫でなく、屋方、本人、後援者の都合できまる。
五、 太夫の打ち掛けは新調する。
六、 道中に出ない太夫も、お客に花をつけてもらいお茶屋から見物する。

といった具合で、大正末には難しい仕来たりといった物は無かったようです。その後、君人太夫は三回傘止め太夫になったので、三も有名無実になりました。

大正十四年の太夫道中は、『京都遊廓見聞録』の「島原太夫道中見物記」に詳しいので、大正十五年の道中の様子を『技芸倶楽部』五月号から見てみます。

芸妓の花車は若千代、喜長の二人が後見、綱に手を添える芸妓は白衿の正装で、美代子、しげ長、若輝、菊太郎、万子、久長、吉次、登代子、松代、喜三男

太夫はそれぞれ太夫の名を記した二人の禿、傘持ち、引舟(太夫の世話役の女性)を引きつれ歩きます。最後の傘止太夫のみ六人の禿がつきます。

先頭から

長山太夫(髷は立兵庫)
松扇太夫(同、立兵庫)
玉太夫(同、錦祥世)
司太夫(同、兵庫)
小太夫(同、横兵庫)
小雛太夫(同、勝山)
尾上太夫(同、静)
青波太夫(同、寒雀)
玉の井太夫(同、勝山)
君人太夫(同、元禄くずし)
敷島太夫(同、三ッ髷)
胡蝶太夫(同、兵庫)
薄雲太夫(同、芳野髷)
光春太夫(同、投島田)
吉野太夫(同、元禄島田)

別の記事によりますと、この道中、角屋の高塀に登ってタバコを吸っていた
不埒物がおり、消防士に「其様所で煙草を喫ふ事は止して貰いたい、此様に風のきつい日に、而もツイ此間失火のあったその家ではないか、止してくれ、止してくれ」とヤッキになって制ししていた、とありました。











by gionchoubu | 2016-07-21 15:57 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中1

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   太夫道中、 戦前の手彩色による絵葉書

角屋十二代中川徳右衛門著『波娜婀娜女』(はなあやめ)では島原の重要行事であった太夫道中を「往古(むかし)は毎月二十一日に廓中の太夫の道中を行ひしものなれども、今は毎年四月二十一日にのみ之を行ふ。但し新しき太夫の店出しありたる日は、何時にても之を行ふことは、今も昔に変らず。総道中の順序は、造花を以て美しく飾りたる花車を多くの芸妓が異装して手に手に扇をかざしながら静かに曳き、其後より太夫は差しかけ傘にて、二人の禿を先に八文字を踏みつゝ、道筋を揚屋町まで練り歩行くなり。殿(しんがり)なるを『傘止』といひ、廓内最も全盛の太夫、之に与る」と、纏めておられます。

十代目の徳右衛門は芹沢鴨の狼藉の時代、十一代目の時、国鉄、丹波口駅を廓内に誘致しています、十三代目は多数の上方浮世絵を含む、多くの資料を収集された方で、現在の角屋は十五代目が引き継がれています。

八文字は八文字を描くように爪先を内側にまわして歩くことで、これを真似た吉原の花魁の外八文字と区別するため、「内八文字」ともいいます。

花車は“かしゃ”と読むと、京都の場合江戸期の島原、祗園などで、茶屋、料亭の女主人の事を指し、“はなぐるま”と呼べば、太夫道中で芸妓連が曳く車のことです。(前回の画像がそうです)

『京都遊廓見聞録』京を語る会、田中泰彦編によると、

「島原の太夫道中は、現在日本に遺された遊里研究上最も重要な行事の一つです。この行列は太夫道中として催されたのでありますが、実は江戸時代三百年間の女子の服装の移り変りの順序を見せようとするもので、着物の寸法、仕立、着ごなしから頭飾髪の結い方など細かく観察して頂ければ仲々に興味のあるものです。頭の差物、着ている着物、帯から履物にいたるまでほとんど全部が実物をそのまま使っています(ただし寛永時代は実物のものが使用にたえないため復原摸造の品を使用)。各時代の風俗とも当時の記録とその時代の画家の描いた絵を中心にして考証したものです。なお、行列に出てくる禿とは当時の女給仕ともいうべき少女で、新造とは太夫候補生、つまり若手の太夫のことです。」

同誌に集録された昭和二十二年の「島原太夫道中しるべ」によると、

一、 寛永・正保時代
二、 万治・寛文時代
三、 貞享・元禄時代
四、 享保・元文時代
五、 安永・天明時代
六、 文化・文政時代
七、 明治初期時代

の、各時代の行列があり(ひろ子、登美丸、梅千代などの名から見て、芸妓が太夫の格好をしたのでしょう)その後に現代として現役の薄雲太夫、如月太夫の名が並びます。

これは、毎年の太夫道中とは各時代の女人風俗を再現するものではなく、この昭和二十二年(あるいはその後あったかもしれませんが)の試みであったはずです。

太夫道中は四月二十一日に催されるのですが、昭和二十二年の「太夫道中しるべ」は十月十七日の日付けです。


by gionchoubu | 2016-07-19 12:48 | 島原遊郭 | Comments(0)