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高砂の遊廓と花街





高砂の遊廓と花街_f0347663_15012824.jpg
この建物こそ北渡海町の初開楼でした。手前のドアを開けると階段です。2階は押入れのない6畳くらいの部屋が並んでおり、貸倉庫としても利用されていました。向かいの建物が母屋でした。どういう経路で商店街(現在シャッター街)に取り込まれたのでしょうか・・・とりあえず、超貴重な物件だと思います。


近世以来旅客の往来が多かった高砂には、他の港町と同じく遊郭が存在し遊女が存在していました。
      
明治11年 貸座敷 7 娼妓 13   だった数字が

明治15年 貸座敷 7 娼妓 34   と増えましたが

明治23年 貸座敷 3 娼妓 24   と減じました。


当初の高砂町の遊郭の特色は免許地として一区域に貸座敷が集中していたのではなく各町に点在していたことで、明治13年の例をみても

狩網町、北本町、次郎助町、北渡海町、南渡海町、高瀬町にそれぞれ貸座敷が一軒、もしくは二軒ありました。これは町全体に広がっていたという訳ではなく、鍛冶屋町中心とした南北の地域に当たります。

それにしても他の商業施設や民家のなかに貸座敷が点在していたのは全国でも珍しいと思います。

しかし昭和二年、高砂実業協会発行の『高砂案内』の貸座敷業を見ると、松鶴楼、相生楼、高砂楼、陽気楼四軒が次郎助町、初開楼のみが次郎助町すぐ南の北渡海町になるので、大分コンパクトになったようです。

昭和五年の『全国遊郭案内』では高砂町遊郭に上記の五軒を挙げ、店は写真式、娼妓は居稼ぎ制、廻しはとらないとありました。

一時間遊びは台の物は別として一円はとても安価で、近くの明石の遊郭が台のもの別で二円なので半額で遊べたことになります。

『旭影』昭和12.1号によれば、昭和10年5月、高砂遊郭に5軒の貸座敷業者に52人の娼妓がいました。

『兵庫県警察史 昭和編』によると昭和21年1月、県下の公娼廃止時に4軒の貸座敷業者に32人の娼妓がいました。

朝日新聞、播州版、昭和33年2月11日の紙面をみると高砂市の赤線業者一戸で従業婦四人で売防法施行後は料理屋に転業する予定とありました。

高砂の花街について書いてみますと、『高砂案内』には芸妓置屋業として横町に二軒、次郎助町に一軒、細工町に一軒と次郎助町を含んで遊廓の南にあった事になります。

芸妓はお茶屋でなく、石寅(南本町)相生旅館(次郎助町にありましたので相生楼の姉妹館だと思います。)常盤(朝日町)角佐(藍屋町)や料理屋に入ったものと思います。

料理屋は置屋のあった横町に入船、友恵など七軒が集中しており、その他四町に五軒ありました。

次郎助町には今新、沖ノ屋、朝日亭と三軒もカフェーがありました。

参照:上記以外『高砂市史 第三巻 通史編 近現代』

高砂の遊廓と花街_f0347663_15003321.jpg

2009年撮影時は八百屋さんが営業されていました。

高砂の遊廓と花街_f0347663_15020148.jpg

光守大神の玉垣に高砂芸妓組合事務所と刻まれています。
高砂の遊廓と花街_f0347663_15034380.jpg



by gionchoubu | 2019-10-31 15:04 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

わしが在所

わしが在所_f0347663_10375731.jpg


わしが在所は 京の田舎の片辺

八瀬や大原に牛曳いて

柴打盤 床机頭へチョイト乗せ

梯子買わんせんかいな 黒木買わしゃんせ

エ~エ エ~エ エエエエ~


宮川町、駒屋、とし菜希さんの“わしが在所”です。

季節感がないためか、宮川町の舞妓さんはリクエストがあればいつでも踊ってくれます。

とし菜希ちゃんは枚方出身の17歳です。



by gionchoubu | 2019-10-26 10:39 | 宮川町 | Comments(0)

大阪 池田の花街と赤線

大阪 池田の花街と赤線_f0347663_15163189.jpg
駅から北へ商店街を抜けるとすぐ呉春(酒造)があり、そこが新地の入り口です。
大阪 池田の花街と赤線_f0347663_15181132.jpg
大阪 池田の花街と赤線_f0347663_15184330.jpg
                 

大阪府池田市の綾羽一、二丁目は以前米屋町、中之町(なかんちょう)と呼ばれ、戦前は芸者の置屋が数軒と検番が二箇所あり、十数軒の料亭が軒を並べ、北摂でただ一つの花街として知られていました。

その起源を辿ると、明治九年、めん茂楼、十年にみやこ楼が開業すると、立派な旅館・料亭が立ち始め、それ以前の角糸楼を合わせ、北摂一帯や大阪などからの遊覧客や地域の有力者たちの会合場所として発展しました。

明治三十一年、本町にあった富士一楼の藤田由松という人が本検という検番を設置し、芸妓二十数名を抱えて各旅館・料理業者の招きに応じ始めました。

その後宝検、旭検、中検などの検番が立ち上がったが結局本検のみが隆盛をきわめていくようになりました。

この規模の花街で四つの検番があるのは異常と言ってよく、たぶん芸妓の所属する置屋、あるいはせいぜい二、三軒の置屋グループを検番と称していたのだと思います。

そして客はお茶屋でなく、旅館、料理屋に入ったのでしょう。

明治四十年に本検は拡張され呉服検合資会社となり、各料理屋を組織して呉理会が出来ました。

池田の花街の情報は今のところ是ぐらいしか分かりません。

昭和十九年に大阪から遊廓が疎開して戦時中この地で新地として営業し、戦後に綾羽町商店会を組織しました。

そして綾羽町の特飲街は「綾羽新地」あるいは「池田新地」と呼ばれました。

昭和二十八年から二十九年にかけ住民側の「風紀取締を求める陳情」業者側の「風紀取締の罰則緩和を求める陳情」の後、市長参加のもと「風紀問題に関する懇談会」が催され、両者は対立しました。

結局、池田市では昭和二十九年二月二十七日に風紀取締条約を制定して、池田新地や以前の風紀取締法の規定により許可を受けていたものは(売春の)取締りを免れることを確認したので、反対派は赤線業者に押し切られる形になりました。

罰則は赤線地域以外の私娼を取締るという池田新地にとって都合のいいものに過ぎませんでした。

昭和三十三年の売春防止法施行時、十五の業者が池田新地待合業組合「池田新地かなめ会」に属し、七十人の女性が働いていました。

そして同年、大阪の布施新地、港新地、守口新地とともに池田新地はその歴史を閉じました。昭和三十九年『アトラスの住宅地図』をみても綾羽一丁目、二丁目にはその痕跡は全くといって良いほど認められませんでした。

参照:『新修池田市史 第三巻、第四巻、第五巻』『池田市史 史料編11』


新地の突き当りにある伊居太神社には昭和三十年六月に十周年記念(新地ができたのが昭和二十年とは終戦時に誕生したことになります)刻まれた一対の狛犬があります。赤線業者からの寄贈を神社が受けとるか?という疑問を抱えながらこの地を離れました。

大阪 池田の花街と赤線_f0347663_15165935.jpg
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by gionchoubu | 2019-10-25 15:19 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

宮川町みずゑ会と千賀明さん

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令和元年1010日〜13 宮川町歌舞練場にて宮川町の芸妓、舞妓が京の京都を艶やかに彩る『みずゑ会』が催されました。

みずゑ会は、京都五花街の一つ、宮川町の芸妓、舞妓が日々精進し磨きをかけた技芸を披露する会です。

厳しいお稽古を積み重ねてきた芸妓、舞妓による古典を中心とした宮川町ならせはの雅やかな舞台が楽しめます。

その期間中11日金曜日の夜、その宮川町の駒屋の千賀明(ちかさや)ちゃんと夜の宮川町を散歩しました。

日ごろ聞けないことも色々お聞きできて楽しかった!・・・です。

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by gionchoubu | 2019-10-17 14:25 | 宮川町 | Comments(0)

明石 東本町遊廓

明石 東本町遊廓_f0347663_12012257.jpg
                  2009年の画像、現在この雄姿を見ることはできません。

明石の東の宿場に遊女屋ができたのが正徳四(1714)年ごろとされ、初め三軒の遊女屋が元祖とされその後二軒、さらに五軒が加わり、それ以外にも旅籠屋に飯盛女を置いたり、娼妓に似た芸妓をおく料理屋も現れました。

明治初年廃藩後、明石港入り口の中崎海岸付近では船員相手の惣花(そうか)とよばれる下級私娼がいました。

明治三年宿駅廃止になり、町中に郭を置いてはならぬという事で、明治六年、島田槌松という人が中崎にあった明石藩の米倉跡の払い下げを受け、ここで大蔵谷の娼妓を移して新地を誕生させたと言います。

その時『明石市史 下巻』によると明石城の西にある「王子にも一部を移したという説があるが詳らかでない」とあり、又神戸新聞、明美版、昭和33年3月1日では一部が王子の南にある望海の浜に移ったとしています。

ところが明治十四年には大蔵谷にも貸座敷十四、五軒あり娼妓二十三、四人、芸者七、八名がいたという記録(明治十四年二月五日、『朝野新聞』)があるので実際よく分かりません。

兵庫県統計書(『兵庫県警察史 明治・大正編』収録)によれば

       貸し座敷   娼妓
明治12年    16     29
  13年    17     32
  14年    19     37
  15年    17     40
  16年    14     35
  17年    13     30
  18年    05     13
  19年    04     11
  20年    04     13
  21年    05     20

この貸し座敷数には東本町と大蔵谷の合計したものです。明治18年に貸し座敷数、娼妓数ともに激減しています、推測になりますが、明治17,8年に大蔵谷は廃止され、東本町一本になり、王子にしろ望海の浜にしろ、移った直後消滅したとおもわれます。

『明石市史史料(大正期編)第八集(下)』に新地遊廓移転協議、大正四年町会々議録というのがあり、明石町長の印もあります。官庁の命令で(東?)本町から川西(魚住地区?)のどこかが候補に上がっているようなのですが詳しく分かりません。この移転問題は明治四十二年に持ち上がっていた、とあります。

たしかに現在の中崎2(旧東本町)は明石市役所のお隣の位置で風紀上大きな問題だったと考えられます。

昭和五年の『全国遊廓案内』によれば明石市東本町遊廓に妓楼は十四軒、娼妓は百三十人、店は写真店で娼妓は居稼ぎ、妓楼は千歳楼、西栄楼、栄楼、遊楽楼、一力、いろは、山本、可祝、金波、錦松、三州、尾西、花月、末廣とあります。

『旭影』昭和12.1号によれば、昭和10年5月、高砂遊郭に14軒の貸座敷業者に123人の娼妓がいました。

『兵庫県警察史 昭和編』によると昭和21年1月、県下の公娼廃止時に14軒の貸座敷業者に122人の娼妓がいました。

東本町遊廓は戦災も免れ古い建物が特徴でした。戦後はこれといった投資もせず、償却も済み、若手もほとんど他に職をもっているので、売防法施行に対して他の赤線のようなあせりが無かったといいます。

昭和32年末には14の業者と57の従業婦がおり、昭和33年二月末で県下のトップを切ってその歴史を閉じました。


明石 東本町遊廓_f0347663_12055015.jpg
建物の二階が改装され、隣が三層楼だったのがわかります。
明石 東本町遊廓_f0347663_12073574.jpg
明石 東本町遊廓_f0347663_12080338.jpg
                  張店を意識されたのでしょうか?
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明石 東本町遊廓_f0347663_12131154.jpg
    中崎二丁目5
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by gionchoubu | 2019-10-13 12:04 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)

西成、飛田新地近くのカラオケ居酒屋

西成、飛田新地近くのカラオケ居酒屋_f0347663_15205983.jpg
 パチンコニュー大阪の所にある香港之夜は香港出身の若いYUKIママ(美人)がきりもりされています。お料理も本格的で、マーボー豆腐は美味でした。飲茶は十分ぐらい料理に時間がかかるとの事・・・次回注文することにしました。

御堂筋線の動物園前駅で下車、ジャンジャン横丁からあびこ筋を渡った動物園前一番街、二番街のアーケード内には数多くのカラオケ居酒屋さんがあります。アーケード内のスーパー玉出周辺が中心です。


その多くが中国系でママは中国人、台湾人、香港人が多く、他の東洋系の方もいらっしゃる事、ネット情報では百軒を上まる勢いとあり、確かに商店街を中心に、今池駅周辺まで乱立しています。ほんの少しですが新世界にもあります。

ママ一人の所もありますが、二人、三人のスタッフを揃えている所もあり、中にはとても美形の女性がいらっしゃる所も・・・皆さんフレンドリーで初めてお一人で行かれても問題ないと思います。

入口で呼び込みする店も少しあります。

もともとこの居酒屋群を支えていたのが西成の生活保護を受けておられる方だったとの事、今では多数派ではありません。

カラオケ居酒屋という形態上、すぐ他のお客さんと仲良くなれるのが一番の特色です。

殆どの店が夕方に開き、11時に閉めます。この11時とは近くに民家もあるので、大変厳格で騒音の取り決めがあるらしく、歌っている最中でも強制ストップです。実際私も経験しました。

料金は一律で飲み物、食べ物、すべて500円、カラオケ一曲100円です。私が訪れた中では、お料理に力をいれている所は少数で、ほとんど無い所もありました。

日本人経営のごく普通な感じの居酒屋もカラオケが基本あり、突然歌が始まります。まったく置いてない所も少しあります。静かに飲みたい方は座る前に確認するのをお勧めします。

旅行中のアーケード内は外国人の方もよくいらっしゃったり、夕方なら飛田新地にご出勤のホステスさんと思われる人とすれ違うこともあります。

ただ、以前に比べ立ち寄り安くなったものの、ディープな所なのは間違いなく女性一人は避けたほうが無難でしょう。

西成、飛田新地近くのカラオケ居酒屋_f0347663_15352812.jpg
メイドコスチュームのカラオケ居酒屋あり。

by gionchoubu | 2019-10-09 15:30 | Comments(0)

神戸RRセンター

神戸RRセンター_f0347663_11013540.jpg
                       神港ビル

昭和二十八年八月十二日米軍西南司令部は「米極東司令部の通達により奈良R・Rセンターを閉鎖し、新たに神戸市生田区海岸通神港ビルにR・Rセンターを開く」旨を発表した。

移転の理由は「伊丹空港に近く、交通、宿泊、食事、設備などに便利で将兵のレクレーションに適当なため」でした。実際奈良の五百名に対し神戸は九百名の収納が出来たのです。

この突然の発表に、県、市教育委員会を始め婦人会、PTA、児童福祉関係などの団体を含む百三十八団体が「風紀上好ましくない」と移転反対運動に立ち上がったものの、すでに神港ビル内の改装工事はほとんど終わっており、神港ビルの使用権はアメリカにあるので、九月二十一日開設されました。

朝鮮戦線からの米帰休兵は一人当たり平均十五万円と五日間の滞在を得ていたので、それを狙う大阪の暴力ポン引団は帰休兵を大阪へ運ばずとも、神戸でじゅうぶん遊ばせるよう地盤と組織を築き上げていました。

特にG会とF会は組織力にものをいわせ、立ち遅れた神戸のそれを圧倒しました。

大阪から移ってきたポン引き団はR・Rセンター前に駐在するタクシーの運転手、リンタクマンを買収し、かれらをポン引きに仕立てて白線区域内で客引きをするように成り、警察のパトロールを避けつつ、白昼堂々と、四、五十名のポン引団が帰休兵にむらがり、話がまとまると、ホテルに連れ込み、夜の女を提供しました。

R・R・Cの出現でキャバレーやバーは余りうるおわなかったが、三宮付近の温泉マークはポン引団の根拠となり、タクシー、リンタクの運転手を使って帰休兵を送り込み、「日本人お断り」の看板を出したほど繁盛しました。

昭和二十九年二月十三日、M.・P本部から東亜ホテル、第一ホテル、ABCホテルをオフリミット(外人兵立入禁止)した旨、生田署を初め関係者公庁に通知があり、その監督方の依頼がありました。

直接の原因は「脱走兵の隠匿、売春、ドル交換などの疑いで軍の規律を維持するに好ましくないもの」と、判定、強硬措置をとったものですが、適用する市条例がないため未検挙となっていたものです。

神戸R・Rセンターの設置は神戸市民に異常な衝撃を与えた大問題でしたが、大阪方面のポン引団を太らせただけで、地元はあまりうるおいませんでした。

結局神戸R・Rセンターは昭和二十九年四月十九日以後一時閉鎖状態でしたが、三十年三月十三日正式に閉鎖されました。

前日の十二日、霧雨けむる第六突堤の米軍用船は、最後の帰郷兵二百五十名を乗せて出向、神戸基地司令官や市長らが見送る中、神戸市消防局のブラスバンドが奏でる「蛍の光」に送られて船は岸壁を離れました。

R・Rセンターにはいった員数は開設以来十四万一千百五人でした。

参照:神戸市史第三集 社会文化編

神戸RRセンター_f0347663_11024769.jpg
神戸RRセンター_f0347663_11031793.jpg


by gionchoubu | 2019-10-03 11:03 | 亡くなった兵庫の游所 | Comments(0)