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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園ねりもの 三

祇園ねりもの 三_f0347663_17163083.jpg

知恩院大遠忌のおねり

寛永年間(16241643)に始まった八幡神社祭礼である津まつりも、今でも三重県を代表する祭りの一つで『明暦年間祭礼の次第』『勢陽雑記』にこの祭りの江戸時代初期の様子がでています。前回紹介した四日市祭りと同じく神の遊行である神輿行列以外に各町内が815日に風流(練物)行列を出しています。

この時の行列は町名を省きますが順番に、造物、曳船一艘、大名行列の真似、はりぬき大頭、鐘曳、仙人の真似、山伏の真似、石引、猩々印五幣、御湯立、愛宕参りの真似、高野聖の真似、唐人行列、潮汲、鷹野行列、杣人行列、順礼、川猟、鷹野、母衣武者の真似で1200人、その後の神輿行列に200人以上、警固人を合わせると1700人を超えるという大掛かりなものでした。

~の真似とそうでない物の違いがよく分からないのですが、分部町の唐人踊りは現在でも109日に八幡宮を一巡してから町内を練り歩くそうです。

神社祭礼とは異なり、所謂練物の範疇には入らないのですが、岩田準一の『志摩のはしりかね』に三重県鳥羽地方ではしりがね(以前別のブログで紹介させていただきました)といわれた船上遊女たちや鉄漿附祝に茜や黄金色の鉢巻を締めた船夫たちが酒樽を担ぎ、天保銭を結びつけた笹葉を振りたて練り歩き、天保銭や手拭を撒き散らし見物人に拾わせ、船夫たちを取り巻く女郎衆が三味線を弾いて囃し立てる様子も紹介されています。

三重県にかぎらず、愛知県犬山市では寛永12(1635)に始まったとされる針綱神社の犬山祭り、岐阜県美濃市の八幡神社の祭礼、東京でも日枝神社の山王祭、埼玉県は川越氷川神社の秋の祭礼など、江戸期が安定すると力をつけてきた商人を中心とした町衆による練物の歴史にはいとまないのですが、慶長9(1604)に岡山県、津山の徳守神社の祭礼で氏子が練物を出すようになりましたが、寛文9年(1667)の祭礼で24町が出した練物でいざこざが発生して市中のねりものが宝永まで禁止された、などという記述に出会うこともあります。

さて、ねりものを広辞苑でひくと【練物・*物】祭礼の時などにねり行く踊屋台、仮装行列または山車の類、あるのですが、練、*以外にも、黎、祢り、祢里、踟とさまざま表記がされます。

文献に最初に現れたのが鎌倉時代の建保年間、「賀茂祭練物見物の桟敷を設け、仙洞女院出御ありて之を御覧ぜらる」『宇治捨遺物語』の練とされ、『伝説の都』で石井琴水はその桟敷は一条烏丸西と書き、田中緑江はこの練物が(世俗でなく)祭礼の行列とみなしています。

さらに緑江さんは僧侶が大遠忌とか何か大きい法要が催されると、五条の袈裟をかけ、立派な僧服をまとい、長い寺の廊下、又は境内にこしらえた桟道の上を悠々とねって歩く所謂「お練り」を引き合いに出し、僧侶たちのお練り見たいな様なもの、ということが練物の語源と述べています。

*ねりの旧字ですが、表記できません。


# by gionchoubu | 2014-05-26 17:04 | ねりもの | Comments(0)

祇園ねりもの 二

祇園ねりもの 二_f0347663_14424401.jpg

同じく三重県四日市でも旧暦七月二十七日、諏訪神社例祭、四日市祭りにて古くから黎が奉納されてきました。これは各氏子町から奉納されたもので、少なくともその発生は花街のねりものとは別で、町練として分類されるべきものです。

古くは享保九年(1724)、神社から郡山役所への明細帳に「濱田より大山車二輌、四日市より二輌、他に練物少々御座候」とあります。その後宝暦三年に那須与一と扇の的の練り物の記録、天明八年には司馬江漢の『江漢西遊日記』に「廿六日 天気 アブラ照、暑し、四日市諏訪祭ナリ、夜営ニて亀六 と参ル、京風の山と云フ物出ル、富士の巻狩のねり物を見物す、」と見えます。

四日市の黎は歩く人が主体の人練り、からくり人形をのせた二層三層の山車を動かす山、一種のハリボテを使った船の三種に分かれるようで、これに古市の人が台の上に乗って担ぎ手によって運ばれるものを入れると黎の基本形が出揃い、祇園ねりものはこの人錬りの進化系といえると思います。

さて、司馬江漢が富士の巻狩を見物したすこし前、安永年間(1772~1781)のものとされる黎物の一覧があるのですが、北町の七福神、上新町のおもいおもいの黎物、竪町の朝鮮人、西中町の船づくし、東中町のかさぼこ、北条町の魚づくし、下新町の打物づくし、浜町、中納屋町の関船、新丁の一の谷二段目、蔵町の唐子、北納屋町、東袋町、南納屋町の鯨つき、桶之町の百物語、新田町、北浜田の鹿がり、江田町の太神楽そして南浜田の富士の巻狩り、などたいへん大掛かりなもので、後年幕末から明治初期に成立したとされる伊勢四日市諏訪神社御祭黎物という木版刷りと対比してみると、四日市の京都の黎物が祇園祭でいう鉾(四日市では大山と記載)や山、西町がだしていた神輿や雅楽の奏上を含めすべてを黎としています。

ですから四日市からみれば京都の祇園祭りの山鉾巡行すべてが黎という事になるのでしょう。この中で新丁(今の新町、新々町、新町一区)の一の谷二段目は明治時代に菅公山車に変わったのですが、町練りでご祝儀を頂いた家で所望(しょもん)とと呼ばれる演技をするという記述があります。

これはまさしく祇園ねりもので、馴染み客から所望(しょもう)の声がかかるとそこで練り子は立ち止まり、その衣装に関する舞いを舞った見せ場と同じで、今のところ、少なくつもこの件に関しては。四日市の方が、京や大阪の花街のスタイルを踏襲した物と私は考えています。

四日市祭りで神輿、大山車は神事色の強いもので、各氏子町から出た黎は神前に奉納される余興のようなものだったとされるのですが、これも京都の祇園祭りに於いて、神事とされる山鉾巡行とは別に行われた、芸妓によるねりものとの共通する点と指摘ができると思われます。さらに船づくし、魚づくし、打物(雅楽の楽器や武器など)づくしなど「~づくし」も花街のねりものと一致しているのですが、これは所謂「風流」の系統をたどるもので源流は同じものと考えていいでしょう。

以上の内容は平成二十一年に四日市の祭りを学ぼう会から発行された『四日市祭り』を元に書いているのですが、この本のなかで*の替わりに黎の字を当てる理由や、さらに黎と練りの区別まで言及されている非常な労作となっております。四日市は東海道五十三次の宿駅さらに伊勢参宮の旅客も立ち寄った場所として江戸の中ごろから大いに榮え、戦前まで、北町の娼妓に対し、お隣の南町には芸妓町だったのですが、この南町の安永の黎物一覧に「踊り染分手綱合戦二戦」とありますが詳細は不明です。

昭和初期に地元の画家である出口對石が書いた四日市祭りの絵の一枚に、山車の後ろに底抜け屋台で鳴り物を鳴らす芸者衆の姿が描かれており、戦前まで花街が補助的な役割とはいえ四日市の黎物に関わった事が分かります。現在も四日市祭りで人練りである富士の巻狩りが初期のすがたを留めており、四日市祭りのシンボルである大入道が安永時代の桶の町の黎であった百物語事にも思いをはせ、是非ともこの祭りを拝見したいものです。

*旧字体の為表記できません



# by gionchoubu | 2014-05-25 14:32 | ねりもの | Comments(2)

祇園ねりもの 一

祇園ねりもの 一_f0347663_12120207.jpg

昭和十一年祇園乙部(現祇園東)によるねりものの番付

二年前、昭和のねりもので使用された屋台二台が、八坂神社で保管されていることが話題に登ったことなどがきっかけで、昨年観亀神社宵宮祭での当時のねり子衣装展示につながり、新聞の記事にもなりました。

また、三回に渡り、江戸時代の京、大阪の廓のねりものの資料を嶋原の角屋さんが公開された事、さらに臨川書店より、福原敏男氏、八反裕太郎両氏の祇園祭・花街ねりものの歴史が出版された事などなど、ここ一、二年は少しばかりですがねりものの話題が世間にでました。

花街のねりものというと京都の祇園、上七軒、嶋原、大阪の島之内、坂町、北之新地、新町が挙げられるのですが、祇園ねりもの以外を見渡してみると、浮世絵、番付などは多少残るものの、研究者も少なく、その実態、背景などはなかなか見えてこないのが実情です。

ここで地元以外あまり紹介された事がない、かつて三重県に存在した、非公許の遊里ながら江戸の吉原、大阪の新町、京都の嶋原と並び称された伊勢の古市にて第二次大戦までは催された練物について『伊勢古市考』(野村可通著、三重県郷土資料刊会)がまとまった記述をされているので紹介させて頂きます。

古市では練りと称され盂蘭盆にかけた、八月十四、十五、十六日の祭りの最終日の夜に盛大に行われたもので、練り子がしずしずと歩く人練りではなく、総檜材、縦十五尺横七尺程の舞台に人が乗った練り屋台を若者が担いで練り歩いたもので、この練り屋台は町内単位の町方と杉本屋、備前屋の大楼が出し、舞台の上に乗るのは大方が芸妓、娼妓あるいは子供たちで、人形と呼ばれ、練の進行中は瞬き一つ出来ない約束で、休憩までの十分、二十分は目が血走っている状態、休憩時間人形は卵を飲まされたり、化粧を直してもらったり一騒動だったのことです。

練り舞台は前面と正面の二辺に三段式で、無数にローソク立てが釣るされると針金で固定され、そこに百匁ローソクが立てられました。後昭和に入り電気やガスに替わったのですが、本来ローソクを立てるべきと作者は述べられています。

練りの進行は進行役の拍子木が鳴り終ると、「イヤー」という掛け声と共に前囃子が始まり進められました。行列は古市と大書した高張提灯、麻の紋付に黒羽織の町役員、青年連の前囃子、そして屋台、芸妓による後囃子の順で構成されていました。

青年連は揃いの浴衣、揃いの角帯、揃いの豆絞りの手ぬぐいで先頭は太鼓二人、続いて鼓四人が二列、さらに太鼓一人と鐘一人、笛二人、三味線四人が続き、大太鼓一人のみ枠外で合いの手を勤めました。後囃子の芸妓の方も同じスタイル、同じ陣容だったのですが、あくまでも先導者の補助的役割であったそうです。

それぞれの演し物は舞台上の生きた人形に合わせ、たとえば「お祭り左七」の様に決められるのですが、町内に適当な女性がいなければ、杉本屋、備前屋などの大楼から候補を玉代を払って借りてきました。

とにもかくにも古市の練りは豪華絢爛、訓練された活人形の芸術美にあり、それぞれの町内から出発した一行が終点の長峰神社に着く頃は、夜もかなり更けていたようです。

伊勢の古市は伊勢参りの口実として寄られた遊所として知られるのですが、京の花街の接点として伊勢地方では良く見られる笑門とかかれた一種の注連縄が、今でも祇園を含む京都のお茶屋でいくつも見られます。

そして祇園の都をどりが古市の伊勢音頭を参考として、明治五年に第一回が行われたのですが、このあたりの事情は後日書かせて頂く機会があると思います。




# by gionchoubu | 2014-05-24 16:18 | ねりもの | Comments(0)