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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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西木屋町 乙女倶楽部 その二

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帳場
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左奥にヤトナの札があります。

乙女倶楽部の最盛期にはヤトナさんも20人以上いて二階の座敷に10人くらい寝ている事もありましたが、通いのヤトナさんの方が多かったようです。

台所の奥に棚があり、食器の入った茶色の漆塗りの蓋つき箱が並んでいて、その箱を机にしてヤトナさんは食事していました。食事の支度は澄子さんがしました。

家族との接点は少なく、息子さんが二階に上がることも殆ど無かったようですが、同じ家なので、着物姿のヤトナさんが生活エリアにきて、ちいさい時は抱っこされる事もありました。

澄子さんの夫で、今回情報提供頂いた智至さんの父親は、この職業に良いイメージをお持ちで無かった様です。

正月には芸事に関して、色々な方が乙女倶楽部に挨拶にこられ、藤舎呂船もそのお一人でした。Wikipediaによれば、長唄・藤舎流・囃子方の家元で、現在は六代目で先斗町の囃子方の先生です。

画像の名前の入った札は帳場にあり、二段になっており、下から上に移動させ利用しました。天井近くの大きな名札は、さらに以前に使われていたもので、共にヤトナにお座敷がかかっているか見るものだったのでしょう。

乙女倶楽部一番のお得意さんは鶴清と弁慶楼で次が鮒鶴で、此の三軒とも同族経営でした。弁慶楼はもうありませんが嵐山弁慶もこの流れを組みます。

南禅寺菊水、祇園広島、長楽館などからも良く呼ばれました。昭和四十年代になると私が勤めるギオン福住(旅館)にもよく行ったとの事」なので、先代の女将のヤトナ感はこのときの記憶だったと思います。生存中、もっと聞き取れればよかったと今は悔やまれます。

そして、昭和四十年の後半、時代で言うと大阪万博が終った後、乙女倶楽部は終焉を迎えました。

非売品でありますが、加藤政洋研究所が2014年に発行した『加藤藤吉写真集~京都編 花街研究のパイオニアが写した昭和三0年代の街・建築・祭礼』に「新研見番京東山」、即ち下河原の新研芸妓の検番の写真が有ります。

鉄筋と思われる二階建ての、瀟洒な建物で、着物姿の新研さんが建物に入る様子が収められており、説明に、「玄関右手には、黒板のようなものが掲げられている。おそらく、お稽古のスケジュールが記されていたのだろう。」とあります。
 
そして、“「京都名物」として知られた雇仲居は、戦後、昭和30年を前後する頃から自ら「新研芸妓」と名乗って、それまでのやや奔走な業態から、花街に類する制度・組織を模倣して変容を遂げっていった。”

と実に簡潔、見事に新研芸妓の性格を言い表しています。
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                              乙女倶楽部
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ヤトナさんの靴箱
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# by gionchoubu | 2022-05-20 10:24 | 雇仲居 | Comments(4)

西木屋町 乙女倶楽部 その一

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昭和九年の『京都市商工人名録』に雇仲居倶楽部の項があり、46軒の倶楽部が載っており内訳をみると上京2軒、中京16軒、下京10軒、東山16軒、左京1軒、右京1軒となっています。

右京区は株式会社嵐山倶楽部で、ヤトナは嵐山の旅館、又、左京では南禅寺周辺の料亭や旅館に入ったと思われます。

中京は中木屋町の料亭や、当時この辺りに多くあった席貸兼旅館にも入ったのでしょう。

東山では下河原と大和大路四条下に雇仲居俱楽部が多く、今回紹介させていただく乙女倶楽部のあったのは西木屋町仏光寺上ルで、下京の10軒の内9軒はこの辺りに集中していました。

祇園や宮川町といった花街が限定された区域にしかお茶屋、置屋が営業許可されないのに対し雇仲居倶楽部は、いわば需要が有れば何処でも営業できた訳で、ヤトナが自由に何処にでも入れた事が分かります。

上記昭和九年の商工人名録や同年の『京阪神職業別電話名』で乙女倶楽部の経営者が竹葉喜市です。経営者が竹葉市兵衛になっている年代の名簿もありますが、これは喜市が先祖代々名乗っていた市兵衛に改名したためです。

ちなみに下河原にあった東乙女倶楽部の経営者はお兄さんである竹葉市次郎で、こちらも安兵衛に改名しております。

今回情報を提供してくれた竹葉智至さんによると、乙女倶楽部は大正九年に木屋町三条で営業許可を受け昭和四年に西木屋町に移転しました。

智至さんのお母さんの澄子さんは昭和七年生まれで、銀行員をされていましたが、昭和三十五年に市兵衛が他界した後に、市兵衛のご子息と結婚しました。

ところがこの方(智至さんの父)が雇仲居倶楽部の経営に興味が無く別の商売をされていたので、実質乙女倶楽部を経営していた先代の奥さんが、丼勘定で借金を抱えていたのを、水商売の経験のない澄子さんが女将となり乙女倶楽部を軌道に乗せました。

昭和三十五年当時、下木屋町には三軒の雇仲居倶楽部があり、この三軒で組合を作っていたようです。組合長が志摩さんで仏光寺木屋町下がるにあり検番をかねていたのでしょう。こちらは昭和三十七年の電話帳でみると相生倶楽部と考えられます。

もう一軒はすぐに廃業され澄子さんの記憶にありません。尚この電話帳に乙女、新研芸妓 西木屋町と下河原両方に電話番号が載っています。

ちなみに昭和九年の『京都市商工人名録』によると西木屋町、仏光寺下に雇仲居置屋業組合事務所があり主任中島直義となっていました。

その後、相生倶楽部も廃業して乙女倶楽部だけになり、乙女倶楽部は下河原安井の突き当りで下河原通りの東側の東の組合に入りました。
電話帳に西木屋町と下河原の両方に電話番号が載っていたのは丁度移転の最中だったと考えられます。



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乙女倶楽部と、東の組合の慰安旅行で真ん中のひときわ若い女性が澄子さんで右側の男性が当時の組合長の釣さんです。


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こちらは木屋町三条にあった頃の乙女倶楽部と思われる写真

# by gionchoubu | 2022-05-06 12:45 | 雇仲居 | Comments(0)

甲府若松町の花街

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                               昭和七年、桜が満開の舞鶴公園

続いて甲府の花街についてですが、『甲府街史』中丸眞治、楠裕次共著によると、甲府の芸妓は江戸時代、柳沢吉保(元禄時代辺り)のころに端を発し、柳町の飯盛り女の流れを組みました。

明治二十五年の県議会で置屋税、芸者税が決まり、二年後に芸妓置屋は全て春日町、桜町付近から若松町へ移転され“若松芸者”の名が生れました。

ですから同じく飯盛り女の流れを組み、明治四十年に新柳町から穴切に移った遊廓とは別の母体だった事が伺えます。

移転時の置屋は六軒、芸妓は十四人で全て内娘(養女)として扱われ、芸事も一流の師匠が教え込み芸妓の気位も髙かったようです。

やがて花柳界は肥大化し、大正末期には若松検番から吾妻検番が分離独立し昭和初期には両検番に六十六軒の置屋に芸者二百九十六人を数えました。

松川二郎『全国花街めぐり』昭和五刊によると、花街は若松町から東青沼に渡る地域で、待合、貸席(関西で言うお茶屋)は無く、芸妓は料理店に入りました。代表的な料理屋は太田町公園内の「望仙閣」と桜町三丁目の「開峡楼」の二軒。

芸妓にあまり美人が居ないが芸のほうでは、ぽんた、京子、駒二、吉次、らく、かえ
で、美佐子、きみ松が先ず押しも押されぬ、と松川が書いているので、やはり可なりの芸どころであったのが伺えます。

芸妓の特別祝儀(大っぴらには言えないのでこの表現、つまり芸妓と寝る事)は五円からあるが、十円乃至二十円が普通の相場で、気の利いたのは、甲府人の遊楽郷の湯村温泉に出掛ける、との事でした。

特有の歌謡は、古くからあるものに、「粘土節」、長唄の「甲斐の四季」、名勝宣伝のため新しく作曲された「甲州音頭」が挙げられていました。

『甲府街史』によると、望仙閣と開峡楼以外に三省楼、八百竹、吹よせ等芸妓の入る料亭は数十軒あり『甲府案内』昭和七年には市内の料理店二一七軒、飲食店三〇五、軒、旅館八十軒、銭湯三十四軒、そして芸妓置屋は若松町、東青沼町、穴切に併せ九十二軒の置屋に三百六十六人の芸妓がおりました。

又、明治二十五年の火災で春日町に移った後、二、三年で姿を消しましたが、関東八座の一つだった亀屋座の流れを組む若松座が土橋の近くに有りました。

その後、花街は第二次大戦中「戦時非常処置令」による料理店の休業で影響受けましたが、戦後二十三年に「甲府芸妓組合」発足時四十人でスタート、二十九年に稽古場、事務所を兼ねる「若松会館」を建設、芸妓の資質向上のための学校制度、共済制度などの充実を図りました。

平成の初め頃だと思いますが当時の老経営者がある宴席にて、

「芸者という職業の、歴史的、道徳的な問題はあるずらけんど、若街(じゃくがい、若松町)の芸者には何といっても「芸」があった、昭和三十三年からは、三味線は勿論のこと小唄、長唄、清元、常磐津などの邦楽全般、日本舞踊などを教える学校が芸妓組合にあって、それぞれの科目を専門のお師匠さんが教えた、というから半端じゃないよ、大袈裟に言やあ日本文化の担い手だ」

「それに引き換え、このコンパニオンのお嬢さんたちの会話や仕草は、教養も色気も感じないね。ただ若けりゃいいってもんじゃない、でもあんた達はこっちの方がいいずらね。」

と若社長は言われたが、本格的なお座敷遊びの経験のない世代は比較の仕様が有りませんでした。

昭和三十六年に石和に温泉が湧いたことも影響し、やがて若松町の花街は無くなりました。

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# by gionchoubu | 2022-04-12 21:04 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

甲府、穴切遊廓

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                        当時の面影はありません。

『中近世 甲斐の社会と文化』の金子誠司「甲州柳町の飯盛女」によると、甲府の遊廓は甲州道中の宿場が宿の助成を理由として、新柳町に飯盛女が近世中期以後度々願いだされ、そのたび期限付きで許されましたが、明治三年に新柳(新柳町遊廓)に公認され、柳町の幾つかの旅籠屋も移りました。

『全国遊廓案内』昭和五年刊によるとその後明治四十年の大火で全焼、明治四十一年に代官山の仮営業所から穴切町に移転、穴切遊廓として誕生しました。

店は陰店で、娼妓は居稼ぎ、遊興は時間制で廻しは取りませんでした。費用は一等から四等まで区別があり、芸妓も呼べました。

一等店は一時間一円四十銭、二等店は一円三十銭、三等店が一円二十銭、四等店九十銭で共に台の物は含みません。

一等店は甲子楼一軒、二等店は大黒楼と八幡楼の二軒、三等店十六軒、四等店芸井楼と遊月楼二軒の合計二十一軒でした。

『公娼と私娼』昭和六年、内務省警保局によれば業者二十一軒に百五十九人の娼妓がいたので、これは一軒一軒の妓楼はかなり大きなものだったはずです。

『甲府市史通史編第三巻近代』によれば、貸座敷組合は業界不振を理由に昭和七年値下げを断行、上記一等店一円四十銭が一円二十銭に四等店九十銭が七十五銭になりました。

ちなみに、全国遊廓案内、公娼と私娼、甲府市の貸座敷数、制度、料金が整合性がとれており、この県において全国遊廓案内は正確であると言えます。

穴切新地にも芸妓がいたので、昭和四年『全国花街めぐり』松川二郎にも記述が有りました。

同誌によれば、東西七十五間、南北八十間に限られた方形の一区画で、大門を入ると緑樹の植込を中央に和風二階建て二十一軒の妓楼が軒を連ね相接し、緑樹の間に五十余個の電灯が燈り雅趣を沿え、大門の外に付属の小料理屋と芸妓屋が櫛灯していたとの事です。

ただ、全国遊廓案内と違い一等店は甲子(きのえ)と大国、二等店が八幡と京巴になっていました。

昭和二年、遊興制度は時代の趨勢に鑑み、それまでの酒食本位から、娼妓本位に移行、仕切制(昼・夜、午前・午後各六時をもって仕切る)、半仕切(仕切をさらに二分)

と時間制の併用で、時間制で三円、半仕切で五、六円といった所でした。

『甲府市史通算編第四巻現代』によれば、戦災で焼失した穴切遊廓は占領軍の公娼制度の廃止令に従って十三軒の業者は解散したものの、公娼地域から特殊飲食店、つまり赤線として存続しました。

昭和三十年、甲府警察署で穴切特飲街の二十五人の接客婦(平均年齢二十三才、未婚者二十名、既婚者五名)を招いた実施調査では、接客婦になった理由は貧困の為と答えたものが二十四人、ほぼ全員でした。

売り上げの取り分は業者六分、女性四分が二十一人、五分五分が四人という事でした。

『全国女性街ガイド』昭和三十年渡辺寛著では、戦前の穴切遊廓が焼けてから分散し、通人はこれを紫水晶と呼び、穴切町から仲町、錦町にかけ百軒、その数四百三十名。

さて、今回訪問した際、年配のタクシーの運転手の方の聞き取りによれば、穴切遊廓の跡のアパートには赤線時代からの侠客が住み、赤線終了後も大きな喧嘩とかあったそうです。又画像の辺りには昭和50年頃まで大門が遺っていたそうです。


# by gionchoubu | 2022-04-10 14:17 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

温泉芸者のすべて その十一

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東映温泉芸者シリーズの第一弾は昭和436月公開の石井輝男監督『温泉あんま芸者』芸で身をたてる芸妓と恰好は芸妓だが色専門のあんま芸妓の対立で座敷でビール瓶を使った野球拳などが見られます。粟津温泉ロケ、女優、橘ますみ、三浦洋子、男優には金子信夫、由利徹、蘆屋雁之助等

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第二弾は昭和446月公開の『温泉ポン引女中』南紀白浜温泉、ホテル・ニュー白浜ロケ、新婚さん誘致のイメージアップ派の旅館によるピンク系旅館の問い詰めの場面ありました。芸妓は一瞬映るだけでした。女優橘ますみ、葵美津子、男優に岡田真澄、林真一郎、中田ダイマル・ラケットも。監督荒井美三雄

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第三弾、昭和45年8月公開『温泉こんにゃく芸者』片山津温泉、たかやま紫雲荘ロケ、片山津温泉の芸者衆の郷土芸能的なお座敷踊りが見られる。女優女屋実和子、男優が上田吉次郎、常田富士夫、小松方正、小池朝雄、荒木一郎、殿山泰司と脇が贅沢、話としてもシリーズ一、二の出来ばえ。監督中島貞夫

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第四弾、昭和467月公開『温泉みみず芸者』舞台は西伊豆土肥温泉、なんといっても、全国の花街で、半玉が着物の裾を徐々に上げるチラリズムのお座敷遊び「浅い川」の場面があります。女優(新人)池玲子、(新人)鈴木美樹、男優、芦屋雁之助、由利徹、小池朝雄、名和宏、殿山泰司、山城新伍、大泉崑、田中小実昌、小島慶四郎と豪華。監督鈴木則文。こちらも見応えあり。

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第五弾昭和47年『温泉スッポン芸者』冒頭が京都のストリップの殿堂DX東寺、舞台は城崎温泉、シリーズ第五弾、作家の田中小実昌と芸者の野球拳が見られる。仁義なき戦いシリーズが始まる前年の公開で、金子信雄、名和宏、山城新伍、川谷拓三、クレジット無しで菅原文太らの主要人物が伸び伸びと演技しているのが興味深いさらに、笹沢左保、菅貫太郎、岡八郎、殿山泰司、団鬼六、福地泡介、由利徹、月亭可朝、大泉滉と超豪華、主演女優は杉本美樹

監督鈴木則文。私としてはシリーズ一番好きな作品。

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最終第六弾、昭和48年7月公開『温泉おさな芸者』伊豆天城温泉郷が舞台。タコ八郎が芸者のはだけた股をパターで狙うお座敷ゴルフの場面あり。女優は深田ミミ、沢リミ子、男優は大泉混、太宰久雄、山城新伍等。監督鷹森立一。

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そして東映の温泉芸者シリーズ終了後、日活ロマンポルノとして『信州シコシコ節♨芸者VSお座敷ストリッパー』が昭和50年に封切られました。舞台はストリップで全国的に有名な信州・上山田温泉で、浅草ロック座を代表する日舞ショーの宝京子の一座も出演、お座敷ストリップや花電車を披露しました。監督白井伸明、俳優は秋津令子、高橋明、谷本一、庄司三郎、丘奈保美、吉川マリ

この温泉芸者を題材にした映画郡が封切られた昭和43年から昭和50年が日本全国の温泉芸者の桃色世界のピークと思います。関東以北の映画舞台が無いのは東映の6作品の内5作品が東映京都作品だったからと思います。

温泉芸者が性の対象になったのは、昭和33年売春防止法が施行されてから、トルコ風呂と並んで、その受け皿になったからなのでしょう。全国の赤線、青線に対する警察の取り締まりは、その威信をかけ、過酷を極めました。

赤線も青線が町の一部だったのに対し、温泉地は言わば丸ごと運命共同体で、住人はなにかしら温泉経済と繋がっている訳で、言わば住民による告発が声として当局に届きにくかった側面があったと思います。


しかし、温泉地にも、映画本編にもあるように、こういった風潮に反対する健全派勢力との対立で、年を経るごとに温泉歓楽地側の立場は脆弱になり、国鉄が女性旅行者の増加を大きな目的としたディスカバー・ジャパンのキャンペーンが浄化派のバックボーンになり、全国の温泉地から、性の対象としての温泉芸者を排除する形になりました。


# by gionchoubu | 2022-03-21 13:11 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)