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花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

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白拍子 前編

白拍子 前編_f0347663_12335391.jpg
白拍子の舞妓(ブギ)は本来名門の出で、王候貴人に招かれ歌舞を為したものです。現在京都五花街の芸妓が時代祭りに輪番にて静御前を勤めており、その当時の白拍子の風を伝えております。

芸妓を遡れば白拍子に行き着くといいます。白拍子に関しては遊里史、遊廓史、花街史に必ずといって程その記述をみます。しかしその説明にも分かりにくいいのも事実で、私自身も正直よく彼女達の実態を理解できていません。

色々書かれているなかでも、『猥褻風俗辞典』で宮武外骨がよく白拍子をまとめてくれています。曰く、

「平安朝時代の永久(1113~18)年間に起こりし舞妓の名称にて、その舞妓は売淫を兼業とせし者なり。この白拍子といえるは、釈信西(藤原通憲)の創意作曲にて、これを舞妓磯の禅師に教えて舞わしめ、磯の禅師、これを島の千歳、和歌の前に伝えしなり。祇王、祇女、仏、静、千寿、亀菊などはみな亜流にてその名高く聞こゆ。白拍子の称は、立烏帽子に白の水干(すいかん)を着せしゆえの名なりとする説と、ほかに合わせるものなくて舞う素(しら)拍子の義ならんとの説あり。」

この磯の禅師の下りは、吉田兼好が『徒然草』の第二百二十五段に「多の久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に興あることどもを擇(えら)びて、磯の禅師といひける女に教へて舞わせけり。白き水干に鞘巻をさゝせ、烏帽子を引き入れたりければ男舞とぞいひける。これ白拍子の根源なり。」あります。

もう一つ武田完二著『趣味史談遊女の時代色』にはこれより先、和歌ノ前(若御前)が琴と歌舞の名人で、鳥羽院のお召しを受けて、男装で舞ったのが白拍子の起源としています。ほぼ同時代ですので、どちらが先かは詮索しなくても良い様な気がします。

『日本遊里史』で上村行彰は、鳥羽帝の時代公家の男が眉を剃り、お歯黒をして、白粉を塗り、紅までつける風が流行り、武士までこれを真似るという風俗まで現れたことを述べています。白拍子は言うなればこれと逆、一種の倒錯の世界が上流階級におこった事を仄めかしています。

日本遊里史の五年後に出版された『趣味史談遊女の時代色』には明らかに上村行彰の上記の観察を少し言葉を変えて引用した部分があり、さらにそこから白拍子が職業遊女になった過程をとても分かり易い言葉で提示してくれています。

“男舞の舞姫は、初期の和歌の前を初めとして名門の子女であった。彼女等は、芸の志妙を誇って高貴の人々にお目にかけたが、エロを売らうなどゝ卑賤なことは考えなかった。しかし男舞の流行は、自然男共をエロティックに興奮させて、「何とかならぬものか」と思はせた。要求ある処、新たな途が開ける。男舞が次第に職業化するに従って、つい誘惑に打勝てない女も続出したらうし、それを目当てに代償を得んとするあさましいのも殖えた。かうして、男舞の舞姫は、漸次に所謂「遊女」と化して行った。”


# by gionchoubu | 2016-01-29 12:40 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

京都府の花街・・・大正二年

京都府の花街・・・大正二年_f0347663_12064178.jpg
   木津町に芸妓が入ったのは本町辺りと思われます。(画像は江戸時代より続く料亭、川喜さん)

大正四年の『京都府誌下』に当時の京都府の総ての地域の貸座敷、芸妓数、娼妓数、さらに大正二年の遊客数、消費金額を網羅した表があります。下はそれより遊客数と消費金額を除いたものを載せています。

数字は左より貸座敷数、芸妓数そして娼妓数です。

上七軒   36  64      2       
五番町  128  49    469
祇園甲部 451 617    103
祇園乙部 197  91    244
宮川町  327 269    297
島 原  105  43    288
先斗町  178 221     30
七条新地 232  24   1101 
中書島   77  45    282
墨 染    5   1     18
恵比寿町  11   2     45
橋 本   20  43     42
木 津    -   8      - 
亀 岡    -  20      -
園 部    -  13      -
猪 崎   54  49    122
朝 代   46  56     68
綾 部    -  16      -
竜 宮   31  33    187
加津良   27  21     70
新 浜   41  35     56
峰 山    -  35      -
網 野    -   5      - 

墨染遊廓が大正二年の時点で存続していたこと、さらに一人の芸妓がいたことがわかります。逆に宇治の花街がこの時点でまだ立ち上がっていない事もわかります。

上の表で貸座敷が0(遊廓の歴史を待たない箇所)の内、亀岡、峰山にあった花街は以前とりあげました。また綾部の月見町の花街は現在調査中です。

以前述べた園部にはこの表によれば13人の芸妓が鑑札を受けていますが、旅館綿儀のお抱え芸妓で、お茶屋や検番の存在は確認できておらず、園部に花街があったとは考えにくいと思います。

また木津、網野にも芸妓を認めますが、やはり旅館や料亭に芸妓が入ったと思われ、この二箇所にも花街があったとは考えていません。

実は以前、大阪の古本市で八木(亀岡と園部の間の町)の芸妓写真集をガラスケース越しに見たことがあります。結構なお値段だったので手をだしませんでしたが、今考えると無理しても買っておけばよかったと後悔しております。

いずれにせよ、大正二年の時点で京都府に花街、及び芸妓がいた町は23あったことになります。

京都府の花街・・・大正二年_f0347663_12071340.jpg
『雲萍雑誌』に「宇治、木幡、淀、竹田あたりは、昔遊女多くありたるところなり。古き洛陽の地図に、小椋姫町といふところありて遊女町なり。そのかみは多く水辺に居たること、古書に見えたり。あさ妻舟の図などもおもひあはすべし。」画像は木津川

京都府の花街・・・大正二年_f0347663_12011045.jpg
文政時代奉納された絵馬に川喜さんが描かれています。


# by gionchoubu | 2016-01-26 12:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(3)

傀儡女(くぐつめ)

傀儡女(くぐつめ)_f0347663_11364979.jpg
                       大江匡房(百人一首)

もともと、中国では中華思想により、人間と呼べるのは漢民族のみで、傀儡子記の文中にある北狄の俗と表現されているように、漢民族以外は獣扁がついていたりして人と見なせられていませんでした。

我々日本人も漢民族から頂いたのは倭・・・人偏がついているだけ、すこしはましな扱いとも受け取れますものの、漢民族にとっては、所詮人見たいな人でした。

傀儡(クグツ)は、本文に見える沙石、即ち幻術を使い、魚竜曼蜒、即ち魚を竜や獣にさせる不気味な能力に長けた人形使いでした。

傀儡には両方とも人偏がついており、両方人形の意味をもちます。しかし鬼という字を組みあわせているのは、当時彼ら、彼女らがどのように思われていたか如実に物語っているようです。

滝川政次郎は『遊女の歴史』や『遊行女婦・遊女・傀儡女』で傀儡は朝鮮から渡来した白丁族で、朝鮮で戸籍を持つのを拒んだ為母国を追われ、日本に移り住んでも、納税の義務を負わされる戸籍を持つことから逃れつづけた流浪の民、律令制の罪人という強い言葉で断じています。

前回の「彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。」がその部分で、匡房も多少突き放した表現なのは彼が政治を司る立場だったのと無関係ではないでしょう。

もう一つ藤原茂明の傀儡子の詩を掲げます。(趣味史談遊女の時代色収録)

名を傀儡と称す何方に有らん、逆旅身を寄するに思ひ遑(イトマ)あらず。
郊外居を移して空処なく。羇中色を衒い専ら房を慕う。
桜桃春雨まさに艶を貪らんとし、蘭薫秋風と粧を比べんと欲す。
緑野、草深うして邑里をなし、鏡山一月冷うして家郷を卜(ボク)す。
倡歌数曲、生計を充し、微嬖一宵、客膓を蕩かす。
其れ奈んぞ穹盧年暮るゝの後、容華変じ去って心傷ましむ。

遊女が舟で人が集まる川岸に群れたのに対し、傀儡女が選んだのは陸の街道の宿駅で旅人を捕らえました。今ではあまり聞くことがない、青墓、野上、墨俣、赤坂、鏡山、草津、今で言う愛知、岐阜、滋賀の傀儡女が当時の歌に織り込まれています。

さて、京都とクグツの関係は直接見えてこないのですが『嬉遊笑覧』にこの一節があります。

くゞつは夫ありて、おほやけならぬもの也。都にてもそのかみ『建武元年二条河原落書』に「たそかれ時になりぬれば、うかれてありく色このみ、いくそばくぞや数しらず。内裏おがみと名付けたる、人の妻鞆のうかれめは、よそのみる目も心地あし」とあるは、是又傀儡の類、今いふ地ごくなどにあたれり。

地ごくは江戸にあった最下等の遊里のことです。建仁元年は1201年鎌倉時代初期になります。


# by gionchoubu | 2016-01-23 11:41 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

傀儡子記、大江匡房

傀儡子記、大江匡房_f0347663_12532932.jpg
傀儡子記(かいらいしき)

傀儡子は、定まれる居なく、当(マモ)る家なし。穹盧氈帳、水草を逐ひてもて移徙す。頗る北狄の俗(ナライ)に類(ニ)たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて桃梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜曼蜒の戯に近し。沙石(幻術)を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を成し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡□せず。亟行人旅客に逢ふといへども、一宵の佳会を嫌はず。徴嬖の余に、自ら千金の繡の服・錦の衣、金の釵(カンザシ)・鈿の匣の具を献ずれば、これを異(ウヤマ)ひ有(ヲサ)めざるはなし。一畝の田も耕さず、一枝の桑も採まず。故に県官に属かず、皆土民に非ずして、自ら浪人に限(ヒト)し。上は王公を知らず。傍牧宰を怕れず。課役なきをもて、一生の楽と為せり。夜は百神を祭りて、鼓舞喧嘩して、もて福の助を祈れり。

東国は美濃・参川(三河)・遠江等の党を、豪貴と為す。山陽は播州、山陰は馬州等の党、これに次ぐ。西海の党は下と為せり。その名のある儡(クグツ)は、小三、日百、三千載・万歳。小君・孫君等なり。韓娥の塵を動かして、余音は梁を繞る。聞く物は纓を霑して、自ら休むこと能はず。今様・古川様・足柄・片下・催馬楽・黒鳥子・田歌・神歌・棹歌。辻歌・満固・風俗・咒師・別法等の類は、勝げて計ふべからず。即ちこれ天下の一物なり。誰か哀憐せざらむや。

以上『日本思想大系8、古代政治思想』岩波書店で、<大曽根章介 校注>を元に漢文の原文を現代訳にしたものにアレンジを加えたものです。これでも難しいので、今回は『趣味史談 遊女の時代色』武田完二著で意訳してもらうと、

くゞつには定まった家がない。テント住居をしながら水草を逐って流れ歩いて行く。その様子は頗る北狄(蒙古人)の風俗に似ている。男は皆弓馬を習ひ、狩猟を事とする。或は双剣を跳ね上げ、匕(アイクチ)を弄び、また木人(人形)を舞はし、桃梗(これも人形)を闘はせて、まるで生きた人間のやふにあつかふ。或は沙石を変じて金銭となし、草木を化して鳥獣となし、人目をおどろかす。女は様々のメーキャップよろしくあって、みだらな歌を歌ひ、淫楽の友として媚びを売る。親も亭主もそれを一向苦にしない。行人旅客と逢って一夜の佳会をなすことも敢て辞さない。客は可愛さの余り、千金でも与える。そこで錦繡の衣装から、金のかんざし装身具の類まで、何でもかでも持たぬものはない。彼等は一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らない者で、県官の支配を受けないから、土民ではなく流浪の民だ。上に王公のあるを知らず、少しも地方の役人を怖れない。課役もないので、一生を安楽に暮らしてゐる。夜は百神を祭り、太鼓をたゝき踊り騒いで神の助けを祈る。東国の美濃、三河、遠江などのやからが最も豪気なもので、山陽の播磨、山陰の但馬などのやからがその次、西海(九州)のやからは最下等とされてゐる。名高いくゞつ(あそびめ)には、小三、百三、千歳、萬歳、小君、孫君などがある。何れも歌舞に妙を得て音声いとも美しく、聞く者感に堪えざるものがある。今様、古川様、足柄、竹下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満週、風俗、咒師、別法士の類、何でもやる。これも天下の一物だ。誰か哀れをもやうさぬものがあろう。

大江匡房の遊女記が河川に屯した遊女群を描いているのに対し、同じ筆者が同時期に記したとされるこの『傀儡子記』は平安期より、陸を拠点とした、売笑を生業の一つとした人形使いの集団を述べています。

遊女記で匡房は遊女を随分好意的に見つめているのに対し、傀儡子記では客観的に、この得体の知れぬ一族を眺めているようです。傀儡子(くぐつ)と京都の関わり次回紹介させていただきます。


# by gionchoubu | 2016-01-18 12:54 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

遊女記、大江匡房

遊女記、大江匡房_f0347663_12525278.jpg
                         

『遊女記』

山城国与渡津(ヨドノツ)より、巨川(宇治川)に浮びて西に行くこと一日、これを河陽(カヤ)と謂ふ。山陽、西海・南海の三道を往返する者は、この路に遵らざるはなし。江河南し北し、邑々処々に流れを分ちて、河内国に向ふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄なり。

摂津国に至りて、神崎、蟹島等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし、倡女群を成して、扁舟に棹さして旅舶に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(トド)め、韻は水風に飃へり。経廻の人、家を忘れずといふことなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳蘆相連なりて、殆(ホトホト)に水なきがごとし、蓋し天下第一の楽しき地なり。

江口は観音が祖を為せり。中君・□□・小馬・白女・主殿あり。蟹島は宮城を宗と為せり。如意・香炉・孔雀・立牧あり。神崎は河菰姫を長者と為せり。孤蘇・宮子・力命・小児の属あり。皆これ倶戸羅(クシラ)の再誕にして、衣通姫(ソトホリヒメ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶に及るまで、牀笫(ユカムシロ)に接(ミチビ)き慈愛を施さずといふことなし。また妻妾と為して、身を歿(ぼつ)するまで寵せらる。賢人君子といへども、この行を免れず。南は住吉、西は広田、これをもて徴嬖(ちょうへい)を祈る処と為す。殊に事(ツカマツル)百大夫(遊女の守り神)は道祖神の一名なり。人別にこれを剜(エ)れば、数は百千に及べり。能く人心を蕩す。また古風ならくのみ。

長保年中(999~1003)、東三条院は住吉の社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国は小観音を寵せられき。長元年中(1028~36)、上東門また御行ましましき。この時に宇治大相国は中君を賞(モテアソ)ばれき。延久年中(1069~73)、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき、狛犬・犢(共に遊女の名前)等の類、舟を並べて来れり。人神仙を謂へり。近代の勝事なり。

相伝えて曰く、雲客風人、遊女を賞ばむとして、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入る輩は、神崎の人を愛すといへり。皆始めに身ゆるえをもて事とするが故になり。得るところの物は、団手(花代)と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿厲の色興り、大小の諍論は、闘乱に異らず。或は麁絹尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平が肉を分つの(公平に分配する)法あり。その豪家の侍女の上り下す船に宿る者、湍繕と謂ひ、また出遊(素人の遊女)と称ふ。小分の贈を得て、一日の資と為せり。ここに髺俵・絧絹の名あり。舳に登指を取りて、皆九分の物出すは習俗の法なり。
江翰林(ガウノカンリン)が序に見えたりといへども、今またその余を記せるのみなり。

以上は大江匡房(1041~1111)が晩年に出筆にかかったとされる『遊女記』の全文の現代訳で、原文の漢文共にネットで拝見することができます。私が載せたのは『日本思想大系8、古代政治思想』岩波書店で、<大曽根章介 校注>を元にアレンジを加えたものです。

大江匡房(おおえまさふさ)は平安時代の公家であり、政治家であり、学者、歌人と多才多能、百人一首にもその名を留め、正二位権中納言まで昇りました。京都では五条西洞院南あたり(毘沙門町全域を中心とした一帯)、藤原師実が売却した千種殿に1077年から住んでいました。(京都市の地名)

この『遊女記』は平安時代、川尻の江口、神崎、蟹島の舟着場で繁栄した遊女群について述べたもので、この三箇所は現在の大阪の東淀川区の南江口、神崎橋を挟んで大阪側の加島、尼崎側の神崎町に当ります。

遊女記は現代訳でも難しいので、『日本遊里史』の上村行彰に意訳してもらうと、

「山城国與渡津から大川に浮び、西に一日行程の所を河陽といって、山陽、南海、西海の三道を往き返りするものは此の路を通らないものはない。此の両岸には所々に村落がある。川が岐れて河内の国に向ふ所を江口といって、典薬寮や掃部寮の大庭荘があるところである。而して摂津国に入れば神崎や蟹島といふ所があって人家櫛の歯のやうに比び、娼婦群集し小舟に棹して碇舶の舟を訪ひ、頻りに一夜の情を進むるの声、雲を起し風を呼ぶので、此の地を経廻る人は皆故郷の家を忘れて終ふほどである。そしてそれを附けこんで浪を切って行商の舟が往来する間を、蘆を分けて釣舟が横ぎるといふやうに、川の上は舟で埋まって水も見えない程である、誠に天下第一の楽地といってよからう云々」

江口・神崎・蟹島についてはいずれ先の課題として、今回長々川尻の遊所について書いたのは、『雲萍雑誌』(柳沢淇園著として天保十四年刊とされるも書かれた年代、著者ともに不明)の三の巻に

「宇治、木幡、淀、竹田あたりは、昔遊女多くありたるところなり。古き洛陽の地図に、小椋姫町といふところありて遊女町なり。そのかみは多く水辺に居たること、古書に見えたり。あさ妻舟の図などもおもひあはすべし。」

与渡津は賀茂・桂・宇治三川の合流点でありますので、江口、神崎、蟹島の遊女群が期を見て、雲萍雑誌にはありませんが橋本そして宇治、木幡、淀、竹田辺りに勢力を伸ばした物と私は考えます。

そしてさらに桂まで到達した遊女が九条の里を形成に与したと考えるなら、京都の水辺の遊女の源流も又、江口、神崎、蟹島に求め得ることになりませんでしょうか?




# by gionchoubu | 2016-01-14 12:55 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)