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西成、カラオケ居酒屋 孔雀

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最近休みがあれば兵庫の花街跡を訪ね歩いています。

歩き疲れた帰りは西成のカラオケ居酒屋の孔雀(クジャク)さんで歌って、飲んで、食べて帰る事が多くなりました。

場所は商店街の中のスーパー玉出の向いですぐわかります。

ママの咲(エミ)さんは中国の無錫(むしゃく)の出身で、面倒見がよく、お酒のおすすめ上手・・・ついつい飲みすぎてしまいます。

店名の由来はママが子供の時、羽を広げた孔雀を見た思い出によるものとの事でした。

ママは歌も上手でいつもリクエストさせて頂きます。

お客さんはお馴染みさんが多く、バラエティーに富んでおり、昨晩は日本人の変面師の方が隣でした。

生まれて初めて変面師にお会いしました。

営業時間は昼の2時過ぎから夜11時まで、月曜日ママはお休みです。(お店は月曜のみ別の方が開く予定との事)

飲み物500円、お料理500円中心(おすすめ麻婆豆腐)カラオケ100円、このあたりは周辺のカラオケ居酒屋と同じです。

歌って飲んで、3000円もあれば楽しめます。

夜にはお手伝いの中国の方が一人か二人いらっしゃる事がほとんどです。

11時に閉店ですので、動物園前から御堂筋線で阪急の最終京都行きにギリギリ間に合います。
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by gionchoubu | 2019-11-28 15:49 | Comments(0)

室津遊郭

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『色道大鏡』で藤本箕山は播州室津は日本の遊廓の祖と書きました。平安時代の初期、室の遊女が空海と詞をかわした、とあります。

同書では建仁寺天穏龍澤の『播陽室津図記』、半陰子の『室津尾野町之記』を収録していますが難解な漢文でとても私の手に負えるものではありません。

もう一つ『室津遊郭記』では弘法大師(空海)が室津にきた時

法性の室のみなとを立出て さとりをひらく花川の水

という和歌を残したとあります。

『平家物語』にも「室・高砂の遊君」などとみえ、都落ちして西海に向かう平家が室泊に立ち寄る場面に鼓を鳴らす遊女が描かれています。

『好色一代男』で井原西鶴は「本朝、遊女のはじまりは。江州の朝妻。播州の室津より、事起りて。今国々になりぬ。」「室は西国第一の湊。遊女も昔にまさりて。風儀もさのみ大坂にかはらずという」と室津を遊女の起源の一つとしています。

田宮仲宣著の『愚雑爼』に「傀儡は山岳により、遊女は河海によるものなり。傀儡は信濃、美濃、近江の者を上等とし、播、丹、作の者これに次ぐ。筑後の者は下等なりとぞ。」

播は播磨の事で室津は播磨にあるので、室津の売女のルーツが傀儡女であったことを伺わせています。

大江匡房の『傀儡子記』に傀儡子の芸能のレパートリーの一つに棹歌をあげています。

現在も室津で催される「小五月祭」には男装した女子高生が出演しますが、ずーと以前は室津の遊女「室君」が男装して「棹の歌」を神前で奏でました。

室津に遊女に触れた書物は上記以外でも文化四年開版の『北里見聞録』や『長戸本平家物語』などでも見ることができ。平野庸修の『播磨鑑』では「室君は世にかくれなき遊女にて、かく歌にも読れ、世の末までも名を残されぬ〜略〜其後宮木、友君、大柄杓、小柄杓など云遊女有し也」と記しました。

『遊行女婦・遊女・傀儡女』で著者の滝沢政次郎は室の遊里は、遊女記ができた頃には、江口・神崎の遊里に次ぐ楽地であったが、治承四年(1180)の福原の遷都により、江口・神崎は交通の幹線から外れ、室は新都の大玄関として急に栄え、江戸時代の室の遊女町は尾野町(斧町)にあり、西屋・但馬屋・つる屋が傾城屋として特に有名であった、と述べています。

この室津の歴史を辿ると、遊女は芸能集団の要素が非常に強かった様子が見えてきます。

参照:上記以外『御津町史 第一巻』

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               加茂神社にあった小五月祭りの様子


by gionchoubu | 2019-11-24 13:51 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

姫路夢前新地、中門新地

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                        中門新地跡

昭和33年3月16日の朝日新聞の兵庫版によると売春防止法施行前の姫路夢前(ゆめさき)新地は青線に分類され、14軒の業者に94人の従業婦がおりました。(32.12.31現在 兵庫県警調べ)

姫路市は赤線として古くから梅ヶ枝新地と湛保があったためか、どうしてもこの時期の記事で売春防止法関連の姫路の項はこの二つの旧遊廓になってしまったようで夢前新地の詳しい情報を見つけることは出来ませんでした。

神戸新聞の兵庫版、昭和33年3月10日では戦後に誕生した姫路広畑区、夢前、中門新地に業者十一軒と記されています。ただし赤線に分類されているので、当時でも赤線と青線の分類は曖昧な所があったのでしょう。

ただしこれは青線を赤線とする事があるのみで赤線を青線とした例は無いようです。

ちなみに読売新聞の播磨版、昭和33年3月6日では飾磨所管轄の青線として夢前新地、中門新地の二箇所を上げおり、この二箇所は別の青線と捉えています。

はたして夢前新地と中門新地とは別に存在したのでしょうか?

幸い地元の当時を知る人にお会いすることはできお聞きすると、中門新地はご存知なものの逆に夢前新地はご存知ありませんでした。

中門新地は予め予想したとおり広畑の中門通りに面していました。当時その方によると、たぶん解散後の様子と思われますが、飲み屋街だったとの事、ただしその中で何が行なわれていたは知る由がない、ともおっしゃていました。

そして解散した後、五、六年で面影も消えたようです。

そしてその方から中門新地から少し離れたところに六軒家(屋?)と呼ばれていた場所に二階に小部屋が幾つもある旅館があり、この二階で事が行なわれていたとの貴重な証言を得ることができました。

残念な事にその建物は数年前に駐車場になりました。

つまりこの六軒家が夢前新地で、中門新地と分けて考える人もおれば、一緒くたにした人もいたというのが私の見方になります。

ただしこの“ろっけんや”も俗称のようで直ぐ近くの方も聞いたことが無いとおっしゃっていました。

さて、相生の新地には川尻特飲街、大島新地、那波川新地等の呼び名がありましたし、前回の伊丹新地も地元の人は五番街と呼んでいた様でした。

そもそも青線は戦後誕生しており、昭和33年に表向きは解散しております。加古川の関根新地などわずか3年の営業機関でした。つまり名前すら定着するまでに終焉したところもあったのだと考えられます。


尚、当時を知るその人によると、広畑の青線を潤したのは近くの大手企業の工場関係の人や船乗りたちで、今でも需要があるのかどうか分かりませんが多くのスナック系の看板が目立ちました。実際に夜に灯が灯るかは、日のあるうちにこの地を離れたので定かではありません。


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                         六軒家
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by gionchoubu | 2019-11-22 12:13 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

伊丹新地と五番街


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これまで伊丹新地を追い続けてきましたが、今回過去の記述の中で二回変更します。


まずは最初、伊丹新地には遊廓時代の過去を持たないので青線と考えました。ところが昭和27年4月に開業した時、もともと市内に散在していた四業者以外に福原や飛田の旧遊郭業者を誘致した特飲街だったので赤線と書きました。

しかし今回昭和33年3月23日の神戸新聞、阪神版で、伊丹新地は青線に分類されていますので今一度青線に訂正させていただきます。

もう一つは其の場所を現在の公設市場と書きましたが、実際は公設市場と隣接した北側の部分と判明しました。

特定のきっかけは昭和39年の『観光と産業の伊丹市住宅地図』を見ることが出来たからです。

これによると伊丹市営総合卸売市場は新築工事になっており、これと接する北側にナポリ、扇家、丸美、入船、ちづる、サロン春美、おた福、サロン清栄、サロン末吉、スタンドみゆき、マーキュリー洋酒喫茶、スタンドまゆみ、恵美、千代、第二やよい、吉美ちゃん、新世紀、サロン梅ヶ枝、サロンママ、サロンママ、サロン大番、小判スタンド、三楽、ことぶき旅館、旅館よしの、竹葉旅館、旅館松鶴、旭荘、とみや荘、万両荘、木村荘、銀礼荘、友荘・・・上記の新聞に解散後は4軒が旅館、11軒がお座敷サロン、1軒が下宿に転業予定となっており、まさにその様に転業した様子が浮き彫りになっていました。

さらに伊丹神姫タクシー伊丹営業所まで入り口付近にあり、遊客の送迎をしていた事まで分かります。

いままで聞き取りをした中で複数のかたに新地は公設市場の所と聞かされていたのでそう書きました。つまりおっしゃった方は「伊丹新地はどこですか?」の問に対し、「公設市場の所」と返していただいたのは、公設市場の辺り、という事だったのでしょう。

鑑みるに、公設市場建設のために青線業者すべての土地を買収し立ち退かせるのはほぼ不可能でしょう。

『兵庫県大百科事典』によると伊丹市公設地方卸売市場は昭和38年3月新設総合卸売市場用地の買収に着手、昭和40年3月6日に開業とあります。

それにしても夜の町と朝の町が一時期隣併せという随分妙な時期があったことになります。

その後の伊丹新地の様子を昭和49年のゼンリン住宅地図でみると旧新地の一番南に角屋、小料理屋のタロー、オーロラ、築波、君の家がかすかに名残を感じさすぐらいでもう殆ど新地の面影はなかったはずです。

ちなみに伊丹市立図書館である「ことば館」で調べていたところ町名が竹ノ鼻68-1から北本町3丁目50に変更されたのは昭和54年頃との事でした。

さて、今回伊丹新地跡を再訪すると、旧新地敷地内で、やはり北側が歓楽街だったとの事、ただし伊丹新地ではなく「五番街」と呼ばれていたと教えていただきました。

これは昭和33年以降に過去のイメージを払拭するために名所変更をしたのでしょうか?

ただ現在随分離れた伊丹の北野に五番街という昭和レトロのスナック街があり、その関連性に新たな謎を抱えてしまいました。
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この筋より南が伊丹新地
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伊丹市立博物館の入り口にあるこの航空写真(昭和31年)の千代田光学の部分が伊丹新地・・・中を見せて、というわけにもいかず、ネガの場所もわからないとの事・・・残念!

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公設市場の裏から伊丹新地に抜けれた小道、と聞きました。


by gionchoubu | 2019-11-17 14:32 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

手帖セラピー祭開催のお知らせ

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手帳セラピストとして多くの著書を世に出し、着物コンシェルジュとしても活躍中の“さとうめぐみ”さんが手帳セラピー祭りを開催します。

さとうめぐみオフィシャルサイト

https://www.utosa.net/

2019年11月30日(土)東京会場

TIME SHARING 渋谷青山通り2F

2019年12月7日(土)京都会場

ホテルウイングインターナショナル京都 四条烏丸1F
(caf?&bar『ゆうき』)

共に【開場】13:00

【開催時間】13:00~15:30
【参加費】4,000円(税込)
* 飲食は含まれません。

お申し込み・お問い合わせ受付メールアドレス
info@manubooks.co.jp

1、 お名前・ご住所・お電話番号・参加日と開場(東京or京都)を記入の上ご送信ください。
2、 折り返し、参加費の振込先をメールでご案内いたします。
3、 ご入金の確認ができ次第、受付完了メールを送信します。

お申込み期限 2019年11月22日締め切り

当日は手帳の書き方ワークショップ、抽選会、「未来年表」ワークショップなど盛り沢山な内容となっています。

幸せおとりよせ手帳のことをもっと知りたい、2020年をより充実させたい、さとうめぐみに会ってみたい方のお申し込みをお待ちしています。

*************************************************************

さとうめぐみさんは歴史、文学、花街の造詣も深く、祗園喫茶Rinkenさんでいつも情報の共有をさせていただいています。




by gionchoubu | 2019-11-13 11:30 | Comments(0)

洲本、遊郭、花街、赤線

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                      2011年撮影

『兵庫史学第32号』の「洲本遊廓」新見貫次著、によると幕末淡路に遊廓が数箇所ありました。洲本では明和に入り由良港の出入りが便利になると明和四(1767)年、四丁目中津街に紀国屋と平野屋の二軒の青楼が許可されました。

この紀国屋には哥木という遊女が最も有名だったと『堅磐草』に出ているそうでこれが淡路郷土誌中唯一の遊廓に関する記事との事でした。

俗謡に

「福良湊は入能ようて出ようて、女郎の情のない湊」

「志築女郎衆は水くれと云たら、くれる真似してくれなんだ」

「志築女郎衆は茶碗の湯着、色はしろうても水くさい」

・ ・・あまり評判は良くなかったようです。

『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 洲本』新見貫次著によれば  淡路島の洲本の猟師町(現在の海岸通り)に洲本遊廓がありました。明治十年発行の淡路新聞には、遊廓設置反対と賛成の議論があったものの、同十二年郡長の名で免許が下りました。

場所は洲本港の入り口で、ここを通らなければ町にはいられませんでした。

『兵庫県統計概表』によると明治13年に洲本の漁師町に芸妓85人、舞妓5人がいた事になり、これはかなり大きな花街だったといえそうです。

つまり漁師町は関西でよくみられる遊廓と花街が同居していた色里でした。

『兵庫県警察史 明治・大正編』によると、名東県(当時淡路は名東県)は人形浄瑠璃がさかんんな土地柄で芸妓志望者が多かった。とあるのは芸妓の多さを裏付けています。

昭和五年刊『全国遊廓案内』によると、妓楼約十九軒娼妓約百名位いて、兵庫県では室津、篠山、そして洲本町遊廓の三箇所のみが陰店(屋内で実際娼妓を見た上で指名できる)であとは写真式(写真のみで娼妓を選ぶ)でした。

神戸や明石、西宮、姫路などの都市部は全て写真式なので、交通の便が悪いこの三箇所は当局から大目に見られていたと考えられます。

張店(道路から格子越しに娼妓を選ぶ)は明治期、陰店も大正半ばで人道上の理由で禁止されましたが、遊客は当然直接自分の目で敵方(あいかた)を指名したかったはずです。

渡辺寛著『全国女性街ガイド』によると洲本桟橋で降りて観光バスに乗ると嫌でも遊廓を通る仕組みになっているが最近、学生旅行(修学旅行)の風紀云々で別に道路を作った、と赤線時代終盤の様子を伝えています。

又、同書には洲本より島の東北にある岩屋町に酌婦が三十名程あり面白く遊べるとの情報がありました。

読売新聞 神戸版 昭和三十三年三月十五日に『消えた洲本特飲街の紅灯』の見出しがのり赤線時代最後の様子を映しだします。

「売春防止法施行の四月一日を前に洲本市猟師町、通称“ハマ”の歓楽街は十六業者のうち営業を続けていた八軒も十四日一せいに廃業、従業員十二人も解放されて十五日朝帰郷、八十年の伝統を持つ“洲本特飲街”の紅灯は完全に消えた。」とあります。

同紙によれば、旧組合事務所を工費三百万円でキャバレーに改装、約四十人のダンサーを置き、ひき続きパチンコ遊技場、トルコ風呂、子供遊園地、水族館んなどの娯楽センターを作る予定とありました。

花街側の情報としまして、洲本小唄には四バージョンあったようです。それぞれ一番だけ紹介すると。

√洲本来てから 洲本きてから 恋やけ日やけョ ハ、ヨイコラサット かえりともない 涼風に ハ、ヨイコラサノサッサト ウイタウイタウイタサット

√洲本大浜松原づたい行けば青潮、五色の砂に寄せてくだけて夫婦波、洲本よいとこ浜づたい

√イイネ町々 洲本の町は まどろむ鴎の波まくら、ソートゆらゆら金色に 海原そめたよ朝の日が・・・

√洲本ヨイヨイ三熊山眺めがすてき ちぬの海原、ヨイトサ、遠ちの山エザヤン ソヤザン

今は昔の華やかな様子が浮かびます。

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貸座敷だったのでしょうか?
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by gionchoubu | 2019-11-10 17:01 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

神戸 春日野新地

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春日野新地跡

擬似芸妓と云える雇仲居(やとな)の花街というと大阪の南陽新地(新世界)、京都の木屋町、下河原、三重の住吉町、広島の竹原などが挙げられます。

兵庫では、他所とは少々趣きを違えますものの、神戸市の春日野新地が雇仲居を従業婦として始まり、青線としてその時代を終えました。

『モダン都市の系譜 地図から読み解く社会と空間』水内俊雄、加藤政洋、大城直樹著によると、春日野新地は昭和10年、雇仲居と料理屋の二業地として誕生しました。

この昭和10年2月18日の『神戸新聞』の普通欄に

やとな至急大募集、多忙につき収入確実、宿泊の便あり、衣装代貸、春日野道倶楽部、電話一八四七の募集が出ております。

ちなみに同欄で「女給、快活の愛嬌のある二十五歳までの五、六名急要客筋よし、楠町六丁目電軍交叉点角、金星」というのもあります。

これはカフェーの女給の募集と考えられます。女給の募集に二十五歳の希望があるのに、やとなに無いのは、やとなの年齢層が女給に対して高いのを暗示していると私には思えます。

そして戦災により中断したようですが、昭和27年7月1日、料理屋営業の許可(9軒)を受け特飲街、すなわち青線として復活しました。

『朝日新聞兵庫版』昭和33年2月21日を見ると売防法完全施行の直前の春日野新地には9軒の業者に30人の従業婦がおりました。

さて春日野新地の場所はどこでしょうか?

当時春日野小学校に通っていた方の証言によると、当時新地はじごくだに(地獄谷?)と呼ばれていました。商店街に幾つも横筋がありどれが春日野新地か分からないとの事、新地以外の筋も地獄谷と小学生には見分けが付かない程の雰囲気のところがあったようです。

別の方に聞いてようやく春日野新地の場所が分かりました。『昭和30年度版都市地典 神戸市の部』で確認すると今は無き春日名画劇場向かいの筋で、一力という店があるのでいかにも青線業者という名前です。それ以外も老松、さくら、かつら等素人宅でなさそうな店がならびます。

商店街から春日部新地を通るとすぐ日本ダンロップゴム株式会社につき当たります。それ以外にも付近は川崎製綱所、神戸製鋼所などの多くの大企業があり、これらの従業員が春日野新地を潤したのは間違いないでしょう。

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by gionchoubu | 2019-11-06 13:47 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

飾磨町遊郭 湛保

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『兵庫県大百科事典』神戸新聞センターの『湛保』(たんぽ)の項を見ると、江戸時代、飾磨津の最南端に建設された港湾。弘化3年(1846)新規築港されると、湛保の岸には船問屋・遊廓などが立ち並び港として活気を呈するようになった、と書いてあります。

掘り下げた土砂は南の海岸に積み上げられ弘化山と名づけられると、文久3年(1863)姫路藩により外国船に対応すべく砲台が設けられ、お台場と呼ばれたといいます。

明治十年八月、飾磨津の内 須賀町に貸席ならびに娼妓営業地域の一つとして指定されました。

須賀町は湛保を含んだ町で、元文5年(1740)の姫路町飾万津町地子銀控に「須賀町」と有るそうです。(『兵庫県市町村合併史 上巻』)

『兵庫県統計書』によると摂津国飾磨津須賀町に

明治12年貸座敷11軒に娼妓18人おりました。

明治13年貸座敷18軒に娼妓24人と増加したもののその後暫時減少

明治21年貸座敷3軒に娼妓18人となりました。  

昭和四年刊の『全国遊廓案内』では飾磨町遊廓として紹介され、貸座敷十軒、娼妓が約六十人、店の制度は写真式、娼妓は居稼制、廻しはとりませんでした。

主なる店として高島楼、朝日楼、栄松楼、大黒楼、花月楼、初開楼、宮本楼、八幡楼、三笑楼がありました。

昭和10年5月飾磨には10軒の貸座敷業者に64人の娼妓がいました。
(『旭影』昭和12年1号)

公娼廃止時(昭和21年1月)飾磨の貸座敷業者10軒に娼妓74人なっていました。(『兵庫県警察史 昭和編』)

その後湛保は赤線時代を迎え8軒の業者がありましたが3軒が廃業、朝日新聞兵庫版昭和33年2月21日によると、業者5軒に23人の従業婦がおりました。(昭和32年12月31現在、兵庫県警調べ)

そして昭和33年3月6日の読売新聞、播磨版ではさらに2軒が廃業従業婦は18人まで減少して赤線湛保も程なく終焉を迎えました。

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海神社にて、お料理屋さんでしょうか?
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      遊里につきものの思案橋ですが湛保から1キロ離れているので無関係でしょう。



by gionchoubu | 2019-11-03 11:08 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)