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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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愛知県、江南市、盛遊連

愛知県、江南市、盛遊連_f0347663_18135086.jpg
朝日通りにあった料亭朝日屋、新年の挨拶参り

現在の江南市には二つの花街がありました。古知野と布袋に有りました。江南市は合併で誕生した市なので、主要部分を占める古知野町と布袋町に有ったという方が正しいでしょう。名鉄江南市駅も元は古知野駅でした。

『写真集 明治大正昭和』の「養蚕景気で栄えた料芸界」によると古知野に花柳界が生れたのは明治三十五年に七軒の料亭と二人の芸妓で始まり、大正八年には芸妓十二名になり芸妓組合設立、芸妓組合も設立、昭和四年には野口雨情作詞「古知野小唄」が誕生、コロンビアレコードで宣伝されました。

昭和九年当時には芸妓数は七十余名にのぼりました。

その場所を探るに昭和三十三年の『江南市商工名鑑』をみて関係らしき業種を探るに、

芸妓寮(置屋)として古知野丸輪町に松月、米新玉、本町三に加須美と福月寮、新町二みどり寮

待合として愛栄通りに金波

料理・仕だし・旅館は古知野本町一、二、三、四、栄町、丸輪町、宮町、天神町、昭和通り、愛栄通り、そして宮田に有りましたが、本町三に多く見られました。

又特殊飲料として丸輪町に三光、朝日町にスズヤがありました。

花街の場所は『江南市史』に古知野座を中心とした通りが花柳会の中心で昭和十二、三年まで繫盛したとあります。又古知野駅(現江南駅)前に人力車の帳場があり、五、六台の車が駐留しており、芸妓の新妓廻りにも利用されたとも有りました。

同史の大正期の地図を見ると、古知野座が古知野神社の上辺りに描かれており、周辺には上記の商工名鑑(愛栄通り)に載った見晴料亭の他うなぎや、都屋、ちとせ、ことぶき、橋本置屋、きかく(亀鶴)置屋があります。さらに本町~丸輪町にかけて、かすみ置屋(前述の加須美と思われる)米新玉置屋、商工名鑑末広本店(丸輪町)がありますので、花街は愛栄通り~本町三あたりと思います。ただ町名変更があったみたいで、Google,ヤフー地図を見ても今一つしっくりいかない感じも持ちました。

『江南市史』に、昭和に入って古知野花街の組合(券番)が盛遊連だったので、その名を取って町を盛遊連にしようという声が上がったが、いかにも道楽の街という感じが良くないと、立ち消えになったと有ります。

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                              大正期の花街辺り(江南市史)





# by gionchoubu | 2022-01-30 18:15 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者のすべて その十

売春防止法が昭和31年4月1日に施工されて以来、トルコ、旧赤線、温泉マーク旅館とポン引等色んな形で売春は引き継がれましたが、その大きな受け皿になったのが、温泉地です。

これは、温泉地の業者は運命共同体であり、住人も何らかの形での共同体の一員である故、住民による告発が少なかった事が考えられるのと、警察も都市部の取り締まりを第一義と考え、温泉の取り締まりが当初、おざなりになった事も挙げられると思います。

ただ、そのあたりの温泉の風俗の状況は、現在となっては風俗雑誌に頼るしかありません。

全国を又にかけて調べるライターの取材費はどこから出てくるか、という疑問もでてきます。

温泉芸者のすべて その十_f0347663_21592974.jpg
檸檬社『別冊プレイパンチ』昭和45年3月号の記事「全国温泉芸者名まえと値段オール・ガイド」を書いた江見仙吉氏の記事は、双葉社『小説劇場』昭和45年2月1日発行の「温泉芸者ピンク度全調査」(著者名無し)と酷似しており、同じソースを基にしたのは間違いありません。同じ著者が情報を提供して報酬を得たものと考えますが、業界に疎い私には、その辺りの事情もよく分からないというのが正直な所です。

この号の別冊プレイパンチに「芸を売らずに肉体を売る若い芸者たち」三戸部輝氏の記事に都市部を含む芸者遊びの流れがでてきますので、今回は当時の温泉芸者遊びを紹介します。

当時の芸者には、子供の頃から芸を仕込まれ、唄う、踊る、弾く、芸者と違い、「第二芸者」格好のみ芸者で色を売る専門で、特に温泉に沢山いらっしゃいました。


皆生温泉では、芸を見せる芸者の芸妓組合以外に、第二芸者の共立検番があり、コツとしては、検番を通さず、内湯旅館という連れ込み専門旅館に、宿の女中さんを通して手配してもらうという事でした。

時々、花街跡や温泉を訪れて聞き込みをすると、検番が二つあったという話を聞くことがありますが。この第二芸者の検番を疑った方がいいかもしれません。

新潟の月岡温泉に至っては、旅館三十軒そこそこに、芸妓置屋が四十軒もあり、ヌード劇場も、パチンコもバーもない田んぼの中に検番すらない温泉芸者、そこに芸を求める客など居なかったのは想像に難くはありません。

浜松のステッキ・ガールも赤線終了後は、第二芸者の呼び名で四百五十人も在籍しており、タクシーの運転手を介在して旅館に呼べたとの事でした。


# by gionchoubu | 2021-10-27 22:00 | Comments(0)

アルサロの歴史

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昭和二十五年八月十五日、大阪千日前に開店したのがアルサロ第一号「ユメノクニ」です。アルサロはアルバイトサロンの略、接客女性の素人っぽさを営業のウリにした業種で、女子学生、OL、主婦などを固定給で雇ったのが画角的でした。

当時、カフェーやキャバレーの世界で、従業婦に固定費を出すのはあり得ぬことで、オープンする時「女にゼニ(固定給)出す?お前アホか」と言われたそうです。

毎日新聞のみで「ビール娘募集」の広告を出すと、三十人の採用に対して、九百人の応募があったといいます。

この年十二月、池田蔵相の「貧乏人は麦を食え」発言でわかる様に終戦直後の貧困を引きずっているなか、女性の社会進出のハードルは高く、かといって素人女性が自分の意志で赤線・青線を選ぶ道もあったでしょうが、踏み込む勇気の無かった女性も多かったでしょう。ソフトのイメージに固定給のビール娘は随分魅力的に映ったのだと思います。

当時のアルサロの募集広告に「上品な純喫茶スタイル。お迷うならずデパートにお勤めになる気持ちで安心しておいでください。」というのがあり、この辺りの事情をよく著していると思います。

さて、お客である男性の気持ちをアルサロは如何につかんだのか?当時赤線、青線、街娼全盛の中、小泉信一氏は赤線を「疑似恋愛」のルーツと位置付けています。

江戸期の出会い茶屋、明治以前からいた、楊弓店の矢場女、大正以降のカフェーの女給、そしてアルサロ、今のキャバクラに至るまで、日本にあいてプロでない女性と遊ぶ伝統の一環と私は思います。
昭和二十八年には東京でアルサロ第一号「赤い靴」がオープン以後続々と開業しました。

昭和三十年『全国女性街ガイド』で渡辺寛はアルサロを大阪見物の一つでキャバレーの大衆化されたアルバイトサロン、御堂筋横の令女プールに三百名もおり、主に学生、店員、未亡人の内職で三十パセントは素人的、指名して夜食に誘い、交渉すれば三人に一人は確実との事でした。

このアルサロの最盛期が昭和三十三年頃、売春防止法で行き場を失った女性の一部が流れ込みました。しかしこの働き手のアルサロ人気は結果従業員のプロ化を推し進め、素人と疑似恋愛を楽しむという本来の魅力を失い衰退していったのだと思います。

昭和四十七年の大阪万博のあと、寮や託児所をそろえ、その日の給料はその日に渡すミニサロンの進出で、アルサロもヒルサロなどの
新機軸を打ち出しましたものの、昭和四十七年、千日前のビル火災で営業中のアルサロ「プレイタウン」で多くの犠牲者を出したことも、衰退を促した一因とされます。

現在十三に一軒残る「アルサロふうりゅう」是非応援したいものです。

参照:『裏昭和史探検』小泉信一:『アルサロ盛衰記』磯田敏夫
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                                  昭和三十三年三月の朝日新聞

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# by gionchoubu | 2021-10-02 15:02 | Comments(0)

名月に寄せて

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九月十九日(日)祇園会館4階、牛禅・East Avenue 323 にて祇園東、富菊主催の「名月に寄せて」ご昼食と芸妓・舞妓の踊り鑑賞に行きました。

演目は 萩・桔梗 富瑛梨
    露は尾花 富津愈
    五万石  富多愛
    うつし心 富津愈 富多愛

地方は豊寿ねえさん

お食事、踊りの後はご歓談と記念撮影、アルコール無しですが艶やかさに酔っちゃいました。

次回は10月17日です。

# by gionchoubu | 2021-09-21 15:12 | 祇園東 | Comments(0)

高知 玉水新地

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                                 娼妓さん

明治になって高知市の旭村に玉水新地(上の新地)、下知(下の新地)に稲荷新地(明治元年)、五台山に吸江新地ができ、明治十年の芸娼妓数は併せて三百人で、他県からの出稼ぎが多く、下級士族の後家、孤女(こじょ)などが多かったといいます。

玉水新地は西のはずれで軍人の客が多く、稲荷新地は埋立地で浦戸港に接し、漁業関係の客が多かったといいます。

高知と言えば自由民権運動、玉水新地の玉江座、稲荷新地の広栄座では頻繁に懇親会が行われ、明治十四年には玉水新地の料亭得月楼で六回、稲荷新地の梅花楼、高知楼、此君亭香雲閣で六回、運動家の懇親会や演説が行われています。

こういう事情もあり、高知では芸妓社会と当時の民権家は単なる客以上の深い関係がありました。

この頃の高知県の遊娯場は料理茶屋、貸座敷、引手茶屋、待合茶屋
劇場茶屋、玉突、室内銃射撃場、諸見セ物に分類されたものの、貸座敷、引手茶屋、料理屋の分類は曖昧だったと言います。

『全国遊廓案内』昭和五年によると、制度は居稼ぎ、写真制で廻しは取らないとの事でした。

同年、内務省警保局『公娼と私娼』では玉水新地に業者二十七軒、娼妓二百十九人、下知新地(稲荷新地)に業者十二軒、娼妓百七人となります。

ちなみに、高知県には大正初めに、須崎町琴平新地、中村町岩崎新地、宿毛町宿毛新地が新たに貸座敷地域として追加公認されたものの『公娼と私娼』には宿毛新地に業者四、娼妓十三人がいるのみで、他の二新地は免許のみで、昭和以降、実質営業していなかった様です。

昭和に入ると徐々に不景気になり、得月楼や大貞楼などの料理屋からしだいに遠のき、昭和四年頃にはカフェーが百軒超え、女給は営業時間中でも、客と二人で出かけ、営業も午前二時、三時を超え、これを規制するため、昭和十二年県令十二号によって「料理屋飲食店芸妓置屋妓給仕婦取締規則」が交付され、バーは特種飲料店になりました。

昭和十二年土讃線全線開通頃が戦前の遊廓全盛時代で、同年七月に勃発した日華事変以降、娼妓・遊興客ともに漸減して行きます。
最盛期には澤山楼、扇亭、得月楼などの大店(おおみせ)には娼妓二十四、五人以上、小店で十人くらい、娼妓は一日平均四~五人の客をとったといいます。

昭和十九年三月五日、太平洋戦争も終盤を迎える頃、高知県では料理店二百二十六店、カフェー十二店、芸妓置屋八十五店、芸妓百三十人に休業を命じました。

戦後、赤線時代を迎え、昭和二十六年末に、高知市では中央、松淵、旭、下街の四地区と、弘岡町の一部や玉水町などで営業している者二百四十五人、売春婦二百六十四人を数えました。この数には街娼は含まれていません。

昭和二十九年六月には東部貸席協同組合に属する浦戸町、朝倉町、弘岡町、東唐人町などの表向きは飲食店で、実態は売春宿となっている店が四百軒にも上りました。

昭和三十年『全国女性街ガイド』渡辺寛によると、宿では女中さん、仲居さんが芸もし、宴会を切り盛りしてくれるので、チップと酒代
で、ねてもくれるが、酒は相当飲む、との事でした。

昭和初期の花柳界を描き、映画化もされた宮尾登美子作の陽暉楼は
明治三年、玉水新地鏡川畔に松岡寅八により創業、南海第一楼と唄われました。

明治十一年に現在の得月楼に名前を変え、明治中期に本店を稲荷新地に移し、玉水新地のお店は別館になりました。

得月楼は戦災で壊滅、現在の得月楼は旧得月楼中店のところに復興したものです。

参照(文中以外):『土佐史団233号』『高知市史上巻』『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 高知』『月刊土佐1984第十二号』和田書房
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                                 得月楼大広間
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# by gionchoubu | 2021-09-17 14:19 | 亡くなった四国の游所 | Comments(0)