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五条楽園ぞめき、女だけの街

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                       映画の一場面

昭和三十二年二月封切りの松竹映画に『女だけの街』が有ります。同月の京都新聞では“くるわにメス”と銘打たれているように、売春防止法施行直前の京都七条新地の話になります。

監督は内川清一郎、脚本は内川清一郎と関沢新一、キャストは大木実、田崎潤、高千穂ひづる、小山明子、山田五十鈴、浪花千栄子。伝説の芸達者の名前が並びます。

物語は・・・

八年間の服役を終え、ふるさとの七条新地に帰ってきた牧組のヤクザ宮鉄太郎(大木実)は新興勢力、陣場大吉(田崎潤)が牧組のナワ張りを見て憤懣やる方ない思いだった。

鉄太郎の帰りを待っていたのは利美楼の女将お波(浪花千栄子)だった。彼女は鉄の死んだ母の朋輩で幼い時から彼を引き取って今日まで親同様育ててくれた義侠肌の女だ。

鉄はこの家の娼婦みどり(高千穂ひづる)に惹かれ、みどりも「ヤクザって愚劣よ、人間のカスよ」と鋭い言葉を浴びせながらも鉄を恋してゆく。

そのころ廓一帯は陣場の計画的な玉抜きで大騒ぎ。同僚の栄子(山田五十鈴)の入院費、葬式代の一切を自分の貯金をハタいてお波に渡し、遺児の健一の面倒を見るという健気なみどりの言葉に、鉄は賭場で荒稼ぎをしてみどりとの新生活を夢見て帰ると、みどりは置手紙をして姿を消していた。

玉抜きのバックが陣場で、みどりもそこにいると聞いた鉄は包丁を手に飛び出すのだった―

この映画の封切り後の座談会で、映画評論家の滝沢一は「この映画は消えゆく赤線地帯の七条新地を背景に矛盾の中に組み立てられた現在のやくざを描き、実景七条新地のロケも生きており、セミ・ドキュメントリー映画として真実感があった。」と述べています。

内川監督は「いろいろの実話を寄せ集め、売春防止法、暴力団といういま身近かに起っている問題をウソがなく真実にドラマの構成に持ち込もうとした。」と此れを受け答えました。

家庭調停委員の渡辺愛子氏は「売春防止法の施行を前にして、それまでに少しでも多く稼いでおかねば・・・という楼主や売春婦、崩壊寸前の花街の女性を抜させたり、これらの業者の家を買って旅館屋ホテルにして甘い汁を吸おうという悪辣なボスなどを見せられ、私たちの知らない世界のあることを知った。」

最後にこの作品の重要なパートを担った浪花千栄子は「仕事の都合で皆さんより一番早く七条新地の知合の家へ見学に行きました。朝と夜いきましたが、朝の起きぬけのきたない人―私らもそうですが―夜の化粧であまりきれいになっていられるので、男の人がボーとなるもの無理ないと思いましたわ。」

私自身この七条新地が等身大で映し出されているかもしれない松竹映画が存在したのを全く知らず、当時の京都新聞を図書館のマイクロフィルムで追って行くうちに偶然出合いました。

生きている七条新地の姿。

何方かこの映画を見た方は居られますでしょうか?

何とか見る機会を得られないでしょうか?





by gionchoubu | 2018-08-16 15:58 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき 赤線地帯

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宮川町を通り抜けて五条に出る。五条の大橋を渡って南へかけて橋下(五条新地)が有る。牛若丸は京の五条の橋の下でベンケイにひっぱられる。橋下といっても自由学校ではない。五条南にあるから『下』という(京都では北を上ル南を下ルと謂ふ)

橋下になると、乙部や宮川町と違ってグット近世風な遊廓になる。まず入口に赤いネオンで五条新地としてある。

建物も和洋ゴタゴタ型で、ネオンがあかあかとついている。だがやはり特飲店
ではなく遊廓だ。各家に女が居る。こゝは人通り十二時を過ぎるまで絶えない。

大部分がひやかし客だ。ひやかし客の種類も色々だ。サラリーマンから百姓のアンチャン連に到る。それだけに柄も悪い。

それだけに場所も一番広く、家も一番多く、全体からみればC級だが、中でも一級、二級、三級位ひにわかれ、一級などは乙部の近代化といふ感じだ。

廓の真中を有名な高瀬川が流れている。加茂川にそった所が三級、高瀬川にそった東側が一級、西側から河原町にかけてが二級といふ所だろう。

女も色々だ。一級には美人型で味、サービス、テクニック共に、乙部などはるかにおよばないのが居る。値段もまちまちで一級だと乙部並、二級で宮川町並、三級だと値切れば時間だと二百五十円、泊りだと十二時からでも四百円で泊まる。

一級でも乙部と違ふところは、十二時過ぎれば、時によっては五百円で泊る時もある。ひやかして端から端までへまんべんなくぶらつくと、二時間は優に掛かる。

高瀬川にそった所は、さすがに路へ進出せる突撃型は少ない。交番が目を光らせてるからだ。それでも、入口に立つと、中から黄色い声の一斉射撃を受ける。

婆さんにつかまって中に入れられるともう逃げられない。声の射撃が肉体の射撃に変わる。まともにだきつくのや、後ろからだきつくの、そして腰をぐいぐいくっつけてくる。

ひどいのになると男の急所をつかまれる。オトナが逃げようとしてもセガレが逃げない。そうなれば色男も台なしだ。

今しも客を送り出した女が長ジュバンだけで表へ出て、もう次の男にだきついてる。軒下でも結構暗いので何をしているかわからん。

女は着物で、男と何か話している。体をしっかりくっつけてる。よく見ると、男の一方の手は、女のそで口から中に入り、片方の手は、女がにぎってごそごそしてる。

まさにギョギョだ。心臓が弱い者なら眼を廻してしまうだろう。


この文は、青春タイムス社『新日本艶笑地図』(じゃぱん・えろちっく・びゅーろー)昭和二十六年五月号『新日本艶笑案内京都の巻』からのものです。(カストリ出版の復刻版)

七条新地から五条楽園に移る過程、この区域の赤線時代の様子を映しだしたもので・・・この臨場感と言ったら、実際その場所でルポタージュしなければ得られないであろうもの・・・その生々しさは半端ではありません。

公許の遊廓と言うタガが外れたた赤線地帯・・・写真で娼妓を選ぶわけでもなく、女が直接出て来たり、やり手婆さんに捕まったらもう逃げられないという・・・規則がある様な無いような、戦前の遊廓時代ならとても考えられない・・・まるで江戸時代の初期の遊里の絵図に描かれたある種のおおらかさ、したたかさが赤線の一つの特徴ではないでしょうか?

文士、映画製作関係者を含む、この時代を通り過ごした男達が赤線に大した思い入れを持っていたような気がするのは、赤線に囲まれた区域が・・・一種の大らかさと強かさから生み出された人間が本来備えている感情にまみれていたからでは無いでしょうか?




by gionchoubu | 2017-07-22 12:02 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その二十二

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赤枠が江戸期の七条新地で下枠が、上二之宮町、下二之宮町、上三之宮町、十禅師町、上枠が岩滝町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町、聖奥子町の十町です。
この二つの赤枠の間が六条新地です。つまり七条新地の中に遊里化していない六条新地が挟まれるように存在した事になります。

黄色く塗られた所が明治の初めの七条新地で、七条側は東の一部(上二之宮町と下二之宮町の一部)を残して米会所及び外商売りになっています。
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赤枠が江戸期の五条橋下で七条新地より出稼ぎ地として、都市町、平居町、南京極町の三町です。明治の初めには黄色い部分が五条橋下で、東側の都市町が遊廓から外れ平居町と南京極町の二町のみになりました。

以上七条新地、五条橋下とも『京都府下遊廓由緒』に依ります。

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赤枠が明治十九年七月布令第三号五業取締規則による七条新地区域です。旧五条橋下の平居町、南京極町に、七条新地の聖真子、岩瀧町、早尾町、波止土濃町、八ツ柳町の七町で、七条側は外れました。それでも江戸期は七条新地が五条橋下を従えた形なので七条新地の名称は変わりませんでした。


大正元年八月二十三日の区域として始めて旧六条新地の一部で菊浜町と高宮町、そして高松町と平岡町の一部が加えられました。赤枠に黄色部分を加えた区域です。

この区域がほぼ五条楽園に引き継がれました。


by gionchoubu | 2016-11-01 13:29 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その二十一

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もう一度灯りをともして見たい・・・

つい先日(平成28年10月19日)の京都新聞の朝刊の地域プラスに『旧花街(京都市下京区・菊浜学区)“お茶屋情緒で活気再び”の記事が載りました。

菊浜学区はおよそ「北は五条通り、南は旧柳原村の各町、東は鴨川、西は北方が河原町通、南方が土手町通にわたる旧学区」『京都市の地名』とあり、ほぼかつての五条新地・六条新地・七条新地を併せた領域になります。

記事によれば、10月1日の推計人口は1278世帯1883人、大正から昭和初期に建てられた、お茶屋の意匠を凝らした木造の建物が今も多数残るとあります。
2011年にお茶屋組合が解散して、街の明かりが一度は消えかけたが、景観に引かれて観光客が訪れるようになりました、ともあります。

私の印象では、解散以前は、昼でも地元の方以外、そうそう気軽に立ち寄れる感じでは無く、徐にカメラを構える雰囲気も有りませんでした。

現在は、景観に引かれて人が集まるというより、新しい若い方が住みはじめたり、通勤路として使ったり、特にこの一年は民泊の外国人が大変増えたと思います。

記事には1958年に戦前から続いた遊廓が廃止された、と書かれていますが、実際には1946年に日本国内の総ての遊廓は廃止されました。ただし旧遊廓地帯での売春に罰則は無いという、所謂赤線地帯の通称で、旧七条新地地域として1958年まで営業を続けたのです。

売防法が実施された後、七条新地は新たに五条楽園の名で2011年まで営業を続けました。

この売防法直前の七条新地の様子を、錦織綱男著『遊女と街娼』で

“居かせぎ制の七条新地は時間で四百円、泊りは千円平均。組合費、衛生保険費などで三万円程度の収入となるわけである。「転業しろといったって、これぐらいのサラリーを出す会社ある?」と彼女達は業者の意を含んで白い歯を見せる。その上、府警本部の調査だと、前借金は彼女達の八割が持っており、最高十一年万円から最低二万円、平均して五万二千円といったところ。前借金を持っていない女も四00名ほどいるが、足を洗うところまで決心つかないのは、この収入が魅力なのである。”

「なーに、売春防止法で売春がなくなりますかいな。いままでの廓とは形の変ったモグリの赤線地帯が出来まっせ。」

と、七条新地の業者はにやりと笑ったといいます。

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                 残って頂きたい風景、ウサギは左の建物です。

by gionchoubu | 2016-10-27 12:42 | 五条楽園 | Comments(10)

雇仲居倶楽部 お茶屋と置屋

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      五条楽園

今一度昭和三十八年の職業別電話帳の芸妓紹介(置屋、小方を含む)欄で五条楽園の雇仲居倶楽部を探してみると。(個人名を除く)あさひ倶楽部、おとめ、川崎クラブ、神戸屋、次郎長、大喜倶楽部、第一倶楽部、高瀬クラブ、ニコニコクラブ、ミヤコクラブ、丸八クラブ、

同年のお茶屋(待合、貸席を含む)の欄には、ヤトナが送り込まれたと思われる五条楽園のお茶屋が、五花街や島原のお茶屋と肩を並べていますので、個人名を除いて書き出してみると・・・いわみ、一力、扇屋、かま田、川竹、喜久粋、きしや、京矢、銀柳、孔雀、好成楼、三友、三友楼本家、新田中、新ふよう、末広、友喜、第一千代鈴、宝船、谷梅、千代幸、つるや、つるや支店、築家、登美家、友恵、浪花、羽衣、花びし、花柳、東三友、東大和、ひょうたん、ひらいわ、光、芙蓉、富美の家、平安クラブ、桝谷、みかさ、三日月楼、明月、ももよ、八千代、大和、大和家、米栄、若ゆり・・・

ただし、こちらの一力さんは祇園の一力さんとは全く関係はありません。全国に一力の名をもつ店は、飲食店を中心に大変多く、京都でも現在先斗町に一力の看板を上げるラーメン屋さんがあります。以前この風潮を元祖祇園一力のご主人に尋ねた人がおりまして、「このご時勢、お茶屋経営だけでは中々大変なので、全国に支店を出して・・・」のような、粋なお答えされたという話を聞いております。大御茶屋のご主人の余裕と洒落は長年かけて培われたものなのでしょう。

送り込むクラブより、送り込まれる御茶屋のほうが多いのはこの世界の常、また置屋であるクラブは基本質素な店構えで、一方お茶屋は、色んな意匠でお客をひきつける必要があります。

二十年後、昭和五十八年版の芸妓紹介欄を見てみると、今度はコンパニオンセンター、みやびバンケット、ワールドユニバースなど所謂コンパニオン派遣会社が芸妓紹介に乗り出してきました。といっても派遣要員は雇仲居と見るべきで、洋装のコンパニオンも派遣するが、要望があれば、着物を着たコンパニオンとしてヤトナも派遣するといった処でしょう。

平成二年になりますと、芸妓置屋欄からコンパ二オン派遣会社欄から消え、コンパニオン派遣会社は総てコンパニオン派遣会社の欄に入り、玉川クラブは芸妓置屋欄にもコンパニオンの欄の二つに顔をだしています。欄外の枠で芸妓置では舞妓の後姿と簪の絵に筆書体で芸妓置屋玉川クラブ、コンパニオンの枠ではパーティ&宴会コンパニオンのご用命は・・・TaMaGaWa Club、そしてキュートな洋装の女性が描かれています。

さて、現在、嵐山の旅館などで舞妓を手配すると祇園東などから、亀岡の湯の花温泉の旅館で同じく舞妓を呼ぶと、たとえば宮川町からタクシーでお座敷に来てくれますが、花街のシステムとして、往復の時間も花代に計算されますので、祇園で呼べは100分いてくれる処、実質嵐山では一席が30分を切ったりしますし、亀岡では二席の料金が必要となります。当然往復のタクシー代も馬鹿になりません。

京都商工人名録、昭和九年版に株式会社嵐山倶楽部が太秦西蜂岡町に、昭和三十八年の職業別電話帳には嵐山京福電停前に、新研芸妓置屋、嵐山クラブが登録されており、これは当然、嵐山の旅館の需要を見込んだものでしょう。ただし昭和四十八年版では姿を消していました。


by gionchoubu | 2015-09-30 12:30 | 雇仲居 | Comments(0)

新研芸妓


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 下木屋町の雇仲居の検番があったあたり。(京都明細図によれば西木屋町仏光寺を下がる四軒目の東側)

渡会恵介は『京の花街』で、「上木屋町と下木屋町に加えて東山に検番があって、<新研芸妓>という。下木屋町が、東山に合併して二つのグループとなり、芸妓置屋組合もある。新研とは“新しいセンスと美しさにあふれた”という意味で、芸妓を呼ぶときは、それぞれ置屋のグループへ直接電話すればよい。ほとんどが宴会花だから、料亭での宴会へ出張するのが専門、いわば純粋のホステスといえる。」と書いています。

この下木屋町の検番は、昭和八年の松園蔵版の『京都職業別電話名簿』にも『京都商工人名録昭和9年版』にも載りませんが昭和九年の『京阪神職業別電話名簿』に雇仲居置屋業組合事務所として確認でき、場所は西木屋町、仏光寺下、これこそが上記の下木屋町の検番だと思います。この時点では上木屋町の検番は何処にも見えません。

戦争を経て、昭和二十四年、京都の他の花街の芸妓と共に、東山区下河原月見町のヤトナ従業員組合が労務者供給事業と認定され、認定されたヤトナが325名いました。このとき認定された芸妓は816名ですので、本家芸妓に対する擬似芸妓ヤトナの比率は相当高かったといえます。渡会の言う東山に合併したヤトナグループがこのヤトナ従業員組合です。

さらに非売品でありますが、加藤政洋研究室が発行した『加藤藤吉写真集〜京都編〜』に、藤吉により新研見番京東山と書き込みがあった昭和三十五年撮影と推察されるシンプルな洋風二階建て建物の写真が載っています。

同写真集によると昭和三十一年の住宅地図に「京都新芸妓共同組合」として載り、昭和三十四年版では「京都新芸妓東山歌舞会」と名前が変更されているとの事、早速京都府立資料館で確認させていただきました。(ちなみに昭和三十年以前の住宅地図はありませんでした。)

さらに調べてみると、面白いことに、昭和三十八年の職業別電話帳では同じ電話番号で月見町に「京都新研芸妓東山組合」と「京都雇仲居従業員」の二つが登録されています。

つまり、新研芸妓であろうが、雇仲居であろうが母体は同じで、業者側が新研という名を編み出し新基軸を打ち出したものの、お客にとってはどっちでもよい話で、きっと「若い妓」「座持ちのいい妓」「若い妓はだめ」ぐらいの要望がおおく、あまり、歌舞会だから言って、「三味線や踊りのうまい妓」、雇仲居の名があっても「お祝い事を上手に仕切れる妓」などの声は少なかったと思います。

この電話帳ではやとなは「芸妓紹介(置屋、小方)を含む」の分類でヤトナ倶楽部と銘打っているのはニコニコやとな倶楽部ぐらいで、嵐山クラブ、新研芸妓置屋、乙女新研芸妓などと新研の名のる所が幾つか以外は〜倶楽部、あるいは個人名です。

二条木屋町東には京都新研芸妓組合中京支部が登録されおり、渡会のいう上木屋町検番はこれであると思います。

五条楽園の管轄としては、上記のニコニコやとな倶楽部、あさひ倶楽部、高瀬倶楽部あと個人名が一軒で、殆どは、西木屋町町五条下ル平居町五条楽園芸妓組合が窓口になっていたと思われます。

この「芸妓紹介(置屋・小方)を含む」と「お茶屋(待合・貸席)を含む」と、昭和三十八年の職業別電話帳には二つの項が並んで見る事が出来、基本前者がヤトナ系、後者が一現(見)さんお断りのお茶屋さんですが、前者に現在宮川町のお茶屋がのったり、後者にも京都新研芸妓東山協組(注、すこし登録名が違います)や五条楽園のお茶屋が載ったりしますのでこれをお茶屋探しに利用した人はかなり混乱したと思います。

尤も、一現(見)さんお断りのお茶屋に、紹介もなく、電話帳だけをみて芸妓を要望する兵(つわもの)もいらっしゃらなかったでしょうけど。


by gionchoubu | 2015-09-24 11:30 | 雇仲居 | Comments(1)

五条楽園ぞめき その十七

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昭和三十一年五月十二日に所謂、売防法が可決されました。

社会民生委員会では、十月十一日午後、灘井五郎委員長ほか九名が、府下最大の廓といわれいた七条新地を視察、業者や従業員とヒザを交えて懇談。

水府委員「売春防止法によって二年後にはどうしても廃業しなければならないが、どんな転業を考えていますか。」

A子「第一に家族の生活が保証されるような仕事があれば転業しますが、そんなものはいまの仕事以外に絶対にありません。ですから廃業したら青線に流れこむか街頭に立つかするより方法がないと思っています。わたしは月一万五千円を家に仕送りしていますが、それだけの仕事がどこにありますか。いまの仕事で手取り月三万円ありますから。」

笹谷委員「むかしはあがりの大半を親方にとられ、晩めしなど客にたかるより仕方ないことがありましたか。」

B子「いまはそんなことはありません。業者との分配は五分五分で、食事もよいものです。」

五十川議員「女中組合に仕事がつらいと訴えてくることがありますか。」

C子「投書制度がありそんなことがあれば業者と話合いますが、ほとんど例がありません」

笹谷委員「いまの制度はあった方がよいと思いますか。」

D子「よいと思います。第一に青線区域なら衛生、風紀上の取締りにこまるし、赤線なら大丈夫です。それにこの制度のある方が都合のよい人もあるんじゃないですか。」

笹屋委員「だまされてこの道に入る人はありますか。」

B子「ほとんどが友達を頼ってくる人で、だまされて来る人はありません。」

五十川議員「とにかく、いまの制度はあったほうがいいということですネ。」

C子「そうです。もしなくなればわたしなどは完全に青線にはいります。女中や仲居ではとてもやっていけません。大学生の卒業生も就職難の時代ではありませんか。」

灘井委員「婦人相談所ができたことは知っていますか。」

A子「知っています。しかし相談に行っても恐らくハラがたつだけで、はなしにならないでしょう。」

このあと委員は七条新地の業者側の意見を聞きました。

「売春防止法が出来た以上は法を守らないといけないと思う。しかし売防法審議会が政府に答申したところでは、売春のおそれのある場所に転業することを禁じている。わたしたちが転業するとしても、料理屋とか旅館、カフェーといった水商売しかできないのでこの答申は絶対にこまる。それに水商売に転業するとしても家屋の改造などにカネがかかるし、自力で更正できるものはほとんどあるまい。政府は一片の法律でかたづけるのでなく、救済方法も考えてもらいたい。とにかく、いまのままでは法律の骨抜きなどを政治的にやるよりしかたがない。人身売買とか女のかせいだものを摂取することはたしかにいけないが、これさえやらならなければ自分がこの道で生活することは少しもかまわないと思う」と述べました。

浮沈はあったにせよ、昭和三十三年四月一日を期して、全国の赤線の灯が消えました。明冶政府が公娼廃止を天下に布告してから八十五年目のことでした。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

昭和三十九年ごろ、五条楽園の名前を改めた七条新地は、お茶屋では法にふれることは絶対やらせないから、芸妓などはお客と他の地域の旅館に連れ出すという方法をとっている。ここは新研芸妓とヤトナで八十一名

参照:『遊女と街娼―京都を中心とした売春史』錦織剛男




by gionchoubu | 2015-09-05 13:59 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十三

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役者として独自な境地を示した小沢昭一氏が『あたく史外伝』で五条楽園での思い出を語ります。

氏が子供の頃、法界屋という流しがカフェー街などを廻っていたそうです。これは三味線や竪琴などを伴奏に歌を歌う一団の事で、大阪では新世界によく現れたという記述に私も出会った事があります。カフェー、女給については今でも時々興味をもたれて触れる人はありますが、法界屋について書かれたものは、何故か滅多にお目にかかれません。

戦後、この法界屋にとって替わったのがギター流しで、飲み屋街で客のリクエストに応じて、ギターの伴奏で歌うもので、これは昔の映画で見かける事があり、実際出会った事は無いのですが、イメージは湧きやすいと思います。

ちなみに、花街情緒たっぷりの新内流しという門付けの芸能形態があります。元々京都に一中節があり、ここから常磐津や富本、清元などに発展するのですが、その一つの流れから生み出されたのが新内で、新内流しは二人が調子の違う三味線で街頭を流します。

さて、終戦後、氏が役者修行中の頃、芝居の旅で京都にいたある日、五条楽園を冷やかして歩いていると、夫婦らしきギター流しに出会います。男は黒ずくの着流しにギターをかかえ、目が不自由らしく黒眼鏡をかけ、女は質素な着物にギター、そして赤ん坊をおぶっています。

「何とも絵になる夫婦流しで、私はすぐ近寄ると、路上で一曲所望しました。」

それは旅の夜風という、映画、愛染かつらの主題歌で、三番の歌詞が√加茂の河原に秋たけて・・・、が五条楽園にぴったりと思ったからです。

「男は、女に、小さい声で“Gマイナー”と囁くと、女が弦をととのえるのを待ってすぐ弾きはじめました。√花も嵐もふみ越えて、行くが男の生きる道・・・うたい出した男の声に、私はすぐ、ググーンとひきこまれました。なんともスゴイ声。霧島昇の、あのソフトな美声とは正反対の、何といったらいいか、ドスの効いた、さび声。」

その次の、旅の夜風の二番は女が √可愛い子供は女のいのち・・・と、疲れ果てた様に口をあけて眠る子供を背に、か細く、消え入るように歌いだす。
この歌声に小沢昭一氏は胸を突き上げられる感動を覚えた、と思い出を綴っております。

後年、氏が野風にさらされた放浪の諸芸を訪ね歩いたのには、この二人の流しの芸への尊敬があったことも、その動機の一つだったとも書いておられます。

京都では、かつての五番町にギター流しはよく似合っていたと思います、そして五条楽園、今でも高瀬川に沿って、第二西菊さんの角をまがった辺りで、ふとこの二人のギター流しに出会うような錯覚に見舞われます。


by gionchoubu | 2015-06-02 13:05 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十二

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一般的に出雲の阿国が慶長八年(1603)、男装で茶屋の女と戯れる「かぶき踊り」を披露したのは四条河原とされていますが、『東海道名所記』には五条橋の袂とあります。

それ以前より、交通の要所であった五条は、見世物や芝居の興行地で賑っていました。どうしても我々は現在の感覚で考えるので、なかなか受け止めにくいのですが、阿国が慶長九年、次に選んだのは、北野天満宮の門前町で、今の常識では中心街から遠く離れている場所ながら、ここも当時は遊興の地で大変賑い、勧進の名目で色んな芸能の催しがありました。

四条河原が栄えるのは、時の京都所司代板倉勝重が、ここに特権として芝居株を渡してからです。芝居株や茶屋株を当局が許すのは、都市政策として力ずくでその地を繁栄させる場合があり、大阪の道頓堀がまさにその大成功例で、この切り札をもともと栄えている五条橋詰めや、北野の門前に持ってくるようなもったいない使い方を当局がするはずが無い、とまで言えると私は考えます。

六条河原は、もともと罪人の処刑地で、本能寺の変、関が原の戦いでも敗者の処刑が行われました。七条新地が元々妙法院が支配していたのに対し、七条新地に挟まれる形で存在した六条新地は雑色領であり、これが後々の混乱を生むきっかけとなります。

その後、享保十三年(1728)六条新地の高宮町と菊屋町の西側に米会所が設立され、高瀬川で運ばれた米穀の取引が始まります。この辺りは賑わい、これは明冶四年、米会所が十禅師町に移転、さらに明冶十九年、錦小路通東洞院下がる、西魚屋町に移転(大丸百貨店のすぐ北)に移転するまで続きます。

移転の理由は、日出新聞の記事でも述べられていませんが、もはや米の運搬の動脈としての高瀬川にこだわる理由が無くなったという背景と、矢張り遊廓に接するとあれば、色々不都合な事があったと推測されます。七条側は大反対、すったもんだの後の移転となりました。

しかしもし、七条米商会所がこの地で繁栄したなら、七条新地の存続のほうが難しかったと私は思います。なぜなら、ものの常として、なにか事あることに移転の憂き目を負ったのは、いつも遊廓側でした。

ちなみに明冶二年に菊浜小学校が開校しますが、落成開業式に、京都府権大参事、槙村正直も臨席しています。菊浜の名は七条米浜と菊屋町からとりました。

私の調べた限りでは、江戸期〜明冶期にかけて六条新地の区域は一度も遊里化しておらず、少し前書きましたように、大正元年八月二十三日、京都府令第六号の一節として、高宮町、菊屋町、富松町(高宮町に面せる表側)平岡町(高宮町に面せる表側及菊屋町に面せる表側)つまり六条新地の北側が、七条新地に組み込まれて始めて遊廓になり、その後五条楽園に引き継がれたものと思います。



by gionchoubu | 2015-05-30 13:53 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十一

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私が、当初『京都遊廓由緒』を元に、七条、五条間を南からABCDに区分けして、AとCが七条新地の指定地としてあるので、Cのみを取り出す場合、六条通りの延長上でもありますので、便宜上Aと分けて、六条新地と呼んだのではないかと考えました。

しかし、荻野家文書の旧名六条新地八町略図がBを六条新地としているので、Bを以って六条新地であると書きました。

先日、京都府立史料館の館古023中井家文書434、戌四日、正徳三年写『六条・七条新地絵図』を拝見、これにて正にBに高瀬川の西の現在の梅湊町を含んだ区域が六条新地と断定できました。

なぜなら、中井家こそ、奉行として三十橋近い公儀橋の普請を担当、その中で享保年間以降、工事内容の決定や図面の作成、工程管理にも深く関わっており、五条橋から正面橋、七条大橋、高瀬川の各橋を含む地図を保管したのは至極当然のことに思われます。

この地図は公開できるものではありませんが、正徳以前Aが七条新家地、Bが六条新家地、そしてCが北七条新家地と表記されており、六条新地をはさんで、A、Cが七条新地と呼ばれていったものと思われます。

ちなみにこの頃のD(五条橋下)は藪と畑の字が当てられています。

又、しっかりと五条の下から高瀬川に沿ってお土居が描かれていますが、これも宝暦になり、開発が進み、五条橋下にも茶屋株が与えられた頃すっかり整地されました。

面白いのは加茂川正面橋北に音羽川が東から注ぎ込んでいるのが書き込まれている事で、現在も同じ場所に暗渠となった音羽川の注ぎ口があります。

北の修学院のすぐ近くに高野川に流れ込む別の音羽川がありますが、絵図にある音羽川は、清水から流れてくる別の川です。

六条新地と七条新地の境となる正面橋が架けられたのは、両新地が開発された宝永・正徳ごろと推測され七条新地と六条新地が50%ずつ費用を出して維持管理を行なってきました。

しかし、これは負担が大きすぎ、橋の維持に幕末には七条新地は妙法院より、六条新地には東本願寺より助成金が出たそうです。

今一度中井家の図絵をみると、六条新地に一箇所、七条新地に一箇所高瀬川の舟入が見え、この間四本の橋が架けられています。

江戸期に置いて、六条新地は遊里化しておらず、その辺りの事情は次回に持ち越したいと思います。
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by gionchoubu | 2015-05-27 14:54 | 五条楽園 | Comments(0)