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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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宮津 新浜ぞめき その二

宮津 新浜ぞめき その二_f0347663_12512438.jpg
                        新浜
明冶十年一月二十五日、宮津万年新地として、当時の京都府権知事の槙村正直に命ぜられ、他の府下の遊廓とともに、その由緒を提出したのですが、それによれば万年新地に移住したのは二十数軒の業者のみでした。

移ったのは良いものの、万年新地は三方を山に囲まれ眺望が良くない上、海からも遠く不便な地で、遊ぶ客の評判も良くなかったようで、新浜(以後東新地の呼び名は使いません)復帰の機運が高まり、移転を許され新浜に引っ越す業者と、移転復帰を拒む業者との間で対立を生んだ末、明冶三十年頃には万年新地は跡を絶ち、新浜のみが宮津の遊廓となりました。

この間、明冶十五年八月布達された、京都府甲第158「貸座敷取締規則」によると、貸座敷営業免許地として、当時の京都市内九ヶ所以外に市外六ヶ所の免許地が記されています。その六ヶ所とは、伏見、墨染、中書島、福知山柳町、宮津万年町、同新浜、とこの両者が共存している事が明白に分かります。

ちなみに貸座敷という名称は明冶六年に傾城屋、遊女屋、茶屋などと別々に呼んでいた業種を「貸座敷」と総称で呼ばせたもので、芸妓、娼妓という言葉も、この時、官製用語として統一されたものです。

宮津の遊廓が新浜一本になった頃、水島保布の『旅の収穫』に「その桟橋が遊廓の一角へ架せられて、そこからつゝく狭い道路は、軒端屋号を記した角行燈が、黄昏早く点す薄い燈心の火に挟まれた、枝垂柳の影から透くれ色の長暖簾を両脇に眺めて、本通りへと通している~略~汽船を待って潰し島田に赤い手柄をたらりと垂れ、荒んだ頬桁に白粉を刷きかけた、見るからに舟着き所の女郎の型をした女達がだらしなく小褄をかゝげて、ぞろりぞろりと草履穿きでその桟橋近くまで出歩いて来た。」と、当時の新浜遊廓の娼妓さんが、たぶん客引きの為であろう、汽船の乗客を迎える瞬間を捉えています。

ここで、明冶四十二年、ドイツの作家 Bernhard Kellermann (以後ケラーマンと表記)の宮津滞在記で、ケラーマン自身が新浜のお茶屋体験を通して、当時の花街新浜の具体的な様子が浮かび上がりますので、紹介させていただきます。

この、当時長編小説『トンネル』という世界的な人気をもったベストセラー作家が長期の日本滞在中、どっぷり浸かったのは、東京でも横浜でも京都でも宮島でも大阪でもなく、宮津、とりわけ新浜であり、その旅行記を残したのは、宮津にとっても貴重な財産のはずです。

ケラーマンは『日本印象記』の宮津の項で「日本に滞在中、この町が一番面白かった。この町の話をするのは、友人の事を話すように嬉しい・・・」

そして花街新浜を、

「この町の通りで一番美しいのは、茶屋町通りである。茶屋は、普通の家に比べると、まるで豪奢な別荘と見える。二階作りで、廊下や庭や、立派な門がある。茶屋の前を通りながら一寸覗くと、何処にも必ずその家の格式や富裕を示す品物が飾っている。その品物といふのは、鹿や魚や鳥を描いた立派な屏風であったり、人気の無い部屋に置かれて、暗闇で金色に光っている、綺麗な漆塗りの箱であったりする。三味線が鳴る。太鼓が聞こえる。異様な歌声がする。通りをちょこちょこ行く小さな踊り子を見ると、白粉を付けて、唇に紅をさしている。遊女の真黒な眼が、隙間から覗く。夕方暗くなって来ると、この通りには、明るい提灯が一杯点く。幻想的な華やかな世界を現出して、千一夜物語中の都市のやうに思われる。」

ケラーマンは多くの国を旅したことでも知られていますが、千一夜物語りの架空の都市と比べるなど、まさに宮津に岡惚れして、そしてベタ惚れになってしまったのです。
宮津 新浜ぞめき その二_f0347663_12514492.jpg

# by gionchoubu | 2015-02-19 12:52 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮津 新浜ぞめき その一

                        現在の万年新地
宮津 新浜ぞめき その一_f0347663_11523887.jpg
ざっくりと、宮津遊廓の歴史を見ると、もともと市中に散らばっていた遊女屋を今の新浜あたりに集め囲ったのが東新地ですが、これは江戸時代の始め、都の各所にあった遊女屋を一箇所に纏めた六条三筋の廓とよく似ています。

そして、都の六条三筋あたりが市街化されてきたので、現在の島原に強制移転させたと同じ様に、宮津でも東新地も山よりの万年町に移されました。

島原は現在の地に留まったままですが、宮津の遊里の特異な所は、万年町から元の新浜に戻ってきたことです。

宮津の遊廓の歴史を年代で追っていくと・・・

文化八年(1810) 宮津に遊女屋が許可される。

天保十三年(1842) すべての遊女屋が東新地へ集住するよう命じられたのを受け、市中に十一軒あり「栄久講」と名づけた仲間組織の内七軒が移る。

この天保十三年は老中水野忠邦の天保の改革の年で、洛中の遊廓は島原に移るか全面廃業を命じられたのですが、それに比べると随分軽いお達しに思われます。

天保府命前、諸国の200箇所以上の遊里を相撲の番付に模した『諸国遊所競』に宮津の遊里が顔をださないのは、全国的な知名度がまだ低かったと見ていいでしょう。

東新地とは、魚屋町の北側を埋め立てた土地で、当時は海に面しており、北前舟の寄港地として、海港型の遊廓の色合いが濃いいものでした。現在はさらに埋め立てが進みましたが、それまで、新浜遊廓は天の橋立てが望める立地だった訳です。

万延元年(1860) 桜田門外の変が起きた年の十月に魚屋町名主の西川喜兵衛が新地年寄、白柏(しらかせ)町の元結屋(三上)清兵衛と本町の人参屋(殿村)五兵衛の二人が東新地取締に任じられたのですが、この殿村・三上の二人が就任中、公務日記として交代で書いた七冊の『御用日記』により、宮津の遊廓のしくみが現在に伝わるのですが、それは続きで明らかにしたいと思います。

この万延元年に東新地には家数七十二軒(内二軒は空き家)ありました。

文久三年(1863)三月二十九日、東新地の酌取女・茶汲女の置屋に商売替えの命令がでるが、置屋の抵抗により、遅々として進まず。

慶応二年(1866) 東新地は事実上廃止、囲い門戸も取り払われ、東新地の名称は東新浜に改称、さらに吹屋谷という山よりの地が万年町と改められる。この時、葛屋町(蛭子町)口と吹矢谷(万年町)口の両側に、東新地より黒塗冠木門を移して境界としました。

慶応三年(1867) 万年町の裏側を万年新地とし、宮津市中の「遊女業者体之者」を集中させた。

万年新地の誕生です。


# by gionchoubu | 2015-02-18 11:53 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

加津良遊廓 後篇


昭和十四年 舞鶴鎮守府復活を祝う芸者たち(ふるさと今昔写真館)
加津良遊廓 後篇_f0347663_16461862.jpg

大正2年には貸座敷27軒、芸娼妓併せ91人(内芸妓21)

大正12年に、貸座敷28軒、芸娼妓併せ104人

昭和初年頃は、貸座敷25軒、娼妓数78人(日本遊里史)

昭和4年頃は、貸座敷20軒、娼妓数23人(全国遊廓案内)と激減しています。

丁度この頃、東京の滝野川の海軍爆薬部を誘致しているのに、この減少の理由は分かりません。

そして昭和18年、海軍命令で加津良の全家屋が明け渡しになりました。その、誕生も廃止も、海軍に振り回された一生でした。

昭和五年出版の全国遊廓案内によれば、中舞鶴町遊廓として、二十軒の貸座敷(妓楼)に娼妓が二十三人いて、その多くは近県の女で貸座敷は陰店を張っていました(吉原の様に表から娼妓が顔を見せているのが張見世で、玄関を潜らなければ娼妓を見れないのが陰店)

遊興は通し花制で客の廻しは取りません、(廻しについては以前説明させて頂いています。)

費用は一時間遊びが一円で、泊まりが六、七円でした。この一時間一円は激安で、同じく軍港型遊郭であった竜宮遊郭も同じ料金で大変お安い料金で遊べた事になります。同じ時期、宮津は一円三十五銭、これでも安いほうで。伏見の中書島なら二円は必要でした。(ちなみに、同時期、大阪の飛田や松島は一時間一円五十銭でした)泊まりの六、七円は中書島でも同じ位でしたので相場、といった所でしょうか)

呉の吉浦が同じ時期、一時間二円とっていた事を思えば、加津良遊廓と竜宮遊廓の料金の安さは異常と言ってよく、これは大正七年(1918)竜宮遊郭のほうで、料金が高すぎると水兵のボイコット運動があり、軍人割引制が導入されたので、加津良も是に引っ張られた格好だったのでしょう。

全国遊廓案内によれば、この時代の揚屋は、京屋、成田楼、蔦屋、清家、一之家、丸吉、正的楼、常盤楼、東屋、吉野楼、亀之家、大正楼、お多福、榮楼、新吉野、君之家、入船楼、寛容楼、大よし、信京楼など。

参照:舞鶴市史、遊郭をみる、下川耿史、林宏樹




# by gionchoubu | 2015-02-16 16:47 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

加津良遊廓 前篇

加津良遊廓 前篇_f0347663_12272825.jpg
加津良遊郭(中舞鶴町遊廓)

舞鶴には竜宮、朝代ともう一つ中舞鶴に加津良(かつら)にも遊郭がありました。前者二箇所と比べて語られる事のすくない加津良は、JR西舞鶴駅よりバスで20分ほどの所にあり、現在では一日に東舞鶴行が四本という便の悪さです。

それまで寒村だったのが、明冶20年代に、舞鶴鎮守府や海軍施設の用地買収がこの辺り一帯で行なわれ、京都府加佐郡中舞鶴町中舞鶴町長浜字加津良に遊郭が開業したのが明冶38年でした。

是は地元住民が、遊郭地設定の上申を新市街調査委員長に提出したことを受けての事なのですが、地元住民の遊郭誘致意見を纏めると、

一、 風俗の壊乱、近年、中舞鶴に増加した労働者の多くが若者で、遊郭が無いので、町内良家の婦女子にちょっかいをだし て困る、又、同じ理由で料理旅館の酌婦が遊女化して九十名ほどが、違法に客をとっている、もし警察が取り締まれば 、一晩で拘置所があふれてしまう。

一、 舞鶴には軍港の遊郭として竜宮新地があるが、鎮守府や海兵団から一里  
   余町あり、海軍兵士で竜宮に行くものは稀で、このため本町内に妖婦の猖獗を見る事になった。

一、 従来の遊郭地や他の遊郭候補地の者が、遊郭は多少遠い方が取締りの点で宜しかろうと加津良の遊郭を反対しているが 、これは自己の利害を考えて国家の利害を考えない取るに足らない意見で、舞鶴と同じ軍港の呉を見ても、海兵団から 一里も離れて営業を始めた吉浦遊郭が僻地にあるため、呉市街の風俗は壊乱し、警察の取り締まりも功を奏していない 。呉の轍を踏んではいけない。鎮守府や海兵団に近い加津良に遊郭を許可されたし。

といった内容で、この住民による誘致意見が功をそうしたものか、明冶三十八年八月、大字長浜小字加津良で遊郭は営業を始めたのでした。典型的な軍港型遊郭の誕生でした。
  
ただし、地元の方にお伺いした所、水兵の御用達遊郭というイメージは無く、一般の人の遊客も多かったとのこと、又、今のバスの通る道から遊郭に入る道が広いのは当時遊郭の賑わいを伝えるもので、銀座通りと呼ばれる事があったそうです。又、当時の遺構も残されているとの事でした。

尚、遊郭の裏側に稲荷神社がありますが、平成八年の神社神報によると、外国人による宮司の脅迫、神社の乗っ取り騒ぎがあり世間を賑わしましたが、現在は静かな環境の様でした。
加津良遊廓 前篇_f0347663_12283074.jpg
                          銀座通り
加津良遊廓 前篇_f0347663_12295520.jpg

# by gionchoubu | 2015-02-14 12:32 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

宮武外骨 猥褻風俗辞典

宮武外骨 猥褻風俗辞典_f0347663_12073279.jpg
                        河出文庫

『猥褻風俗辞典』(わいせつ風俗辞典)の序で、著者の宮武外骨(みやたけがいこつ)は、世の中に切手やマッチや色々なものを集めて趣味にしている人がいるが、何故蒐集するか、それぞれ口実はあるだろうが、これを突き詰めると、「なんとなくおもしろし」の精神ではないか、私がなぜ遊女の異名を書いて世に出したかというと、なんとなく面白そうだったから、という様な事を書いています。この辞典に収録された遊女の異名(別名)何と400以上、それぞれに、その呼び名の由来を載せた力作です。

宮武外骨は『滑稽新聞』の主催者として、又著作家として、権力や不正にパロディーや糾弾で立ち向かい、発禁、投獄を繰り返し、明冶、大正、昭和を駆け抜けた、本人に言わせると、外骨はつむじまがりで、『猥褻風俗辞典』は明冶四十四年、『筆禍史』と『本邦新聞紙』の両書を予約した購読者へ無料進呈された珍本だったのです。

遊女の呼び方には、朝妻船、川竹の流の身、格子の君、遊行女婦(さぶるこ)、花菖蒲(はなあやめ)、鳳凰(ほうおう)、室の友君、高等内侍(こうとうないじ)などの格調高いもの。

動物等に例えたものとして、間鼠(あいねずみ)、穴熊、あひる、牛、馬、うわばみ、大凡鳥(おおよそどり)お亀、お獅子、尾なし狐、籠の鳥、鴨、狐、金猫、銀猫、山猫、夜鷹、猿、鹿、章魚(たこ)、鼠、猫、蛍、鮪、山羊、夜からす、駱駝・・・犬、狸以外殆どの身近な動物が揚げられています。

植物は、あざみ、梅女郎、瓜、自然生、菜の花、麦(ばく)、南京(かぼちゃ)花菖蒲、夕顔、米(よね)路傍の柳、やっぱり有りました。

怖い系には、お化け、亡者、白鬼、地獄、白首、六地蔵、鉄砲、反対に有難いものとして、地蔵様、釈迦、達磨、天神、姫などなど。

さらに遊女の下品な呼び方として、垢掻女、馬糞女郎、馬糞拾い、すべた、ふんばり、へちゃ、とっても下品でここに書けないものもあります。

私のお勧めは洒落系とでも言いますか、遊女が江戸初期のように、意気も張もなくなり、お客を振ることも無くなった事を、やはり振ることが無い散茶に例えた散茶女郎(さんちゃ女郎)、同じように、不見転(みずてん)は、客の種類を選ばず、だれかれとなく枕をかわす芸者で、客を見ないで転んでしまう安芸者の事、ニュースーは、この本が世に出た頃、神戸で流行った遊女の異名で、闇の中よりニューと出て、男を捕らえてスーと消えるのでニュースーと呼ばれたという事です。

さて、私も嘗ての花街や遊廓と言われた場所を訪ね歩いている訳ですが、何故時には人が眉をひそめる場所を歩き回るのか、色々理由をつけて自分を納得させていた時もありました。しかしながら『猥褻風俗辞典』の宮武外骨の言葉に出会って、その答えが分かったのです。

「なんとなく面白そうだ」からです。


# by gionchoubu | 2015-02-12 12:09 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)