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岩崎峰子 祇園

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岩崎峰子・・・五歳で祇園甲部の置屋岩崎に入り、六歳の六月六日に井上流家元の四世井上八千代四畝の直弟子として入門、十五歳で店出をして祇園甲部の舞妓に、二十一歳に襟替えをして芸妓に、そして昭和五十五年、二十九歳で引退をしました。

この間六年売り上げナンバーワンとしてお座敷や舞台を勤めました。

その座敷にお見えになった方にアメリカのフォード大統領、キッシンジャー国務長官、イギリスのエリザベス女王、エジンバラ公、司馬遼太郎、湯川秀樹、京セラの稲盛和夫、ホンダの本田宗一郎、サントリーの佐治敬三、ワコールの塚本幸一・・・さらには勝新太郎との浮名・・・

著書として『祇園のうら道おもて道』『祇園の教訓』『芸妓の花いくさ』アメリカで出版した自伝『Geisya,a Life』は世界十三国で翻訳されベストセラーになりました。

一時は着物を千着もっておられたとご本人が回顧されています。

今や伝説の芸妓さんでした。

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by gionchoubu | 2019-06-28 10:37 | 祇園 | Comments(0)

テキサス大通り 豊中のパンパン宿

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  テキサス大通り,阪急駅は蛍池

R・R・センターが奈良から神戸に移る前、大阪が候補地に挙げられました。その理由の一つに「伊丹空港に近い」というのがあります。

当時伊丹空港はItami Air Baseとして米軍基地でもあり、朝鮮戦争の前線基地として使用されていました。

朝鮮戦争中、5日間の休暇を得たアメリカ兵が伊丹に送られると、100ドル乃至300ドルを円に替え女と酒を求め奈良のRRセンターにバスで移動しました。

ところが、『占領と平和運動』佐藤公次著収録「蛍ガ池小学校区域」昭和28年九月と書かれた手書きの地図をみると、伊丹空港に大阪府で接する豊中市の阪急蛍池駅周辺から伊丹空港までの地域に100軒余りのパンパンハウス、10軒ほどの旅館、アパートそして40軒に近いキャバレー、カフェー、特飲店が描かれています。

特飲店とは「広辞苑」によると“特殊飲食店”接客婦をおく飲食店。1957年(実際は1958年)の売春防止法施行まで、売春婦を置いた店をいった。特飲店、とあります。

特飲街は特殊飲食店街の事で旧遊郭免許地、いわゆる赤線です。豊中には遊郭も赤線もありませんでしたので、買春のお墨付きと言っていい特飲店の許可の元営業ができたのでしょうか?

豊中の市史や年鑑には触れられていないものの、昭和28年の豊中の公安の資料に風俗営業取締法第一条一号営業待合料理店(小料理店)カフェ(バー)、第1条2号営業、キャバレー、ダンスホール、ダンス教授所、第1条3号営業、遊技場の欄があり、この第1条1号のお店が昭和25年の1月には8軒だったものが昭和28年の10月には39軒と大幅に増えています。

これこそが上記の40軒のキャバレー、カフェー、で風俗営業取締法第一条一号の営業許可を得ていたことで、特飲店とするのは無理があると思いますが正直よく分かりません。

そしてこの40軒の殆どが俗称テキサス大通に集中していました。

「蛍ガ池小学校区域」で色付けをしたのがテキサス大通り、あるいはテキサス通りとされた道で、蛍が池駅側にはITAMI AIRFIELD ENTRANCE のゲート、伊丹空港の近くは特に多く、ワシントン、ハワイローズマリー、ニューヨークなど十数軒がひしめき、その他通り沿いにハッピーアワー、リツルマン、フライングボール、ストリークラブ、ビレッジバー、ココナッツ、パシフィック、ブラックアウト、ドラゴンなどがありました。

『新修豊中市史通史二』に占領軍を迎い入れるに当り、大阪府は大阪市内および豊中・池田両市に「特殊慰安施設」を十数ケ所設置することが決定された(「朝日」昭和20年9・14)とあるので、豊中、蛍ガ池に戦後すぐパンパンハウスができる土壌があったと考えられます。

昭和25年には6月23日、8月6日、28日、11月20日に街娼婦の検挙取締りが行なわれています。

さらに、昭和26年(1951)1月20日、「街路等における売春勧誘行為等の取締条例案」が豊中市議会で即日可決されました。

その後2月5日、9月19日、20日、10月10日、12月22日にも取り締まりが行なわれ、10月30日には進駐軍兵士と日本人女性の心中事故も発生しています。

昭和27年には毎月取締りがあり、2月9日と2月23日には蛍ヶ池風俗営業者指導取締実施も催されました。

さて、奈良の尼ヶ辻のパンパンハウスがそうだったように、蛍池のパンパンハウスも農家の間借りだったはずです。それにしてもこれだけの色地域が、私が歩き回った限り、奈良RRセンターや大津の山上町のパンパンハウス地域と同じく、全く痕跡を残さないのはキャバレーの建物などは殆どバラック程度の作りだったからなどでしょう。

アメリカ軍兵士としてはわざわざ奈良にいかずとも空港から歩いてすぐに遊べる場所があればそれに越したことは無かったでしょう。

現在、当時無かった11号池田線とテキサス大通の交差するところにファッションホテル街があるのは全くの偶然でしょうか?

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                      テキサス大通り
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                       テキサス大通り、伊丹側


by gionchoubu | 2019-06-27 11:59 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

奈良木辻遊郭ぞめき 二

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木辻をもって日本最古の遊廓とされる文章に出会うことがあります。これを検証するには遊廓の定義から考えていかねばなりません。

明田鉄男氏さんは『日本花街史』で花街(遊廓)の定義を「遊女屋、芸者屋などが集合した機能的に統制のとれた地域」とし狭義の花街は天正十七年(1589)の秀吉が認可した京の二条柳町の遊廓としています。

私の調べた限り、木辻にそれ以前に遊廓の存在は確認できず、最古と言われるのは、ただ京の都より奈良の都の方が古いから・・・ぐらいの気分で口にのぼるのだと思います。

『黙魯庵漫録』新藤正雄、印刷及び発行所によると、町の両口に吉原の様な大門があり、遊女は玄関取次ぎの男袴を着て出客を迎え、主座の女をバンヤと呼んだとの事で甲子夜話の巻五十六の第十五項に書かれているとしております。

元禄頃には木辻の遊廓はもっとも盛んで柳里恭の随筆には木辻の名がたびたびでているそうです。(文芸倶楽部第八巻第六号定期増刊より)

『諸国遊所競』で木辻は前頭の最上段で京の先斗町や北野七軒(上七軒)の上位にあります。江戸時代に於いて木辻がかなり全国的に知られており、それなりの格を備えた遊所だったはずです。

昭和五年九月十四日の大阪朝日新聞奈良版によると、

「木辻遊廓に絡る証文。古来全国に知られた奈良木辻遊廓の遊廓史というやうなものが編纂されるなら、そのうちの興味ある一ページを占めるだろうところの資料が最近北城郡王子町の考証家保井芳太郎氏によって掘り出された、明治七年の右証文がそれである・・・文面によると、

明治五年十一月(実際は十月二日)御解放の御布令があった翌年一月御改正に相成り、木辻の元傾城屋十一戸のうち碎郷社(森井直七ほか四名)と花郷社(中川亀吉ほか五名)の二つの会社だけは営業を許された。だが両会社とも一戸につき芸妓三人、娼妓七人、合計十人以上は決して抱え申さず・・・

というのである。

右のほか文政ごろの多少古いところで十三歳位の娘を向こう十何ヶ年という長い年期で苦界へ沈めたという芝居がゝりの証文も一束になって現れた」

新政府の「芸娼妓解放令」の三ヶ月後には、再び遊廓が息を吹き返した様子が受け取れます。


by gionchoubu | 2019-06-24 10:49 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

とし菜実ちゃん


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昨日、宮川町、駒屋のとし菜実ちゃんと写真を撮りました。

by gionchoubu | 2019-06-21 10:41 | 宮川町 | Comments(0)

奈良 木辻遊郭ぞめき 一

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                        静観荘

『大和名所図会』に「南都の傾城町は木辻鳴川(きつじなるかわ)といいて、縦横にあり。此所の初は豊臣太閤に仕えし虎蔵・竹蔵という二人の奴あり。秀吉公薨去の後蟄居し、両人兄弟のむつびをぞなしける。

竹蔵は其頃南都に住し、堀氏の養子となり、堀市兵衛と号し、虎蔵は洛六状三筋町に住居をかまえ、其時の全盛たる太夫萬戸という者をかたらい、寛永六年に南都において傾城町を訴訟し、遊里を創建す。」

これは明らかに藤本箕山の『色道大鏡』の日本遊廓総目の第九大和国奈良からの抜粋ですが、大変分かりやすく纏められています。

色道大鏡によれば、「是より先、浄土辺に遊女少々ありつれども、家を隔て住ければ、今のごとく、一郭とさだまらざりき。」とあり。この浄土は木辻村北方の城土村のことだと思います。

直ぐ近くに南風呂町(いにしえ元興寺さかへし時風呂屋の跡なり)北風呂町(慶長年間1596~1615銭湯があったとも)があるので湯女のたぐいであったかもしれません。

他の傾城町がそうだったように町中に散らばっていた遊女屋を集め遊廓をなすことにより、風俗の管理とともに、冥加金(税金)の徴収が叶うという大きなメリットが取り締まる側に生まれました。

『奈良坊目拙解』では慶長年間に茶店二、三軒ができて遊女を置いたのが始まりとしています。

さて木辻遊廓が誕生した寛永六年(1629)は京は六条三筋時代で大阪の新町遊郭が営業を開始した年でもあり、女歌舞伎が禁止された年でもあります。

京の島原、江戸の吉原、大阪の新町は幕府直轄の遊里でありましたが、奈良の木辻は奈良町奉行の支配下にあったと思われます。

色道大鏡によると、この遊廓の特徴は、地元の傾城三分の一で多くは他廓からの預かり女や仕切り女だったと言うことで、さらに他廓にはいい遊女を送ることはないので、木辻にすぐれた女は少なかったようです。

また禿や遣手もいないので、遊女は履物も自分で取り出す様は下女の様だとも評されていました。

揚げ代は一番位の高いのが小天神で二十一匁、圍職(鹿恋)が十五匁、半夜九匁、端女郎八匁でした。太夫、天神がおらず、小天神が最高位で揚屋十一軒でした。

同時期の京の島原では太夫が五十八匁、天職(天神)が三十匁、圍職十八匁、半夜十一匁となるので同じ位の遊女は木辻がやや安いという事になります。

井原西鶴の『好色一大男』にも「あない知人。所自慢。爰(ここ)こそ名にふれし。木辻町。北は鳴川と申て。おそらく。よねの風俗。」とあります。

又、「禿もなく、女郎の手つから。間鍋の取まわし。見付ぬうちは笑しく。」

当時、禿のいない傾城町はよほど珍しかったと見えます。

参照:上記以外、『奈良の地名』平凡社

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by gionchoubu | 2019-06-19 11:36 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

中書島遊郭の歴史 その八

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昭和31年6月4日の京都新聞

『廓の作者 西口氏の場合』

『春の宿が下宿屋に転業』

『父祖の商売を捨て』

『接客婦も管理人に更生』

売春防止法が成立、貸席業者の行方が注目されている際、ベストセラー“廓”の作者、西口克己氏(43)がこのほど中書島で経営していた貨席を下宿屋に転業したが、これは法案の成立後転廃業を迫られている業者に一つの行き方として注目されている。

西口氏の生家は著書“廓”に書かれているように明治三十九年から貨席“末広”を営んでいたが、西口氏“郭の子”としての劣等感に悩まされ、結婚、就職など日常のあらゆる出来事に苦い経験を味わい、また西口氏の思想的立場と相容れないところから早くから転業したいと思っていたが、資金に困り、家を売るにも引越料すら出ない安値をつけられるので行悩んでいたところ、著書“廓”がベストセラーになり、印税収入が入ったのを期に四月一日付で廃業、昨月二十五日から開業したもの。

改築には三十万円をかけ、屋根、カベなどを修理、部屋は八畳(元散財部屋)一間、四畳半十三間、三畳三間をそのまま使い、月千五百〜二千五百円ですでに独身の会社員二人が入っており、学生数人の申込みもある。

また最盛時八人いた接客婦たちも廃業時には三人になっていたが、二人は生業資金をもらって故郷に帰り、残ったK子さん(25)は管理人として新しい人生へ再出発。生きがいを見出している。

西口氏は「下宿をやってもうけようとは思わない。実情に応じて部屋代は安くすることも考えており八畳は入居者が集まって読書会などをやるために残している。

この部屋で入居者たちと話し合ったり、時には巡回映画をやりたい。」と将来のプランをたてているがこの西口氏の転業に中書島遊郭内六十軒の業者たちは

「転業は考えていても資金繰りでいき悩んでいる。赤字でも店を閉めれば倒れるので政府の援助がきまるまでは石にかじりついてもやって行かねばならぬ」と冷たい眼で見ているものの「二年後に転業する時の一つのケース」として注目している。




by gionchoubu | 2019-06-16 11:17 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

売春防止法 赤線、青線

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                    彦根市袋町新地

売春防止法が成立(完全施行は二年後)された直後の滋賀、京都の赤線、青線の様子が当時の新聞に捕らえられていましたので紹介させて頂きます。

昭和31年5月23日、京都新聞滋賀県民版

『赤線地帯暫くは成行を静観』

“売春防止法”が二十一日遂に成立した。抜け穴だらけの法律とはいえ永年廃しょう運動に努力してきた婦人団体などの悲願が実ったといえよう。だが肝心の業者や接客婦たちはこの法律をどのような表情で受取っただろうか・・・・。

『まず夜の検番を廃止 組織の解体もボツボツ』

大津 大津市馬場町の赤線地帯の業者組合湖楽園理事長伊庭重五郎氏、五十五業者―は二十二日午後一時から組合事務者で議会を開いた。

この総会で三十一年度の事業予算などを審議したが、席上「買収防止法」の参院通過成立の現在、自粛の意味からも検番の夜間執務を来月一日から取りやめることを申し合わせた。

これは検番の仕事を昼間に限り単に税金などの事務的なものと残務整理的なものとし、従来のような花代の計算などは各事業者自身で行おうというもので、業者が組織解体への一歩を踏み出したものとして注目される。

この日の総会にはほとんど全組合員が出席、例年通り予算審議を行なったが、話題の中心はやはり「売春防止法」の成立による今後の業者の立場で“運命付けられた”あきらめと共に問題が生活に直結するだけに深刻な表情だった。

検番の夜間閉鎖も過度的な措置として別に異論もなく、その他の具体的な問題もなく、その他の具体的な問題についてはまだ法案の研究も十分進まないところから見合すなど慎重な態度を示していた。

ただ今後の問題としては廃業資金の獲得が不可能な場合、減税運動を起こすべきだという向きもあり。

同組合だけでも一日税金五万円(国税、地方税)といわれるだけに全国業者の動きが注目される。

『常と変らぬ客引き合戦』

彦根 成立のその夜彦根市袋町新地は、紅の灯も絶やさず四十業者は相変わらず開店、六十余人の従業員は三万九千本(一時間四本、一本単価百円)近い花数を挙げるという常と変らぬ盛況ぶりで、防止法の成立などドコ吹く風といったところだった。

「われわれもすき好んでこうした商売をしているのではありません。いずれ組合に諮り適当な時期に料理、旅館、喫茶店などに転用するでしょう」と高田県貸席組合連合会長が語れば、客席にはべる彼女たちは「社会施設さえ完備していれば問題ないですよ。私としてはかえって性病予防に貢献しているぐらいだわ」と紅い気炎を吐いていた。

_________________________________

続いて昭和31年6月2日 京都新聞(夕刊)では青線の様子が描かれています。

『ヤトナの売春に断』

『契約の雇主を送庁 二人から手数料徴収』

府警保安課では買春防止法の成立に伴い、問題となる新研芸妓(通称ヤトナ)と雇主の買春契約についての研究を重ねていたが、このほど勅令九号を適用、悪質な売春契約を行なっている雇主を検挙するという方針を立て、その第一号が一日朝送庁された。

これは赤線区域とは別にとかく問題になっていた青線区域、ヤトナの二枚鑑札に断を下したことになり、またヤトナ制度が京都特有のものだけに今後の成り行が注目されている。

勅令九号違反容疑で送庁された雇主は京都市東山区東大路松原上ル二丁目新研芸妓置屋八坂寮主KE(48)で昨年七月A子さん(31)同年十月B子さん(26)去る二月C子さん(19)の三人を前借四万〜一万円で住込みとして雇入れ、昨年初めまでに正常な接客行為以外に売春した際、花代として手数料をとる買春契約を結んでいた疑いで、A子については昨年七月から去月初まで約八十回、契約に従い買春手数料として七万余円(税金、組合費込み)を徴収していた。

保安課ではヤトナは客席にはべって接客サービスするのが本来の業であり、雇主は芸を売ることについてのみ女と雇用契約が許されるわけで女に対し買春を強いることは出来ないし、契約も違法であるという見解をとっている。

解説 勅令九号とは(第二条)婦女に売インをさせることを内容とする契約をしたものはこれを一年以下の懲役または五千円以下の罰金に処す。





by gionchoubu | 2019-06-13 15:01 | パンパン、赤線 | Comments(0)

赤線地帯

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                      大和郡山、洞泉寺にあった妓楼             

昭和30年7月12日の京都新聞『必要なモグリ業者の処置=法網をくぐる女性は50万人=取締り強化 再びカゴの鳥の恐れ』の前半を載せます。筆者は東大講師の村田宏雄氏です。

“売春等処罰法案が国会にも提出され売春問題が議論の花を咲かせているが、果たしてこれが売春のペニシリンとなり得るだろうか。

成程、売春婦及びその客、売春業者とその援助者及び周旋人ポン引の類は一応処罰の対象となっており、ことに売春婦と客以外のいわゆる売春を婦女にさせてもうける側に対しては厳罰を以て臨むようにはなっている。

そのためこの法案に対しては売春業者の猛烈な反対運動工作が行なわれていると取りざたされている。

我国売春の実情をながめると、既に占領当時から勅令が出て、売春業は禁じられている。従って本来ならば売春業者は絶無のはずなのだが、ただ必要悪という誠にチンプな言葉で黙認されている地域があった。

これが赤線地帯と呼ばれる特飲街である。

黙認されているだけに、公然と営業するところから人目につき売春対策といえば、たちまちこれがヤリ玉にあげられている。

だが日本の売春の真の姿は、こんなところにはない。なぜかといえば、特飲業者として業者自身相互に認め合っている業者の数が約一万、そこに働く女性は約五万にすぎぬのにたいし約その十倍の業者、女性が現実に法の禁止の網を潜って売春を営んでいるからだ。

してみれば、いくら特飲業者を取締ったところで、その数は十分の一にすぎず、その十倍は、今でさえ取締りのきびしい中を生きているのだから、こんな処罰法ができようができまいが関係なく生きつづける。

「甘い汁吸うヤミ業者」

併もこんな上すべりな対策では、もっと悪い事態がおこる。

というのは黙認とはいえガラス張りの中におかれた特飲業者にしてみれば、世論の監視もきびしいし、警察の取締りの目もとどき易いので、無茶なことはできない。

そこで婦女からの搾取、自由の拘束は極力さけねばならぬ。見た目にもできる限り彼女らの待遇をよくする必要が起る。

こうなると待遇の悪い店には女性がいなくなるから、いきおい加速度的に待遇は改善される。”

上記を踏まえて『日本売春史・考』吉田秀弘著を読むと、女たちにとって、赤線を取り巻く情況と遊郭制度の中の情況の大まかな違いは、

○ 外出や遊びは自由で休日も拘束されることがない

○ 借金と売春は全く別で売春を強要する制度はない

○ お互いに決めた歩合制度があり窃取はされない、としています。

勿論、上記は表面的な部分もあるでしょうが、遊郭時代のひたすら暗いイメージの娼妓に対し、赤線時代の接客婦の奔放でしたたかなイメージは、いくらか救いのあるものに私は感じ取るのです。


尚、記事の後半は、問題は税金を納めている赤線業者よりも、その十倍の女に売春させる闇業者で、こちらの方が大きな問題としております。


by gionchoubu | 2019-06-07 15:48 | パンパン、赤線 | Comments(0)

嶋原遊郭 櫛菊

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『太夫マゲただ一筋に、この道七代・島原の髪結さん』

文化文政の頃初代(氏名不詳)が島原太夫のマゲを結い六代目のいそさん(70)と七代目の梅子さん(52)が手にとる筋立(スジタテ=クシの一種)に百年の伝統をこめて太夫マゲを結っている。

太夫マゲにも道中に結う金ショウジョウから立兵庫、吉野、おふく、お染、おしどりと四十余種類あるが、太夫マゲを結っては全国でこの一軒だけという“無形文化財”的存在だ。

この太夫マゲは口伝で伝えられるため、代々跡目を継ぐ人は子供のころから鍛えられ、梅子さんが十七の時、六代目いそさんが急病で倒れたので見様見マネで太夫マゲを結ったが、“手が震えてほんまにどうしようかと思った”と「七代目」は当時を述懐している。

また、いそさんが二十歳で六代目を継いだころは、島原最後の黄金時代で十数人の屋方には太夫が五十人、伯人は十二人もおり、角屋クラスの一流屋方には仲居が七人、おちょぼが八人、下働きでも四十人を数え、太夫と遊ぼうとすれば一週間から予約しなければという繁栄ぶり。

それだけに髪結さんは引っ張りダコで、断わるのに一苦労―それでも一日十数人からの太夫マゲにテンテコ舞をしたという。

その代り当時の髪結さんといえば郭の尊敬を一身に集め太夫の格位を現わすマゲの髪形は太夫の顔とにらみ合して髪結が決めるほどの権威を持っていたので、全盛誇る太夫サンでも畳のへりに三ツ指をつぎ、“お師匠ハンお願いします”“お師匠ハンおおきに”とあいさつを送っていた。

時の流れとともにクルワ情緒はすたれ、明治、大正、昭和と三代にわたる島原の変かんをつぶさにながめ、他の郭からの引抜きにも「わては太夫のマゲと心中する積りどす」と耳をかさなかったほどに義理堅いいそさんは“昔の太夫サンは立居振舞言葉使いといい実に見事なもんどしたがネ”と昔時を懐かしめば、傍から梅子さんが

“そや言うたかて時勢どすワ”。それに最近は太夫サンの仕付けも激しゆなってだんだんようなって来ましたが、まだうるおいがたりませんようです。”と語る。

七代、百年も続いた太夫マゲの名門?を絶やすまいと、近く跡継ぎの娘一栄さん(十五)にも秘訣を伝えるという。

アサグシ、スキグシ、もって返しなどビンツケ油のしみ込んだ十数の髪結道具を縦横に使って梅子さんのなれた指先が髪を滑ればみりみるうちにあでやかなマゲに結上いげる。この間わずか三十分。

“次第に影の薄くなる太夫マゲどすがわてはこのマゲにほれてますねん。苦労するのは頭の形の悪い人のマゲどすナ。しかし見事に結上げたマゲで太夫サンがしゃなり、しゃなりと道中しやはる時は、なんといってもうれしおす。この時ほど生きがいを感じる事はおまへん”と語りながら“生ける文化財”梅子さんの手は髪を離れない。

昭和30年5月18日の京都新聞の記事でした。文中の髪結いさんの屋号は櫛菊で櫛田梅子さんの娘の一栄さんが、廃業されて久しい高砂太夫です。



by gionchoubu | 2019-06-02 12:16 | 島原遊郭 | Comments(2)