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by gionchoubu

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遊郭、花街の類型 その十二

遊郭、花街の類型 その十二_f0347663_14272665.jpg
植民地型 昭和五年に発行された日本遊覧社『全国遊郭案内』は当時の国内の遊廓のみならず、台湾、朝鮮、満州の花街、遊廓にまで言及していますので、これを一つの類型とします。

外地に遊廓ができたのは、ほぼ明治三十八年、日露戦争講和後のようです。

本土から植民地に住む人は男性の方が多く、暫らく海外に滞在していると直ぐ内地の女性が恋しくなり、必然として娼妓、芸妓とも日本の女性が需要が多くなり、料金も嵩張りました。

植民地の遊廓で、娼妓は総て廻しをとらない(一夜で客のかけもちをしない)のは業者が関西から来たことを暗示しています。廻しついてはいずれ一項を儲け私なりの解釈を述べたいと思います。また芸妓、娼妓も居稼ぎで送り込みがなかったのもこの類型の大きな特徴です。

今回の植民地型は当然昭和初期までの外地の花街・遊廓の傾向であることを念頭に以下地域ごとに纏めてみました。

台湾 一番規模が大きかったのは台北市萬華遊廓で、貸座敷約六十、娼妓は約五百六十人です。芸者、娼妓そしてこの両方を兼ねた所謂二枚鑑札の芸娼妓で構成されていました。彰化遊廓は日本人中心で少数の朝鮮人が居ました。花連港遊廓は日本人と朝鮮人がほぼ同数で貸座敷約十軒。台中初音町遊廓は貸座敷十八軒。嘉義遊廓は貸座敷十軒。台南市新町遊廓は貸座敷十四軒に芸妓七十人、娼妓百十人で広島県次に長崎、熊本の女が多く、日本人のみで構成されていました。この新町遊廓と小川一筋を隔てた所に総て台湾人の芸妓百九人、娼妓九十四人の台南市台湾人遊廓があり、この台湾人芸妓は唄、舞踊、鳴物総て中国式でした。高雄市栄町遊廓は明治三十八年に旗后に設置されたものが大正八年に栄町に移ったもの。馬公街遊廓は明治三十九年に許可されました。

朝鮮 釜山牧島遊廓 明治四十二年頃設置。貸座敷十五軒、福岡、長崎の芸娼妓が多い。釜山緑町遊廓、娼妓は九州方面が多い。鎮海面遊廓は日本人中心。馬山壽町遊廓の娼妓は総て朝鮮人で、経営者も朝鮮の人が中心。その他馬山には萬町、元町、幸町に遊廓あり。吉野町遊廓は日本人娼妓中心。晋州面大河洞遊廓は朝鮮人娼妓中心。方魚里遊廓は娼妓二十人。大邸八重垣町遊廓は娼妓約五十人。大田面遊廓は九州の女三十人、朝鮮人の女二十人。金州相生町遊廓は娼妓五十人の半分は内地人で半分は朝鮮人。郡山府には新興洞遊廓と山手町遊廓が有り、共に娼妓六十人程。仁川郡敷島町遊廓の娼妓は二百人位で大多数は日本人。木浦遊廓は大正三年に許可。京城府弥生遊廓は殆ど日本人、二枚鑑札が多い。京城府新地遊廓は九百人もの娼妓がいるが日本人、長崎、熊本、福岡の女が多い。兼二浦面遊廓、土地に三菱製作所があって、大正七年頃は好況で貸座敷が十九軒程あった。鎮南浦碑石里遊廓は貸座敷九軒。平城府賑町遊廓は貸座敷五十五軒に百三十人の朝鮮人娼妓に内地人(主に長崎人)娼妓百五十人。元山陽地洞遊廓に妓楼八軒。咸興花咲町遊廓に貸座敷約十軒。羅南面美吉町美輪之里遊廓には内地人娼妓六十人に朝鮮人娼妓六十人。清津星ケ丘遊廓には朝鮮人娼妓三十人、日本人娼妓はおもに長崎県人で百十人。会寧面北新地、沿革は明治三十九年の日露戦争直後に日本料理店四件が開業して芸妓を置いたこと始まる。会寧面山同遊廓の娼妓は三十人。

関東州地方 大連小崗子、明治四十一年に表面的には料理店として開業し、酌婦の名目で娼妓を置き、料理店二十九軒に娼妓然の女二百七十人居る、日本人以外中国人の妓もいる。大連市逢坂町遊廓、明冶四十年に料理店の名目で始まる。店は七十軒もあり芸娼妓九百人の内二枚鑑札が四百人、娼妓は五百人、娼妓内朝鮮人は百五十人で日本人娼妓は九州、四国の女が多い。旅順支那町、明治三十九年に開設、乙種料理店の名の下、芸妓三十人に酌婦(娼妓)百十人。

京都の豊国廟の入り口に大阪の六遊廓、新町、松島、北新地、堀江、南甲部、南乙部が奉納した一対の献灯があります。明冶三十年、日清戦争直後に寄進されたものなのですが、その理由がネットの情報によると、二度の朝鮮出兵した秀吉を顕彰することで、国策の載って遊廓の海外進出を目論んだという趣旨がありました。

その後、明治三十八年、日露戦争による権益でその願いは叶ったのですが、台湾、朝鮮、満州の遊廓のシステムが、廻しを取らぬ、居稼形式の大阪乙部遊廓のそれと一致するのと、内地、即ち日本人の妓が西日本、九州の女性で構成された事を考え合わせば、ほぼ灘波新地(南乙部)新町、松島の業者で植民地の遊廓が運営されていたと見て良いと思います。

遊郭、花街の類型 その十二_f0347663_14274421.jpg


# by gionchoubu | 2014-11-24 14:29 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十一

遊廓、花街の類形 その十一_f0347663_11501699.jpg
                京都府 綾部 月見町は花街の風情をよく残します
城下町の花街・遊郭の成立過程はさまざまで、江戸の吉原や大阪の新町は前も述べたようにC 人目につくところから隔離を目的としたもので、幕府の意向に添い出来上がりました。

ただし大阪でも、新町以前に幕府でなく大阪城代が許可した今の道頓堀、ちょうど松竹座の裏あたりにあったとされる下灘波領の遊里は、その後非合法遊里としての起源を持つ島之内や北之新地と同じくBの人を集めようとした処に入るはずです。

もう一つの大都市、名古屋の築城の際できた飛田町の遊郭はA の人が集まる所に設置されたものの、その役目が終わると廃止の憂き目を見たのですが、異端の殿様宗春が七代目尾張藩主として赴任すると、西小路さらには富士見原、葛町に遊郭を新設しました。これは経済活性の目的でBにはいります。尤もこの試みは宗春失脚のため十年持たず、以後名古屋市中心には明治まで遊所というものが有りませんでした。

宗春が異端だった事で浮かび上がるように、江戸幕府は、特に元禄の奢移時代の反動で、以後極端な倹約令を引き、遊郭や芝居などは目の敵といった具合であり、城下に城代公認の遊里は中々持てなかった筈です。

ですから東海道を通る、浜松、吉田(豊橋)、岡崎などの城下町にあった遊里は非合法であり、宿場型として飯炊き女の名目で遊女を置いたものです。

江戸から離れた金沢の東廓は外様の加賀藩が散らばっていた茶屋を集めて公認したものですが、文政三年(1820)設置となれば江戸時代の終盤ですし、彦根の袋も藩政時代には無く、明治になって幕府の箍が外れて開業したものです。

ただ私としては、龍野、赤穂などの小城下町型花街といった類型は可能だと思いますので今後の課題としたいと思っています。

企業城下町型として、一つの企業が独占に近い形で遊郭、花街を支えていた類型が成立するかもしれません。

綾部の月見町の花街と、この町に大きな影響をもつ婦人衣料メーカー、半田市の花街と上客であった大手醤油メーカー、小松市にかつて存在した、特定の企業と従業員御用達の様な遊郭といった具合ですが、こちらも現在資料集めの段階です。




# by gionchoubu | 2014-11-21 11:52 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その十

遊廓、花街の類形 その十_f0347663_15423651.jpg
鉱山型 佐渡の金山を頭に描くと、暗い坑道で命がけで金を掘る罪人達ぐらいの刷り込まれたイメージしか湧かないのが普通だと思うのですが、坑道を出て暫らく歩けば、我々が想像していなかった世界が展開されていたのです。

『慶長年録』(1603)に「佐渡の国に金山繁昌して京・江戸にも御座なき程の遊山見物、遊女等充満す。国々より来る金穿、町人等かようの遊興にふり、元手を失ひ候て悉く疲れ、国元へ帰る事なき者数をしらず」

集まったのは金穿、町人だけでなく、遊女化した熊野比丘尼、六条三筋時代の遊女歌舞伎、さらに世阿弥が流された所以もあって能演も盛んに行なわれました。

『慶長見聞録安紙』によれば、慶長八年の春から女歌舞伎が諸国へ下り、出雲阿国も最初佐渡に渡ってから京都で歴史的な上演をしたことになっています。

もう一つ『慶長見聞集』に、京都の六条三筋の廓を拠点として、遊女歌舞伎の有力な主催者であった佐渡島某、さらに同時期遊女歌舞伎の男舞歌舞伎の大スター佐渡島正吉という遊女、さらに大阪の新町開廓に手を貸した佐渡島与平、新町には吾妻太夫を出した佐渡島屋や新町の一角を占めた佐渡島町、さらに京舞の源流に佐渡島流という流派も見え隠れし、これらは佐渡と京・大阪を結んだ糸が存在した事を如実に物語っています。

佐渡の鉱山は当初、鶴子銀山が主で、遊里も山先町と柄杓町に開かれました。藤本箕山の『色道大鑑』に、諸国二十五箇所の公許の遊里として、江戸の三谷、京都の島原、大阪の新町とならんで、佐渡国鮎川山崎町と紹介されているのはこの為です。

山先町の遊女町は、享保二年(1717)に町の北端、海岸近くの水金町に移転し、昭和の時代まで存続しました。佐渡には江戸時代に、廻船商人によって栄えた、港型の小木町遊里もありました。

もう一つ、石川県に江戸期から明治にかけ、金平金山が盛衰を重ね、隆盛期には大阪の繁華地に例え、道頓堀と呼ばれ、しんち(新地)と呼ばれた遊廓があった、と言う伝承も有りますし、口伝ながら、岡山の吹屋にも遊女町があったと現地で聞きました。

(令和5年、7月20日追記)

銀山に栄えた遊里に、秋田県雄勝町の院内があります。遊廓設置が認められたのは元和三年(1617)で吉原より早いのですが、なぜか『色道大鏡』から外れています。万治三年(1660)『院内銀山記後編』にその成り立ちを「当山繁栄のあまりにや、遊女白拍子の下り始ては慶長十三年の秋の頃、始て京都より五人下りしが、是を始として聞及聞伝へ、毎年ここ三ケの津より美目すぐれたる遊女歌伎の輩下り集りける程に、当山あら町といふ処に傾城白拍子夜発の輩二百余人ぞ徘徊す」

さらに「其内に過半は太夫と号し、諸芸世の常の白拍子にすぐれ、琴、三味線、浄瑠璃にうたはいふに及ばず、連歌、俳諧、謡、鼓に至るまで達したるもの共なり」とここでも高級遊女ぶりと、色濃い京都のつながりを感ずる事ができます。

鉱山型としてもうひとつ、銅山の発掘以後出来た栃木県足尾遊廓も好景気時代は豪遊を極めた町として挙げなければいけません。

鉱山型に金山、銀山、銅山ばかりでなく、明治に出来たものに筑豊炭田と共に発展した、炭鉱型として福岡県直方二字町の遊郭があり、当初私娼中心の溝堀花街として炭鉱労働者を相手にしていましたが、明治四十一年、二字町遊郭として公許になりました。

参照:佐渡金山、磯部欣三・江戸遊里盛衰記、渡辺憲司


# by gionchoubu | 2014-11-19 15:43 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その九

遊廓、花街の類形 その九_f0347663_12313669.jpg
      串茶屋民俗資料館に掲げられた有りし日の花魁には、遊芸に長じていた様子が見て取れます。

観光地型 城下町や神社仏閣型や宿場型などとの複合の名勝、観光地の花街はいくつかありますが、純然たる観光地に出来た花街はほんの少数派です。

ここでは身近な所で、宇治にあった花街について『全国花街めぐり』松川次郎著をもとに紹介します。

平等院はもとより、宇治は昔より京都から遠出の格好の景勝地として好まれた土地で、春は桜、夏は蛍や鵜飼、秋には紅葉と一年通して遊興の地でしたが、長らく花街といったものはこれ無く、芸妓が現れたのは大正初年頃で、それまで好事家といった者は伏見や京都の馴染みの茶屋から、仲居同伴で芸妓、舞妓、地方を呼んでいたので、花代は大変高くつきました。

そこで目ざとい人が免許をとって旭検を立ち上げ、その後昭和三年に分離して都検が出来、その頃で旭検に置屋十一軒、芸妓三十四名、都検にも置屋五軒、芸妓八名いましたが、花街の成立の性質上、これといった名妓など生まれませんでした。

芸妓が入るのはお茶屋でなく旅館で、花屋敷、亀石楼、菊屋、月の屋、鮎屋、入船など、芸妓は宇治名物「茶の木」と「狸」をかけ「ちゃぬき」などと呼ばれる事がありましたが、今は旅館がいくつか残るだけで、置屋もチャヌキも過去のものとなりました。

これと似た経路をとったのが、河口湖の花街で、初めは富士吉田から芸者を呼んでいたのを夏期は甲府から芸者の長期出張を仰いでいた不便を解消する為、小さな花街が一時期ありました。

大造営型 江戸時代、大きな普請がある時、公許の遊廓が出来る事がありました。代表的なものに、慶長十五年(1610)名古屋城創築のため、家康が許可した飛田屋町廓があり、現在の本町・長者筋、北は蒲焼町から南は広小路の間に娼家が集められましたが、万治二年(1859)火事で消失した際、本来の目的を終えたとして廃止されます。

もう一つ例を挙げると、『茇憩記聞』に「女郎屋の開祖、木の下、府中屋、櫛林村、当村の茶屋女、那谷寺御普請の砌、微妙院様より御免にて茶屋女出来たり」とあり、加賀で那谷寺復興の際、前田利常公(微妙院)が、造営工事促進の為、小松から通う建築に従事していた職人の慰安所として郭の営業を許可しました。

この串茶屋は明治時代まで約三百年に渡り北陸街道唯一の遊廓として榮えました。

遊廓、花街の類形 その九_f0347663_12322611.jpg
                    現在の串茶屋あたり
『串茶屋物語』串茶屋民俗史料館、『日本花街史』明田鉄男


# by gionchoubu | 2014-11-16 12:36 | 遊廓、花街の類形 | Comments(0)

遊廓、花街の類形 その八

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                     片山津温泉、大戦前でしょうか?
遊廓、花街の類形 その八_f0347663_15575587.jpg
                      同、大正時代に建てられた検番
遊廓、花街の類形 その八_f0347663_15573551.jpg
                 検番に温泉マークをを模った意匠がありました。
遊廓、花街の類形 その八_f0347663_15565292.jpg
             こちらも検番内、芸妓がお座敷にいるかどうか一目でわかります。

温泉型 『色温論』に「湯女はもと諸国の温泉にありがもとなるべし」との下りが有り、信仰的な湯治が時とともに、享楽的なものに移り、この風がやがて、大都市の湯屋、風呂屋に受け継がれていったのでしょう。

『有馬温泉記』に「昔の湯女は白衣紅袴の装束を着け、歯を染め黛を描きて、恰も上臈の如き姿を為し、専ら高位公卿の澡浴せらるる前後、休憩の折に当り、座に侍りて或は碁を囲み、或は琴を弾き、又は和歌を詠じ、今様を謡いなどして、徒然を慰むるを以てわざとせり。」とあるのですが、その昔の湯女こそ、建久二年に(1191)僧仁西が有馬温泉を再興して十二坊舎を置いた後、その坊毎の大湯女、小湯女の姿だったのかもしれません。

√鉄砲かついで来た山中で、しゝも撃たずに帰るのか

山中節にあるこの獅子は二枚鑑札の芸妓のことで、その意味は山中温泉にきて、芸妓を一夜妻に迎えないのは何とも無粋な・・・といった意味合いになり、この獅子の語源が、さらなる昔、この里に隠れ住んだ落ち武者の妻や娘が、生活苦の為、浅黄地の一反風呂敷をカツギのように頭からかむって、獅子のような姿で湯女に身をやつしたのが所似だと言われています。

とすると、有馬の昔の湯女も、地女でなく、こういったルーツを持つ人達であったなら、今様を歌い、和歌に興じ、碁を嗜む姿も理解できます。

さらに北陸温泉郷の芸妓は、

√鉄砲かたねて来た片山津、鴨も撃たずに空もどり

粟津温泉節にも

√鳥は鳥でも粟津の鳥は、男よろこぶ機嫌とり、

芸妓が片山津では鴨、粟津では小鳥、さらに山代温泉では太鼓の堂、芦原温泉でも夜叉と呼ばれ、それぞれ異名を持つのは面白く感ぜられます。

戦後の温泉芸者というと、決していい意味では用いられないのは周知の通りですが、温泉芸者も玉石混合、湯河原温泉の芸妓・おかめさんの生涯を追った『温泉芸者一代記』井田真木子著を参考に、温泉花街の一例を辿って行きます。

大正十三年、おかめさん(船岡なか)は十七歳で湯河原に売られました。芸者は財産も、庇護者もない女性にとって、生きる為、数少ない仕事の一つであった。

当時芸妓の鑑札は実父母の印が必要だったので、一段下の遊芸の鑑札で榮屋(通称赤ペン)の経営者に対して、四年年季八百円の条件で証文に判を押す。店には酌婦さんの名で、客を取る四十代のお姐さんが多かったが、芸妓も客をとらされた。

当時湯河原には見番がなく、若い芸者は、稽古をつけてくれる姐さん芸妓の身の回りの世話をして教えを請うしかなく、おかめは、寸暇を惜しんで先輩の世話をして、その見返りで練習を付けて貰った。

昭和五年に湯河原にも見番が出来、おかめも遊芸から芸妓の鑑札に書き換えた。
見番が出来ると、ちゃんとした師匠に芸をつけてもらえたが、この費用は芸妓持ちだった。

東京の一流芸者は長唄なら長唄、常磐津なら常磐津一本の芸を磨きその道のスペシャリストを目指すが、温泉芸者はお客の要望に沿って何でも覚えなければならない苦労があった。

昭和七年頃から奥湯河原にも大型旅館が建ち始め、おかめも湯河原で独立する。

昭和十年から湯河原は急速に発展、全国の遊里も好景気で活況、昭和十三年にピークに達し、この傾向は昭和十六年の開戦まで続く。

湯河原の芸者数がピークに達したのは昭和四十五年頃、目に見えて下り坂になってきたのが、昭和五十六年頃で、おかめさんにとって、お座敷遊びがカラオケにとって替わられたという印象が強い。

名妓と呼ばれ、三味線の名手であったおかめさんが見てきた大正、昭和の湯河原の推移は、そのまま日本の多くの温泉花街が歩んだ道と重ね合わせる事ができます。


# by gionchoubu | 2014-11-14 16:14 | 遊廓、花街の類形 | Comments(5)