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柳沢淇園 『ひとりね』

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                     島原太夫

奈良の大和郡山の遊郭について書く前に是非紹介したいのが「ひとりね」を書いた柳沢淇園(やなぎさわきえん)です。

宝永元(1704)年江戸に生れ、“余も、生まれたる年(実際は翌年)に甲斐の国にゆき、十四の年より江戸の古里へ帰り、十六の春又甲斐にゆき、その暮に又江戸に帰り、十八の暮又甲州に帰りて、又今年大和(郡山)へ来りぬ”と大和郡山まで来るまでの生い立ちを書いています。

七歳にて馬廻役で二千石を与えられ、大和郡山では十五万石の重臣、ひとたび江戸にはいり吉原の妓楼にのぼれば、無類の遊び手として振る舞いました。

「ひとりね」の中で淇園は“女郎買て慰は、水遊びの上もり(女郎ぐるいの最高)、世界のたのしみの極意にして、人間の是より真のたのしみなし。”と言い切った人で、文中では女郎を女郎様、一般の女を地女と蔑む徹底振りであります。

“女郎さまと地女とは雪と墨とはおろかな事。大仏と松風丁字胡麻ほどの違ひ”と言い地女のいやな所を並べた後“女郎さまは音のまく香もなしといふ上天の人にして、其匂ひ緋縮緬の下紐の本にありがたく、松栢の元に舞ひ蘭園のうすうすとしたる所をめぐる。其かたち至極恭し。まづ心音にときめき、目の病をいやし、酒病をとく”と、神を敬うが如きです。

さらに“昔も今も、遊女と言へば、只人を唆し、悪し様の風俗とのみ思う人多し。いかにも、其勤めのならわしにて浮きたる事のみの様なれども、さまで卑しめたるものにあらず。是はこの道にくらき故なり”

驚くべきことに「ひとりね」が書かれたのは淇園が二十一の時、只の道楽息子が書いたものなら、この書が後世に伝わったかどうか大変難しいかったでしょうが、なんせ彼は二十歳そこそこで、儒・漢詩文、唐音、仏教、書、画、篆刻、鼓、三味線、河東節、俳諧、香道、武芸の諸技にも長けており、『近世奇人伝』にて「文学武術を始めて人の師たるに足れる芸十六に及ぶとぞ」と感嘆されていたのです。

特に画才は只ならぬもので十五歳で恵林寺の羅漢図の依頼を受けたとあり、日本に於ける文人画創始者の一人に数えられています。

とにかく二百ページが殆ど吉原の女郎(花魁の言葉は見えません)や京の島原の太夫のことで、奈良の都の木辻遊郭の記述もあります。

司馬遼太郎は『街道をゆく21近江散歩、奈良散歩』で柳沢淇園の『ひとりね』をただならぬ随筆集とし、江戸時代の文化を知る上で重要な書き物と位置づけ、自分の好きな人物として紹介しています。

遼太郎は、ひょっとすると江戸期の武家の女、町家の女、農家の女はテレビの時代劇などで演じられている程には魅力的な存在でなかったのかもしれない。それに対し廓の女は、楼主が諸芸の師匠をまねき、歌道、茶道、香道などを身につけ、さらには立居振舞を典雅にさせ、いわば大名の姫君にも無いほどの気品を理想像とさせた、踏み込んだ解釈をしています。

そしてひとりねの“女郎を請け出す時、一斤半斤といふ事あり。たとへば千両にて請け出したる女郎は、廓を踏み出すと五百両に位が見ゆるものなり。五百両は廓の門口より、いづくともなう失するものといふ”

を引用し、女郎を我が物にして廓から連れ出したとたん、幻覚が半分落ちる・・・廓という幻覚こそ文化だということでもあるのだろう、としました。

なるほど、廓という幻覚が文化だったのです。



by gionchoubu | 2018-10-30 12:39 | 亡くなった奈良の遊廓 | Comments(0)

とし桃、とし愛、とし真菜、とし夏菜、君とよ、小よし


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2014、宮川町、とし
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もちゃんすぐ目を瞑っちゃうのね・・・・
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2014、宮川町、とし愛
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2014、宮川町、とし真菜
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2014、宮川町、とし夏菜
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2014、甲部のまめ藤
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2014、宮川町、小よし

by gionchoubu | 2018-10-27 12:30 | Comments(2)

米子灘町遊廓ぞめき 四

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                  これと同じ大黒さんを福知山の?崎新地で見ました。

鳥取県は、昭和二年、明治三十三年以来の娼妓取締規則施行細目を改正し、娼妓は昼間行き先を明示すれば外出自由になりました。

昭和五年刊『全国遊廓案内』の米子市灘町遊郭の欄には貸座敷三十三軒、娼妓は五十三人、陰店制で娼妓は送り込み制、そして三十三軒の貸座敷の名を記しています。

この中には『改訂米子の伝承と歴史』で料亭として書かれていた、田村、梅田、沖半が含まれておりますので、貸座敷の数から考えて娼妓と同じ位の芸妓がいたと考えられるので、この三軒は所謂お茶屋さんだったのかもしれません。

『公娼と私娼』昭和五年六月末の「貸座敷指定地調」でも貸座敷三十三軒、娼妓数五十六人とほぼ『全国遊廓案内』とほぼ同数を示しています。

昭和九年、鳥取県では明治三十八年の境、大正末年に倉吉の越殿町に続き米子も昭和十三年娼妓制から酌婦制に移行しました。

本来鳥取県の酌婦は「宴席に侍し、杯盤の斡旋をなすことを業とし、かつ歌舞音曲等、芸妓にまぎらわし所業をなすことを得ず」、というもの、文字通り考えると、世間話でもしながら只々お酌だけする職業という事になります。

しかし遊郭の中で芸妓と酌婦しか居ないなら酌婦に与えられた仕事は歴然としています。鳥取県は酌婦の名にかくれて、事実上は売春営業することを警察が黙認していました。

明治二十六年に公娼を廃止した群馬県でも、昭和五年六月現在、同県下に五十二箇所の乙種料理店(通称だるま屋)を指定地域として、乙種料理店三百四十八軒の中で私娼八百五十五人が酌婦の名目で客をとるのを県も警察も黙認していたのです。(『公娼と私娼』)

戦前、隠れ娼妓として酌婦が売春をしていたのは、遊郭指定地でない温泉地でも盛んに行われていた様で『湯河原温泉芸者一代記』井田真木子著にその様子が書いています。

『鳥取県史』では恐慌の影響とカフェーの発達に押されたことを、娼妓から酌婦に変えた理由に数えています。確かに昭和十一年に米子にカフェーが五十六軒、女給は百四十七人の記録がありますが、これには所謂喫茶店も含まれただろうし、恐慌とカフェーの蔓延は米子に限ったことではありません。

さらに酌婦への以降の理由は裏日本ならではの事情でした。それは表日本の遊郭が高い前貸金で裏日本の娼妓を取り込むことに対する対抗手段で地元保護政策だったというのです。

娼妓の年齢は十八歳以上と規定されたが、酌婦は十六歳からなれるので、年の若さで誘客を引き寄せることが出来る。さらに前借金が少なくすもので経営がやりやすかったから、と言われていました。

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by gionchoubu | 2018-10-26 16:18 | Comments(0)

とし愛、とし真菜、とし夏菜、とし純、とし智

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                     2014 とし愛
この頃ようやく外付のフラッシュライトを購入してバウンス撮影(フラッシュを天井に当て光が上から被写体に降りるので自然な被写体の撮影ができるようになりました。
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                    2014 とし愛
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                    2014 とし真菜
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                   2014 とし真菜
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                   2014 とし真菜

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                  2014 とし夏菜 襟替の日でした。
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                   2014 とし純
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                 2014 とし純、とし智

by gionchoubu | 2018-10-24 12:30 | Comments(0)

米子灘町遊郭ぞめき 三

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                      花薗町

ざっくりした言い方になりますが、京都の祗園も上七軒も先斗町も宮川町も大阪の北新地も南地も堀江も新町も遊郭と花街が混在して成立していました。このスタイルはほぼ日本の遊郭の普通の在り方でありました。尤も明治の終わりに北新地が芸妓一本の花街でやっていこうと娼妓部門を切り捨てたのが関西では遊郭から脱した尤も早い純然たる花街です。

それとは別に大都市としての需要を埋めるため、大阪では松島や飛田、京都では七条新地というほぼ娼妓だけの町が存在しました。

一方東京を見ると、赤坂、新橋、柳橋、駒込、根岸、神田、渋谷、白山、神楽坂・・・今ある花街ももうなくなった花街も誕生から芸者一本で娼妓がいなかったのが多数派で、新宿、品川、吉原、洲崎のように芸者、娼妓ともにお花をつけていたのは少数でした。

そしてこの吉原と洲崎の巨大遊郭に男性の欲望は吸い込まれていったのです。

名古屋も東京と似ていて、戦前十七あった花街、熱田連、和合連、盛栄連、中券、浪越連など多くが芸者町でその中で旭連(中村遊郭の一部)、南連などが少数の芸妓と多くの娼妓を抱えていました。

関西には大阪の南地五花街、京都の祗園、五番町のように甲乙制をとったところもあります。甲部は芸妓、乙部は一現茶屋や娼妓中心の町でした。

さらに中都市、小都市では浜松市、徳島市のように繁華街近くに花街、郊外に遊郭といった所がいくつも有り、これは風俗取締りの意味合いが強い都市政策の一環と考えられます。

前置きが長くなりました。

この米子の花園町と灘町の二つの名前を訝った人に、かつて、のぶログという遊郭関連のブログを独特の語り口と視点とハードワークで書き続けていたDJのぶさんがいます。

2011年4月15日、のぶさんは『米子界隈』という本に灘町とは別に「新地遊郭」が新しく出来たという記述に対し、当時経済的に米子に二つも遊郭を作る必要はないので、米子市民の回想などで記憶違いかもしれない、として灘町には芸妓が残り花街となり、娼妓のみ花園町に移り遊郭を形成した、と推測されました。

この推測過程には上記の知識がないと出てきませんので、与えられた情報の中で導かされた見事な推理だったと思います。

そして実際の答えは昭和十八年にだされた『米子市制十五周年史』にありました。

昭和十年一月一日に米子で大規模な町名変更と新町設定が行われ、その時旧灘町二丁目が灘町三丁目と花園町になったという実に、まさか・・・な出来事があったのです。

花園町=灘町二丁目だったのです。

花園町ネーミングの由来は「一帯の大半は遊廓地なる為花柳街を連想せしめる為命名したものである。」・・・大事な町名を変えるなら、もう少し気の聞いた名前があったのではないのでしょうか?

この昭和10年の町名変更に関してはやはり旧遊郭に強く足を踏みいれた,
〜レトロな風景を訪れて〜Nostalgic Landscapeさんが2017年5月20日に書いておられます。

ブログ諸氏のほうが『新修米子史』よりよっぽど頼りになりました。




by gionchoubu | 2018-10-22 12:40 | Comments(0)

とし夏菜、とし結、ふく尚、とし愛、小梅、とし輝、とし智

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                      2013 とし夏菜
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                      2013 とし結
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                     2013 ふく尚
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                     2013 とし愛
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                     2013 小梅
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             左より、とし智、とし輝、とし夏菜

by gionchoubu | 2018-10-20 15:25 | 宮川町 | Comments(0)

米子灘町遊郭ぞめき 二

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『改訂米子の伝承と歴史』によると、明治十五年 灘町の吉祥院の検診所を置き、戸長が管理し、貸座敷取締人が事務をした、とあるので明治九年に不許可だった米子の遊郭も明治十五年には誕生していた事になります。

明治十七年に貸座敷業者が病舎をたてて県に寄付し米子検黴所ができ、明治三十三年に娼妓病院と改称、そして大正五年保健病院と再改称しました。

これとは別か同じか文面では判断できないのですが、大正十二年に灘町二丁目に貸座敷業者によって病院が建設され県に寄付、県が監督することになりました。

灘町には名月、松下、改良亭、田村、梅田、松屋、金水、おきはん等十数軒もの料亭があり、この中でも名月楼は一流どころで、芸者などもお高くとまっていたと言います。

『鳥取県史』によると大正二年に灘町から町はずれに移転してここが新地とよばれる様になったと記されております。

大正十三年刊『米子案内』でもともと市内にあった遊郭で娼妓が昼間に街中を闊歩するので、風紀上好ましくないとして大正元年に遊郭移転地を決めたとあります。

これが現在遺構が残る花園町の遊廓跡です。

昭和二年には梅田楼の主人が、廓内で客の奪い合いや芸者の引き抜きなどの問題が生じた為、問題の種をとり省こうと共立検番と置屋組合を統合しました。

さて、昭和五年六月末の内務省警保局が出した『公娼と私娼』によると米子の遊郭は米子市灘町二丁目で営業者三十三、娼妓五十八人になっています。

さらに昭和四年刊、上村行彰著『日本遊里史』でも西伯の遊郭所在地は米子町灘町になっています。

大正時代に灘町から移転した花園町遊廓の所在地が昭和になっても灘町二丁目なのは解せません。

こういった疑問に明快に説明してくれるのが〜市史、〜町史のはずです。ところが全十五巻もある『新修米子市史』は説明どころか、米子の遊郭に触れている個所を見出せませんでした。

明治、大正、昭和で米子の人なら皆知っていたはずの灘町遊郭に触れないのに編者の意図があるのは間違いありません。

『新修米子市史』に米子に花街、遊郭が無かったことに成っている事情は私には推察しかできませんが、灘町二丁目に花園町遊郭があった理由は実にトリッキーなある出来事が原因でした。

その落とし穴のような答えは次回に持ち越します。





by gionchoubu | 2018-10-19 15:48 | Comments(0)

上七軒 大文字 勝奈さん その一

風の便りによると上七軒の勝奈さん引退されたような・・・気立てのよさが容姿から漂う舞妓さんでした。
画像はすべて2013年の十二月です。
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by gionchoubu | 2018-10-18 11:08 | 上七軒 | Comments(3)

米子灘町遊郭ぞめき 一

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『鳥取県史』によると、安政五(1858)年八月米子灘町の廻船問屋のものたちが、他国の入港のとき、飯盛女を置いて接待させることを願い出たところ、灘町の廻船問屋のみに、制限数を設けて他国生れの婦人を雇うことを許しました(「御国日記」)と有ります。

『米子市史』(『新修米子市史』ではありません)によれば、米子には江戸期より灘町には飯盛女置き、港繁栄の一策として公許されていました。しかし次第に東西南倉吉町の宿屋町へ進出し淫を鬻いだので県は国の方針に基づき明治五年、指定地以外の娼婦を原籍復帰する様示達するよう申し伝えたと言います。

ただし極貧の子女で親が許せば例外としました。

当時米子にかなりの遊女がいたようで『西洋だんご夜相撲見立鏡』が発行され、相撲の番付仕立てで、遊女の出身地、町名、名前を記したものがありました。

鳥取は売女といったものに特に厳しい眼を向けた地域であったようで、明治九年に出された「娼舎設置願不許可のこと」を見ると、

「或は娼妓に類似するも東西の割烹店等に散居し、方言之を団子という。東京の地獄の如し。陰に客を引き、淫をひさぐ事数多之有る。風俗の乱るる実に論ずるに堪ず。娼妓の憎むべきも之に比すれば其の害の少なるを覚う。」

地獄とは私娼の事、つまり私娼が蔓延るよりは、まだ公許の娼妓の方が害毒が少ないと訴えているのです。

私娼の異名は沢山あるなかであえて地獄を用いた事でもこの県の売女に対する気持ちが汲み取れます。

さて、団子の由来には諸説あるようですが、『猥褻風俗辞典』で宮武外骨は

団子 出雲および因幡にて公娼私娼を言う。徳川時代の中期頃より始まりし語にて今(明治末期)なお行わる。団子のようによく転ぶ(売春に走る)との義なり。桂園子の『出雲なまりに』にも「ダンゴ―娼妓、酌婦、転ぶの意」あり。

『改訂 米子の伝承と歴史』生田彌範著によると、生田氏自身も上の説を由来と思っていたものの、江戸時代に境港で住み込み女中に「だんご」を持たせ船頭や船夫の機嫌をとった。船頭たちは思いがけない接待に歓び話がはずみ、そのうちに約束が出来上がって上陸がはじまる・・・という説を新説として紹介しておりますがどうでしょう、海の荒くれ男達が団子に喜び話が弾むとは私にはとても不自然に感じます。

「娼舎設置願不許可のこと」に戻ると鳥取県の鳥取町、米子町、境港、西郷港の様な場所に娼舎(遊郭)を設置し、梅毒の検査をし、厳しい規則を設け、相当の税金を徴収し、野合密売淫は排除し、県の風俗を正したいとの主張は受け入れられず持ち越しとなりました。

平たく言うと遊郭の設置が認められなかったということです。

実は明治五年の布令の際、原籍に戻った子女も多かったものの、反面又は弾圧の裏を潜り、宿出会と称する男女の密会野合が流行していたという背景があったのです。


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             印象的なこうもりの意匠のある建物、2010年撮影


by gionchoubu | 2018-10-16 11:09 | Comments(0)

とし夏菜、ふく美、とし桃、美恵菜、とし花

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                 2013 宮川町、とし夏菜
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              2013 宮川町、芸妓 ふく美、舞妓 とし
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                  2013 宮川町 美恵菜
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                   2013 宮川町 とし真菜
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               2013 宮川町 芸妓 とし花、舞妓 とし

by gionchoubu | 2018-10-13 14:52 | 宮川町 | Comments(0)