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鳴門の遊廓・花街

岡崎検番芸妓連の阿波踊り(大正末期)
『鳴門再発見』によると、港町の撫養(むや)は陸路と水路の接点にあたり、風待ち
舟待ちのために岡崎・弁財天・林崎・南浜など撫養街道に沿って居酒屋や旅館が多く生まれ、港は特産の塩・足袋・若芽・藍の積み出しがあり、昔は相当に賑わっており、これらの要素に加え、八十八か所札札所遍路関係の産業も加え、林崎(はやさき)の遊廓、岡崎の花街と二か所の遊廓、花街を育みました。
昭和五年刊『全国遊廓案内』に載る撫養町遊廓は、この林崎の遊廓で、娼妓は百人、制度は陰店、娼妓は送り込み(娼妓置屋から遊女が派遣される)と居稼ぎ(遊女の住む家に遊客が入る)両制度混在で、廻しはとらず、芸者もいるとあります。
より信頼おける内務省警保局の昭和六年の『公娼と私娼』には所在地が撫養町林崎北殿町で、貸座敷が二十一軒に娼妓が六十四人になっています。
林崎の花街(遊廓)は文明橋を東に渡って左に折れた所で撫養街道の本筋の傍らで、浜屋席、高松席、多田席、山本席、陣幕席があり、四十人程の芸妓がいたと言います。置屋に席がついている事から何かと大阪の影響が強かったと推察されます。
浜屋席には六、七人の芸妓がいて、警備の必要からか、毎晩警察官五、六人が寝泊まりしていたとの事ですが、置屋に警官が在中する話は他所では聞かないものです。
妙見山の山上にゴザをひいて芸妓が客をもてなすことも有り、「ゴザ芸者」と呼ばれた芸妓もいました。
昭和十三年に十歳で浜屋に金百円で浜屋に身売りされた芸妓玉司さんによると、五年と六年は林崎小学校に通わせえてもらい、十四歳で警察の鑑札をもらうため、警官二人、料理屋の主人二人、古株の芸妓二人による、踊り、三味線、唄などを披露、試験に合格して芸妓になりました。
現在その場所とされる所に痕跡はなにもなく、区域の近くにある銭湯跡に想いを馳せるしか無い用です。
続いて岡崎の花街ですが、こちらは娼妓がいない芸妓部門のみで、十軒ぐらいの置屋に五十人ぐらいの芸妓がいました。
昭和二十五年、昭和天皇がお泊りになられた「水野旅館」は格式が高く、常連客は浜屋と呼ばれた塩業家、足袋製造業者、若芽の卸元などでした。
創業慶応三年の「水の」さんのホームページをみると、山本五十六、吉田茂も泊まった名門旅館でした。
当時、大阪行きの汽船が三隻あり、波次第で出航が出来ないとき「芸者を呼べ」という事にになり、朝から三味線の音が響いていました。
現在、水の旧館の先には、検番跡とされる建物があり、その間にも、旅館・料理屋が軒を並べていたそうで、周辺には蔦が絡んだ、廃屋となったいくつかの建物が点在します。
実際当時鳴門には、水野のほかに、平和楼、都旅館、国の山、陣幕、米初、多田席、鳴門亭、浪花、八木、花八木、にぎわい亭、淀川など沢山ありました。
昭和三十三年、十八歳で芸妓になった美代丸姐さんは置屋有井席におり、芸妓の試験は、料理屋の役員と置屋の主人で、科目は長唄、小唄、踊り、三味線など何でもできないと合格できず、不合格になると「八分」と言われご祝儀も減らされました。
春、北灘で鯛網が始まると、漁船で現地に向かい、鯛を揚げた漁師が料理をして華やかに酒盛りする宴会が昭和四十五年ぐらいまで続きました。又阿波踊りの時は朝五時に集合して、水野から出発して料理屋を三味線で回るなど、漁港ならでの賑わいも見せました。
結婚式がホテルや式場で行われるようになる前は、各家々で結婚式や披露宴が行われており、花嫁さんが到着すると三味線で「引き込み」をしましたが、その時は芸妓が数名呼ばれ、早朝から始まり、披露宴何度もすると、最期には、疲れて三味線が弾けなくなる程続いたといいます。
芸妓は、なにもお座敷勤めだけがその役割ではなく、祭り、結婚式、地元産業にも深くかかわっていたことが興味深く述べられています。








昭和33年12月の京都府の旧赤線

