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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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五条楽園ぞめき その十三

五条楽園ぞめき その十三_f0347663_13053665.jpg
役者として独自な境地を示した小沢昭一氏が『あたく史外伝』で五条楽園での思い出を語ります。

氏が子供の頃、法界屋という流しがカフェー街などを廻っていたそうです。これは三味線や竪琴などを伴奏に歌を歌う一団の事で、大阪では新世界によく現れたという記述に私も出会った事があります。カフェー、女給については今でも時々興味をもたれて触れる人はありますが、法界屋について書かれたものは、何故か滅多にお目にかかれません。

戦後、この法界屋にとって替わったのがギター流しで、飲み屋街で客のリクエストに応じて、ギターの伴奏で歌うもので、これは昔の映画で見かける事があり、実際出会った事は無いのですが、イメージは湧きやすいと思います。

ちなみに、花街情緒たっぷりの新内流しという門付けの芸能形態があります。元々京都に一中節があり、ここから常磐津や富本、清元などに発展するのですが、その一つの流れから生み出されたのが新内で、新内流しは二人が調子の違う三味線で街頭を流します。

さて、終戦後、氏が役者修行中の頃、芝居の旅で京都にいたある日、五条楽園を冷やかして歩いていると、夫婦らしきギター流しに出会います。男は黒ずくの着流しにギターをかかえ、目が不自由らしく黒眼鏡をかけ、女は質素な着物にギター、そして赤ん坊をおぶっています。

「何とも絵になる夫婦流しで、私はすぐ近寄ると、路上で一曲所望しました。」

それは旅の夜風という、映画、愛染かつらの主題歌で、三番の歌詞が√加茂の河原に秋たけて・・・、が五条楽園にぴったりと思ったからです。

「男は、女に、小さい声で“Gマイナー”と囁くと、女が弦をととのえるのを待ってすぐ弾きはじめました。√花も嵐もふみ越えて、行くが男の生きる道・・・うたい出した男の声に、私はすぐ、ググーンとひきこまれました。なんともスゴイ声。霧島昇の、あのソフトな美声とは正反対の、何といったらいいか、ドスの効いた、さび声。」

その次の、旅の夜風の二番は女が √可愛い子供は女のいのち・・・と、疲れ果てた様に口をあけて眠る子供を背に、か細く、消え入るように歌いだす。
この歌声に小沢昭一氏は胸を突き上げられる感動を覚えた、と思い出を綴っております。

後年、氏が野風にさらされた放浪の諸芸を訪ね歩いたのには、この二人の流しの芸への尊敬があったことも、その動機の一つだったとも書いておられます。

京都では、かつての五番町にギター流しはよく似合っていたと思います、そして五条楽園、今でも高瀬川に沿って、第二西菊さんの角をまがった辺りで、ふとこの二人のギター流しに出会うような錯覚に見舞われます。


# by gionchoubu | 2015-06-02 13:05 | 五条楽園 | Comments(2)

五条楽園ぞめき その十二

五条楽園ぞめき その十二_f0347663_13531529.jpg

一般的に出雲の阿国が慶長八年(1603)、男装で茶屋の女と戯れる「かぶき踊り」を披露したのは四条河原とされていますが、『東海道名所記』には五条橋の袂とあります。

それ以前より、交通の要所であった五条は、見世物や芝居の興行地で賑っていました。どうしても我々は現在の感覚で考えるので、なかなか受け止めにくいのですが、阿国が慶長九年、次に選んだのは、北野天満宮の門前町で、今の常識では中心街から遠く離れている場所ながら、ここも当時は遊興の地で大変賑い、勧進の名目で色んな芸能の催しがありました。

四条河原が栄えるのは、時の京都所司代板倉勝重が、ここに特権として芝居株を渡してからです。芝居株や茶屋株を当局が許すのは、都市政策として力ずくでその地を繁栄させる場合があり、大阪の道頓堀がまさにその大成功例で、この切り札をもともと栄えている五条橋詰めや、北野の門前に持ってくるようなもったいない使い方を当局がするはずが無い、とまで言えると私は考えます。

六条河原は、もともと罪人の処刑地で、本能寺の変、関が原の戦いでも敗者の処刑が行われました。七条新地が元々妙法院が支配していたのに対し、七条新地に挟まれる形で存在した六条新地は雑色領であり、これが後々の混乱を生むきっかけとなります。

その後、享保十三年(1728)六条新地の高宮町と菊屋町の西側に米会所が設立され、高瀬川で運ばれた米穀の取引が始まります。この辺りは賑わい、これは明冶四年、米会所が十禅師町に移転、さらに明冶十九年、錦小路通東洞院下がる、西魚屋町に移転(大丸百貨店のすぐ北)に移転するまで続きます。

移転の理由は、日出新聞の記事でも述べられていませんが、もはや米の運搬の動脈としての高瀬川にこだわる理由が無くなったという背景と、矢張り遊廓に接するとあれば、色々不都合な事があったと推測されます。七条側は大反対、すったもんだの後の移転となりました。

しかしもし、七条米商会所がこの地で繁栄したなら、七条新地の存続のほうが難しかったと私は思います。なぜなら、ものの常として、なにか事あることに移転の憂き目を負ったのは、いつも遊廓側でした。

ちなみに明冶二年に菊浜小学校が開校しますが、落成開業式に、京都府権大参事、槙村正直も臨席しています。菊浜の名は七条米浜と菊屋町からとりました。

私の調べた限りでは、江戸期~明冶期にかけて六条新地の区域は一度も遊里化しておらず、少し前書きましたように、大正元年八月二十三日、京都府令第六号の一節として、高宮町、菊屋町、富松町(高宮町に面せる表側)平岡町(高宮町に面せる表側及菊屋町に面せる表側)つまり六条新地の北側が、七条新地に組み込まれて始めて遊廓になり、その後五条楽園に引き継がれたものと思います。



# by gionchoubu | 2015-05-30 13:53 | 五条楽園 | Comments(0)

五条楽園ぞめき その十一

五条楽園ぞめき その十一_f0347663_14535278.jpg
私が、当初『京都遊廓由緒』を元に、七条、五条間を南からABCDに区分けして、AとCが七条新地の指定地としてあるので、Cのみを取り出す場合、六条通りの延長上でもありますので、便宜上Aと分けて、六条新地と呼んだのではないかと考えました。

しかし、荻野家文書の旧名六条新地八町略図がBを六条新地としているので、Bを以って六条新地であると書きました。

先日、京都府立史料館の館古023中井家文書434、戌四日、正徳三年写『六条・七条新地絵図』を拝見、これにて正にBに高瀬川の西の現在の梅湊町を含んだ区域が六条新地と断定できました。

なぜなら、中井家こそ、奉行として三十橋近い公儀橋の普請を担当、その中で享保年間以降、工事内容の決定や図面の作成、工程管理にも深く関わっており、五条橋から正面橋、七条大橋、高瀬川の各橋を含む地図を保管したのは至極当然のことに思われます。

この地図は公開できるものではありませんが、正徳以前Aが七条新家地、Bが六条新家地、そしてCが北七条新家地と表記されており、六条新地をはさんで、A、Cが七条新地と呼ばれていったものと思われます。

ちなみにこの頃のD(五条橋下)は藪と畑の字が当てられています。

又、しっかりと五条の下から高瀬川に沿ってお土居が描かれていますが、これも宝暦になり、開発が進み、五条橋下にも茶屋株が与えられた頃すっかり整地されました。

面白いのは加茂川正面橋北に音羽川が東から注ぎ込んでいるのが書き込まれている事で、現在も同じ場所に暗渠となった音羽川の注ぎ口があります。

北の修学院のすぐ近くに高野川に流れ込む別の音羽川がありますが、絵図にある音羽川は、清水から流れてくる別の川です。

六条新地と七条新地の境となる正面橋が架けられたのは、両新地が開発された宝永・正徳ごろと推測され七条新地と六条新地が50%ずつ費用を出して維持管理を行なってきました。

しかし、これは負担が大きすぎ、橋の維持に幕末には七条新地は妙法院より、六条新地には東本願寺より助成金が出たそうです。

今一度中井家の図絵をみると、六条新地に一箇所、七条新地に一箇所高瀬川の舟入が見え、この間四本の橋が架けられています。

江戸期に置いて、六条新地は遊里化しておらず、その辺りの事情は次回に持ち越したいと思います。
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# by gionchoubu | 2015-05-27 14:54 | 五条楽園 | Comments(0)

町名変更の愚

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             南地五花街の紋章の扇子を振りながら櫓町を通る宝恵かご

私はどの土地でも、行政区名は変えてもいいが、町名は絶対変えてはいけないという立場です。

為政者にとって甘い甘い味のする町名変更、この禁断の実に手をつけ、取り返しのつかない結果を生み出した都市の一つが大阪市です。

現在宗右衛門町として一つに括られている所は、かつての長堀橋筋二町目、千年町、玉屋町、笠屋町、畳屋町、心斎橋二町目の六町の南端と宗右衛門町の全部でありました。

さらに明冶五年以前は、同じ区域が油町三町目、酒辺町、南塗師町、道頓堀御前町、道頓堀布袋町、菊屋町の六町の一部と道頓堀宗右衛門町の全部と、もう無茶苦茶です。

道頓掘の南側現在道頓堀1で済まされている所は東櫓町、西櫓町、こちらも明冶五年三月十七日以前の町名は道頓堀吉左衛門町道頓堀立慶町の一部でした。

最初に、この町の創設に寄与した町年寄、堺屋吉左衛門、芝居立慶の由来を葬り、次に芝居小屋が多く存在した痕跡を消し去ったのです。

町名をみれば、特にこの辺りには昔どういう商売があったかが分かったり、どういう人がかかわったかを偲べたりするのですが、もうお仕舞です。

大阪の他の地も似たようなもので、これでは土地の人に自分の町を、無形ではありましょうが過去の遺産を振り返り誇りを持て、と言う方が無理で、私自身何十回と大阪に出向き、道で出会った人に、附近のお寺、神社を含め何か縁の有ることを尋ねるとしても、本当に何もご存知のない方が多いのは、この町名変更に原因が有ると私は信じて疑いません。

かつて、ある市がホームページに町名変更の理由を載せました。

1、 もしもの時に、救急車、消防車等がすぐに来られない。(生命にかかわる場合がある。)
2、 郵便物、荷物がなかなか届かない場合がある。(時間や経費の無駄。)
3、 来客者がお宅をさがしたり、あなたがお宅の場所を伝える場合に苦労する。
4、 役所等の公簿の整理が煩雑になり、住民サービスに影響がでる場合がある       

これを見てとても悲しい気持ちになるのが、最後の4番目に本当の理由をもってきて、これを発信した市が本来の目的をカモフラージュしたつもりである事と、町名変更に人の命を持ち出し、市民を愚弄している点です。

どうして町名を変更すると人が死ななければいけないのでしょうか?

郵便物の件でも、道頓堀の今はなき阪町(かつて京都の伏見の人が住んでた町です)の看板を掲げた天麩羅店でお店の人に、町名変更があったとき、一番困ったのが郵便配達の人だったという話を私は実際聞いております。

この町名変更は強い中央の意向が働いていると思われます。

すこしの救いは、一度変更した町名を戻した例もあります。金沢の花街、主計(かぞえ)町は一度変更を余儀なくされましたが、本来の名を取り戻しました。誰も尾張町二丁目と呼ばなかったのでしょう。

参照:『大阪の町名』大阪町名研究会編、清文堂



# by gionchoubu | 2015-05-24 14:56 | Comments(4)

遊里の町名

遊里の町名_f0347663_14011671.jpg
                     祇園の舞妓さん

緑江叢書6『京の町名のいわれ』で田中緑江さんは京の古い町名を分類して、

一、人名(山名町、俊成町)
二、職業名(八百屋町、畳屋町)
三、樹木名(梨木町、藤ノ木町)
四、神名(稲荷町、小将井町)
五、仏名(薬師町、石不動町)
六、祭礼に関した名(牡丹鉾町、長刀鉾町)
七、三ヶ町合併名(柏清盛町=柏野町+清玄町+盛下町)
八、対称した名(上之町、中之町、下之町)
九、寺院名(真如堂町、中堂寺町)
十、土地の名(円山町、百々町)
十一、道路名に町名をつけたもの(本町一丁目、宮川筋一丁目)
十二、商家の屋号(茶屋町=茶屋四郎左衛門町)
十三、神社名(西天王町、清明町)
十四、邸宅の名(二条殿町、常盤井殿町)

等々、その他いくつも分類例を仄めかしています。

私が注目するのは遊里における町名で、特に荒地などに新地として一気に沢山の町が開け、新町名が幾つも必要となる時には、町名間に関連性を見る事ができます。

例えば祇園新地内六町は正徳三年(1713)に誕生したもので、富永町、末吉町、清本町、元吉町、橋本町、林下町を見ると、富が永く続きますようし、末永く吉でありますように、元から吉でありますように、という名付け親の意図が読み取れそうです。

七条新地十一町の内十町は上二之宮町など近江阪本日吉大社に因んでいます。
一気に十一の町名を付けるのは至難の業で、多少やっつけ感の匂いがしない訳でもありませんが、便利な方法でした。

二条新地六町の内、新先斗町と新生洲町は鴨川を挟んだ先斗町の繁栄にあやかろうとしたに違いありません。

その先斗町ですが、九町の内五町に松、梅、柏、藤のお目出度い植物が入るのは矢張り命名者の意図を感じます。

島原は西新屋敷が正式な呼び名で、その名の通り、六条三筋にあった遊廓を西の新しい屋敷に移したもので、六町の内三町は移転前、六条三筋時代の上ノ町、中ノ町、下ノ町をそのまま島原でも使っています。

これらの町名を付けたのは誰なのか、多分京都所司代の息のかかった町奉行辺りだと思われますが、宮川町に於ける宮川筋一町目から宮川筋八町目の様に一から数字を数える町名は京都ではほんの少数派なのです。

北から南、四条から五条まで宮川筋で、五条から少し東に本町が一丁目から伏見稲荷まで二十二丁目まで続き、その先は深草直違橋の町が今度は十一町目から一丁目までさらに南に伸びるのはとても偶然とは思えません。



# by gionchoubu | 2015-05-21 14:04 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)