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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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舞妓・芸妓そして島原太夫にまつわるエトセトラ その一

舞妓・芸妓そして島原太夫にまつわるエトセトラ その一_f0347663_12271087.jpg
                      とし結さんの結界
結界 舞妓さんや芸妓さんが座敷に現れると、たいがい自分の前に扇子を置きお辞儀をしますが、これを仏教用語で結界といいます。

結界は、演者である自分と、お客様とのけじめをつける所作といわれます。

お茶席でも主人が結界をするのは、「親しき仲にも礼儀あり」といった所です。

歌舞伎役者や落語家さんや文楽の世界でも、襲名披露で口上を述べるとき、必ずこの結界をするので、「ああ、あれか」と思われた方も多いのではないでしょうか。

舞妓さんが座敷に入っても結界をしないこともあります。其の場合、たいがい踊りに扇子を使わず、団扇や布巾を使う時などです。

左褄を取る 舞妓さんも芸妓さんも、お引きずりの着物を着ており、座敷以外では、裾を引きずらないよう、左手で褄を取ります。(着物の帯から下を褄をといいます)

芸・舞妓とも、この褄は必ず左手でつまむので、昔は芸妓になることを、左褄を取る、といいました。
「私も若いときは新橋で左褄を取っていたのですが・・・」といった様な言い回しを昔の本で見かける事があります。

なぜ芸妓が左手で褄をとるかというと、左褄を取るととによって着物の合わせ目が逆になり、男性の利き手がはいりにくくなるので、芸は売っても体は売らぬということを暗示している、といった説明が一般的です。

娼妓さんは右で褄をとるので、成程と思うのですが、家庭の奥さんも右で褄を取ったのが説明できません。

そこで、座敷で、お客にお酌をするとき右手でないといけないので、左で褄を取るとう合理的な説明もありますが、面白くも何ともありません。

私が人に説明する時は、着物の合わせ目の方を選びます。

第一聴き手の食いつきが全然違います。。
舞妓・芸妓そして島原太夫にまつわるエトセトラ その一_f0347663_12282417.jpg
                    左褄を取るとし夏菜さん
舞妓・芸妓そして島原太夫にまつわるエトセトラ その一_f0347663_12293872.jpg
                数年前一力さんの向かいに張られていました。

# by gionchoubu | 2015-01-30 12:31 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

赤襟を返す


赤襟を返す_f0347663_11335344.jpg
                                 都をどりにて
歌舞伎『助六由縁江戸桜』をご覧いただくと、揚巻を中心にズラット並んだ吉原の花魁たちの見事な艶姿、この花魁たちが、それぞれ豪華な衣装で並ぶ中、皆一様に赤襟を返す姿が、色とりどりの着物姿に、見事なアクセントを付けているのに気づかれることでしょう。

この赤襟を返すのは本来島原の太夫の風習ですが、歌舞伎の世界では、どうしたものか、東も西も遊女の証しと見なされているようで、遊女の側面の強い大阪歌舞伎での茶屋の娘は赤衿を返しますが、同じ場面に出る仲居さんなどは襟を返しません。

そもそも、何故島原太夫が赤襟を返すかは、遊女の最高位であった昔の島原太夫は、十万石の大名と同位の正五位の官位を持ち、禁色の赤を身にまとっていることを見せ、御所に入所出来る事をアピールしていると言われています。

ですから、官位と無縁な花魁さんなどが、赤襟を返すのは、一種のファッションのようなもので、歌舞伎の世界でも花魁が赤襟を返すのに眉をひそめる人もいました。

不思議な事に、京都五花街のうち、祇園甲部の都をどりと、先斗町の鴨川をどりの芸妓(以前舞妓と書きましたが芸妓との御指摘受けましたので書き換えました)さんのみが、幕間のお茶席でこの赤襟をかえすのです。

実は明治十年、京都の花街が、博覧会協会が仙洞御所の酔花亭にてお茶席を設けたことが有り、この時編み出されたのが、椅子を用い海外の方にもお茶を楽しんで頂くための立礼式で、現在五花街の~踊りのお茶席は皆、この立礼式(りゅうれいしき)の作法で接待しています。

この時島原太夫も抹茶の接待をしましたが、もし、その京都の花街が祇園と先斗町の芸妓のみであり、島原太夫の赤襟の風を取り入れたと考える事は出来ないでしょうか?

ただ、この二花街の芸妓の赤襟が御所でお茶席を設けたことによるものか、どの文献で見たことも、聞いたこともなく、私が密かに思っていることだけで、何も証拠たるものが無いのであしからず。(実際関係者に、そんな馬鹿なと一笑された事があります、ただ理由は説明されませんでした。)

さて、そもそも、この太夫の襟返しですら、いつからあったものか触れているものに出会った事がなく、江戸期の太夫の絵姿を見ても、この赤襟に出会った事は、私の経験としてありません。

五年程前、常照寺の「吉野太夫花供養」で、質問コーナーみたいな場があったので、おそるおそる、如月太夫にこの質問をしました。

太夫もご存知なく、きっと私のことを、眼鏡の「面倒くさい奴がいる」と思ったに違いないのですが、表向きはにこやかに、しかも毅然と「こんどお会いしたとき屹度お答えしようぞ。」みたいな事を太夫言葉でおっしゃいました。

ところが向こうは正五位、こっちは平民、個人で太夫にお花をつけるなんて、とてもとても・・・

「今度って、一体どういう状況なんだよ~」と言いたい気持ちで一杯です。

参照:京の花街「輪違屋」物語、高橋利樹

赤襟を返す_f0347663_11343530.jpg
                                    如月太夫


# by gionchoubu | 2015-01-26 11:35 | 舞妓・芸妓 | Comments(9)

京都五花街の始業式

京都五花街の始業式_f0347663_14323301.jpg
                      祇園甲部始業式
京の五花街の内、先斗町、宮川町、祇園東、祇園甲部の四花街が一月七日、上七軒は一月九日にそれぞれ始業式をそれぞれの歌舞練場(祇園東はお茶屋組合)で行います。

各花街の芸舞妓は黒紋付の正装で、髪には花簪の代わりに稲穂を挿し、凛とした姿で会場に向かうので、多くのカメラを携えたギャラリーが押し寄せ、祇園甲部の歌舞練場沿いの花見小路では警官が交通整理に現れます。

その祇園甲部の始業式は、理事長の発声により「芸妓・舞妓の誓い」

一、私たちは常に美しくやさしく親切にしましょう。
一、私たちは祇園の伝統を誇りとし、心の修養につとめ、技芸の習に励みましょう。
一、私たちは善良の風俗をみださないよう、清潔でありましょう。
一、私たちは京都の国際的地位を認識し、新知識の吸収に意を用い、視野を広めましょう。
一、私たちはつねによき風習を作り、みなさんから愛されましょう。

を唱和します。

次に前年に一番お花(売り上げ)が多かった芸妓、舞妓が表彰されるのですが、
昔から、花街というのは物凄い競争社会なのです。

最後に祇園甲部では、当世の井上八千代さんが正月を祝「倭文」を舞い始は終
ります。

芸・舞妓とも、この大きいお師匠さんの気を張り詰めた舞台に、新たな一年
の芸の精進に誓いを立てることでしょう。

さて、毎年五花街の始業式はあるのですが、終業式の話は聞いたことがありま
せん。

卒業式が無い理由は聞いたことがないのですが、もしこれに、芸の道に到達点は存在しない・・・有るのは終わりなき芸道の追求のみ、という考えが潜んでいるなら、何と素晴らしくも恐ろしい世界でしょう、としか私には言い様がありません。
京都五花街の始業式_f0347663_14341075.jpg
                 2011宮川町の始業式へ向かうとし結さん
京都五花街の始業式_f0347663_14365318.jpg
              同じく右よりとし愛さん、とし夏菜さん、一番左はとし真菜さん?

# by gionchoubu | 2015-01-22 14:39 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

中書島遊郭の歴史 その六

中書島遊郭の歴史 その六_f0347663_15361570.jpg
何しろ京阪電車に乗れば、直ぐ祇園、先斗町という日本を代表する花街に、また西にむかえば、これまた格式豊かな大阪曽根崎新地、日本一の規模を誇る南地五花街と、中書島が芸妓町としてやっていくのは大変で、沿線にあった橋本や枚方の桜新地と合わせ娼妓中心になるのは無理ないところだったと思われます。

その昔、ここの禿だった八千代太夫が島原で大成したように、昭和の中書島の錠石の代表美人だった小奴は舞踊も達者、後に祇園甲部に移り永楽屋の若二として名を馳せました。

しかし、東海道五十三次で江戸日本橋から第一宿であった品川が品川遊廓を潤したように、同じく京都から大阪に向かう最初の要所であった中書島は気軽に遊べる公許の遊廓ということで全国にその名を響かせ、井原西鶴も、雲助連中にとって近くの撞木町は金銭面で折り合いがつかず、伏見の泥町(中書島)で紛らわしたという話を書いています。

『東海道中膝栗毛』でも、淀川で三十石の船頭が、客に「せんどうさん、夕べは中書島じゃあろ。精進がわるいさかい、コリャ雨じゃろぞいの」と軽愚痴をたたかれていますが、西鶴も、十返舎一九も、芸所遊所としての中書島の世間の認知度が高く、人気の点でここは外せないと逸話に加えたものなのでしょう。

さて、戦前、伏見に十六師団が開設されると、中書島は軍都型の遊廓になり、昭和九年には芸妓数五十九名を数えたものの、戦後は京都市内芸妓連合会からもはずれ、芸妓減少傾向に歯止めがかからず、それでも十四、五人の芸妓で春、秋の温習会は催していました。

そして、木幡に自衛隊の官舎ができると、国防の第一線に立つ若者専門の慰安施設としても利用されました。

昭和三十一年に貸席業者五十八軒、接客婦は百八十三人、そして昭和三十三年、売防法の執行により、日本全国の他の遊郭と共に、中書島遊廓も滅びました。

猶、『京都遊廓見聞録』によれば、この後、芸妓町として花街を続けるか、京大宇治分校と学芸大の下宿町として鞍替えするか、中書島は二派に別れましたが、その後芸妓が復活することは有りませんでした。

先斗町の千鳥、祇園のつなぎ団子のように中書島花街の紋章がありましたが、丸の中に、中と書いた意匠とも呼べないものでした。

中書島遊郭の歴史 その六_f0347663_15364108.jpg
                           舞、喜久栄・長唄、加代、玉子・三絃、千子、松代


# by gionchoubu | 2015-01-19 15:39 | 京都の遊里 | Comments(0)

中書島遊廓の歴史 その五


 

中書島遊廓の歴史 その五_f0347663_12055151.jpg

  中書島あれこれ(画像は蓬莱橋)


長建寺 元禄十二年(1699)、深草大亀谷即成院から多聞院を移して創建されました。寺名は中書島遊廓を開いた伏見奉行建部内匠守の長命を願い長建寺としました。ほぼ中書島遊郭と同じ歴史を持ち、本尊が弁財天であることから、中書島の守り神として芸、娼妓の信仰を集めました。ご

江戸時代は六月二十五日、明冶以後は七月下旬に大祭を行い、鉦音にぎやかな渡御船に柴を積み、河中に出て護摩供を催し夜空を真っ赤にこがす壮厳なお祭りで、古くは伏見奉行の役人が警固にあたりました。長建寺のご住職は何度か立ち話をさせて頂いたのですが、大変素敵なお人柄で、私が尊敬する田中緑江さんのお話も伺いました。

伏見小唄 昭和四年、伏見市誕生の折、作詞西条八十、作曲中山晋平によって世にでた十二番まである小唄があります。7番で中書島が、10番で撞木町がでてきますので、1番と合わせ記します。

1 菊は咲く咲く葵は枯れる トコトンヤレナ
  西にくつわのあれ音がする 錦旗ひらめく鳥羽伏見 ヤレヨイヨイ ヨイサッサ トーコトントン トンヤレナ トコト   ントントンヤレナ

7 恋のかけ橋わたるにゃ恐し
  越さにゃいとしいあの妓に会えぬ 男泣かせの中書島

10  向こう通るは大星さまか
  傘がよう似た深編笠が 朧月夜の撞木町

映画ロケ地 古くは、明暗道中師など日活の時代劇によくこの辺りが使われました。最近では仁義なき戦いの頂上作戦に、登場しました。

酒処萬平 長建寺の近く、昔を忍ばす路地の中に、元遊廓の建物を利用したお店があります。店を入ると、娼妓さんの陰見世があります。(張り見世は表にあるものを言いますので、こちらは陰見世だと思います。私も実際見せていただいた事がありますが大変貴重なものです)

中書島検番 蓬莱橋を渡った公園の南にありました。

 中書島の遊廓の長男として生まれた西口克己が昭和三十一年発表した三部作で、廓の闇の部分を書き、当時、廃娼問題が盛んな折、大センセーションをおこしました。他に祇園祭の再興に命をかけた京町衆を描いた祇園祭、文殊九助、山宣など

参照:京都市の地名、技芸倶楽部、Kyoto THE FUSHIMI(特集中書島の酒場に色香を求めて)、


# by gionchoubu | 2015-01-17 12:10 | 京都の遊里 | Comments(0)