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中書島遊郭の歴史 その八

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昭和31年6月4日の京都新聞

『廓の作者 西口氏の場合』

『春の宿が下宿屋に転業』

『父祖の商売を捨て』

『接客婦も管理人に更生』

売春防止法が成立、貸席業者の行方が注目されている際、ベストセラー“廓”の作者、西口克己氏(43)がこのほど中書島で経営していた貨席を下宿屋に転業したが、これは法案の成立後転廃業を迫られている業者に一つの行き方として注目されている。

西口氏の生家は著書“廓”に書かれているように明治三十九年から貨席“末広”を営んでいたが、西口氏“郭の子”としての劣等感に悩まされ、結婚、就職など日常のあらゆる出来事に苦い経験を味わい、また西口氏の思想的立場と相容れないところから早くから転業したいと思っていたが、資金に困り、家を売るにも引越料すら出ない安値をつけられるので行悩んでいたところ、著書“廓”がベストセラーになり、印税収入が入ったのを期に四月一日付で廃業、昨月二十五日から開業したもの。

改築には三十万円をかけ、屋根、カベなどを修理、部屋は八畳(元散財部屋)一間、四畳半十三間、三畳三間をそのまま使い、月千五百〜二千五百円ですでに独身の会社員二人が入っており、学生数人の申込みもある。

また最盛時八人いた接客婦たちも廃業時には三人になっていたが、二人は生業資金をもらって故郷に帰り、残ったK子さん(25)は管理人として新しい人生へ再出発。生きがいを見出している。

西口氏は「下宿をやってもうけようとは思わない。実情に応じて部屋代は安くすることも考えており八畳は入居者が集まって読書会などをやるために残している。

この部屋で入居者たちと話し合ったり、時には巡回映画をやりたい。」と将来のプランをたてているがこの西口氏の転業に中書島遊郭内六十軒の業者たちは

「転業は考えていても資金繰りでいき悩んでいる。赤字でも店を閉めれば倒れるので政府の援助がきまるまでは石にかじりついてもやって行かねばならぬ」と冷たい眼で見ているものの「二年後に転業する時の一つのケース」として注目している。




by gionchoubu | 2019-06-16 11:17 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 七十

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売春防止法が発令される2年前の昭和29年1月30日の京都新聞の夕刊に「性犯罪がふえる 全国の赤線業者 売春取締法に反対」の記事が載りました。

内容は全国赤線区域の業者約一万三千人で組織する全国性病予防自治会は、目下立案中とされる売春取締法に善処を要請するため、二十六日から東京日比谷の松本楼に鈴木理事ら全国の代表六十余人が集まって協議、自由党、改進党、社会党の代議士を招き各地の赤線の実情を訴えました。

赤線業者側の意見の多くは、過度の取締は性犯罪を増加させ、生活に困った接客婦は健康を無視して稼ごうとするのでかえって性病が蔓延する、ということでした。

同会では特定区域(つまり赤線)以外での売春行為の禁止、非会員の接客業務の禁止などを要望した陳述書をもって厚生省、国会をはじめ関係方面に陳情し、「性病予防」という立場から具体的な売春取締法反対運動に乗り出すことは必至とみられました。

赤線業者はこの取締法を利用して、自所のみ合法売春の専売に相応しく、当時赤線を脅かす存在であった完全非合法の青線業者のみを駆逐するというウルトラCの道を代議士を利用して模索していました。

そして翌月の同紙夕刊に「売春問題 賛否両論」の記事が載りました。その意見を紹介させて頂くと・・・

売春問題対策協議会委員久布白落実女史・・・娼婦制度の賛成者はこの制度がないと性犯罪が増え、業者の監督が無いと娼婦は健康や衛生を無視して客をとるため性病がかえって蔓延すると主張していますが、“防波堤”として娼婦を利用するという考え方は人権擁護上大変な暴論です。娼家が性病の温床であるのは統計が立派に証明しています。政府は“売春なき国家”という理想のため努力すべきです。

犬養法務大臣・・・「集娼(赤線の女)は黙認、街娼を取締る」という二十一年の次官通諜は早速取止める。緊急予算で娼婦の更生施設の予算的裏付けは困難だが、まず取締法令を作ったうえ婦人ホームや相談所の設置など必要な諸処置をとりたい。

全国性病予防自治会事務局長(業者代表)・・・売春の絶滅は理想としては結構だが昭和二十一年マ(ッカーサー)指令で公娼制度廃止直後米兵、日本人の性犯罪が激増して一般婦人に大恐慌を来した。必要な程度の公娼はやはり存続させた方が無難だろう。業者も接客婦を不当に束縛することなく医療施設の拡充、前借の廃止など人権問題は十分考慮している。

婦人少年審議委員神崎清氏・・・各地の赤線区域を視察して気付いたのは接客婦の無知、無反省と業者と政治勢力の固い結びつきだ。性病にかかりながら客をとり更生の意欲のない者が多い。売春禁止制定を阻止するため代議士が業者に金をもらっている話をいくつも聞いた。全国民が協力してこうした働きをつぶすのが先決だ。

赤線業者は全国性病予防自治会という尤もらしい名の元、自分たちの存在を全否定する法案の骨抜きに活路を見出すべく、あらゆる知恵を絞ったのです。



by gionchoubu | 2019-01-11 12:02 | パンパン、赤線 | Comments(0)

大和郡山 岡町ぞめき三

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奈良県には赤線地帯が3箇所ありました。奈良市の木辻に一箇所、そして人口二万の大和郡山には岡町と洞泉寺の二箇所もありました。

赤線廃止のニュースは、趣旨に反対するものは殆どないものの、成立にこぎつけるのに、マリヤルーズ号事件以来八十年以上かかりました。

売春撲滅を願う婦人団体とこれを悪法ときめつけた赤線業者のギャップは天と地ほども違ったのです。

売春防止法完全施行二年前『サンデー郡山』に竹山岡町組合長の談話が載ります。

「法案が決まるまで反対したが、成立すれば法治国民であり法を守るべきである。マッカーサーの指令により占領の始った時に吾等は廃業を覚悟したが、軍隊に慰安婦を出せという政府の要求があり、吾々も一般婦女子の防波堤の積りで協力した。その後次官通達で黙認ということで今日まで営業してきた。

組合本部では転廃業の国家補償か、融資を陳情することになっている。まだ二ヵ年猶予期間があるので、今の処すぐにどうすると言うことはないが、一日も早く目鼻をつけた方がよいと思っている。組合の廃業によって飲食店などは淋しくなるだろう。」と切迫感は感じられず、どこか他人事のようである。

また当時の水田市長も同書で

「人道上から見てもやむをえない当然の法案であるが現実の問題としては赤、青線区域の売春行為が撲滅されるかどうか、郡山としては市の経済的利益という点を考えれば痛手である。」

京都の八幡市は橋本遊郭が廃止になった時税収の三分の一が跳んだといいます。二つも遊郭、赤線のあった郡山市の損失は想像に難くありません。

売春防止法完全施行の昭和三十三年四月一日の前、洞泉寺遊郭が三月三十一日で完全廃業を決めたのに対して、岡町に二十六軒の赤線業者は旅館などに転業を目論でいました。その内訳は旅館16、料理店5、カフェー1、廃業3、アパート1というものでした。

この岡町の方が全国的な赤線業者の一般的な態度で、いずれ赤線は別の形で再興されるとタカをくくって言わば旅館なども偽装転業で様子を見るというのが本音でした。

さらに業者は女性との出会いの場所を提供するだけ、そこで自由恋愛や“一夜だけの恋愛結婚ならさしつかえない”という抜け道も考えていました。

ちなみに売春防止法以外に取り締まる当時の方法は、勅令九号(婦女に売淫させた者等に関する勅令)刑法、民法、労働基準法、女子年少者労働基準規則、職業安定法、児童福祉法、性病予防法、風俗営業取締法、軽犯罪法、旅館業法、道路交通取締法、道路交通取締法施行令の十三が大なり小なり関係していたのです。

参照:大和タイム




by gionchoubu | 2018-11-08 14:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十七

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『艶本紀行 東海道五十三次』で著者の林美一さんは「こうした色街の話は、関係者の中には記録する者がいないから、第三者が小まめに聞書きをとるしか仕方がない。地方の遊里資料が今日非常に乏しいのも、実際に遊びに行くような人は、野暮な記録を残すような性格の人と違うからである、柴屋町の資料も、見番に道中の下駄や傘などまで残っていたそうだが、戦時中の昭和十八年に書類とともに二束三文で古道具屋に処分されてしまった。」と語っています。

成程、野暮な上、無神経が加わる私には、こういった聞書に向いているのかもしれません。

さて、今回と次回で売春防止法施行後、花街・赤線の両面を持った柴屋町の姿を追ってみたいと思います。

まずは昭和三十三年三月一日滋賀日日新聞より

「大津柴屋町(上、下馬場町)の遊郭七十八業者は湖楽園の五十三業者と寿倶楽部の二十五業者ともにそれぞれ事務所で最後の打合せを行ったのち廃業届けをまとめて大津署へ提出した。

この日の遊廓は朝から従業員がダンス、鏡台などの持物を処分するのにリアカーで持ち出す姿もみられ、業者の役員が郭内部をあちこちと忙しそう。

夜に入っては最後の遊郭というので、どの揚屋ともなじみ客でにぎわい、ひやかし半分の客に“最後どすえ”とよびかける引手の声も活発で、ドタンバの姿をみせていた。

業者の売春は午前零時以後は三月一日というので、それまでで打切り、泊り客は受付けないという徹底的な廃業ぶり。

きょうは一日は午後一時から湖楽置屋組合事務所で、最後まで残った湖楽園四十三人と寿倶楽部の三十人の従業人の合同解散式を行い、各従業婦の合同解散式を行い、各従業員には組合からそれでも一人三百円の弁当代を贈り、あとは各楼主がめいめいに送別会や一人三千円から一万円くらいの“せんべつ”をおくる。


一方貸席専門の大津花町組合の業者十六軒は、従来のような貸席での飲食ができないというので二月末で料理屋への転業?請書を大津署と大津保険所へ提出、みどり会は所属の芸妓は置屋、検番などが廃業したため各自の家から直接営業することになった。」

林美一さんの話を続けると、

「昔を知っている故老たちも次々と亡くなってゆく。明治八年に近江に生まれ、百姓が嫌いで四十二年に家・土地を売り払って二百五十円の金を作り、下柴の株を百七十円で買って遊女屋を始めたという村瀬竹松さんからいろいろと古い話を聞いたが、こんな話を聞けるのもいまのうちだろう。

何しろ十三の年から遊んだというのだから近県の遊郭はみななつかしき古戦場である。

明治二十三年(と、言うことは十五歳)、伊勢へお陰参り行って、通りがかりに関の女郎屋にひょいと上がったという話をしながら、“ええ時代でした。こんなええもん、なんでやめさせるんやろか”と竹松さんは八十七歳とはとても見えぬ若い眼をほころばせる。いつかまた、ゆっくり話を聞きたいものだ。と思いながら辞去したが、早いもので、それからもう丸十七年たってしまった。」

売春防止法施行前の、ごく一般的な男性の声と言うことが出来るでしょう。


by gionchoubu | 2017-01-30 12:27 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その二十一

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もう一度灯りをともして見たい・・・

つい先日(平成28年10月19日)の京都新聞の朝刊の地域プラスに『旧花街(京都市下京区・菊浜学区)“お茶屋情緒で活気再び”の記事が載りました。

菊浜学区はおよそ「北は五条通り、南は旧柳原村の各町、東は鴨川、西は北方が河原町通、南方が土手町通にわたる旧学区」『京都市の地名』とあり、ほぼかつての五条新地・六条新地・七条新地を併せた領域になります。

記事によれば、10月1日の推計人口は1278世帯1883人、大正から昭和初期に建てられた、お茶屋の意匠を凝らした木造の建物が今も多数残るとあります。
2011年にお茶屋組合が解散して、街の明かりが一度は消えかけたが、景観に引かれて観光客が訪れるようになりました、ともあります。

私の印象では、解散以前は、昼でも地元の方以外、そうそう気軽に立ち寄れる感じでは無く、徐にカメラを構える雰囲気も有りませんでした。

現在は、景観に引かれて人が集まるというより、新しい若い方が住みはじめたり、通勤路として使ったり、特にこの一年は民泊の外国人が大変増えたと思います。

記事には1958年に戦前から続いた遊廓が廃止された、と書かれていますが、実際には1946年に日本国内の総ての遊廓は廃止されました。ただし旧遊廓地帯での売春に罰則は無いという、所謂赤線地帯の通称で、旧七条新地地域として1958年まで営業を続けたのです。

売防法が実施された後、七条新地は新たに五条楽園の名で2011年まで営業を続けました。

この売防法直前の七条新地の様子を、錦織綱男著『遊女と街娼』で

“居かせぎ制の七条新地は時間で四百円、泊りは千円平均。組合費、衛生保険費などで三万円程度の収入となるわけである。「転業しろといったって、これぐらいのサラリーを出す会社ある?」と彼女達は業者の意を含んで白い歯を見せる。その上、府警本部の調査だと、前借金は彼女達の八割が持っており、最高十一年万円から最低二万円、平均して五万二千円といったところ。前借金を持っていない女も四00名ほどいるが、足を洗うところまで決心つかないのは、この収入が魅力なのである。”

「なーに、売春防止法で売春がなくなりますかいな。いままでの廓とは形の変ったモグリの赤線地帯が出来まっせ。」

と、七条新地の業者はにやりと笑ったといいます。

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                 残って頂きたい風景、ウサギは左の建物です。

by gionchoubu | 2016-10-27 12:42 | 五条楽園 | Comments(10)

中書島遊廓の歴史 その七

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中書島の遊女屋の長男として生まれた西口克己は、三高から東大文学部を卒業後共産党員になり、自身が遊女屋の稼ぎで高等教育を受けてきたというジレンマを抱えつつ、売春防止法が公布された昭和三十一年に小説「廓」を発表しました。その私小説で、女達をしぼりあげ、鬼と憎まれながらも廓一の顔役にのし上がった父の所業を暴露、これがベストセラーになり、中書島としては、決して有難くない脚光を浴びることになりました。

西口は小説の中で、「世間の奴らが生命より大切にしているあの垢だらけの金を、いっそ地獄のドン底で大の字になってもうけるこっちゃ」と父に語らせています。

西口はこの廓を、宇治の火薬庫跡にできた京大の宇治分校、近くにある学芸大学、いずれ設置される龍谷大学の学生相手の下宿街として再出発しようと考え、自らの特飲店“末広”を下宿屋に商売替、翌月に売春防止法完全施行を控えた昭和三十三年三月、中書島に五十八軒あった業者の内、彼に賛同した二十四軒が下宿屋転業にふみ切り、内十八軒は学生専門の下宿屋となったのです。

府学連もこれを後押し、「明るい住みよい学生街」中書島を学生に呼びかけ、女子学生八名を含む百三十六名が遊廓跡に間借りを決めたのです。

町の浄化運動として、婦人団体の支援もあり、組合事業として学生食堂や、喫茶店に乗り出す経営者も現れ、この旧赤線は学生街として花々しいスタート切りました。

しかしこれに反対する業者や関連者も多く、ここに拠点を移した府学連の幹部、婦人会、共産党と激しく対立、町はあっちにもこっちにも町の浄化を訴えたポスターが貼られ、学生と業者、ときには婦人団体も交え、毎日のように論戦が繰り広げられたのです。

これには、他所の赤線業者もその消息に目を見張り、中書島遊廓は再び日本中の注目を浴びたのです。

しかしながら、ことの顛末は実にあっけない幕切れを見ました。

この年の七月、八月、学生達が夏期休暇で中書島を離れた隙に、開店休業だった業者が娼妓ならぬ芸妓中心のお茶屋として続々店を開き、旅館、料理屋から転業するものも現れ、町は再び紅燈を取り戻したのです。

旅館、お茶屋三十軒対学生下宿十九軒、さらにその学生寮のうち二軒が、一階を改造してバーをはじめ、学生の大切な試験中でも夜遅くまでじゃんじゃんレコードをかけたものですから、学生はこれはたまらぬと下宿から逃げ出し、学連の委員長も寮からの撤退を余儀なくされたのです。

かくして日本最初の廓転向としての学生街へのモデルケースは失敗に終わりました。

*昭和三十五年の『京都名鑑』に、お茶屋組合長藤原旦次郎、三十四年から芸妓と新研が一本になり、1月の宝恵籠、7月花火と協賛の弁天祭に気勢をあげた。芸妓三十六と、また、昭和三十八年版に、お茶屋二十六、芸妓三十三とあります。(2016、3月7日付記)

さて、各地の遊廓の転業をみていくと、やはりスナック街、風俗街として変貌を遂げることも多いいのですが、その小さい部屋が並ぶ特性をそのままに、旅館、料亭、下宿屋に転業した例も多くあります。稀に小さな個室が並ぶ病院、老人ホームとして再出発したところもあります。

あなたの町でも、もし住宅街の中に突如「何故こんなところにスナックが・・・」と不思議に思ったり、不自然に広い道があったり、二階に重厚な格子のある八百屋さんをみつけたり、玄関に、何かの意匠のような彫り物を持った喫茶店を認めたなら、ひょっとしたら遊廓の名残かもしれません。

参照:『遊女と街娼―京都を中心とした売春史』錦織剛男


by gionchoubu | 2015-09-08 13:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十七

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昭和三十一年五月十二日に所謂、売防法が可決されました。

社会民生委員会では、十月十一日午後、灘井五郎委員長ほか九名が、府下最大の廓といわれいた七条新地を視察、業者や従業員とヒザを交えて懇談。

水府委員「売春防止法によって二年後にはどうしても廃業しなければならないが、どんな転業を考えていますか。」

A子「第一に家族の生活が保証されるような仕事があれば転業しますが、そんなものはいまの仕事以外に絶対にありません。ですから廃業したら青線に流れこむか街頭に立つかするより方法がないと思っています。わたしは月一万五千円を家に仕送りしていますが、それだけの仕事がどこにありますか。いまの仕事で手取り月三万円ありますから。」

笹谷委員「むかしはあがりの大半を親方にとられ、晩めしなど客にたかるより仕方ないことがありましたか。」

B子「いまはそんなことはありません。業者との分配は五分五分で、食事もよいものです。」

五十川議員「女中組合に仕事がつらいと訴えてくることがありますか。」

C子「投書制度がありそんなことがあれば業者と話合いますが、ほとんど例がありません」

笹谷委員「いまの制度はあった方がよいと思いますか。」

D子「よいと思います。第一に青線区域なら衛生、風紀上の取締りにこまるし、赤線なら大丈夫です。それにこの制度のある方が都合のよい人もあるんじゃないですか。」

笹屋委員「だまされてこの道に入る人はありますか。」

B子「ほとんどが友達を頼ってくる人で、だまされて来る人はありません。」

五十川議員「とにかく、いまの制度はあったほうがいいということですネ。」

C子「そうです。もしなくなればわたしなどは完全に青線にはいります。女中や仲居ではとてもやっていけません。大学生の卒業生も就職難の時代ではありませんか。」

灘井委員「婦人相談所ができたことは知っていますか。」

A子「知っています。しかし相談に行っても恐らくハラがたつだけで、はなしにならないでしょう。」

このあと委員は七条新地の業者側の意見を聞きました。

「売春防止法が出来た以上は法を守らないといけないと思う。しかし売防法審議会が政府に答申したところでは、売春のおそれのある場所に転業することを禁じている。わたしたちが転業するとしても、料理屋とか旅館、カフェーといった水商売しかできないのでこの答申は絶対にこまる。それに水商売に転業するとしても家屋の改造などにカネがかかるし、自力で更正できるものはほとんどあるまい。政府は一片の法律でかたづけるのでなく、救済方法も考えてもらいたい。とにかく、いまのままでは法律の骨抜きなどを政治的にやるよりしかたがない。人身売買とか女のかせいだものを摂取することはたしかにいけないが、これさえやらならなければ自分がこの道で生活することは少しもかまわないと思う」と述べました。

浮沈はあったにせよ、昭和三十三年四月一日を期して、全国の赤線の灯が消えました。明冶政府が公娼廃止を天下に布告してから八十五年目のことでした。

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昭和三十九年ごろ、五条楽園の名前を改めた七条新地は、お茶屋では法にふれることは絶対やらせないから、芸妓などはお客と他の地域の旅館に連れ出すという方法をとっている。ここは新研芸妓とヤトナで八十一名

参照:『遊女と街娼―京都を中心とした売春史』錦織剛男




by gionchoubu | 2015-09-05 13:59 | 五条楽園 | Comments(0)