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じゃぱゆきさん その一

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じゃぱゆきさん・・・日本に出稼ぎにくるフィリピン、タイなどのアジアの女性達の総称で、大都会の盛り場に温泉地に、時にダンサー・シンガー、あるいはスナックのホステス、ストリップ嬢・・・いまや若い人にとって死語となっ感のある女性達が実話,実録誌のページを割く時代がありました。

『じゃぱゆきさん 女たちのアジア』の著者山谷哲夫氏は同書に“かつて日本にも海を渡って出稼ぎに行く女たちがいた、「からゆきさん」と呼ばれた人々である。その名にちなんで、エルバたちアジアからの出稼ぎ女性を、私は「じゃぱゆきさん」と名付けた。”とその名づけ親であることを記しています。

全てはじゃぱゆきさん元年とされる昭和五十四年頃から始まりました。

そして、このじゃぱゆきさんの一部が旧赤線・青線にも風俗の最前線として送り込まれた時期があったのです。

実際、私の聞き取りでも昭和のいつしか、奈良県洞川(どろがわ)の精進おとしの相手も日本人からじゃぱゆきさんにとって替わられたとの情報を最近得ました。

また平成にはいり売春防止法違反の容疑で捜索をうけるまで、奈良の郡山の東岡町の旅館街には多くの外国人女性が出稼ぎにきており、ほぼフィリピーナだったとの事。

『消えた赤線放浪期 その色町の今は』木村聡著をみると、平成四年頃三重県の渡鹿野(わたかの)島にタイやフィリピンの若い女性がお相手してくれたと言います。

『じゃぱゆきさん 女たちのアジア』には、昭和五十七年、滋賀県八日市のスナックで、大阪入管(入国管理局)と八日市署による摘発があり、台湾女性一人、フィリピン女性一人、タイ人女性六人が検挙された顛末が載っています。

こういった手入れは当時大阪入管全体で十三人しかおらず、大規模な手入れのときは警察の力を借りなければなりません。ところが現場でじゃぱゆきさんの摘発にあたる入管警備官は警察との合同手入れを、特に関西では、必ずしも喜んでいませんでした。

なぜなら警察と組むと手入れの情報が漏れ、いざ合同摘発という段になると、もぬけのカラ、という失敗が何度もあったそうです。

スナックのほうも売春の仕組みは巧妙で、店がオープンしている間デートのための外出はとても高くつくので、基本時間外で客と女間で約束をするという形をとっていました。

上記の四箇所は奈良、三重、滋賀の旧赤線・青線で県庁所在地から離れた場所に有ったいう共通点があります。

この流れも、山谷哲夫氏は同書で

“女たちの働き場所も七十九年(昭和五十七年)ごろは東京、大阪の盛り場中心だったのが、入管の度重なる手入れのために、東京周辺では高崎、石和温泉(山)、佐久(長野)など、大阪周辺では滋賀、和歌山、奈良など、地方の各都市への分散が進んだ”

と答えてくれました。”

こういった事案に関する入管や警察による摘発周辺の住民のタレコミ、とくに女性によるものが発端になることが多いいとの事、さすれば旧赤線・青線跡なら多少ともそのリスクが下がるという業者側のメリットがあったのでは、と推察されます。



by gionchoubu | 2019-04-30 12:15 | 私娼 | Comments(0)

花街ぞめき

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平成二十六年に始めたブログももうすぐ700回目になります。

そして時代は令和へと・・・

昨日宮川町、駒屋の千賀明(ちかさや)ちゃんと一緒に写真を撮りました。



by gionchoubu | 2019-04-27 15:00 | 宮川町 | Comments(2)

奈良 洞川の游所

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                      2010年の画像

『奈良県の地名』平凡社で洞川(どろかわ)村は天(てん)の川の支流山上川流域に立地、女人禁制の修験道の根本道場山上ヶ岳への登山口として古くから知られている、とあります。

洞川と書いてドロカワと読ませるのは瀞川の義か?と書いているので語源もよく分からないようです。

天保九年安田相郎の『大和巡日記』によると、彼が聞しに替難所、危事の至極也と述べる大峰山登山の後「夫より洞川に来る。町有。甚以宜町柄、山中に存掛も無之町也。百余軒有。茶屋皆大也。小宿の本陣位の茶屋也。此辺紅花盛多し」と相当な賑いがあった事が伺えます。

ちなみにこの旅で彼は大和郡山も寄り「郡山よりは家宜也。支度いたし相尋るに、飯盛なとのころぶ処と見へて、客舎の坐取彼是遊里の如し」

遊廓の類型でいうと郡山の遊所の起源が飯盛女が春を売る街道型ならば、洞川(どろかわ)にあった遊所は精進落とし型の典型になります。

広辞苑によると精進落とし=精進明けで意味は、精進の期間が終わって肉食をすること、であり精進落としの後に女性に接するのは一つの慣わしといったわけなのでしょう。

精進落としだから・・・と言って周りに女郎買いが正当化される風土があったと言うことでしょう。

精進落型の遊所というと何と言っても伊勢参りで大発展を遂げた伊勢古市の遊所を挙げれます。非合法ながら、官許の江戸の吉原、京の島原、大阪の新町の三大遊廓と肩を並べ、日本四大遊廓の一角を占めたことでもその繁栄を知ることができます。

金比羅さんの琴平の遊廓も明らかにこのタイプに属するはずです。その他三重の高田専修寺で栄えた一身田遊廓、京都の壬生寺の境内に遊女屋があった壬生遊廓などもたぶんにその要素を感じられます。

いつから洞川に、大峰山の修験者の精進落としの遊所があったかは分かりません。江戸期は幕府領でもあったのでその頃はどうだったのか、経緯は色々調べたものの全く分かりません。江戸期の遊所番付にも載りません。

非合法であったのは間違いなく、奈良県の免許地ではありません。旅館がそういう役目を担ったというネット情報もありますが私が聞き取りしたところ、画像の建物がその遺構で一階は料理屋、二階にびっしりと布団が並べられており、それはそれは賑やかで、今からでは想像も付かないほど繁盛していました。

今の観光案内所の辺りにもそういう建物があったという情報もありました。

売春防止法成立後も営業を続けており、以前は九州、四国の女性が多かったが、昭和四十年代になると外国人にとって代わったとのこと。

たぶんフィリピンからのじゃぱゆきさんと言われた人たちなのでしょう。

芸者遊びは下市、上市で遊廓の役目を追ったのが洞川と教えてくれた人もいました。

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                     同じ建物、最後はスナックだったようです。

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                       内部の様子
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                        町の様子
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                      街並み


by gionchoubu | 2019-04-18 12:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 下市の花街

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                      下市、本町あたり

わが国手形流通の嚆矢とされる“下市札”で知られる下市村は天明八年(1788)の下市明細帳写によると家数1、088(内寺14、庵4)内260軒が明家、高取410、水呑400、人数3186と、ほぼ同時期の上市の倍の規模があり、「大峰山、天川、十津川への往還に而旅籠屋凡拾軒斗り御座候」と飯盛り女郎が旅人の袖を引く土壌があった事を伺わせています。

『奈良県警察史 明治・大正編』によれば

明治も年を重ねるにつれ、奈良県下で料理屋・飲食店が増加するにつれ風俗上目に余る行為も多くなり明治二十一年六月二十六日「料理屋飲料店取締規則」を県令で定めました。

この規則の主な内容は、料理屋または飲食店営業をしようとする者は

? 所轄警察署または分署に届出をすること

? 客が求めても午後十二時以降日の出までは歌舞音曲を禁止すること

? 客または芸妓を宿泊させないこと

? 芸妓でない者に芸妓類似行為をさせない

またこれまでの営業所も警察署、分署に届出が必要になりました。

明治二十七年三月、下市警察署長として赴任した松園警部は、着任以来料理屋、飲食店営業の取締りを積極的に行い、業者四軒を処罰したところ、料理屋、飲食店主らが警察署非難の投書をしたり、警察署攻撃演説会を開いたりの行動にでました。

その後色々あり、結局警察側が折れる形で下市警察署は廃止され、上市警察署下市分署(松園下市署長は下市分署長)となり騒ぎは収まりました。

そして明治二十九年四月に県令三十四号で、酌婦を雇い入れ使用するときは所轄警察署または分署に認可を受けること、等の条項が発令されたところをみると、芸妓でない者に芸妓類似行為をさせないという二年前の規則は後退したようです。

そして同時に酌婦に風俗を乱すような行為があった場合、酌婦雇い入れの許可を取り消す事がある、と釘をさしています。

つまり、芸妓まがいの者が酌婦という名で私娼として風儀を乱す・・・後年大阪、京都、奈良で一大勢力をもった半私娼の擬似芸妓、すなわちヤトナ(雇い仲居)の萌芽をここにも見ることができると思います。

さて、聞き取りによれば戦後下市にあったのは花街ではなく、特殊飲料店の鑑札を掲げる赤線でもなく(地元の方は赤線と呼んでいた様でいたようです)飲料店の名目で私娼をとりもつ青線でもありませんでした。

すくなくとも千石橋の本町側に三軒、渡った側に一軒女を置いた店があり、そこに客は通うスタイルをとっていました。

女は個人名で呼ばれており、立派な庭をもつ家もありました。

当時は下市にも映画館が二軒あり、夜は斬った張ったの刃傷沙汰が絶えなかったといいます。

女は妾になる事もあり、足抜きするものもあり、地元のある人は“兎に角肝が据わった”という表現でその女性たちを言い表しました。

お客の中にはお隣の五条のお百姓の倅もおり、米を持ち込んでお代とし、遊んで帰ったという逸話もお聞きしました。

これも時代というものでしょう。

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by gionchoubu | 2019-04-12 12:20 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良 上市の花街

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                        桜亭

宮武外骨『猥褻風俗辞典』の団子の項に

出雲および因幡にて公娼私娼を言う。徳川時代の中期頃より始まりし語にていまなお行わる。団子のごとくよく転ぶとの義なり。桂園子の『出雲なまり』にも「ダンゴ―娼妓、酌婦、転ぶの意」とあり。服部仰天子の報告には「大和の上市下市、三備の山奥などにて団子という」とあり。

昭和三十年十二月十日発行『阪口佑三郎伝』(非売品)に収録されている全国の花街所在地の奈良県に元林院、郡山、生駒、高田、初瀬と並んで上市、下市が
載ります。

私が知るかぎり上市、下市の花街、遊所に関する情報は以上が全てで、江戸期の遊所番付けにも、町史、村史、県史にも全く見当たらないのがこの両遊所なのです。

上市は吉野川北岸の町で、伊勢街道が通る川と背後の段丘に挟まれた街道集落で江戸期以前に対岸の本善寺の門前にあたる吉野川の中州に寺内町化した市場が発生し吉野地方の重要交易地となりました。

文化二年(1805)の上市村明細書によれば、家数441(内寺4)高持202軒、水呑235軒、人数1742との事、上記の団子という遊女は街道沿いの出女、おじゃれ、留め女の類の飯盛り女だったのでしょう。

さて、いろいろお聞きした所、近年の上市の芸妓置屋は現在の吉野町役場と郵便局の間ぐらいあったようで、現在そのあたりに京都の祇園や宮川町のお茶屋、置屋でよく見られる笑門を掲げるお宅がありました。

奈良県では笑門を見た記憶がないので偶然とは思えません。

地元の方に聞き取ると往時にはここの芸妓が“上市小唄”がをレコードに吹き込んだ事もあるほど賑わい、ダンスホールもあったようです。

このあたりも壊滅的な打撃を受けた伊勢湾台風(昭和三十四年)を皮切りに花街は消滅したようです。

芸妓は現在ゲストハウスの三奇楼や近鉄大和上市から街道に入る所にある桜亭などに入りました。この桜亭の玄関には“貸席桜亭旅館”と記されていました。

芸者が入るというと思われる意味で貸席と記されたものを私は初めてみました。その他カフェー調の建物もあり、これだけ昭和三十年代を感じさせていただける所は滅多にないと思います。

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                       近鉄大和駅前
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  伊勢街道
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                        カフェー調の建物
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                          三奇楼
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                     粋な黒塀、見越しの松
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                 呉服店、宮川町の舞妓さんと思います。
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                    大師山寺から対岸を望む
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                      笑門のあるお宅


by gionchoubu | 2019-04-09 11:56 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良RRセンター その二


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                        近鉄尼ヶ辻駅

今回参照しているのは1953年8月発行の『古都の弔旗:奈良R・R・センター調査報告書』奈良R・Rセンター調査団によるもので、同調査によるRRセンター、の移り変わりを記すと


1952年5月 1日 RRC設置

     9月 3日 廃止同盟結成

1953年6月26日 一時閉鎖

     7月27日 再開=朝鮮休戦

     8月11日 神戸へ移転発表

と非常に短い期間だったことが分かります。

さて、RRセンターを中心としたパンパンとアメリカ兵との売春の形態を見ていくとまず挙げられるのはバー・キャバレーを中心とするもので、五日間の休暇を与えられたアメリカ兵はバーなどで営業者やボーイと交渉し女を手配するというものである。相場は一日五千円で、パンパンが謝礼として一割ほどボーイに支払っていたようです。

もう一つは反社会集団を中心としたホーハウスという根拠地(名前の由来も、場所も不明)を持ち自動車を使ったもので、この場合はパンパン三割、親方三割、ポン引き三割で、残りの一割はパンパンが検挙された時の差し入れや予備費という名目で親方が保管していました。

その他アメリカ兵とパンパンの直接交渉があるものの、発覚すればこの世界の慣例として営業主及び同僚から大変なリンチを受けました。

RRセンターの周辺を見てみるとカフェ、バー三十四軒、ギフトショップ十二軒、パンパン・ポン引き用の飲食店七軒、キャバレー四軒、写真店(スケッチ屋)四軒、洋品店三軒、ストリップショー三軒、靴屋二軒、美容院、衣料店、射的、駄菓子屋それぞれ一軒で経営者は大部分、大阪、京都の人々で、その中には大阪の台湾人四人、奈良の朝鮮人一人、奈良の地本三人という事でした。

バーの建築には耐火建築であることが建築条件ですが、三軒が条件にかなっているのみで大部分は木造に原色豊かな仮建設でした。

上記の移り変わりを見てみれば、この降って湧いたようなRRCの開設がいつ廃止、移転されるか分からない情況の中、大きな投資をしてバーを建設するのが躊躇われ、殆どがバッラク状であったのは無理ならからぬものだったのは容易に推察されます。

実際奈良RRCは一年三ヶ月で神戸移転が発表されました。

当初RRセンターがあったのは横浜、大阪、小倉、この大阪のRRセンターが奈良移り、さらに神戸に移転したわけです。
奈良以外はすべて港を持つ町で、港を持たない奈良は海兵隊にとってかなり不便な立地であったと思われます。

今後事情が分かれば大阪から奈良に移転された理由も調べてみたいと思います。

by gionchoubu | 2019-04-07 11:05 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良RRセンター その一

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                   奈良RRセンター(現積水化学工業)

昭和二十七年以降の奈良市内での警察活動を語る上で欠かせない問題に、戦後日本の特異な風俗として多くの社会問題を投げかけたRRセンターをめぐる問題がある。

このRRセンターの正式名称は「Rest-Recreation Center」で略してRRセンターと呼ばれていた。
(NARA Rest And Recuperation Center が正式名称です。5/4日訂正)

RRセンターは進駐軍将兵、特に昭和二十五年六月二十五日未明朝鮮半島の三十八度線で勃発した朝鮮戦争に、韓国軍援助のため出撃する国連軍兵士の休養施設として設けられたもので、昭和二十七年五月一日大阪市内から奈良市横領町の旧興亜機魁工場に移転・開設され、その収容能力五百名といわれた。

こうした休養施設は、昭和二十八年当時、全国で奈良と横浜それに小倉の三ヶ所に設けられていた。

RRセンターの移転・開設とともに大阪から移ってきた兵士相手のキャバレー・カフェー業者たちは、RRセンター正面のある横領町から尼ヶ辻一丁目にかけてのわずかの間に、キャバレー二軒、カフェー十三軒、レストラン十軒、ギフトショップ二十四軒などを立ち並べ、時ならぬ不夜城を現出することになった。

また、パンパンガールと当時呼ばれた不特定多数の占領軍兵士相手の売春婦や、占領軍将校など特定の男性から一定の生活費、住居を与えられてその娼婦になり当時オンリーといわれた者ら約二千五百名がここに群がり、彼女らに間貸する民家も多数にのぼった。

いつの世にもこうした売春問題で心配されたのは性病問題であり、これを案じた奈良地区司令官ロング大佐は、県に対してその予防法の樹立を申し入れた。

検予防課は、占領軍関係業者に呼びかけて「進駐軍サービス協会」を設立、同協会に属する接客婦三百人に身分証明書とバッジを発行し、県立奈良病院で週一回性病の検診を行なうなどの検診体制をとった。

こうして事実上「非日本人用赤線区域」が奈良の西郊に出現し、ここに月一億円の金が落ちると噂されるほどになった。

RRセンターを利用する兵士たちの数は一定しなかったが、朝鮮半島での戦場から帰った兵士たちは、ここで五日間の自由時間を与えられ、多額のドルを日本円にかえて外出し、古都・奈良の風物に接した、

以上『奈良県警察史 昭和編』編集 奈良県警察史編集委員会より




by gionchoubu | 2019-04-02 15:01 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)