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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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祇園東ぞめき 十三


祇園東ぞめき 十三_f0347663_13293551.jpg

祇園東の区域の内、祇園北側347番地はすべて膳所藩の屋敷跡です。(グリーンが内その347番地で、ピンクは膳所藩屋敷の庭に祀られ現在も信仰を集める歓亀神社、赤の斜線が祇園会館です。昭和四十年代の地図にフィルターをかけました。

祇園乙部貸座敷組合事務所発行、昭和十四年九月十七日現在の芸娼妓一覧によれば、いろは順に並べられた芸妓之部の置屋五十八軒、芸妓数百九十人、たくさん芸妓を抱えたのが植辰の十三人、九二八(クニハチ、富菊の二軒西にありました)の十三人、近江福九人、木村九人などで、特筆すべきは、この木村にギ、勝助、また大市にギ、良吉など義太夫芸者が確認できたことです。関西の義太夫で名高かった花街は大阪では、堀江、京都では宮川町などですが、祇園甲部、先斗町でも戦後まで、義太夫芸者は一種独特の存在感を示していました。又、富菊、岡留、梅田、繁の家など現在のお茶屋組合の組員の名前もみえます。

娼妓之部をみると、置屋三十二軒、娼妓数百三十五人と、芸妓が娼妓を上回り、いよいよ芸妓本位の街が確立されました。また何軒かは芸妓、娼妓兼用の置屋もありました。

昭和十一年の貸座敷二百二十軒から、昭和十四年の置屋総数九十軒(芸妓置屋五十八軒+娼妓置屋三十二軒)を引いた百二十軒がこの時期の芸妓、娼妓を置かないお茶屋と妓楼のトータル数ということになります。

さて、終戦直後の祇園はアメリカの進駐軍のせいで様子が一変し、闇市もでき、GIが横行、祇園乙部では進駐軍を立ち入らせない様、off limit の看板をだす店が目立ったそうです。

昭和二十四年、乙の字を捨て祇園東新地と名称を変更し、花街の紋章も八つの団子丸の中の乙を東に変えましたが、現在は八つの団子のみです。祇園甲部は今でも分裂の際に考案された八つの団子の中に甲の字を当てていますが、両花街の団子の意匠はもともと水茶屋時代、祇園社頭で売られていた茶店時代の由緒から草案され、八の数字は、橋本、林下、末吉、清本、元吉、富永などの甲、乙またがる八町の結束を表現しているという説があり、もしこの説が正しければ、紋章のなかで甲乙が仲良く同居していることになります

昭和二十九年八月一日現在の祇園東新地事業組合員名簿をみますと、その数百六十六軒、昭和十四年の芸娼妓置屋の合計九十軒にくらべ多いいのは、単純に芸娼妓を置かない、お茶屋専業、貸席専業の館の数が含まれるからに違いありません。ここで現在も営業の福屋、中勇、田中浪(田中菜美)、叶屋、栄政の屋号をみることが出来ます。

昭和三十年八月発行、渡辺寛著、全国女性街ガイドの祇園乙部の項に、芸妓五十四人、女中(娼妓)百三十二人、お茶屋百七十人、置屋二十軒、芸妓一時間の玉代は一席いくらといい、芸妓一時間三百円、大きな屋形(置屋)としてあげられた九二八、植辰、吉春、大和屋は昭和二十九年の名簿で確認できましたが、榊初は確認できません。同じように大きいお茶屋北千代、古梅は確認できましたが、中照というお茶屋は確認できませんでした。

昭和三十三年、三月十六日、いわゆる売防法完全施行の直前、祇園東新地お茶屋から、現在の祇園東お茶屋組合になり、この時点で、お茶屋百四十軒、接客婦百三人となりました。

『亡くなった京の廓』田中緑江著によりますと、昭和三十三年頃の代表的な芸妓として、岡留の豊治を筆頭に、愛みつ、叶二、つね香、市子、幸三、市づる、豊和、真知子、幸宥、つる文を挙げています。

昭和四十七年の組合員名簿での会員お茶屋は六十一軒、売防蓬が実施されてからわずか十五年の間に半数以下になっているのは、時代の流れ、ライフスタイルの変化、レジャーの多様性といくつも理由は挙げられるのでしょうが、日本全国の花街、遊廓から娼妓関連の貸座敷が消えてしまったように、当然祇園東からも娼妓が消え、伎楼もなくなりました。

ちなみに、この頃の花代は一本十五分、一時間四本立てで千三百八十六円が定法だが、実際は五割増しが常識、宴会花は祝儀をふくめて二時間七千五百十三円の勘定でした。

さらに昭和五十七年の名簿ではお茶屋数は二十七軒、この中で、たとえば中畑という新橋筋、林下町にあったお茶屋はこのあと十年ぐらいで廃業、二階建て木造のお茶屋は地下一階、地上五階、三十ものスナック、バーがひしめくビルになっていますが、バブルの中、お茶屋だけで、この敷地を維持するのは、固定資産税だけでも大変だったと想像できます。

現在、平成二十五年の祇園東お茶屋組合員名簿に載るのは、福家、榮政、叶屋、
田中菜美、ほりたに、繁の家、梅田、中勇、岡とめ、富菊、まん、の十一軒であります。

乙部時代からの取締は初代中村乙吉氏、小山友次郎氏、佐伯寅蔵氏、山下寅吉氏、西川繁三郎氏、村上治郎吉氏と続き、富森菊一氏、富森多津子氏、梅田明子氏、岡嶋良一氏、そして現在は中勇の中西三郎氏が取締を務めます。
(ただし村上氏と富森氏間の取締は不明)



# by gionchoubu | 2014-09-01 13:41 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十二

祇園東ぞめき 十二_f0347663_16010998.jpg
                          昭和三十二年のねりもの
                       昭和十一年には後ろに見える屋台におもちゃがいました。

祇園の姉妹

昭和十一年(1936)封切り、原作、監督、溝口健二、脚本、依田義賢の表題の映画は、当時の祇園乙部のおもちゃの芸名の実在芸妓を、当時十七歳山田五十鈴が迫真の演技で演じ、見るものを圧倒しました。

実在のおもちゃは川邑の芸妓で、映画が封切られた年のねりものの千鳥破風の屋台の上で囃方の一人として鉦を担当しました。又昭和三年の祇園乙部芸娼妓名簿で吉之家の娼妓におもちゃの名がありますので、芸妓のおもちゃはすくなくとも二代目以降ということになります。

溝口の代表映画にとどまらず、日本映画をも代表する傑作として名高い作品ですが、実はこの映画は封切当時、祇園乙部の人々を激怒させ、廓の新聞に、あの映画の関係者は三条、四条の橋を渡らせない、つまり祇園に近づくのを許さないと書かれたのです。

祇園は、その昔大和橋架け替えに始まって、安政四年には乙部の林下、清本両を含む内六町が鴨川の河原へ四十二本の石柱を築立て、長さ五十軒の橋板を敷き渡し、幅三間欄干付の見事な四条大橋を架しました。さらに明治七年にも、祇園新地内六町、外六町相よって工事費自ら負担で、府の勧業課に四条大橋架替えを願い出て、宇治観月橋畔の製鉄所に発注して欄干、脚柱の鋳造をなし、七、八年の両年かけ工事を成就、祇園の紋章であるつなぎ団子が施された欄干を誇りに、元吉町、弁財天と並んで後の乙部の林下町の代表が出て華々しく渡り初めをしました。

つまり、祇園にとって架橋は遊客を導く生命線であり、ときには茶屋株のバーターとして架橋は時の所司代から課せられたもので、この血のにじむような努力で渡した橋をそうやすやすと渡らせないという思いがこの言葉の裏にはあるはずです。

映画の内容は、芸妓と客の関係を、旦那制度を含め、打算的な敵対関係としてリアリスティックに描いたもので、暴露物になれた現在の目を通して見ると、さほどの怒りを買うものでもない様な気もするのですが、こういった表現に免疫が少なく、献身的にロケに協力した当時の祇園の人達の身ともなれば、騙された気になったのでしょう。

この映画は当時の乙部の息遣いを感じ取れる唯一の手がかりで、昼尚暗い路地という路地を早足で通る、芸者、遊客、物売りのシーン、夜になれば軒先に丸型ガラス電で屋形の名を浮ばすお茶屋の様子など、今のバー、クラブなどに軒先の殆どを譲った現在の祇園東には存在しない、三業地、五業地、免許地などの面影を偲ぶことが出来るタイムマシーンのような存在ですらあります。

現存拝見できる物は六十九分判で完全版より二十分程カットされた判しか残されていないのですが、戦前の一つの花街の様子を捉えた一級の資料としても重要です。

祇園町北側の看板がはっきり読み取れるなど、この作品のほとんど乙部内で撮られた事は明白で、さすがに古い映画のため、画面上解読できないお茶屋も多いのですが、それでも当時の芸妓置屋上歌、娼妓置屋山下、お茶屋の平八(昭和四十八年の名簿にあり)、の名は読み取ることができ、さらに貸座敷一覧では確認できないものの、池光などの名も確認できます。

そして梅吉、おもちゃの姉妹が住む置屋は持ち家でなく借家である事、甲部のエリアではありますが、まだ欄干のない巽橋のシーンがある事(残念ながら映っているのは白川の南側で、第二次対戦中、強制疎開されたお茶屋大友を含んだ白川の北側は映ってません)、南木屋町の席貸(お茶屋と同意語である貸席とは又違った業種で花街、遊廓の免許地以外でも営業できました。旅館的な機能をもった所もあり、文豪などが長逗留して作品を書くことでも知られています。)だと思える座敷のシーンがあることなど興味はつきません。

この映画製作の際、脚本家の依田義賢氏は三十歳、全く花街になじみがなかったので、中京の呉服問屋の旦那の紹介を得て、祇園甲部のお茶屋、加藤楼へ絣に袴、弁当持参で取材をかさねました。

封切り後、祇園から大バッシングを受けたのは前述の通りですが、当人による後日談によれば、祇園のお怒りがとけたのは一年もたってから、山田五十鈴の役名、おもちゃ本人に座敷にきてもらい、手をついてあやまったところ、罰としてダンヒルのライターを取り上げられて許してもらったそうです。その後は旭日昇天の勢いで乙部であそびつづけ、やがて甲部のなじみにもなりました。

祇園の姉妹はその後、1956年、野村浩将監督のもとでリメイクされども、舞台は甲部の設定でおもちゃの役名もなし、内容も大分薄められた感じがします。とは言え、若き日の勝新、舞妓姿でパチンコをする中村玉緒、芸達者な田中春男や、当時良く芸者役を演じていた小暮美千代など、それなりに結構楽しく見ることが出来ます。

さらに1999年、深作欣二監督、脚本新藤兼人で『おもちゃ』というタイトルの映画が溝口健二氏へのオマージュで作成されども、内容は昭和三十三年の京都の花街を描いたものの、乙部とは関係のない作品で、私も見る機会を得ていません。

余談ですが、溝口健二氏の信奉者であるジョージ・ルーカス氏と依田氏は面識があり、彼がスター・ウオーズ、ヨーダのきっかけであったと一部で噂されていますが、真偽の程は不明です。

私の所有する絵葉書では、アンニュイなお茶屋の座敷の午後、ナミ、玉リュウ、三郎の芸者と共に、トーストや、紅茶を前に、お菓子をとって、帯は矢の字、けだるげにこちらを見る舞妓姿のおもちゃさんらしき写真(一番右)があります、ただし鉛筆の手書きで四人の名前がかかれているため、本人との確証を得ておりません。

このブログのカバー写真がその絵葉書です。


# by gionchoubu | 2014-08-31 16:03 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十一

祇園東ぞめき 十一_f0347663_13274716.jpg
                         南座の総見

昭和五年に日本遊覧社から発行された『全国遊廓案内』の祇園遊廓に「享保十七年には茶屋渡世の公許が下り、寛政二年(今から約百三十年前)には遊女町の許可があって、完全に遊廓と成り、更に明治十八年には甲の部、乙の部とに分離して今日に至ったものである。甲乙ともに芸妓は娼妓より多い。」とあります。

さらに同時期に書かれた松川次郎氏の全国花街めぐりでは当時の京都八花街を祇園新地甲部、先斗町、上七軒、北新地甲部(五番町)を芸妓本位、宮川町と祇園新地乙部を芸・娼両本位そして島原、北新地乙部(五番町)を娼妓本位とし、京都の花街を「芸妓本位の花街にも少数の娼妓があると同時に、娼妓本位の花街にも若干の芸妓が居る。例えば祇甲にも太夫が居るし、島原にも芸妓が居るの類である。北新地は芸妓部組合と娼妓組合に分れ、それで二つの遊廓として算へられているけれども、元来同一の区域であるから芸娼妓本位の一遊廓と見てもよいであろう、実際には娼妓の方が多数を占めている。そして芸妓本位もしくは芸娼両本位の遊廓に於ける娼妓は凡て“送り込み”の制度で、屋形から揚屋へ呼んで遊ぶのであるが、娼妓本位の遊廓の娼妓は“居稼ぎ”であることを、その特色としている。」と、祇園乙部の娼妓が送り込みであったことを示しています。

昭和九年、日中戦争を三年後に控えたこの年七月二十日、祇園乙部歌舞練場では、国防婦人会祇園乙部分会の発会式が挙行され、女将、芸妓、仲居等役三百五十名は、白エプロン、白襷の盛装で整列、開会の辞、国旗掲揚、宮城遥拝、伊勢大廟遥拝、君が代合唱の後京都連隊区司令官中林中佐による「国防婦人会の使命に就て」の講演があり、二十七日には祇園甲部の芸妓らとともに、乙部から国防婦人会員となった桃菊、ひさ、絹葉ら十人が下京区役所にて防護団に対する配給、その他の勤務に服しました。

この年の祇園乙部の芸妓花順をみますと、よし、久栄、一太郎、仙太郎、桃菊、芳千代、芳福、三栄、とよ冶(岡留の名妓豊冶と思われます)、末吉らが上位に名を連ねました。


# by gionchoubu | 2014-08-30 13:30 | 祇園東 | Comments(0)

祇園東ぞめき 十

祇園東ぞめき 十_f0347663_12461464.jpg
                  現在祇園をどりの撮影は禁じられています。

錦織剛男の京都遊廓年表に、明治十八年、十二月、下京十五組(当時東山区は存在していませんでした)祇園北側町の老娼妓、重村政勇ら娼妓互慰会を結成、
花柳病で入院した場合に備えての互助会制を設立したとありますが、これは甲、乙どちらであったか詳らかでありません。

さて、明治時代の乙部がどんな様子だったかを伝える資料は殆どみかけません。
芸妓に対し娼妓が多くを占め、よい廓と見なされなかった事、明治三十三、四年、分離前の共有財産であった八坂女紅場の不動産に関する法廷闘争が甲部とあった事、明治四十三年、宮川町、先斗町とともに祇園乙部の三花街が芸娼妓救済所を設立、内外日報に「芸娼妓の生みし子供にして便りべき所なきもの、芸妓にして疾病休養中衣食に窮するもの貧困者を収容して病者に医薬を与え正業なきものには産業を授け老衰を養い、児童には適当な教育を施す等夫々身分に応ずる救済法を設ける」という記事が載った事ぐらいしか手元の資料では見出せません。

しかし娼妓優位の乙部で、明治三十三年、布令によって貸座敷組合が設立されると、雪亭の主人小山友次郎氏が取締に就任、この廓の改善に努力しました。
大正十五年に取締を辞任した際その長年の労に報いるため、慰労金と記念品の贈呈式が祇園中村楼で行なわれました。そしてねりものが乙部によって復活を果たした昭和十一年の一年前、昭和十年七月十二日、これを見ることなく、八十一才で亡くなりました。

歓亀神社の中に、大正四年十一月に建てられた玉垣がありますが、その中にこの雪亭と小山友次郎氏の名を確認することができます

分離当時、祇園乙部の茶屋(貸座敷)七十戸、芸娼妓併せ百人強、

明治二十八年刊、『京都土産』所載遊郭一覧によれば、貸座敷百四十五軒、芸妓三十五人、娼妓二百三十六人、屋形二十六軒、

大正元年末の貸座敷数は百九十三戸、芸妓八十五人、娼妓二百二十六人とあります。(京都府警統計)

大正十二年には藤間門壽を舞踊教師、師匠である藤間門壽郎を舞踊顧問、ほぼ同時期に清元教師に清元梅松、師匠の清元梅吉を顧問迎えました。

『技芸倶楽部』によれば、昭和三年一月末の祇園乙部は取締が西川繁三郎、美摩女紅場専属師匠として舞踊 藤間門壽郎、長唄 杵屋勝六と鎌田美代、 鳴物 堅田新十郎、美摩女紅場嘱託師匠、浄瑠璃 野澤喜市郎、常磐津 常磐津菊三郎、清元 清元喜三太夫、顧問 竹澤弥七

屋方(置屋)数、百十九戸、芸妓数二百四十五人、娼妓数二百四十九人 
芸妓を五人以上抱える屋方は北常、近江福、田中君、花菱、浅種、岸辰、
君徳、ともゑ、大鐡、高愛、九二八、柳楼、鶴米、川邑、酒井亭で娼妓を沢山抱えていた屋形に河福、木村初、吉之家、山梅、伊勢八重などで、九二八のように芸妓十三人、娼妓十一人も抱える見世もありました。現在まで続くのが岡留、中勇、繁之家です。



# by gionchoubu | 2014-08-29 12:47 | 祇園東 | Comments(3)

先斗町ぞめき 十四

先斗町ぞめき 十四_f0347663_11422637.jpg
                    道楽橋があったとされる先斗町側

納涼床
 寛政十一年(1799)刊の『都林泉名勝図絵』を見ると鴨川の四條河原にて、多くの料理茶屋が行燈に名前を掲げ、酒や料理で涼を求める人をもてなす様子がうかがわれます。今のように鴨川東側に床が組まれたのは明治以後のようです。
現在は二条から五条までの禊川の上に初夏には床を並べます。先斗町のお茶屋で床をだすのは、初乃屋、大市、井ふみ、丹米など。

十五大明神 十五番路地には千社札で埋め尽くされた十五大明神があります。これは昭和五十三年に火事が起きた時、酒房「ますだ」の所でピタリと止まり、狸の置物が割れていたといいます。これはお狸様が身代わりになってくれたものに違いないと、ますだの名物お女将が祀ったものです。
以前はお賽銭を入れると、お神楽のような音楽がなり、女将さん本人の声で運勢をうらなってくれました。この占いは女将の人生観が窺える大変魅力のあるものでしたが惜しいことに故障したままです。この装置が壊れたのは、私の記録によると2008年のことです。ますださんのお店のなかには常連であった司馬遼太郎の直筆の屏風があります。

道楽橋 かつて先斗町と川端通りを四条大橋のすぐ北で結んでいた橋。
『鴨川の景観は守られた』木村万平著、では先斗町の北100メートル(現在お地蔵さんがある場所)から川端にかけて菊水という鳥すき屋が大正時代に自費で建設したもので、人幅三人ほどの木製の橋で「菊水橋」というのが正式名だったとの事。実際この店主片岡金七が写した菊水橋の写真が載ります。昭和十年の鴨川の氾濫で流されたとあります。

ちなみに、この洪水では祇園芸妓によるねりものが中止になりましたが、先斗町では若い芸妓に紫、年配芸妓に薄鼠の揃いの衣装、帯も紅白の昼夜帯、履物も揃え、明治二十六年以来中断してした四十三年ぶりの復活ねりものを盛り上げようという話があったそうです。

一方『決定版先斗町のすべて』先斗町歌舞会監修によると、作家の杉田博明氏の文筆で、これは料亭「竹村家」が私費で差し架けたもの、泉鏡花の短編小説『笹色紅』に竹村橋が出ている、と言った紹介があり、さらに、昭和三年ごろこの橋がなくなったという証言が、画家田中善之助の『京ところどころ』に記されている、とも書かれています。

どちらも祇園と先斗町という京都の象徴的な二花街を結んでいたので道楽橋と呼ばれていたのは共通しています。最初は竹村家が架けたが流され、その後菊水が架けたとすればなんとか辻褄は合います。

上記『鴨川の景観は守られた』によりますと、この道楽橋復活の議論が突如1980年におきました。架橋の場所はオリジナルの道楽橋より北、四條大橋と三条大橋の真ん中辺り、先斗町公園のすぐ北が予定地で鴨川の東側は賛成、先斗町はおおむね反対でした。その後数年を経て京都市による架橋理由として1、東西の中心街の一本化 2、消防署の迅速な到着 3、親水空間の多様化が京都地域商業近代化地域計画報告書にあったそうですが、1の理由はともかくとして、2はこういった計画の大義名分を表明したもので、官側が提唱したもっともらしい言い分。3にいたっては何をいっているのか分かりません。

その後、1996年、フランスのシラク大統領が来日の際、「鴨川にポン・デ・ザールの理念を生かした橋を架けては」と提案してこの問題が再燃にましたが、景観を損なうものとして反対運動がおこり、市はこの計画を白紙撤回しました。

先斗町側でこの反対運動の中心となったのが料理店「山とみ」の女将さんでした。市が山とみの鴨川側の看板が美観地区の条例違反として一ヶ月以内に取り除くよう通達してくるなどのいやがらせに出たのにもめげず、一人で立ち上がるや、署名、カンパを募り、集会で訴え、勝利に結びつけました。

勝利集会で、平成のジャンヌ・ダルクと持上げられたとき、「ジャンヌ・ダルクやて、人を火あぶりにする気どすやろか」と返したそうです。
山とみは、もともと先斗町で五十年続いたお茶屋さんでした。

ポン・デ・ザールはセーヌにある橋で、ポンはフランス語で橋を意味し、ポンと発音しますが綴りはpontです。先斗とpontは全くの偶然とはいえ、先斗町の語源がいまだに謎ですのでなにか因縁のような物を感じます。




# by gionchoubu | 2014-08-24 11:43 | 先斗町 | Comments(0)