人気ブログランキング |


花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
京都の花街・遊廓
遊廓、花街の類形
亡くなった大阪の游所
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
亡くなった兵庫の游所
未分類

以前の記事

2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

>ぞめき様 ありが..
by ignatiusmaria0319 at 17:02
> 文車さん 実は..
by gionchoubu at 11:51
> 文車さん TS..
by gionchoubu at 11:46
ぞめき様 暑中お見舞い..
by 文車 at 17:06
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 19:28
本ブログを読んで、「芸能..
by こうざん at 22:42
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 14:51
こんばんは、近江八幡池田..
by こうざん at 00:23
> こうざんさん ..
by gionchoubu at 17:59
gionchoubu様 ..
by こうざん at 00:24

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

加古川関根新地 四
at 2019-09-19 14:26
赤線、青線、白線、紫線
at 2019-09-15 11:18
加古川 関根新地 三
at 2019-09-12 11:43
加古川 関根新地 二
at 2019-09-08 11:00
加古川 関根新地と検番筋
at 2019-09-03 18:06

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2018年 12月 ( 12 )   > この月の画像一覧

奈良のカフェー、女給 二

f0347663_14255709.jpg
                       奈良町の一画

「しんねこ式カフェーの女給ども恐怖、毎月一回『検査』される、問題は・・・亭主持ち」の見出しが大正15年7月4日大阪毎日新聞奈良版に載りました。

しんねことは、男女二人きりでしんみりと仲睦まじく過ごすことです。

カフェーの女給が毎月一回健康診断の名で性病検査を受けることになった事を前回書きましたが、同紙によるとこれが適用されるのは椅子テーブルを用いない奈良市内の50余のカフェーに働く少なくとも二百人の女給です。

それにしても女給どもとは厳しい表現です。

椅子、テーブルを用いないカフェーとはお座敷カフェーで、これをしんねこカフェーというのでしょうか?

この二百人のうち50人ほどが人妻で、この検査には大反対、

「私達は家をもち立派な夫があるのに検査を受けねばならぬ理由は少しもありません。随分如何はしい人があるとの噂ですが少人数のために全部の検査をやるとは聞えません。一体警察がすべての女給を変な者と見るのが間違ってゐるので、我々は立派な職業婦人です」と訴えました。

警察の方も女給の取り締まりに対し一貫性が無かった様で、昭和2年4月30日の同紙に

「お酌をする女給は酌婦とみなす、県の女給取締り方針」の記事がのり、これまでお客に媚を売る女給の取り締まりは各警察所によって異にしていたので、飲食店の構造設備で単に飲食物を運ぶ程度の女給は雇い人とし、料理屋の様な設備で客席にあって酌をするものは酌婦として取り締まる方針を出しました。

とにかくカフェーは警察の目の敵になれていたようで、これは紙面に現れていませんものの相当遊郭側から働きかけが有ったものと想像できます。私娼化した酌婦、ダンスホールのダンサーそしてカフェーの女給は公娼をかかえる遊郭にとって商売敵以外のなにものでもありません。

あるいは女給に対する健康診断や課税なんかも裏で遊郭側が警察や税務署に働きかけたのかもしれません。

娼妓の検査代金は楼主が持ちますが、女給のそれをカフェー経営者側が出すはずがなく、女給は性病検査の屈辱と検査費用の負担という心理的、経済的な重荷をかけられる訳です。

今度は大阪朝日新聞の大和版をみても大阪毎日新聞奈良版と同じように女給に対し憎々しげな言葉使いで記事を扱っていました。

昭和4年10月19日の記事に「法官の眼 犯罪から見た恐ろしい世相、不良の辿った道にうつるカフェーや活動写真の影」を見てみると

「不景気と直接関係ないが、最近著しくふへたのは不良少年だ、しかも犯罪の経路は全部カフェーから入門するといってよい、昔は女郎買ひが最初の堕落道だったが、今は女給の脂粉の誘惑からである、まずカフェーに足をいれる、金が要る、親の金を持ち出す、続いて親類友人、知人の金品をごまかす、そして終には他人のものに手をつける・・・というのが決まりきった順序である、尤も活動写真もこれに付随してゐるがこれなどは親たちが十分注意しないと大事な子供の一生をくずにしてしまう、桜井町の質屋殺しの犯人もこの経路を辿っていた」

カフェーに行っただけなのに、えらい言われ様ではありませんか。




by gionchoubu | 2018-12-31 14:27 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良のカフェー、女給

f0347663_11240765.jpg
                    奈良公園のイケメン鹿

『奈良県警察史 昭和編』の四、大衆の享楽・遊興と警察活動の〔カフェー、ダンスホール〕に奈良県にいつごろから出現したか分からないと前置きした上で

昭和5年にカフェー229(女給557)
昭和7年に    254(  561)
昭和9年に    341(  582)
昭和11年に    262(  652)

の数字をあげ、その数が増加するにつれて、各カフェーに働く女性のサービスが過剰になり、風紀問題を醸すようになったと、その弊害を婉曲に伝えています。

大阪発生といわれる昭和初期のカフェーは、ダンスホールと並んで当時の風俗営業の最先端を行くものが多く、青い灯・赤い灯に甘い脂粉の香を漂う女給がなまめくカフェーに吸い込まれていきました。

大正末期から昭和にかけてモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)全盛を経て、スクリーンでは欧米の銀幕の美女達が微笑むようになると、それまで和装の娼妓、芸妓が待つ遊郭・花街に通い続けた日本男児も漸く新しいエロチシズムに目覚めたのでした。

大阪毎日新聞奈良版大正15年4月15日の記事を見ると、実際のところ奈良にカフェーの紊乱の風が入り込んだのはもっと速いものでした。

この年4月に行われた県下各市町村税務協議会で、近頃雨後の筍の様に出来たカフェーの女給に対し女給税新設の可否についての議論が続出しました。

県令による酌婦とは「客席に侍して飲食の接待をなし、又はこれに類似した行為をなす者」と明文されており、県下の女給の中には単に飲食物を運ぶのみに止らず事実上酌婦と同様の行為をする者が非常に多かったからの提案という事になります。

続いて7月3日の同紙に「酌婦まがひの女給で風儀をみだすカフェーに痛棒を一本 改めぬ奴は営業禁止」の見出しが載りました。

奈良署では2日、市内カフェーのうちで従来風儀上、兎角の非難」のあった十三軒の経営者を同署に召還して、今後違反者のある場合にはどしどし処罰し、場合によっては営業停止を命ずる旨言い渡しました。

「今日召還して警告を発したのは飲食店を表看板として料理業類似の営業をやってゐるカフェーの経営者のみである。

料理店であれば客に接する女給はもちろん酌人として届出の要あり、これらは県令によって健康診断を受けねばならぬ義務がある。

また、女給と酌人とは公課のうち相違があるから、このあいまいな飲食店をそのまゝ放任することは、料理業者の営業を妨害するばかりでなく高い税を払ひ、健康診断を受けねばならぬ酌婦は公衆衛生の犠牲者となるから、本署としては一応業者に警告を与へ、尚改めない向きには相当の方法を講ずるつもりである。」

と根木署長は述べました。

健康診断は検黴、すなわち性病検査の事で、娼妓が受けるのは当然のこと、酌婦も売春を前提としているのが公然の事実なので検査を受けていました。

カフェーの女給も健康診断を受けろというのは女給が売春行為をしているのと同義なのです。





by gionchoubu | 2018-12-29 11:34 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

上七軒 大文字 勝奈さん その六

f0347663_14543128.jpg
f0347663_14553762.jpg
f0347663_14555406.jpg
f0347663_14562508.jpg
f0347663_14570379.jpg
f0347663_14573667.jpg
f0347663_14575874.jpg

by gionchoubu | 2018-12-25 14:58 | 上七軒 | Comments(0)

関根虎洸氏著『遊廓に泊まる』

f0347663_12242391.jpg

2018年7月30日、新潮社より関根虎洸氏著『遊廓に泊まる』が発売され、遊廓跡を訪ねるのを趣味にされている方の心はザワザワした事と思います。

人間には、一つのテーマにそって色んな物を集めたり、色んな所を訪れたりする本能があるようで、切手を集めたり、マッチ箱をあつめたり、さらには缶コーを集めたり、ほぼ全ての物で収集化が存在します。

旅館のお客で困るのは、最近は少なくなったものの、和紙のノートを持ち込み、自分が泊った記念に何か書いてくれと頼む人です。書いたり描いたりするのが好きな人のいる旅館はいいでしょうが、そうでない場合迷惑だと思います。

何故遊廓跡を巡るのか、色んな答えが返ってきそうです。私の場合、失われた郷愁を求めて・・・と言いたい所ですが、好奇心、興味本位、なんとなく面白そうだ・・・と言う事につきます。

さて、昭和三十三年四月に買春防止法が完全施行された時、廃業以外で赤線の妓楼が選んだのは料理屋、下宿、アパート、お茶屋、トルコ風呂・・・色々な想いが交錯したなか、多くの妓楼が旅館に転業しました。

転業した旅館の経営者の多くは、言葉には出さずとも、日本で何百年も続いた遊女渡世が無くなってしまうとは信じず、いずれ何らかの形をとって再開、とりあえずすぐ復活できそうな旅館を選んだのでしょう。

しかし観光地、温泉でもない土地、さして商工業が盛んな都市でも無ければあらたな宿泊者の需要はみこめませんし、そもそも観光地や温泉地や商業地では既存の旅館が凌ぎを削っており、素人同然の貸座敷経営者に参入の余地はあまりなかったでしょう。

五、六部屋以下の小規模旅館なら、なんとか家族で切り盛りし、小さな客室を利用して、商人宿の形で経営できたでしょうが、十部屋以上になると大浴場を男女で設置は不可欠、ボイラー以外にお湯の濾過、そのうえ循環設備の投資が必要となります。

ファミリー、小団体でも取るなら客室は広縁なくとも最低六畳と広間が必要となり改装というより改築が必要です。夕食を出すなら板場最低二人は置かねばならず、洗い場も必要、中番、仲居も揃えねばならず、ニッパチ(二月、八月)の閑散期にも給料を払わねばいけません。

ですから、今でも当時の建物で営業されている所は経営能力が高かったという事になると言えます。

同書で、筆者は紹介した旅館に宿泊し、できれば周辺で食事をして欲しいと書かれていますが、これは私も100%同じ意見です。

私自身、今丁度奈良の花街跡を追い求めているところですので、近々木辻の静観荘に宿泊しようと思いました。

同書をリュックに忍ばせ、そして心より感謝をしながら泊らせてもらおうと思います。





by gionchoubu | 2018-12-24 12:28 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

上七軒 大文字 勝奈さん その五

f0347663_11552910.jpg
f0347663_11554430.jpg
f0347663_11555811.jpg
f0347663_12045227.jpg
f0347663_12060888.jpg
f0347663_12063407.jpg
f0347663_12065349.jpg

by gionchoubu | 2018-12-22 11:59 | 上七軒 | Comments(0)

花街 元林院ぞめき 五

f0347663_12154059.jpg
『全国花街めぐり』によると、元林院の元検に対して、南市の新検は株式組織で競争的に開業したので、当初は随分相反目していました。しかし元林院の勢力が南市を圧倒するにつれ何時しかその間も融和されるに至りました。

『大和タイムス』昭和33年3月28日、買春防止法直前の記事によれば、芸妓町の元林院に対し青線と言ってよかった南市の前途は暗く、南市検番(新研がいつしか南市検番になったようです)三月一日に明し花(芸妓の泊り営業)廃止し営業を十一時まで、さらに花代を一時間271円40銭から345円に値上げしました。

南市芸妓職業あっせん所は

「いまのまま続けば置屋も芸妓も共倒れです。せめて営業時間を午前二時まで認めてもらえれば・・・」

さらに某席のM子さんは

「この月はまだ六十時間の花代があっただけです。これでは私の収入は一万円に足りない。昨年あたりにくらべると丁度三分の一です。」

この時南市には九軒の置屋と四十人の芸者がいたが、三月に入って七、八人が「食べていけない」を理由にやめてしまいました。

しかし、こうした置屋、芸者より一層打撃を受けていたのがスタンドやバーで、県警防犯統計係が調べた所によると二月末の奈良市内風俗営業者は料理店25、料理旅館52、貸席12、小料理店8、カフェー40で、三月に入って客足はドカ減りだったといいます。

とくに南市、元林院に林立しているスタンド・バーはこれまでは午前二時ごろになっても客が絶えませんでした。南市町のTバーの話では

「以前は十二時ごろでも芸者さんが客を連れてよく飲みにきてくれましたが・・・スタンドやバーのかせぎ時は十一時すぎですが、こんどそれがやかましくいわれるようになって・・・・。いまごろ午前八時すぎでもこのとおりガラ開きの常態です」とこぼしていました。

さて、元林院には毎年節分に行われる「真榊奉納」の行事があり、この日芸妓が仕丁、官女等に扮し黒塗りの車に榊を積んで春日神社へ曳いていって奉納しました。ただ歴史は浅く大正十五年から始まったとの事です。

もうひとつ正月四日南市町戎神社の宵戎に芸妓をして参詣者に子宝を授与せしめました。それがその後、大阪の南地名物、宝恵籠(ほえかご)行列を取り入れたようで、南市の芸妓組合の芸妓が十数台の宝恵籠が市内を練りました。

この宝恵籠は昭和四十五年まで続いたとの事なので、花街、南市も少なくともこの年までは存続していた事になるのでしょう。

f0347663_12161287.jpg
                     南市恵比寿


by gionchoubu | 2018-12-18 12:19 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

花街 元林院ぞめき 四

f0347663_12475612.jpg
                      萬玉楼
f0347663_12485808.jpg
当家はもと「萬玉楼」という芸者置屋でした。この建物は時代の異なる三棟の主屋からなっています。

北から大正頃の数奇屋風の建築、江戸時代中期の町家、明治初期の町屋で、処々華やか時代の名残が感じられます。

中央の建物は家伝により文化年間(1804~1817)の建築と考えられていましたが、建物の改装に伴う奈良市教育委員会の調査で棟札が発見され、そこには大工棟梁などの人名とともに「寛保二年(1742)五月六日」の年号が記されていました。

以上が萬玉楼に掲げられている絹谷家の説明の一部です。

元林院芸妓組合で、萬玉楼三代目絹谷政治氏は、もともと紙屋だったのが明治になって置屋を始めたと歴史を語っています。

さらに、萬玉楼の置屋転業にならうようにして町内の遊女屋が置屋に転業したとの事です。

萬玉楼には、伊藤博文、志賀直哉とかいった大臣、小説家連中も多く顔を見せ、

「伊藤博文さんはここの二階で泊っていったこともあると聞いています。家まで来るのは、よっぽどのお客さんですわなあ。志賀直哉さんなんかもよくここで酒を飲んだものです。わたしが十二、三歳のころやったかな、芸妓が横で酌をさせながら、わたしの母をつかまえて世間話をするんですよ。」と絹谷さんは当時を振り返りました。

同氏は買春防止法四日前、昭和三十三年三月二十八日の「山和タイムス」で

「全く話にならない。南市が花代をあげたのでこちら(元林院)は景気がよいはずだと見る人もいるが、昨年の三分の一程度です。営業時間十一時がやかましくいわれるので、芸妓も十一時になるとこわいようにして帰ってきます。営業時間の延長をなんとか認めて欲しい」と言いました。

昭和五十七年時、元林院の置屋が七軒、芸妓は三十六人、萬玉楼には二人のみになり、その現状に対し絹谷氏は

「芸妓を紹介してくれる口入れ屋が、職業安定所というものが出来てからなくなってしまったからです。それにおちょぼ(小さい女の子)も、義務教育とかやかましく言われるようになって居なくなってしまいましたね。」

参照:『奈良いまむかし』

f0347663_12492853.jpg

f0347663_12495256.jpg
f0347663_12503054.jpg
f0347663_12515678.jpg
f0347663_12523239.jpg
f0347663_12530374.jpg
f0347663_12532837.jpg
京都の花街では玄関の上にある鍾馗さん、元林院では屋根にあるのが特徴です。



by gionchoubu | 2018-12-16 13:16 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

奈良、花街、初瀬 


f0347663_15514582.jpg

南地大和屋の主人阪口祐三郎が初代の会長になった全国花街連盟による「全国の花街所在地」の奈良の蘭を見ると、元林院、郡山、生駒、高田、上市、下市そして初瀬になっています。


この情報だけを頼りに初瀬(はせ)に入ってきました。

桜井市図書館に寄り『桜井市史 上巻』を開くと、鎌倉時代末期あたりに観音信仰の中心地として盛名を謳われた長谷寺の門前町として初瀬村が出来たと有ります。

さらに京、大和、摂津、和泉、河内方面からの人々の交通が多くなり、その通過地点である初瀬も次第に門前町、宿場町化の傾向を強め、室町時代に民間信仰の高まりによっていっそう町場化が進み、参詣人の用を弁じ、飲食・宿泊に便を供するものが多くなりました。

残念な事に土地柄、上流の集中豪雨による洪水や火災などで天保以前の史料は皆無に近いものとのこと。

江戸時代末期、嘉永元年(1848)には森町の男女十一人、川上町の男女二人、柳原町の男女二人が高取後預役所へ召しだされ「隠し売女体」の者を置いたとして、その処罰に八人が手鎖の上郷宿御預け、七人も郷宿預けとされました。

これに対し関係者一同はひたすら詫びをいれ、又村方も郷宿預りは迷惑であり、五月麦秋の農事多忙などの理由づけて、高取藩役人へご赦免を願いました。

全国多くの宿場で飯盛女の名目で非合法売女がおりましたが、初瀬もその一つだったという事でしょう。

さて、京都から近鉄電車を乗り継ぎ長谷寺駅まできました。ここから長谷寺まで徒歩十七分の表示があり、十分ほど歩くと参道に入ります。紅葉次期も過ぎた月曜日という事もあってか参拝者はまばらです。

京都、奈良の寺社は中国人を中心とした海外の人で溢れていますが、長谷寺では一人も見かけませんでした。

幸い古老の方にお話を聞くことができましたが、それは芸者町としての初瀬ではなく青線としての初瀬でした。

昭和三十三年に買春防止法が施行され、その後も商売を続けた親方連中がつかまるまで、ここは色町でした。

どんな小さい料理屋でも旅館でも、かならず二、三人の女を抱え、娼婦業に勤しんでおりました。今は空き地になっているお店など二十人〜三十人の女がいる店もあり、その供給源は神戸だったとの事です。

ただし今の湯元の大きい旅館のように、全く一般客だけでやって来た所は今も続いているとの事です。

夕方ともなると銭湯に行く女で道は溢れ、参道にはやたら煙草屋と酒屋が多かったと記憶に残っているそうです。正月には色んな所の消防団がきて大変な騒ぎだったようです。

芸者は殆どいなかったようで、その方面のお話は聞けませんでした。

思うに花街所在地の情報は売春防止法発令前の昭和29、30年頃のものなので、それまでは芸者もいたのでしょうが、その後完全に青線化したものと考えられます。

現地を訪れ、地元の方にお聞きする重要さを再確認した一日になりました。

f0347663_15482425.jpg

f0347663_15480231.jpg

f0347663_15490331.jpg

f0347663_15484347.jpg

f0347663_15502086.jpg

f0347663_15500094.jpg

f0347663_15510016.jpg

f0347663_15504260.jpg

f0347663_15581608.jpg


f0347663_15512689.jpg
長谷寺


by gionchoubu | 2018-12-11 15:55 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

花街 元林院ぞめき 三

f0347663_12535808.jpg
            左の建物が元林院検番事務所、右が元検演舞場

文芸倶楽部定期増刊「奈良の遊廓」変通子によると、客の方は京種の方が優なしくて良いのであろうが、元林院の抱え主は京都仕込みの芸妓を嫌がって、成るべく大阪から仕入れました。それで風格も遊び方も、言葉も、お座敷で唄う歌の様まで悉く大阪式だったといいます。

これを裏付けるように『全国花街めぐり』に、この地は子飼から芸妓を仕立てる事は殆どなく、自前の芸妓も希、大部分置屋の年期抱妓で「半自前」とか「分け(わけ)」という制度だったとの事でした。

お茶屋で一番名の通っていたのが木辻から支店をだした米浜、そして大西、愛三郎、勢開楼、萬玉楼らが名の通ったお茶屋で、置屋を兼ねているお茶屋は自分の所でも遊ばすが、口がかかればどこでも芸妓を送りました。

お花に行くとき、多くは人力車、歩行の時は十一、二の小女郎(こめろ)が小提灯を点して送り向かいをしました。

昭和57年の「奈良いまむかし12」で芸妓の光菊さんは、昭和のはじめ頃、夕方四時、五時には元院林の狭い路地は着飾った芸妓であふれ、稽古している三味線、太鼓の音が絶えなかったと花街の最盛期の様子を伝えています。

そして、芸妓は十歳から十五、六歳まで芸を仕込まれる、座敷に出る前には試験があり、警察の人やら置屋のおやかたの前で三味線や踊りを見せ合格して初めて座敷に出られる、と書かれていました。

しかし座敷に出られるのは二十五、六までで、それを過ぎるとあまり声がかからなくなったとも。

「お客さんは吉野の山持ちが多かったんですが、みなさん遊び上手でしたね。三人で来たら十人の芸妓を呼んでいました。自分も楽しみ芸妓も楽しませようという粋な人が多く座敷をうんと盛上げてくれました。」と光菊さんは当時を懐かしみました。

当時、芸妓は置屋に借金して住み込んでいるので、自由に外へも行かれず、黙って遊びにでも行くと借金がかさみ、もし逃げ出したら警察の力を借りてでも探されました。

芸妓の出先は菊水楼、魚佐、同別荘、沈利亭、四季亭、月日亭、武蔵野など、魚佐旅館は最近まで奈良の修学旅行旅館だったので、泊った経験のある人も多いいでしょう。

昭和3年4月26日の「大和タイムス」に奈良市制三十周年記念祝賀が近づいているので元林院検番の芸妓連は検番楼上の演舞場で西川師匠の振りつけで、祝賀踊りや、祝賀式当日公会堂で催す舞踊の稽古に勤しんでいる様子が写真入で記事となっていました。

京都式の歌舞練場という言葉を用いず、大阪、東京で使われる演舞場という看板が掲げられていたのも、なんとなく、大阪よりの気持ちが出ているようです。

出し物の予定は、興福寺の花、七福神、四季、青陽の壽、素囃子元禄花見踊などの予定でした。



by gionchoubu | 2018-12-09 12:56 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(2)

花街、元林院ぞめき 二

f0347663_12574111.jpg
    南市町

元林院娼が妓を廃止して、芸妓だけの花街に転進した件で『奈良風土記』の抜粋で「明治二十七年県令で女郎屋を廃止し、芸妓本位となり、娼妓極めて少数となる」の既述を紹介しました。

この年には若干の違いがあり、松川次郎著『全国花街めぐり』では明治二十四年それまで芸娼妓半々であったのを古澤知事時代に遊廓をつぶして、純然たる花街にしたと書かれています。

『郷土研究上方 上方遊廓号』では明治二十八年木辻遊廓が隣接の瓦堂町を遊廓区域に編入したとき、元林院はここに移転する事になった。併し実際移転したものはなく、元林院は明治三十二年二月末日限り廃止となり芸妓のみになった、とあります。

一番遅い郷土研究上方の明治三十二年を取り上げても大阪の北新地より早く娼妓なしの花街を誕生させた事になります。

ただ、この時代に関西に芸妓だけの花街を経営するのは業者にとって至難の業ではなかったかと思います。京都では上七軒にも祗園にも先斗町にも、昭和になっても娼妓はおりました。

芸妓はお稽古も必要、着物、楽器、舞妓から仕込むのにお金と時間と労力がかかり、検番、歌舞練場などの施設も必要です。それを支える旦那衆も必要不可欠、それに比べ、身一つでコンスタントに花名を稼ぐ娼妓は遊廓のポイントゲッターと言えると思います。娼妓を仕入れる初期投資は必要なものの、費用対効果は芸妓と比べ物にはなりません。

昭和十二年大阪の南地の芸妓が地位向上を訴えて、一部の芸妓が奈良の信貴山に立て篭った“信貴山ストライキ”が一大センセーションを呼びました。この時交渉に当った南地の取締りは、芸妓組合の承認を迫った芸妓に「遊廓がお皿なら娼妓はお寿司で、芸妓は生姜みたいなもので、偉そうにいう権利はない」と言い放ったといいます。

これは取締りの本音だったのでしょう。

遊客も、芸妓とお茶屋遊びをしてほろ酔い気分で奥さんの元へ・・・という時代ではありませんでした。娼妓のいる木辻遊廓まではそこそこの距離があります。

さて、明治四十四年に検番が出来ました。そして大正十二年隣接南市町に奈良検番株式会社が出来、元林院検番は元検又は古検、奈良検番株式会社の方は新検とも呼ばれ、

元検に属する芸妓置屋十九軒。芸妓百三十五名。

新研に属する芸妓五十七名。幇間一名、やとな七十三名

やとなに関しては以前このブログで随分分書いてみました。やとなは雇い仲居という酌人の鑑札で座敷に侍る擬似芸妓の様な存在で、元林院では俗に“乙種”と呼ばれていました。

遊廓で甲乙制をとったのは大阪の南地五花街、京都の祗園、五番町などがあります。また芸妓をおかぬヤトナの遊廓、花街としては大阪の新世界、広島の竹原、三重の住吉町などが思い浮かびます。

私はこの南市のやとなこそ娼妓の役割を担っていたのではないかと思っています。


f0347663_12581205.jpg
f0347663_12582898.jpg


by gionchoubu | 2018-12-06 12:58 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)