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逆さ言葉

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                        島原太夫

『嬉遊笑覧』喜多村?庭著に「逆こと葉」の説明があり、『本朝俗諺誌』延亨3年(1746)菊岡沾涼著の入間ことばを紹介し、これは例えば、かわゆき(可愛い)をにくい(憎い)と言う様に言葉に逆の意味を持たすとの説明があります。

これは現在のヤバイという言葉が本来の否定的なニュアンスから、凄い・・・というほめ言葉として使うルーツになります。

この感性は日本独特の物ではなく、例えばアメリカの正月のローズパレードや年末のディズニーランドで、殆ど女子で編成されている京都の橘高校のマーチングバンドがオレンジ色のミニスカートコスチュームで圧倒的なパーフォーマンスを披露してアメリカ人がつけたあだ名がオレンジデビル・・・その驚きを逆さ言葉で表現しています。

また、ハナ肇とクレージーキャッツもキューバンキャッツ時代、進駐軍相手のステージでのギャグが受けに受け、「なんてぶっ飛んだ奴らだ」からネーミングされたといいます。

ですからこのクレージーは賞賛に近い言葉なのです。

もう一つ、女をナオン、サングラスをグラサン、素人をトーシロー、おっぱいをパイオツなどの言葉を入れ替える逆さ言葉もあります。

こちらは戦後の日本のジャズミュージシャン達が使い始めたのがテレビ界などの業界語となったと言われています。

大橋巨泉さんなどが盛んにテレビ番組で使っており、一般人が使うこともありました。

『嬉遊笑覧』によるとこの言葉の入れ替えの起源は江戸期以前にあり、我々の文化の中の“しゃれ”遊びの一種といえると思います。

その部分を紹介すると、

『立圃(りゅうほ)が発句』に「蛤のぐりはまとこそ水の月」。今も倒なることに、ぐりはまといへり。

『不角点付合』、「虹梁(こうりょう)を息ともいはむ、蛙股、蜃蛤のぐりはま」

『元禄曾我物語』堺町の処、「ありゃありゃ三番叟じゃ、頭坊雲楽じゃ、弥之助踊りじゃ、初り初りといふ声云々」。雲楽は誰にか。そのかみの小兵衛を学びて、坊主といひしものなるべし。坊主を倒に頭坊といふは、今もざれていふ言也。

蛤をぐりはま、坊主をずぼう・・・まいうーのルーツは以外に古いのです。


by gionchoubu | 2019-03-30 11:29 | Comments(0)

奈良 五条市の花街

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『大和名所図絵』に「五条里は宇智郡の駅(うまや)にして四方の旅客ハここにゆき、遠近の産物もこゝに交易して朝市夕市とて商家多く郷の賑ひいはん方なし」と記しています。

五条村が大きく発展するのは筒井家三家老家の出身松倉豊後守重政が二見城主に任ぜられて以来で、寛永一六年(1639)正式に五条村に伝馬町がおかれ、吉野郡奥地の物資の集散・中継ぎの役割を果たすようになりました。(『奈良県の地名』平凡社より)

この五条市にもかつて花街は存在しました。

昭和四年二月十三日の大阪朝日新聞大和版に『滞税せぬのは当り前の事だす』県から表彰された若松の女将の記事が載りました。

その内容は

「県から納税功労者として表彰された宇智郡五条町大字須恵、松浦こう(47)は表彰者でも変り種の料理屋の女将、五条地方では芸者時代の若龍さんで通っている。五条町新町で生まれて、芸妓から現在の須恵で抱え芸者三人をもち兄弟の子まで引き取って一人は五条高女へ一人は小学校へ通わせている。

そして現在は芸者置屋兼料理業若松の女将に〜略〜五条一流の料理店名月の夫婦や五条町の旧常盤時代の朋輩(ほうはい)でそのころから賢い人だといはれてゐた。

酔へば『諸君よ諸君、我党は』と演説をやるが、それは政争地の五条で叩きあげた関係で、さて政友か民生かと聞くと『私は中立や』とぬらり逃げてしまふ。

その演説が道楽で、商売を始めて十六年、大正十一年遊興税が実施されて以来、一回も滞納せず検番の集会でもその演説口調で納税鼓吹をするなどが今回表彰の動機となったもので・・・以下略」

この記事で五条市にも検番のある花街があったのが分かります。芸妓は他の小都市がそうであった様に、お茶屋はなくて、料理屋や旅館に入ったものと思われます。

同じく同紙の昭和五年二月十九日に、吉野郡賀名生村で賀名生節「大和賀名生を知らないかトコオシャラカホイ」を蓄音機、ラヂオで宣伝したが、そろそろ梅の見ごろとなるので、今度は右歌曲に島田豊氏が振付けして賀名生節踊りが最近出来上がったので、五条芸妓に習得させ、本年から宣伝することにした。」

が載ります。(白黒画像載せました)

さて、今回五条市にお邪魔し、図書館では全く情報を得ることが出来なかったものの、近鉄五条駅のすぐ近くの旅館(今は空き地)の二階に芸妓が佇んでいたのを聞いたことがある、という話と、置屋街が田中という所にあったとの情報を複数頂き訪れてみました。

ただ、五条市の花街がいつ誕生し、いつ無くなったか全く分かりません。


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                        大和名所図会
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                     置屋街のあった田中
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                       近鉄駅付近の旅館
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                      カフェー調の純喫茶
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                       エデン
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              現役だったとしてもエデンさんの扉を開く勇気はありません。


by gionchoubu | 2019-03-25 12:23 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

飛田新地と鯛よし百番


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  飛田新地の料理屋、よし百番

大阪の飛田遊廓に関しては色んな人が色んな所で書いているのでここでは短く纏めてみました。参照は昭和五年発行『全国遊廓案内』と昭和八年四月一日発行『郷土研究上方 上方遊廓号』です。


当時日本屈指の大廓と呼ばれた飛田遊廓の沿革は明治四十五年の南の大火で被災したミナミの難波新地の業者を中心に、松島遊廓の業者(全国遊廓案内では新町遊廓となっていますが松島遊廓のはずです)を加え大正七年十二月二十七日に開業しました。

そして治安維持の必要から今宮警察が新設されました。この頃は飛田遊廓でも芸妓も呼べることが出来ました。昭和の初めで一時間の玉代は一時間約九十銭ほどでした。

遊興は写真店(客は写真で娼妓を選ぶ)で娼妓は全部居稼ぎ制(娼妓は置屋から送り込まれるのではなく、抱えぬしの家で客をとる事)

遊興は時間、又は通し花制(一人の客に娼妓が付きっきりでいる事)で廻し(一人の娼妓が同時に二人以上の客をとる事)は一切とらず、一時間一円五十銭。遊興費に酒、肴、茶果の類は含まれませんでした。

一流妓楼である特大店は巴里、御園楼、都楼、世界楼、日の本楼

準特大店として設備万端に於いて特大店以上の豪華を極めていたのが本家第一と東大一

モダン設備を整えた儀楼は大喜楼、梅ヶ枝楼、君ヶ代楼、港楼、福愛楼、河萬楼、マツタニ楼、キング、大和、新大和、角タツタ、第二梅ヶ枝楼、第三梅ヶ枝楼、本家大一楼、東大一楼、三州楼、富貴楼、巴里など

昭和八年ごろには業者の数二百四十軒、娼妓数総数三千二百名を数え、毎五日目に検黴を行い一年を通しての入院率は二百五十名内外で毎年四回の慰安会が催されました。

昭和33年2月7日の毎日新聞、京都版によれば、売春防止法施行直前の飛田は飛田新地組合約180軒と明豊新地組合23軒に別れ接客婦1,400人が所属しておりました。

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玄関をくぐります
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玄関入ってすぐ左、もし創業が飛田遊郭開業と同じぐらいなら時代的に考えて陰店として使用予定の可能性が強いです。娼妓が襖裏に並び指名を待つわけです。ただし写真式に移行したので陰店として使用されなかったので無いのでしょうか・・・

                   

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                      中庭を二階から望む
               
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陽明門
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                          陽明門の中
              
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                        陽明門の中
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                    庭を望む特注の窓
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                      一階玄関を進んで右
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                      一階三条大橋と三条小橋
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                      日本一の太郎
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                         一階山殿、太夫図でしょう。
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  以上山殿
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                         由良の間の天井

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                     一階、秀吉公でしょうか
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                      二階狭い廊下
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                       二階島田の宿の向い

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                     その中、船の上で密会気分
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天井は大井川の渡し
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天神祭りでしょう。
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二階から一階へ



by gionchoubu | 2019-03-20 11:40 | 亡くなった大阪の游所 | Comments(0)

奈良市 南市の花街  三

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大正15年7月27日大阪毎日新聞に『芸妓さんも試験制度になった 落第したら稼業出来ぬ 南市町新検番の敢行』の記事がのりました。

「奈良南市町新検番では最近芸妓の技能が著しく低くなり暫時堕落するといふ声に鑑みて、これが挽回策として愈々試験制度を採用することに決定し、その第一回の試験を二十六、七両日同町中央倶楽部で執行した。

受験する姐さんは同検番六十八名の紅裙連で科目は舞三味線の二つ、題目は五日前に検番から姐さん連に通知ずみだが、この試験は二ヶ月に一回づ々行なわれるので、万一これに落第すると芸妓稼ぎができないといふ厳重な掟である試験が情実に流れるといけないから、試験官には村山、中岡の二氏、それに玉之家の女将と大阪から若柳師匠を招いて公正を期した。

第一日の試験日である二十六日は午前九時から受験者が一名づゝ中央倶楽部の舞台に呼び出され、両側には試験官が座り、観覧席には数十人の置屋が居流され、抱芸妓の出来ばえ如何を固唾をのんで聞いてゐた。

舞台に呼び出された受験生の姐さんは生きるか死ぬかの境といふので根締めの冴えた馬力を見せ、さす手ひく手に異常の緊張感を見せたが、残りの妓共は二十七日試験を行い終ると同時に成績を発表する。

他所から仕替をとった芸妓連も試験を受けねば芸妓に出られないことになった。

しかし新検番のこの新しい試みは確に芸妓の技を上達せしめるのに相当効果を奏すものと見られてゐる。」

しかしながら、この後も南市町の花街は名妓の声も聞かず、色街の町として定着しました。

元林院と南市町は隣接しており二つ合わせてもその敷地は随分狭いものです。

これにそれぞれの検番があり、元林院が芸の道をすすめば、芸の町が両立するのは至難の業で、どうしても南市町は色街の道をすすむしか生き延びる道はなかったのでしょう。

後年南市町は乙部と呼ばれていたようですが、組織として甲乙制をとったという記録は見当たりません。

すこし遊廓の甲乙制について考えますと、祇園甲部と祇園乙部(現祇園東)は明治十四年に分離したとき名前を甲、乙にしただけで甲乙制と私は考えていません。(冗談みたいな話ですが、この分離したときの祇園乙部の取締が中村乙吉でした)

つまりそれぞれが取締りを持つ全く別の組織で同じ遊廓の中で甲乙をもった甲乙制とは似て非なるものです。

ただ、良く知られた祇園の甲乙がイメージとして他所のプロトタイプになった可能性はあります。

遊廓(花街)の甲乙制はまた別の機会に提示したいと思っています。




by gionchoubu | 2019-03-16 10:52 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良市 南市の花街 二

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昭和四年発行、松川二郎著『全国花街めぐり』によれば当時元林院の元検に属する芸妓置屋十九軒、芸妓百三十五名に対して、南市の新検に属する芸妓五十七名、幇間一名、やとな七十三名となっています。

ちなみに元検は同書でガンケンと振り仮名がつけてありますが実際はモトケンと呼ばれていました。又新検も通称で正式には奈良検番株式会社でした。

この両検番を中心として多数の呼屋(料理屋)が元林院、南市に跨って散在していました。中には置屋と呼屋を兼業していたところもありました。文面からみると、所謂お茶屋はこの両花街になく、芸妓は基本料理屋や旅館に入ったものと思われます。

新検はもともと元検に対抗して開業し、軽便主義を標榜して芸妓の粗製濫造をしたため、元林寅の芸妓に対して南市の芸妓は品格も芸も甚だ劣りました。

そこで南市は上記にある当時流行の擬似芸妓といえる“やとな”を置き“やとな検番”を立ち上げ成績をあげていきました。

ヤトナは雇仲居という酌人、あるいは廓芸者に対する町芸者と言える一筋縄で説明できない女たちでその発祥説には、私は京都がその地と考えているものの、大阪、奈良とする人がおり、もし奈良発祥ならこの南市がその地と考えられます。

このやとなの芸名も一龍、春千代、音丸、君千代と芸妓名と変わらず、元検の芸妓か南市の芸妓か南市のやとなか・・・お客も、料理屋も、随分頭をひねったのではないでしょうか?

元検と新検はその成立当時から随分反目しておりましたが、この頃は元検が南市を圧倒する形で其の間も融和されるに至りました。

ただ、松川二朗によれば、この二つの芸妓が一つ座敷の落ち合ったような場合はなんとなく油に水を交ぜたような感じで座の白けるのは免れない。奈良で遊ぶ者は心得て置かねばならないとの事でした。

昭和五十一年発行『奈良町風土記』によると、南市の花街は俗に「乙種」と呼ばれ、観光奈良への客への客に対して大いにサービスに努めたが、最近は置屋の三軒に減り、かわりにスナックバー、喫茶店、キャバレー、映画館、旅館、料理屋などが軒を並べて繁華街としてその名をなしている、とありましたので、この時点で、まだ南市の花街は存在していた事がわかります。

奈良の元林院に所縁のある方にお聞きしたところ、元林院の芸妓は芸で身を立てていましたが、南市は不特定の男性と娼妓と変わらぬ仕事をしていました。



by gionchoubu | 2019-03-12 16:00 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良市 南市の花街 一

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南市は高天市、北市とともに南都の三市とよばれ正月五日に初市が行なわれました。

貞享四年(1687)発行の『奈良曝』(ならざらし)によると「南市町、町役二十七軒、いにしへ此所に市の立しゆえなり」とあるので市は相当前になくなりました。

町内の恵比寿神社は市の守護神で、近世には六方衆が管理していました。祭礼がこの正月五日に催されるので俗に五日えびすといい、大和の数ある恵比寿神社のなかで最も賑わいました。

この五日恵比寿祭はまことに賑やかで、恵比寿神社に周辺から猿沢池の周辺に百数十軒の露天がならび、昭和四十五年までは南市の芸妓をのせた宝恵篭十数台が市内を練この祭りに華を添えました。

奈良市の元林院を北境にする南市の花街が誕生したのが大正十二年、元林院の元

検(もとけん)に対し株式会社の新検という検番を持ちました。

大阪毎日新聞奈良版、大正十五年三月二十四日をみると、元林院に対して南市は敵国との表現を用いておりこの二つの花街は敵対していました。

南市の約百人の芸妓は、元林院が常に温習会や御所車の奉納など行い南都の人気を浚うのに対して、これに対抗する術がない南市の芸妓は大変肩身の狭い思いをもっていました。

そこで南市の姐さん達が芸妓芝居の計画をすると、巴席、中房席、井角席、登美屋、千鳥席、福の家、稲田席、浪花席の芸妓計十三人が同調し本読みや振り付けの稽古を始めたといいます。

これに「風儀を乱す」として中止の厳命をだしたのが他ならぬ南市の楼主達でした。

“もともと温習会の一度もせぬ癖に芸妓が勝手にする芝居にまで干渉するとは、そりゃあんまりじゃわい”と怒り心頭、無関係の美形連まで同調する及び、とうとう楼主側が折れ、廓が一致して応援することに変わり、大阪から降り付け師二人を呼び猛練習中との事でした。

元林院は遊廓を母体とする花街の中で、西日本で最初に娼妓を廃止した花街で、娼妓を求める男性には同じく市内にある木辻遊廓があるものの、元林院よりそこそこ離れているので、元林院と隣接する南市は転び芸者が多く、元林院が役所の上客や旦那衆を客としていたのなら、観光客やそれなりの客をターゲットにしており、楼主は営業的な見地から南市の芸妓に、金も時間もかかる芸は必要ないと考えていたのでしょう。



by gionchoubu | 2019-03-10 12:10 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

宮川町 駒屋 千賀遥さん 二


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千賀遥ちゃん

もう十年ほどになるでしょうか、テレビ番組で茨城の地元を離れ京都で舞妓さんになる少女のドキュメンタリーがありました。もう引退された駒屋のとし愛(ちか)さんの話です。

私の職場の座敷で、それこそ舞妓さんとしての五年間、数えてはいませんが愛ちゃんとは二十回近く一緒に仕事をさせていただいたと思います。

その内の一回、修学旅行の体験学習でとし愛さんを見て感激して、舞妓になろうと決心、本当に舞妓さんになったのが、置屋は違うものの、やはり宮川町のふく音(ね)さんです。

こんどはふく音さんが修学旅行生のために当館に来て直接その話を聞き、私もその縁に驚き、嬉しく思いました。

そしてもう一人とし愛さんと同じ中学校の後輩で、先輩に憧れ舞妓さんになる決心をして、愛ちゃんと同じ駒屋で舞妓さんになったのが、千賀遙さんです。

とし愛さんが引退してから千賀遙さんがお店出しをしたので二人が舞妓さんとして顔を合わした事はありません。

千賀遙ちゃんの物語が始まって三年目になります。

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                         とし愛さん



by gionchoubu | 2019-03-05 11:18 | 宮川町 | Comments(0)

島原言葉

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藤本箕山の『色道大鏡』第九「文章部」では傾城の芸は第一が物を書くことで、第二が三味線で、禿のうちから書に励むべきであると書かれています。

そして傾国(島原)で使われた言い回しが載っています。島原の遊郭詞(さとことば)と言ってもいいでしょう。

夕辺→よんべ、鍛錬→たんでん、金襴→きんだん、香炉→かうろん、後家→ごけい、象牙→ざうぎ、建仁寺→けんねじ・・・等々今では使われないものがほとんどです。

しかし注意深く見ていくと、京都弁、大阪弁などとして現代の会話に何気なく潜む多くの言葉があって驚きます。それらを挙げていくと

さむい→さぶい 京都弁でしょうか?私自身京都に来た頃、京都の学生さんが鳥肌の事を“さぶいぼ”と言っていたのに大変な違和感を感じました。

おととい→おとつい

ざれごと→じゃれこと こじゃれた・・・なんて言葉もありますね。

摺り木→すりこぎ 現在はすりこぎの方が標準です、

もとゆい→もつとい 落語の文七元結はぶんひちもっといと言います。

大根→だいこ 京都でだいこ炊きの風習があります。

ごぼう→ごんぼ 大阪の年配の方が使うようです。

(さけ)→しゃけ これも大概の人はしゃけと言います。

狐→けつね けつね饂飩など、これも大阪の一部で使われるようです

のごう→ぬぐう 現在のごうは使いません。

ねむたい→ねぶたい

やっぱり→やっぱし

出来たる→でけたる

六代目の笑福亭松鶴師匠の落語に上記の言葉が多く使われていたと思います。


by gionchoubu | 2019-03-03 17:39 | 島原遊郭 | Comments(0)