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五条楽園ぞめき その二十二

五条楽園ぞめき その二十二_f0347663_13280159.jpg
赤枠が江戸期の七条新地で下枠が、上二之宮町、下二之宮町、上三之宮町、十禅師町、上枠が岩滝町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町、聖奥子町の十町です。
この二つの赤枠の間が六条新地です。つまり七条新地の中に遊里化していない六条新地が挟まれるように存在した事になります。

黄色く塗られた所が明治の初めの七条新地で、七条側は東の一部(上二之宮町と下二之宮町の一部)を残して米会所及び外商売りになっています。
五条楽園ぞめき その二十二_f0347663_13281713.jpg

赤枠が江戸期の五条橋下で七条新地より出稼ぎ地として、都市町、平居町、南京極町の三町です。明治の初めには黄色い部分が五条橋下で、東側の都市町が遊廓から外れ平居町と南京極町の二町のみになりました。

以上七条新地、五条橋下とも『京都府下遊廓由緒』に依ります。

五条楽園ぞめき その二十二_f0347663_13291357.jpg
赤枠が明治十九年七月布令第三号五業取締規則による七条新地区域です。旧五条橋下の平居町、南京極町に、七条新地の聖真子、岩瀧町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町の七町で、七条側は外れました。それでも江戸期は七条新地が五条橋下を従えた形なので七条新地の名称は変わりませんでした。


大正元年八月二十三日の区域として始めて旧六条新地の一部で菊浜町と高宮町、そして高松町と平岡町の一部が加えられました。赤枠に黄色部分を加えた区域です。

この区域がほぼ五条楽園に引き継がれました。


by gionchoubu | 2016-11-01 13:29 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その四

五条楽園ぞめき その四_f0347663_12040511.jpg
宝暦十一年(1761)、煮売株六十軒に増加、この時、『京都府下遊郭由緒』では書かれていませんが、島原遊廓の支配を受ける、と緑江さんは指摘しています。公許の島原の支配を受けるという事は遊女渡世が認められたと同じ意味になります。

この宝暦十一年にはD郡の内、南京極町が上七軒の新盛町より茶屋株を借り受け営業を始めます。ですから宝暦十一年が五条橋下の遊所が誕生した年で七条新地とは、出所が全く別の遊所としてライバル関係になりました。

明和九年(1772)以前に書かれた神沢杜口の『翁草』に、五条橋詰蕎麦切屋の話が載ります。その中で、「右の場所(五条橋下)は、七条新地地下ざまの者の通ひ行く遊里の咽首にて、日暮れれば群れる事、他の遊所に優れり。」と、当時、京都一賑った遊所であった事が分かります。

ただし、ここに集まるのは「其人柄各下劣にして、箕を担い、撈を肩に置く輩ばかりなれば、かしこの日小屋に立寄て、立ながら、蕎麦切を喰者夥し。又は都の入口なれば、都下の貴賤物見遊山のかへるさには、爰(ここ)に憩う輩多く、日暮れ前後はわづかの日小屋所せき膝を容るの寸地もなし。」

江戸期、五条大橋は、都、伏見、大阪を結ぶ大動脈で、四条の橋が絵図などを見ても大体が浅瀬をつなぐみすぼらしい橋だったのに対して、五条大橋は立派な官橋、破損しても官費で修理が出来たのです。

しかしその袂の一部はお世辞でも上品とは言えぬ所だったという事になります。

寛政二年(1789)、幕府の方針を受け、大々的な非合法遊女摘発が行なわれ、他廓同様、七条新地も茶屋株を差し止められ売女を島原に強制送還されました。五条橋下はともかく、七条新地は上記の如く島原の支配を受けていたならば、摘発を受けたのは、有無を言わせぬ圧力があったのかもしれません。

ところが同年、七条新地は、祇園、二条、北野とあわせ、島原に口銭を納めることで正式に遊女渡世が許可になりました。

前述したように人は街道の五条に集積され、其の内の有るものは七条に向かう図式が見えるのですが、七条新地が再開したと同時に五条の橋のすぐ南でも隠し売女が猛威を振るいました。
『史料京都の歴史』の『上月家文書』に、七条新地が遊女渡世を認められた寛政二年

五条橋下都市町の大文字るい 抱売女三輪
同所京極町 紀伊国屋新治郎 抱売女小はる
同所平井(居)盛御影堂南裏門角 播磨屋つね 抱売女小まつ 
同所御影堂境内紙屋吉三郎借屋 大坂屋まき 抱売女むめ
北七条岩滝町 津ノ国屋喜兵衛 抱売女ひな
同所聖真子町 山家屋熊次郎 抱売女はな

を七条新地が島原に訴えたのです。自分たちは公許の遊廓として口銭を納めているのに、非合法で口銭を納めぬ五条橋下に客を奪われ難儀している、取り締まって欲しい、という内容です。

ここで明らかになるのは当時の七条新地は前述のA郡(正面〜七条)のみで、C郡を含まないと言う事、当時の七条新地の業者は二十軒だったこと。そして七条が五条に対して如何思っていたかです。
五条楽園ぞめき その四_f0347663_12063361.jpg

by gionchoubu | 2015-04-14 12:06 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その一

五条楽園ぞめき その一_f0347663_17092960.jpg
十返舎一九によって享和二年(1802)に初編が出された『東海道中膝毛』の中で、弥次さん北さんが五条橋下遊廓で遊びました。五条楽園の前身である五条橋下の遊里は誕生から最後まで、庶民の遊ぶ所だったようです。

弥次北八は、思いもよらず五条の橋に来り、忌々しい番狂わせな目に会うたと、小言を言いながら、橋を向うに渡り、其処此処とまごつくうち、往来の賑やかなるに浮かれて、思わずも、橋の袂を、左の方へ浮かれ行くと、何かはしらず、両側に掛行燈、軒毎に照らし、三味線の音賑わしく、ぞめき歌に、頬かぶりせし男共の、ちらつくに紛れて、覗き歩く、この所は五条新地とて、少しの流れを汲む遊所。

家ごとに門の戸をたてたるが、潜りばかりを開きて、門口に立たる女の、ささやかなる拵えて、モシナモシナと、弥次郎が袖を引くに、振り返りて、潜り戸の内を見れば、見世付のおやま(遊女)並びたりけるにぞ

弥次「ナント北八、こゝはおやま屋と見えるが、いっその腐れに、今宵はこゝに泊まりはどうだ。」

北八「いかさま、何も荷物はなし、まん(運)直しに、そんな事も野暮でねえ。」

女「サア、入りんかいな」

弥次「入る事は入ろうが、こゝはいくらだ」

女「オゝ堅やの(賢い)。お泊りなはるかいな」

弥次「もちろんさ」

女「まだ初夜前じゃさかい、七匁ヅヽおくれんかいな」

北八「上方のお山は、値切って買うということだ。半分に負からねえか」

弥次「何かなし四百ヅヽなら、泊まっていこう。それで出来ずば、御縁がねえと諦めようさ」

女「よござります。お入りなされ」

北八「それでいゝの。丁度おやまさんも二人あらァ」

この家に上がると、女が二階へ案内するに、屋根の低き二階にて、弥次郎頭をこっつり

弥次「あ痛しこ」

北八「どうした」

女「オホホホホホ、お危なうござんす」

煙草盆を持ってくる。此内おやまふたり、一人名は吉弥、今一人は金五、いづれも太織紬様の着物に、黒ビロウドの半襟、梁のつかえる程低き二階を。しゃんと立って歩くしろもの、片手に着物の褄を、横の方へ引き上げて来たり、「オオしんど」と言って座る。

『近世風俗志』で喜田川守貞も“京坂の芸子、官許・非官許の色町ともにはなはだ不礼なり。まず楼に来たりて路の遠近ともに「をゝしんど」と云う。遠といへども二、三町に過ぎず。如何ぞ辛動のことあらんや”と多少おかんむりの様子です。

近世風俗志が書かれたのは天保八年(1842)以後なので、大阪や京都で、当初遊女が「おおしんど」を口癖に座敷に現れるのを、後に芸妓が真似るようになったと考えられますが、それにしても遊客にとっては気のいい台詞ではありませんね。


by gionchoubu | 2015-04-08 17:10 | 五条楽園 | Comments(2)