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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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甲府若松町の花街

甲府若松町の花街_f0347663_21001494.jpg
                               昭和七年、桜が満開の舞鶴公園

続いて甲府の花街についてですが、『甲府街史』中丸眞治、楠裕次共著によると、甲府の芸妓は江戸時代、柳沢吉保(元禄時代辺り)のころに端を発し、柳町の飯盛り女の流れを組みました。

明治二十五年の県議会で置屋税、芸者税が決まり、二年後に芸妓置屋は全て春日町、桜町付近から若松町へ移転され“若松芸者”の名が生れました。

ですから同じく飯盛り女の流れを組み、明治四十年に新柳町から穴切に移った遊廓とは別の母体だった事が伺えます。

移転時の置屋は六軒、芸妓は十四人で全て内娘(養女)として扱われ、芸事も一流の師匠が教え込み芸妓の気位も髙かったようです。

やがて花柳界は肥大化し、大正末期には若松検番から吾妻検番が分離独立し昭和初期には両検番に六十六軒の置屋に芸者二百九十六人を数えました。

松川二郎『全国花街めぐり』昭和五刊によると、花街は若松町から東青沼に渡る地域で、待合、貸席(関西で言うお茶屋)は無く、芸妓は料理店に入りました。代表的な料理屋は太田町公園内の「望仙閣」と桜町三丁目の「開峡楼」の二軒。

芸妓にあまり美人が居ないが芸のほうでは、ぽんた、京子、駒二、吉次、らく、かえ
で、美佐子、きみ松が先ず押しも押されぬ、と松川が書いているので、やはり可なりの芸どころであったのが伺えます。

芸妓の特別祝儀(大っぴらには言えないのでこの表現、つまり芸妓と寝る事)は五円からあるが、十円乃至二十円が普通の相場で、気の利いたのは、甲府人の遊楽郷の湯村温泉に出掛ける、との事でした。

特有の歌謡は、古くからあるものに、「粘土節」、長唄の「甲斐の四季」、名勝宣伝のため新しく作曲された「甲州音頭」が挙げられていました。

『甲府街史』によると、望仙閣と開峡楼以外に三省楼、八百竹、吹よせ等芸妓の入る料亭は数十軒あり『甲府案内』昭和七年には市内の料理店二一七軒、飲食店三〇五、軒、旅館八十軒、銭湯三十四軒、そして芸妓置屋は若松町、東青沼町、穴切に併せ九十二軒の置屋に三百六十六人の芸妓がおりました。

又、明治二十五年の火災で春日町に移った後、二、三年で姿を消しましたが、関東八座の一つだった亀屋座の流れを組む若松座が土橋の近くに有りました。

その後、花街は第二次大戦中「戦時非常処置令」による料理店の休業で影響受けましたが、戦後二十三年に「甲府芸妓組合」発足時四十人でスタート、二十九年に稽古場、事務所を兼ねる「若松会館」を建設、芸妓の資質向上のための学校制度、共済制度などの充実を図りました。

平成の初め頃だと思いますが当時の老経営者がある宴席にて、

「芸者という職業の、歴史的、道徳的な問題はあるずらけんど、若街(じゃくがい、若松町)の芸者には何といっても「芸」があった、昭和三十三年からは、三味線は勿論のこと小唄、長唄、清元、常磐津などの邦楽全般、日本舞踊などを教える学校が芸妓組合にあって、それぞれの科目を専門のお師匠さんが教えた、というから半端じゃないよ、大袈裟に言やあ日本文化の担い手だ」

「それに引き換え、このコンパニオンのお嬢さんたちの会話や仕草は、教養も色気も感じないね。ただ若けりゃいいってもんじゃない、でもあんた達はこっちの方がいいずらね。」

と若社長は言われたが、本格的なお座敷遊びの経験のない世代は比較の仕様が有りませんでした。

昭和三十六年に石和に温泉が湧いたことも影響し、やがて若松町の花街は無くなりました。

甲府若松町の花街_f0347663_21024182.jpg



# by gionchoubu | 2022-04-12 21:04 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

甲府、穴切遊廓

甲府、穴切遊廓_f0347663_14170129.jpg
                        当時の面影はありません。

『中近世 甲斐の社会と文化』の金子誠司「甲州柳町の飯盛女」によると、甲府の遊廓は甲州道中の宿場が宿の助成を理由として、新柳町に飯盛女が近世中期以後度々願いだされ、そのたび期限付きで許されましたが、明治三年に新柳(新柳町遊廓)に公認され、柳町の幾つかの旅籠屋も移りました。

『全国遊廓案内』昭和五年刊によるとその後明治四十年の大火で全焼、明治四十一年に代官山の仮営業所から穴切町に移転、穴切遊廓として誕生しました。

店は陰店で、娼妓は居稼ぎ、遊興は時間制で廻しは取りませんでした。費用は一等から四等まで区別があり、芸妓も呼べました。

一等店は一時間一円四十銭、二等店は一円三十銭、三等店が一円二十銭、四等店九十銭で共に台の物は含みません。

一等店は甲子楼一軒、二等店は大黒楼と八幡楼の二軒、三等店十六軒、四等店芸井楼と遊月楼二軒の合計二十一軒でした。

『公娼と私娼』昭和六年、内務省警保局によれば業者二十一軒に百五十九人の娼妓がいたので、これは一軒一軒の妓楼はかなり大きなものだったはずです。

『甲府市史通史編第三巻近代』によれば、貸座敷組合は業界不振を理由に昭和七年値下げを断行、上記一等店一円四十銭が一円二十銭に四等店九十銭が七十五銭になりました。

ちなみに、全国遊廓案内、公娼と私娼、甲府市の貸座敷数、制度、料金が整合性がとれており、この県において全国遊廓案内は正確であると言えます。

穴切新地にも芸妓がいたので、昭和四年『全国花街めぐり』松川二郎にも記述が有りました。

同誌によれば、東西七十五間、南北八十間に限られた方形の一区画で、大門を入ると緑樹の植込を中央に和風二階建て二十一軒の妓楼が軒を連ね相接し、緑樹の間に五十余個の電灯が燈り雅趣を沿え、大門の外に付属の小料理屋と芸妓屋が櫛灯していたとの事です。

ただ、全国遊廓案内と違い一等店は甲子(きのえ)と大国、二等店が八幡と京巴になっていました。

昭和二年、遊興制度は時代の趨勢に鑑み、それまでの酒食本位から、娼妓本位に移行、仕切制(昼・夜、午前・午後各六時をもって仕切る)、半仕切(仕切をさらに二分)

と時間制の併用で、時間制で三円、半仕切で五、六円といった所でした。

『甲府市史通算編第四巻現代』によれば、戦災で焼失した穴切遊廓は占領軍の公娼制度の廃止令に従って十三軒の業者は解散したものの、公娼地域から特殊飲食店、つまり赤線として存続しました。

昭和三十年、甲府警察署で穴切特飲街の二十五人の接客婦(平均年齢二十三才、未婚者二十名、既婚者五名)を招いた実施調査では、接客婦になった理由は貧困の為と答えたものが二十四人、ほぼ全員でした。

売り上げの取り分は業者六分、女性四分が二十一人、五分五分が四人という事でした。

『全国女性街ガイド』昭和三十年渡辺寛著では、戦前の穴切遊廓が焼けてから分散し、通人はこれを紫水晶と呼び、穴切町から仲町、錦町にかけ百軒、その数四百三十名。

さて、今回訪問した際、年配のタクシーの運転手の方の聞き取りによれば、穴切遊廓の跡のアパートには赤線時代からの侠客が住み、赤線終了後も大きな喧嘩とかあったそうです。又画像の辺りには昭和50年頃まで大門が遺っていたそうです。


# by gionchoubu | 2022-04-10 14:17 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者のすべて その十一

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東映温泉芸者シリーズの第一弾は昭和436月公開の石井輝男監督『温泉あんま芸者』芸で身をたてる芸妓と恰好は芸妓だが色専門のあんま芸妓の対立で座敷でビール瓶を使った野球拳などが見られます。粟津温泉ロケ、女優、橘ますみ、三浦洋子、男優には金子信夫、由利徹、蘆屋雁之助等

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第二弾は昭和446月公開の『温泉ポン引女中』南紀白浜温泉、ホテル・ニュー白浜ロケ、新婚さん誘致のイメージアップ派の旅館によるピンク系旅館の問い詰めの場面ありました。芸妓は一瞬映るだけでした。女優橘ますみ、葵美津子、男優に岡田真澄、林真一郎、中田ダイマル・ラケットも。監督荒井美三雄

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第三弾、昭和45年8月公開『温泉こんにゃく芸者』片山津温泉、たかやま紫雲荘ロケ、片山津温泉の芸者衆の郷土芸能的なお座敷踊りが見られる。女優女屋実和子、男優が上田吉次郎、常田富士夫、小松方正、小池朝雄、荒木一郎、殿山泰司と脇が贅沢、話としてもシリーズ一、二の出来ばえ。監督中島貞夫

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第四弾、昭和467月公開『温泉みみず芸者』舞台は西伊豆土肥温泉、なんといっても、全国の花街で、半玉が着物の裾を徐々に上げるチラリズムのお座敷遊び「浅い川」の場面があります。女優(新人)池玲子、(新人)鈴木美樹、男優、芦屋雁之助、由利徹、小池朝雄、名和宏、殿山泰司、山城新伍、大泉崑、田中小実昌、小島慶四郎と豪華。監督鈴木則文。こちらも見応えあり。

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第五弾昭和47年『温泉スッポン芸者』冒頭が京都のストリップの殿堂DX東寺、舞台は城崎温泉、シリーズ第五弾、作家の田中小実昌と芸者の野球拳が見られる。仁義なき戦いシリーズが始まる前年の公開で、金子信雄、名和宏、山城新伍、川谷拓三、クレジット無しで菅原文太らの主要人物が伸び伸びと演技しているのが興味深いさらに、笹沢左保、菅貫太郎、岡八郎、殿山泰司、団鬼六、福地泡介、由利徹、月亭可朝、大泉滉と超豪華、主演女優は杉本美樹

監督鈴木則文。私としてはシリーズ一番好きな作品。

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最終第六弾、昭和48年7月公開『温泉おさな芸者』伊豆天城温泉郷が舞台。タコ八郎が芸者のはだけた股をパターで狙うお座敷ゴルフの場面あり。女優は深田ミミ、沢リミ子、男優は大泉混、太宰久雄、山城新伍等。監督鷹森立一。

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そして東映の温泉芸者シリーズ終了後、日活ロマンポルノとして『信州シコシコ節♨芸者VSお座敷ストリッパー』が昭和50年に封切られました。舞台はストリップで全国的に有名な信州・上山田温泉で、浅草ロック座を代表する日舞ショーの宝京子の一座も出演、お座敷ストリップや花電車を披露しました。監督白井伸明、俳優は秋津令子、高橋明、谷本一、庄司三郎、丘奈保美、吉川マリ

この温泉芸者を題材にした映画郡が封切られた昭和43年から昭和50年が日本全国の温泉芸者の桃色世界のピークと思います。関東以北の映画舞台が無いのは東映の6作品の内5作品が東映京都作品だったからと思います。

温泉芸者が性の対象になったのは、昭和33年売春防止法が施行されてから、トルコ風呂と並んで、その受け皿になったからなのでしょう。全国の赤線、青線に対する警察の取り締まりは、その威信をかけ、過酷を極めました。

赤線も青線が町の一部だったのに対し、温泉地は言わば丸ごと運命共同体で、住人はなにかしら温泉経済と繋がっている訳で、言わば住民による告発が声として当局に届きにくかった側面があったと思います。


しかし、温泉地にも、映画本編にもあるように、こういった風潮に反対する健全派勢力との対立で、年を経るごとに温泉歓楽地側の立場は脆弱になり、国鉄が女性旅行者の増加を大きな目的としたディスカバー・ジャパンのキャンペーンが浄化派のバックボーンになり、全国の温泉地から、性の対象としての温泉芸者を排除する形になりました。


# by gionchoubu | 2022-03-21 13:11 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

岐阜県養老町、高田の花街

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岐阜県養老町の花街については、養老町図書館にて、町史他を調べましたが全く実態がつかめず、受付の方たちにお聞きしたら、図書館のホームページのリンクの『タキゾウくんの養老ノート』に記述があるとの事でしたので、参照させて頂きました。

養老町では昭和30~40年に花柳会が賑わったとの事でしたが、創立年代とかは分かりません、文面の内容からか考えて戦前から有ったとみていいでしょう。

置屋は、玉野屋(たまのや、北浦町)巽寮(たつみりょう、北浦町)蔦の屋(つたのや、城前町)吟月(きんげつ、島田)鈴竜(すずりゅう、城前町)そして、場所は分かりませんが2~3人の芸妓を抱えていた秀有の6軒でした。この他にも独立した芸妓・地方の個人置屋もありました。

年配の運転手の方が、今でも残る4軒を教えてくれました。置屋は客を入れることがないので、日本どこでも仕舞屋造りが多く、意匠・装飾は控えるのですが、示された置屋には画像で見る様に、お茶屋、料亭風に装飾された家もありました。

『タキゾウくんの養老ノート』によると、宴会は竹取姫の宿養老館、掬水、不忘園が多く、老舗の千歳楼は別格で一人の芸妓しか入るのは許されなかったといいます。

最盛期の昭和40年代には、養老町高田に芸妓47人、同じころ墨俣には100人近く、池野にも7,80人いました。

県事務所、保健事務所、警察関係、町村会、消防、農協関係の官庁のお客だけで花柳界は潤い、民間のお客は余り要らないという雰囲気だったというのが高田花街の特徴だと考えられます。

それでも、ライオンズクラブ、青年会議所、ロータリークラブ等の接待に利用され、200人を越える、建設組合の総会・懇親会には養老館が利用されました。

高度成長期は花街も忙しく、高田で宴会した後、柳ケ瀬まで飲みに行く人も有りました。不忘園や松園などの町屋での仕事も多く、地元の人も、会社の忘・新年会や事あるごとに宴会しました。

その他、花見、紅葉狩り、蛍狩り、又、ゴルフの遠征の泊り客の馴染の客もあり、野球拳が定番でした。

昭和50代後半には、置屋制度をつぶそうという動きが出てきました。これは座敷の花代は、料理屋に少し御礼をした残りを、検番と芸妓が所属する置屋で折半するので、これを置屋の摂取ととらえ、芸妓が独立すれば、花代は全て芸妓のもとに入るという論法ですが、いざ芸妓が独立すると、簡単にお座敷を休んだり、客から値切られたりと、いい結果が出ず、花柳界衰退の一因にもなった様です。

検番に関しては第二検番の記述があるので、二検番制度の様でしたが、地元でお聞きしたら、検番そのものをご存じなかったので、随分前に、置屋制度と共に無くなった様です。

養老町の置屋(制度でなく、芸妓住居の意味だと思います)は平成9年に全て廃業しました。
花街の南にあった廃業された旅館、丸京を訪ねご主人にお話を伺った所、丸京さんも芸妓が入る旅館で、現在もお一人芸妓さんが高田にいらっしゃるとの事です。

養老の花街は養老の滝がある養老では無く、一つ手前の美濃高田で降ります。
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この三軒は同じ建物
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丸京さん
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料亭跡との事



# by gionchoubu | 2022-03-02 12:29 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

江南市、布袋の喜楽園

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昭和九年発行『町史布袋町大観』の花柳界に、本町の花柳界は大正二年七月に、竹葉楼、さわや、だるま寿し、柏屋、新開亭、山口、十人の女中を含み喜楽連という名称で組合を組織しました。

大正九年に、公認布袋町喜楽連として認可されました。その時の組合長がだるま、副組合長、柏屋、評議員、竹葉楼と冨田屋、組合員は大正館、朝日屋、新角屋、成田家、藤丸屋、梅の家、だるま、竹葉楼、柏屋、とり仙、宮田屋、さわや、林家、山田屋、高砂屋で、芸妓十三人。

昭和三年に芸妓の花代を、本花一時間(遊興税小物料共)金八十八銭に、中花一時間(遊興税小物料共)金七十銭に値下げをすると暫時隆盛し、昭和八年に料理業者二十一軒、芸妓置屋十三軒、芸妓四十三人、女中・女給の数十六人、そしてさらなる発展を求め布袋喜楽連料理業組合と布袋喜楽連芸妓置屋組合に分離し、昭和九年に芸妓は五十八人になりました。

さらにこの年、六月一日より診療所を設置して芸妓の全身検査を行い衛生施設の改善を図ったとあります。これは明らかに性病検査が意図、近くに遊廓が無かった事もあり、芸妓も娼妓の役目を負ったのでしょう。さらに検番も新設中でした。

これに先立昭和七年には布袋洋食組合昭栄会が、入船食堂、八千代食堂、さゝや食堂、さわや食堂、ミヤザキ、日ノ出軒、成栄食堂で発足、昭和九年に女給十二人、町史布袋町大観に、劇場前のさゝ屋が、布袋代表的設備のカフェーとして、栄町のキャフェー日ノ出軒の宣伝が載っていました。

昭和三十三年の『江南市商工名鑑』に芸妓置屋として、布袋栄町に芸妓斡旋所が載ります。

料理志だし・・・栄町に千代鶴、本町一に木村屋、本町四に末広

料理・・・栄町に米本、大正館、新いろは、いろは

料理旅館・・・本町三に新角屋の名が見えます。

『江南市史』の(明治、大正期)地図には栄町~本町二、三丁目に布袋座、料理大正館、料理いろは、旅館柏屋を始め、料理屋、人力車、置屋が顔を並べますので、この辺りが花街だった事が分かります。
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割烹末広さん
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布袋座
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キャフェ―日ノ出軒
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# by gionchoubu | 2022-01-31 20:50 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(2)