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あやめ池新地

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当時を伝える建物、現在病院として使用されています。元は紀の国屋という旅館でした。こういった形で保存されているのは大変素敵な事です。(2月10日付記、ブログでこの建物を紀の庄とされている方がいらっしゃいまして、そちらの方が正しいかもしれません。)

大正15年にあやめ池遊園地開園(花菖蒲園、演舞場、小運動場等の施設)

昭和4年「あやめ池温泉」開園しました。

大阪朝日新聞大和版、昭和4年7月21日によると

「きのふ開館したあやめ池温泉 四十万円もかけた頗るモダンな建物」

昨二十日から開館した大軌直営(現近鉄)あやめ池温泉は工費約四十万円、延坪九百坪のドイツ近世式といふすこぶるモダンな大建築で、円天井の明るい男女大浴場をはじめ特別浴場、撞球(ビリヤード)室、新聞雑誌閲覧室、遊戯場、階上には余興室、囲碁室、カフェーがあり、屋上には展望台、地下室は大衆食堂で新しい試みは浴場に絶えず、冬は暖かく夏は涼しい空気を送る装置や周囲の間接照明、さては入湯生理応用の便所などである。

家族室はうつくしい日本座敷で時間貸しをするなど全く都会式で居心地よくつくられてゐる。

二十日から三日間は歌舞伎を加えた余興が行われ、付近には「あやめ新地」と称する芸妓置屋の一画を新設すべく目下工事中である。

ネットで見ることが出来る『明治後期から昭和初期の大阪近郊における遊園地と花柳街:都市娯楽施設の史的研究』安野彰著によるとこの昭和四年に駅の南側であやめ池温泉に検番と料理旅館10戸前後が建設されました、とあります。

さらに同研究から、大阪朝日新聞奈良版 昭和5年11月20日より

貸間を遊園地に建築。午後三時から夜九時まで使用料一円五十戦、朝から終日使用の場合は二円五十銭で新地の芸妓も呼べる。

同6年1月21日より

新地の芸妓は目下四十三名、花代八十銭、遊園地経営の借間を加えて料亭二十余軒もあるだけに弦歌さんざめき芸妓は八十%の売れ行き。

同6年4月7日より

遊園地の貸間は姐さんも呼べるので日曜祭日は満員箱切れの有様だが温泉貸間も同様だが家族風呂は開いている。

との記述を引用させて頂きましたが、これらは同紙面の“各地たより”の“あやめ池”の欄に記されていたもので、私ならたぶん見逃していたと思います。

『伏見町史』のあやめ池温泉場(2)によると

温泉場の盛況はそう長くは続かなかった。初代・二代の場長が若くして急死、終戦まえには燃料不足もあって、昭和十八年には閉鎖された。戦後は進駐軍の宿舎やダンスホールで賑わったが、数年で閉鎖。いまは、その建物も、とりこわされてしまった。

地元の現在九十歳の方から間接にお聞きしたところ戦後も芸者はいたとの事でした。

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                   あやめ池新地跡
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                ビジネス旅館、山翠さんも新地の歴史の一つです。
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                    落ち着いた一画
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                   あやめ池温泉跡


by gionchoubu | 2019-01-31 12:22 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

花街 元林院ぞめき 六

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                      たまきさんの店内から
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   外から

現在カフェーを営む“たまき”さんはもと元林院の玉喜席という芸妓置屋でした、昭和31年に今のママのおじいさんがショットバーに改業し店のなまえもタマキに改名しました。

ところが心無い人がマに線を付けタヌキと店の看板に悪戯をしたので平仮名のたまきにしたとの事です。

店の門構えは狭いものの、京の町屋同じで奥に長く中庭をはさんだ向こうは中二階建ての構造で、置屋時代には十人ほどの芸妓さんがおり、菊水や奈良ホテル等にお座敷かよいをしました。

色々、いろいろお話を伺いましたが、置屋時代、お馴染みの商店街の玩具屋の旦那が遊びに来て子供におもちゃをくれたそうです。

本来置屋に客が入るのは好ましくなく、祇園ではアブラムシなどと言われていました。

元林院では別に咎められた行為ではありません。ただ芸妓は絶対芸妓姿を置屋では見せなく、玩具屋さんも、玉喜席で一服したあとは、座敷でその芸妓を揚げたそうです。

ショットバーになってからは元芸妓が洋装でショットバーの接客係りとして働き、全員が結婚などで片付くまで店は面倒をみたそうです。

現たまきさんでは美味しいコーヒーを頂くことが出来ます。なんとなく入りにくい店構と私には思えましたが、お話好きのママとケーキ目当ての若い女性のお客さんが入れ替わりこられておりおすすめです。

さて、『写真アルバム奈良市の昭和』樹林社、には奈良ホテルが米軍にレクリエーション施設として接収されている期間中の昭和26年頃、奈良ホテルの進駐軍のパーティで接待する元院林の芸妓の写真が載ります。

さらに昭和29年ごろの写真では、元林院の芸妓置屋・京豊の芸妓たちと主人が全員胸のB.Socksの名が入ったおそろいの野球ユニホーム姿で収まっています。これは京富の主人の父親の野球好きが高じ仮装した時の記念のようです。

また、昭和30年代には元院林の中学適齢時のため、三笠中学校に特殊学級が設けられ、毎日正午から4時まで勉学に励み中学卒業資格を得ることが出来たと書かれていました。

昭和三十三年二月二十四日の大和タイムスによると三月五日に奈良市丁別館にて元林院芸妓組合主催『邦楽会』の番組決定の記事が載り、出演者として小紀美、里菊、豆らく、若太郎、お染、玉喜久、ひで丸の名が見えます。

昭和30年代には芸妓数は50人を切り、昭和43年のオイルショックを機に高度成長期も終わりを告げ、同52年の奈良市庁舎移転による人の流れの変化は、元林院の置屋経営に大きな打撃を与えることになりました。

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                    奥はトイレのドア
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                 玉喜席の玄関前、お抱え芸妓、一若と宝恵籠
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玉喜席、人丸と男衆


by gionchoubu | 2019-01-27 15:48 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 五

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                       淨慶寺

洞泉寺遊郭の元になった洞泉寺は天正十三年(1585)平城群長安寺からここにに移っており、境内に源九郎稲荷神社を祀ります。かつて洞泉寺町に存在した正願寺、現在も川本楼のハートの白壁が墓越しに覗ける大信寺、遊郭の中に寺があったのか、寺の中に遊郭があったのか、この地の僧侶はや神職にあった人は遊女に囲まれていたわけで、さぞかし仏や神に仕えるのは生半可な修行では覚束なかったのではないかと想像してしまいます。

寺の中に遊郭があったと書きましたが・・・これは本当の話でした。

昭和五年七月二十日の大阪朝日新聞に洞泉寺のもう一つのお寺、川本楼を大信寺と挟んでいる淨慶寺の話が載っていました。

『妓楼が逃げるかお寺が逃げるか 県でも処分に悩む 郡山町淨慶寺境内の遊廓』の見出しの記事を紹介します。

「国宝阿弥陀如来修理費捻出のことから、はからずも問題となった郡山町洞泉寺遊廓内淨慶寺境内の儀楼建築善後策については十日県社寺課安田?が実地調査を行った調査の結果はいよいよ複雑で処分すべき立場にある県当局もますます頭を悩まして来た。

問題の淨慶寺はもともと古く知られた歓楽境にあり、その後明治三十四年ごろ境内に地上権を設定し、以来こゝに山中、豊田、植甚、木島、乾、五楼が建設され、この敷地約三百坪、おかげで実際の寺境内は墓地を合して法廷面積たる三百坪以内に挟まってしまった。

しかも右地上権設定には監督官庁たる県知事の同意がないから設定登記は無効だというのである。

安田?調査の結果によると、かつては寺院の尊厳と風致を害すること夥しく、法廷面積に不足を生ずる地所を隣接地で求めようとしても余裕なく、トドの詰まりは猶予期間を与えて娼楼の立退きを命ずるか寺の方が他に移転するか、いづれにしても巨費を要するだけに県の裁量如何が甚だ注目されてゐる。」

さて現在洞泉寺遊廓跡に残るのは、豊田楼、武井楼、富士屋、木島屋、川本楼・・・そして上記の山中楼と植甚だと思いますが違っていたらごめんなさい。

*現在源九楼稲荷に一番近い建物が豊田楼のはずですが、新聞上に淨慶寺の中にあった豊田楼との関連は分かりません。



by gionchoubu | 2019-01-23 12:01 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

大和高田の花街

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                   大和高田 二鶴旅館

奈良県で奈良市について市制を施行したのが大和高田市で大和がつくのは新潟の高田市が誕生していたからです。明治二十四年に現JRの高田-王子間、同二十六年、高田-桜井間、昭和二年に現近鉄の上六-高田間が開通しました。

大和高田市に花街が存在した事は現在同地でも殆ど全くと言っていいほど知られていなく、何とか公共施設で調べて頂いたところ、高田小学校のあたりに芸妓が住んでいたところがあったらしい位の情報が全てで、高田市立図書館で尋ねても、改訂高田市史他を開いても何も痕跡を見出せませんでした。

大阪新聞奈良版、大正十五年四月十五日に『増え行くカフェーと女給税を狙ふ高田町当局』の記事に

「高田町では近頃めっきりカフェーが殖え三流どころの料理屋は次第にお株を奪われ、あで姿の女給の群は在来の仲居の領分をちくちくととっちめてゆく、いま町内で開業しているカフェーは十数軒を数へこゝで働く女給の数は六十余名に及んでゐるがその結果昨春百名を数えた仲居が今年は半減の惨めさである。

勿論これは高田検番ができてから芸妓が酌婦代用を勤めるのと不況の結果によるであろうがカフェーの勃興が大きな脅威となったのは言うまでもない。

なお同町には近く開業するカフェーが三軒あり町当局が女給税を課することに熱中するのも無理からぬこととうなづかれる。」

文面では高田の仲居と女給と芸妓と酌婦の役割がよく分からないものの、花街事務所である検番が大正時代の後期に誕生したものと思われます。

たぶん京都のようなお茶屋があったわけではなく、芸妓は検番を通して旅館や料理屋に入ったものだと思います。

もう一つの高田花街の痕跡は全国花街連盟活動記録の全国の花街所在地の奈良県の所に高田の文字がしっかり刻まれている事です。

これは昭和三十年少し前の記録になります。

『改訂再版 高田郷土史話』堀江彦三郎著に野口雨情作“高田小唄”が載っていました。

1、大和平野のまんまん中で 高田住よい暮らしよい
 大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

2、秋が来たかや二上山に 峯の木の葉も色がつく
 大和高田の町中で大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

3、高田御坊のやぐらの太鼓 たゝきゃポンと鳴るポンと響く
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

4、鳥はねぐらに蛍は草に 月はかつらぎ山の端に
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

5、高田城跡名ばかり残る 思やいく年たったやら
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

6、名さへなつかし高田の町の 大和西瓜と白絣
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

7、お伊勢まゐりは大和にかけて 夜は高田の町泊り
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

8、夜明け烏が龍王様の 森の辺を鳴いてゆく
   大和高田の町中で 娘がヒソヒソ話

高田芸妓が弾き、唄い、踊っていたのでしょうか?それにしてはあまり色っぽい歌詞ではありませんね。

画像の旅館の二鶴さんに聞いたら何かしら情報が得られそうなのですが・・・




by gionchoubu | 2019-01-17 12:12 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

橋本遊廓ぞめき その九




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赤線業者は儲かるのか?この素朴な疑問に対しての答えはやはり儲かる・・・というのが昭和29年の4月6日京都新聞山城版を見ると如実に分かります。


「横綱は席貸業者 洛南の高額所得者決る」の記事よると

山城田辺税務署が昭和
28年度分営業所得者1,366人のうち百万円以上の高額所得者13人を発表したところこのうち10人までが八幡町橋本の席貸業者でした。

  1. 席貸、八幡町 1,718 (単位千円)

  2. 席貸、八幡町 1,569

  3. 肥料、精華村 1,501

  4. 席貸、八幡町 1,491

  5. 席貸、八幡町 1,423

  6. 席貸、八幡町 1,338

  7. 席貸、八幡町 1,258

  8. 席貸、八幡町 1,136

  9. 席貸、八幡町 1,130

  10. 酒造業、田辺町 1,107

  11. 席貸、八幡町 1,080

  12. 織物、上狛町 1,033

  13. 席貸、八幡町 1,018

    『八幡市誌』によると八幡市の橋本遊郭の廃止で三百万、年間町民税の三分の一が減少したと言います。

    正確にいうと橋本も含め昭和二十一年をもって遊郭制度は廃止し所謂赤線として営業していました。

    つまり遊郭業者は特殊飲料店で公娼であった娼妓も従業婦となり、表向きは

    * 外出や遊びは自由で休日も拘束されることがない

    * 借金と売春は全く別で売春を強要する制度はない

    * 互い(業者と従業婦)に決めた歩合制度があり接収はされない。

    しかし地方の業者は都会の業者ほど時代に敏感でない者が多く、旧態依然のままで大っぴらに前借で女を抱え一人月に数千円の稼ぎの内女性たちには一パーセント位しか与えなかったといいます。(『日本売春史・考』吉田秀弘著)


by gionchoubu | 2019-01-14 12:19 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 七十

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売春防止法が発令される2年前の昭和29年1月30日の京都新聞の夕刊に「性犯罪がふえる 全国の赤線業者 売春取締法に反対」の記事が載りました。

内容は全国赤線区域の業者約一万三千人で組織する全国性病予防自治会は、目下立案中とされる売春取締法に善処を要請するため、二十六日から東京日比谷の松本楼に鈴木理事ら全国の代表六十余人が集まって協議、自由党、改進党、社会党の代議士を招き各地の赤線の実情を訴えました。

赤線業者側の意見の多くは、過度の取締は性犯罪を増加させ、生活に困った接客婦は健康を無視して稼ごうとするのでかえって性病が蔓延する、ということでした。

同会では特定区域(つまり赤線)以外での売春行為の禁止、非会員の接客業務の禁止などを要望した陳述書をもって厚生省、国会をはじめ関係方面に陳情し、「性病予防」という立場から具体的な売春取締法反対運動に乗り出すことは必至とみられました。

赤線業者はこの取締法を利用して、自所のみ合法売春の専売に相応しく、当時赤線を脅かす存在であった完全非合法の青線業者のみを駆逐するというウルトラCの道を代議士を利用して模索していました。

そして翌月の同紙夕刊に「売春問題 賛否両論」の記事が載りました。その意見を紹介させて頂くと・・・

売春問題対策協議会委員久布白落実女史・・・娼婦制度の賛成者はこの制度がないと性犯罪が増え、業者の監督が無いと娼婦は健康や衛生を無視して客をとるため性病がかえって蔓延すると主張していますが、“防波堤”として娼婦を利用するという考え方は人権擁護上大変な暴論です。娼家が性病の温床であるのは統計が立派に証明しています。政府は“売春なき国家”という理想のため努力すべきです。

犬養法務大臣・・・「集娼(赤線の女)は黙認、街娼を取締る」という二十一年の次官通諜は早速取止める。緊急予算で娼婦の更生施設の予算的裏付けは困難だが、まず取締法令を作ったうえ婦人ホームや相談所の設置など必要な諸処置をとりたい。

全国性病予防自治会事務局長(業者代表)・・・売春の絶滅は理想としては結構だが昭和二十一年マ(ッカーサー)指令で公娼制度廃止直後米兵、日本人の性犯罪が激増して一般婦人に大恐慌を来した。必要な程度の公娼はやはり存続させた方が無難だろう。業者も接客婦を不当に束縛することなく医療施設の拡充、前借の廃止など人権問題は十分考慮している。

婦人少年審議委員神崎清氏・・・各地の赤線区域を視察して気付いたのは接客婦の無知、無反省と業者と政治勢力の固い結びつきだ。性病にかかりながら客をとり更生の意欲のない者が多い。売春禁止制定を阻止するため代議士が業者に金をもらっている話をいくつも聞いた。全国民が協力してこうした働きをつぶすのが先決だ。

赤線業者は全国性病予防自治会という尤もらしい名の元、自分たちの存在を全否定する法案の骨抜きに活路を見出すべく、あらゆる知恵を絞ったのです。



by gionchoubu | 2019-01-11 12:02 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代、六十九

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                 嫁入り道具を買いためる娘も
 
昭和29年11月3日の京都新聞夕刊にて一面を「人身売買 デフレの園に咲く夜の仇花」の記事が載りました。

京都市内には当時七つの色街があり接客婦(戦前娼妓と呼ばれた女)千六百六十三人、芸妓六百五十二人、業者八百五十六軒を数え、接客婦は暫増、芸妓は漸減の状態、その他温泉マークやホテルなどに女を雇う闇業者約百軒、外国人相手の街路婦も約三百人いました。

【島原】お茶屋十八軒、貸席七十五軒、接客婦約は百八十人、大部分が九州、中国、山陰地方の女

【五番町】業者九十四軒、接客婦は平均二十三歳で三百人ほど、月間百人が移動する。

【中書島】客筋は地元より京阪、奈良電沿線が多い。貸席、お茶屋は六十七軒、接客婦は百九十人で九州、四国、三重、岡山、大阪近辺、鳥取、島根方面が多い。

【祇園東新地】業者は百六十六で芸が売り物の甲芸妓四十六人、接客婦の乙芸妓百四十人、乙芸妓の八割がバー、サロン、料理店で働いた経歴を持つ。

【宮川町】お茶屋二百七十二軒、芸に生きる芸妓九十二人、女中さんと呼ばれる接客婦二百人

接客婦の売買行為は二十三年制定の職安法で厳禁されているため、楼主たちは表面上“新規抱えの接客婦は全部他遊郭(赤線)や地方から自発的に来た女”と語っているが、実際月間六百人(全体の三分の一)の転入者の半数以上が人買業者の手を経てるといわれ、その半数は毎月地方から実質前借金の形で送られてくる素人娘でした。

悪徳業者は貧困で家族の多い家庭や天災、人災から斡旋を求める婦女の無知に付け込み、最高十万円から五万円平均の前借金の過半をピンハネするのはあたり前でした。

一般的には“よい就職先を世話する”と貧困家庭の子女をつるが、最近では本人よりその親を直接説伏せいやおうなしに連れ出すという。

中にはダンスホールや盛り場などに出入りする娘にヒロポンを打ちポン中患者に変え“都会へ行けばいくらでも打ってやる”と連れ出す悪質な例さえ生まれていた。

接客婦の収入は一ヶ月に一万円から五万円で衣類と食物のぜいたくな彼女たちだから金を残しているものは少ない。

接客婦から結婚して行くものは月々四パセントあるが十人のうち九人までが失敗している。原因は

*相手の男に相対的にまじめな職業の者が少ない

* 奥さん稼業が馬鹿らしい

*男の親戚から疎んじられる、

等だが根本的な原因は自分だけで食っていけるという自信があるためとされていました。

全国四十都市の二十~五十九歳までの男女三千人について前年労働省が行った調査で

売春業者をどう思うか―について悪いが70%を占めたものの。

社会にとってこのような場所は―の問いに対し、不必要が38%に対し必要27%、ある程度必要25%

なくすのに法律で禁止するのは―では賛成37%、反対37%、わからない26%という結果がでていました。

大雑把にいうと当時の国民は売春婦は必要悪と映っていたと思われます。





by gionchoubu | 2019-01-07 14:13 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代、六十八

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               修学旅行でクラス写真を撮る事もある知恩院

二十日広島の西太田中学校が着くと、他の修学旅行で満員のため同氏の経営する中京区のY旅館に振り替え、ただし他校と同宿で八畳二間に男女三十三人がスシ詰めにされました。

二十一日、長野県小谷村中学校が秋田旅館に到着、同旅館は満員だから同氏の経営の下京区のK館に振り替えの話があり、校長は契約書を示し再三交渉したが、適わず上記中京のY旅館に泊まりました。

警察も詐欺的行為として追及を表明、市観光課、市公衆衛生課、市教育委員会の代表者を集め、国鉄推薦、交通公社指定旅館の取り消しに同様要請しました。

A代表は「学校側でも契約しておきながら姿をみせず、待ちぼうけをくらわすことも多く、これくらいのことは自衛上あたりまえです」と言いました。

同年10月24日京都新聞夕刊に再び「旅行生54人一室に また秋田旅館に苦情、処分か」が載りました。

同月二十二日午後五時過ぎ和歌山県城山中学校一向が秋田旅館にチェックインするとわずか二十畳一室に全員を詰め込んで泊めたうえ、同八時に夕食をとらせ、十一時過ぎに入浴させたもので、同校が憤慨して市観光課に訴えでました。

市観光課は「秋田旅館は数回にわたってこのような問題を起こしているので、前に警告を発して道義に訴えている。この上は何らか強行な行政処分を考慮して観光都市京都としての汚名をそそぎたい。」

秋田旅館マネージャY氏談

「夕食のお米を到着された六時ごろに直ぐ出して下さいと頼んだのに(当時米は生徒側の持ち込みでした)、七時ごろに出させれたが、食事が遅くなってはと考え、七時にひき換えに食事を出したはずです。タタミの数も生徒さん48人、先生6人に五十四畳(八畳三間、二十畳一間)と規定通り用意して寝ていただきました。フロは他校の人が入っていたので少し遅くなったが、先生は七時ごろでした。この前のこともあるので名誉ばん回に非常なサービスをしているつもりです。時代祭でどこの旅館も満員で学生を断った旅館もあるとかきいていますが、二百円で三条川岸の一番いい部屋を使っていただいたようなわけです。他の旅館がそねんで市へ訴えさせたのではないでしょうか。」

経営者が経営者ならマネージャーもマネージャーといったところです。


さて、昭和30年9月28日の京都新聞の夕刊に、「遊郭で“修学”酔いどれ二高校生」の見出しが載りました。

内容は山形の工業高校夜間高校の修学旅行生F少年(18)とA少年(19)が酔ったあげく七条新地の岩見楼に登楼したとして、二人を引き込んだ同楼を風俗営業取締法施工条例違反容疑で調べ、行政処分(営業停止)について上申方を検討中という内容でした。

修学旅行の京土産が淋病だったらシャレにもなりませんね。



by gionchoubu | 2019-01-05 14:36 | パンパン、赤線 | Comments(0)

奈良のカフェー、女給 三

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昭和4年8月2日の大阪朝日新聞の見出しに「女給の客引き 卑猥な歌など 奈良署が厳重に取締る」の記事が載り、奈良署ではカフェーの取締りに眼を光らせ色電燈の禁止を実行、さらに女給が道路に出て客を引くこと、卑猥な歌を唄うこと等を厳重に取締り、深夜帰宅する女給(百八人の半数)の行動を監視することになりました。

続いて8月13日の大阪朝日新聞の見出しは「テーブル一脚に女給一人限り、雇入れには十分な身元調査、カフェー業の改善」とあり、前文紹介させて頂くと、

カフェーの弊害がやかましく論じられ大阪その他の各都市では改善運動まで起こされてゐるが、奈良市四十六戸のカフェー業者もこの風潮に動かされ自発的に改善することとなり、十一日午後一時から奈良署に会合、従来の奈良料理屋飲食店組合中のカフェー業者のもで西洋料理喫茶部を設置、役員中に風紀係まで設けて左の改善事項を実行することに決定し、大いに自覚あるところを示した。

*営業時間は午前一時限りとすること

*女給雇人の際その前身につき十分調査すること

*前従業先で金銭その他不都合のあったものは使用せぬ事

*十五歳未満の女給を使はぬこと

*有夫の婦は夫の承諾書がないと使わぬこと

*女給の服装は不快に失せざる程度に止め清浄なエプロンを常に使用すること

*放蕩心をそゝらしめるやうな異様な服装を禁ず

*通勤女給は原則として親兄弟のあるもの、有夫のもの以外を認めず、他は奇
 遇制とすること

* 室内の有色燈は一切使用を禁じその燭光は新聞雑誌を読み得る程度を下ってはいかぬ(一テーブルに十六燭光以
上のこと)

* ボックスを設けた時に前後以外は何物でも蔽はぬこと

* 座敷式を暫時テーブル式に改良し一定の期間にその全廃を期すること

* 女給は屋外に出て客引きせぬこと

* 大声で放歌せぬこと

* 女給の早引き、外出は明瞭なる事由ある以外はこれを禁ずること

* テーブルに一脚に女給一人以上をつけないこと

* 言語を改善改善し風俗を?すような容姿をするな

* 女給はたばこをなるべく喫せぬこと

* 各カフェーでは料金表を明示し、現金支払制度とし、なるべくチップに代るべき良法を考究することなど

なほ新設役員は左のとほり推薦された。

部長R(いろは食堂)、副部長M(よあけ食堂)S(自由軒)、その他幹事十四名、代議員四名、風紀係二名

10月12日の大阪朝日新聞によると当時奈良県にカフェーの営業者が百八十七人(内奈良市内で四十七人)女給数が三百九十六人(奈良市内に百七人)一戸平均四人の女給ですが、中には十二人抱えているカフェーもありました。





by gionchoubu | 2019-01-03 13:21 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)