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五条楽園ぞめき その二十

f0347663_15155537.jpg
                    花道があります。(五条会館)

京都府警察部遊廓統計(日本花街史集録)による七条新地の芸妓数と娼妓数は

明治44年 芸妓30  娼妓915
大正元年  芸妓26  娼妓906
2年 芸妓24  娼妓945
3年 芸妓16  娼妓906
4年 芸妓13  娼妓874
5年 芸妓14  娼妓814
6年 芸妓19  娼妓792
10年芸妓27  娼妓1083

芸妓の花舞台、歌舞練場は花街の象徴であります。現在の五条会館(五条楽園歌舞練場)は大正四年に誕生しました。ところがこの年、芸妓は僅か13人、この状況で、どうして娼妓中心の七条新地で歌舞練場を建てようと思ったのでしょうか?

これは大正元年、五条橋下が京都府令第六号で七条新地と合併しており、新体制のもとで新基軸を打ち出したものと思われます。

遊廓の中で娼妓は稼ぎ頭である一方、芸妓は行儀作法、お茶、芸事など育てるのに大変お金がかかり、着物から髪結、小物まで揃えるのにも資本が要ります。

当時の七条新地で花街熱のような物が広がり、芸妓を育てようという機運が広がったなら、遊廓で財を成した業者の中から、道楽とまでは云わないものの、遊女渡世以外の、いわば違う次元の道を目指したいという気持が芽生えたのかもしれません。

もともと、祗園でも、上七軒でも、芸妓が生まれたのは十八世紀も終わりに近づいた明和〜天明の頃だと私は思っているのですが、案外、遊廓から花街への道のりはこんな経緯を辿ったという考え方は有ってもいいと思います。

ただし、明治・大正以降、遊廓が花街に育つには、やはり娼妓に対しての芸妓のそこそこの分母が必要なのも確かで、大正五年、歌舞練場を竣工した宮川町が現在五花街の一画を担うのに対し、芸妓町としての七条新地は消滅しました。

七条新地はあまりにも芸妓の分母が小さすぎたのです。
f0347663_15170428.jpg
              畳はざっと60畳、頑張れば180人程の席はとれます。
              現在は耐振の関係もあり、定員100にされているとの事
              貸出歓迎なので、イベント等で是非ご利用下さい。
              (ただし冷房等ありません)

by gionchoubu | 2016-10-25 15:22 | 五条楽園 | Comments(6)

五条楽園ぞめき その十八

f0347663_10474785.jpg
          五条楽園歌舞練場(五条会館)

昭和三十七年(1962)年の『京都名鑑』花街の覧には、必死に花街としてやっていこうとしている五条楽園の姿がみえますので紹介させていただきます。

五条楽園・・・会長以下、新しい花街つくりに賢明で、10月18日に舞台も落成、5・7月に研究発表会を行い、高瀬川筋に美しい街頭をつけた。芸妓86、お茶屋98、置屋16で、36年10月に温習会を持つ。

この芸妓は本芸妓でなく新研芸妓でしょう。それにしても芸の発表会の温習会をもつのは本腰をいれて芸者町に取り組んでいた様子が伺えます。

さらに翌年の昭和三十八年版には是を裏づけるように

五条楽園・・・芸事への感心がいよいよ高まり、37年1月の始業式などでも、花柳芳恵舞の指導で見事な舞ぶりをみせた。若い妓が多く若い層への人気も高まっている。芸妓90人、置き屋16、お茶屋93で、37年秋にも温習会を持つ。

とあります。

実際京都府で、東京が本拠地の花柳流の浸透は大したもので、今までこのブログで取り上げた中では、上七軒、峰山、綾部、宮津の花街が花柳で、舞鶴の朝代は若柳流でしたが、町の娘さんの習いは花柳が中心だったと聞いております。

この頃の京都の花柳流を調べてみると(京都名鑑の1959舞踊参照)家元寿輔はブラッセル行きなどで忙しく、関西のことは永扇会を率いる分家、芳次郎に任せた形で、京都では桜美会をもつ花柳芳恵舞が中心だったようです。五条楽園小唄も振付を担当したのは花柳芳恵舞でした。

その他、芳曳、芳桜、芳左衛門、芳寛輔、芳麿、双、芳菊次らで、それぞれが自分の会を持ち活躍していました。

当時の京都の邦舞は井上流、花柳流、若柳流、藤間流以外にも、坂東流、楳茂都流、山村流、西川流、吉村流などが競いあっていた様です。

売防止が完全施行された昭和三十三年以降はかつて関西に多かった芸・娼妓(酌婦)二本立ての花街は整備問題と、労働基準法による週休制の実施などが課題として挙っていました。

労基局は

十八歳未満の芸・舞妓その他の使用人に月二回の休暇
十八歳未満の舞妓・女中に午後十一時以後の深夜就業禁止
年季奉公的な契約の禁止
賃金支払い法の明確か

を勧告しました。 


by gionchoubu | 2016-02-28 10:49 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その八

f0347663_11364273.jpg
それでは明冶以降の七条新地の芸娼妓の数を中心に追ってみます。

明冶五年、業者二百三十四人、娼妓九百七十三人、芸妓三十七人(日本花街史)

明冶十一年出版された大西亀太郎による『都の花競』によれば、下京第二十六区、橋下の部で芸妓の登録なし、娼妓のみで、南京極町に七人、平居町に二十五人の本名と年齢が載ります。十七歳から三十一歳までで、殆どが二十代前半の女性です。

明冶二十八年刊『京都土産』によれば、七条新地に貸座敷百二十九軒、芸妓二十三人、娼妓四百二十一人、屋形(芸娼妓置屋)十五軒、著名貸座敷に友月楼、鈴木、柴田楼、勢国楼が挙げられています。(日本花街史)

『京都坊目誌』に大正元年八月二十三日、京都府令第六号の一節として、七条新地々域が載り、平居町(新寺町に沿いたる表側及び同通以西を省く)、南京極町、聖真子町、八ツ柳町、岩滝町、早尾町、波止土濃町、高宮町、菊屋町、富松町(高宮町に面せる表側)平岡町(高宮町に面せる表側及び菊屋町に面せる表側)の十一町です。

これは前々回載せた地図の南側に菊屋町と高宮町そして富松町と平岡町の一部を加えた区域で、これが、そのまま受け継いだのが五条楽園の区域と思われます。ただし新寺町が分からないので、平井町のどこが外れたのかは不明です。

大正二年『京都坊目誌』によれば、貸座敷二百五十六戸、娼妓九百四十五人、芸妓二十四人同年中の遊客十二万四千九百六十人と有ります。

昭和四年発行の『日本遊里史』によれば、貸座敷二百八、娼妓九百八十八(この統計には七条新地に限らず芸妓数は全くのりません)この娼妓数は、祇園乙部、宮川町、島原、中書島の娼妓合計一千四十七と変わらない数字です。

これがどれほど大きい数字かというと、日本全国で当時の七条新地を凌いだのは東京の新吉原、洲崎、大阪の松島、飛田、五花街(灘波)、神戸の福原、沖縄のチージ、名古屋の旭廓のみという事で分かります。

ただし、是だけの規模でありながら、七条新地が『日本遊廓案内』に収録されなかった理由は分かりません。

昭和九年には業者(貸座敷)二百四十一、娼妓一千三百二十六、芸妓ゼロ
(日本花街史)

昭和三十〜三十三年頃に業者百七十九、娼妓六百九十三となり、売防法の実施で遊廓としての七条新地は歴史の幕を閉じました。

この売防法実施の直前に花街研究家の加藤藤吉が『日本花街志』で芸妓がいなく、花街の紋章もないのに、第二部、紋章の研究で七条新地を取り上げたのも不思議です。「市内の浄化運動には毎度その対照とされ、移転運動が起るけれど、花街の業者により、多くの府市の負担がまかなわれている都市だけに簡単には事は渉どらず」と移転問題が現れては業者の反対で消えていた様子が分かります。

当時の七条新地に紋章がなかったのも「極めて消極的な営業政策」をとっており、催す行事もなければ、紋章の制定も必要ないと、加藤藤吉は結論づけました。

この花街としての七条新地を見てみますと、大正の初めに今も残る立派な歌舞練場を建てましたので、芸妓街への検討が当時の幹部の人たちにはあったのでしょうか? 大正十二年の『技芸倶楽部』をみると、七条新地はそれまで舞の流派が、ずっと篠塚流だったことが分かります。

大正の終わりから技芸倶楽部主宰の各遊廓連合競技大会が暫くの間ですが、毎年行なわれ、当時京都の、上七軒、北新地(五番町)、島原、祇園甲部、同乙部、先斗町、宮川町、中書島はこれに参加しているのですが、七条新地のみ「芸妓少数の故とて例に依り参加せなかったが」と、芸の披露は見合わせていました。

当時の七条新地の芸妓さん達が、この不参加を悔しく思い、眠れない夜を過ごしたか、ホッと胸を撫で下ろしたか、今となっては知るすべは有りません。


by gionchoubu | 2015-04-22 11:37 | 五条楽園 | Comments(3)