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赤線、青線、白線

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           五条楽園で人を圧倒する雰囲気のあった木造三層楼、新浅とみ

『日本売春史・考―変換とその背景―』吉田秀弘著の“終戦後の売春実態”を見ると、

赤線―以前の遊郭免許地で特殊飲食店街いわゆる特飲街を赤線地域と言う。警視庁にて吉原、新宿、州崎など都内の集娼地域十六カ所を指定地域として赤線で囲んだことから「赤線」と呼ばれるようになった。

特殊飲料店では娼婦は全て個人的任意的な売春婦「私娼」となり、売春は黙認されました。あくまで黙認で、昭和二十二年の勅令九号の第二条で「婦女に売淫をさせることを内容とする契約をした者は一年以下の懲役は・・・」の条項があるので、赤線での売春も合法の解釈は無理が有ります。

青線―赤線地域の周辺に旅館、料理店の名目で、事実上は飲食店の営業許可だけで娼家経営を行っていた地域を青線地域という。この地域を警察が青鉛筆で線を引いたのが語原。

青線での売春は黙認されず、完全な非合法になります。

広辞苑で赤線は(警察などで地図引いて示したことから)売春が公認されている地域。売春防止法で廃止された。「―地帯」とありますが、青線は載っていませんでした。広辞林には赤線、青線ともに載ります。

それでは青線より認知度が低い白線について見ていきます。

売春防止法実施前夜、京都新聞や滋賀日日新聞で見かける白線(ぱいせん、ばいせん)とはなんでしょう。赤線が売春防止法後の白線化を懸念、という様な表現で使われています。

『日本売春史・考』では「ポン引と組んで彼女らを旅館等に派遣する業者」で都内盛場周辺に約八百箇所あったとしております。

この白線はいつから存在していたのでしょうか?昭和三十二年の二月に封切られ、七条新地を描いた映画「女だけの街」文句に“近く廃業をひかえた赤線地帯の女たち!ボスは白線に切り替えて骨のズイまでしゃぶろうとする!初めてのキャメラが持ち込まれた京都七条新地の花街にロケ敢行!浮き彫りにする肉体の街の哀歓!・・・”つまり白線の存在は売春防止法完全施行の一年半年前には世間に認識されていと考えていいはずです。

新聞でも白線に対する説明も、注釈もありません。

それにしても白線のネーミングは言い得て妙としか言い様がありません。

ポン引きのねぐらは何処でもいいわけで、旅館は日本全国どこにでもあります。

赤線、青線は特定の区域で赤鉛筆、青鉛筆で囲むことができます。

白鉛筆で地図にいくら書きこんでも実態は何も見えてきません。


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                 玄関には見事な彫りがありました・・・


by gionchoubu | 2018-09-30 15:03 | パンパン、赤線 | Comments(3)

京都パンパン赤線時代 六十七

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城南高校は現在の京都府立宇治支援学校です。西側に確かに記述の区域らしきところが確認できました。

昭和28年9月17日、京都新聞

「パンパンに悩む城南高校」

学校の教育環境浄化が問題になっている時、宇治市大久保の府立城南高校敷地内の民家に特殊な女が下宿し進駐軍が出入りしているとの風評があり、学校当局、PTA関係者間に波紋を投げ、さらに同民家は府教委から移転料さえ支払えば移転することにまでなっていることから府教委の怠慢が指摘されており、二十一日大久保PTA会長らが強力に善処方の陳情を行うことになった。

「敷地内民家に下宿 PTA府教委へ善処方要望」

同校は昭和十八年四月女学校として誕生したが、同校グラウンド西側敷地内にYKさん(四十)らの民家三戸(約百坪)が入りこんでおり、その当時すでに移転契約が結ばれ移転の敷地まで他に与えたが、その後移転料が支払われないため、そのままに放置の形となっていた。

ところが付近に駐留軍大久保キャンプが出来、最近同民家の中には特殊な女を下宿させ駐留軍が出入りしているのが見られるとのうわさから学校関係者間の話題にのぼり、最近府教委が教育環境浄化を問題にしながらこうした点を放置しているむじゅんを指摘、速やかな解決を府教委に要請することになったものである。


ここで全国のパンパンの動向を吉田秀弘著『日本売春史・考』と広岡敬一著『戦後性風俗体系 わが女神たち』で見てみると

終戦後、連合軍兵士に対する公認の遊興所が全国の進駐軍相手に誕生したが、連合軍兵士に性病が広がった為、設立後三年でGHQ(連合軍司令部)からオフリミッツ(立入禁止処分)が為された。

進駐軍基地周辺は兵士目当ての娼婦(パンパン)が集り、特に千歳、仙台、立川、横須賀、呉、板付、佐世保に国中極度の食糧難、生活物資の欠乏を背景に闇の女が増え、日本人を相手にせず、虚栄を満たしてくれる外国人兵士相手のみのパンパンも多数現われた。所謂オンリーといわれた女達で、日本人と違うフェミニストの外国人の態度にほれ込んだインテリ女性が多かったといいます。


ただし相手の帰国で次第に転落の速度も増しました。

昭和二十五年朝鮮戦争の勃発で洋娼が激増し全国で70万を超える。都内に存在する連合軍施設は約七十カ所。都下の基地は十一箇所を数え、全国では約千四百箇所。

昭和二十八年、関東の米軍基地周辺で、洋娼に部屋を貸す農家が急増、この年七月二十八日朝鮮戦争も休戦。上記大久保のパンパン宿も休戦直後の事を考え合わすと、前回の藤森キャンプの外人目当てのポン引きもあわせ、パンパン最後の特需だった訳です。

以前載せた滋賀県大津山上町に出現した五十軒のパンパン宿(昭和二十八年5月9日付け京都新聞)もこの流れでつながり、朝鮮戦争終盤の需要と考える事ができます。



by gionchoubu | 2018-09-28 11:42 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 六十六


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         右が藤森神社突き当たりが藤森米軍キャンプ跡(現京都教育大学)


昭和28年8月6日京都新聞夕刊に『藤森米軍キャンプ周辺の嘆き ポン引きごっこ流行 駐車禁止も何のその相争
タクシー』の記事が載りました。

「伏見区深草十九軒町と直違橋片町の一部藤森米軍キャンプの出入口付近の住民は最近とみに多くなった朝鮮からの帰還米兵とポン引、この間をひっきりなしに往来する大型米軍トラックの振動、壊れた道路のホコリに悩まされ続けているが、更に付近の子供の遊びまで“ポン引ごっこ”という遊戯がはやりだし子を持つ親、指導当局もこの問題に深い関心を寄せはじめた。〜略〜」とあります。

京都教育大学の前が米軍キャンプ、さらにその前が陸軍の歩兵第九連隊で、その名残として現在も師団街道や軍人湯という銭湯があります。近所の方にお聞き取りさせていただくと、米軍キャンプ時代、藤森神社の北にもアメリカ兵相手のおみやげ物屋が数軒あったとのことです。

さらに駐車禁止にもかかわらず、各タクシー会社は駐留軍の客を乗せるためこぞって付近に集り頻繁な交通量のため、子供たちにとっては危険区域になり、付近の住民は朝も五時ごろから夜半一時近くまで眠られぬ人が続出しました。

キャンプ横町IKさん(67)談

「私の家はこわれた道路の横に建っているものですから大型トラックが通るトまるで地震のようにゆれます。

息子など昼の勤めで疲れた体をゆっくり休める睡眠時間もなく近ごろでは身体がすっかり弱りこれ以上続いたら神経衰弱になりそうだといってうます。

家にいるものは出来るだけ昼間寝るようにして体を休めていますが全くやりきれません。

そのうえ夜になれば多数のポン引達と夜の女が集り夜遅くまで兵隊相手に騒がれるのでかないません。」

同町藤森郵便局長NO氏(64)

「ひるはホコリ、夜はポン引と女のさわぎでやり切れません。しかも三ヶ月程前から駐車場が出来たので一層交通量がふえました。

ホコリと振動のためにこの郵便局のカワラもずり落ちる始末です。神社の境内は夜ともなれば目をおおいたくなるような有様で子供の教育上からも非常に困っています。

近いうちに近所の人達の嘆願書を持ってせめて道路だけでも直すよう市建設局に頼む積りでいます」

宮崎伏見署長談

「あの付近の治安には全く手を焼いている。ポン引き狩りもしばしば行って悪質なものはどしどし送丁しているが駐留軍にいる間この種の犯罪はつきないでしょう。道路の問題も私から市当局へ話を進めて何とか直してもらうように相談してみます。」

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by gionchoubu | 2018-09-26 12:35 | パンパン、赤線 | Comments(0)

宮川町ぞめき その十一




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          2008年の画像です。翌年か二年後に上演中の撮影禁止になりました。

明治五年京都で博覧会が催され、その附博覧会として京都府から祗園の都踊、先斗町の鴨川踊、下河原の東山踊、宮川町の宮川踊を命じられています。都踊、鴨川踊、東山踊の記録は残っていますが、宮川踊の番付や詳細も噂も何もないので、田中緑江さんは実際は行われなかったのではないか、と書いており私も掛け声だけで終ったと思います。


宮川町の歌舞練場は大正五年四月に落成、昭和十九年に戦時体制で大阪砲兵工廠の皮包工場になり、終戦を迎え昭和二十年十月米軍のダンスホール、キャバレーに改装、そして二十五年に京おどりが始りました。

昭和三十二年十月五日の京都新聞で「秋のおどり対談」が楳茂都流家元で宮川町の踊の師匠で京おどりの振り付け担当者の楳茂都陸平と元映画の演出家で上七軒歌舞会顧問として舞踊劇などを演出していた石田民三の間でなされています。

宝塚歌劇の“ジャブジャブコント”や大劇の踊りやレビューも演出する陸平は花街の踊りについて

「芸妓の踊りはあくまで芸妓の踊で、レビューになってはいけないというのが私の持論です。芸妓は芸妓らしい踊りをしなければならない。レビューガールや女優じゃないのですから。」

「私は花やかで、色気がなければならないと思っています。内容、表現にこの花やかさと色気がほしいですね。舞踊劇にしても役者のと、芸妓との相違はこれでしょう。」

そして「芸術づいてはダメですよ。」

レビューとは踊りと歌とを中心にコントを組み合わせ、多彩な演出と豪華な装置を伴うショーでパリが起源となります。

京おどりは当初から群舞の踊りに定評があり、今もフィナーレを飾る三世今藤長十郎作曲の宮川音頭が絶品で私も毎年見させていただいています。

専門的な事は分かりませんが、最初は少人数で始められプロローグから始り、唄に対し動きがシンコペーションになって部分がアクセントをつくりいつも感動します。

昭和二十九年の第五回の最後は第十二景「扇流し 末広模様」という長唄がフィナーレです。

翌年の三十年の第六回の第十一景「彩る錦」という題で、現在の宮川音頭が別の題名で初めてフィナーレを飾ったと思います。なぜなら他の歌詞は全く違うものの「国へ土産は都紅、納豆、八ッ橋、みすや針、すぐき、柴付、五色豆、みやげばなしは、みやげばなしはヨーイヨイヨイ京おどり」と現在と全く同じ歌詞が最後の歌詞で歌われています。

翌年の第七回に初めて第八景で「宮川音頭」のタイトルになりましたが、国へ土産は都紅〜の歌詞を含め現在の歌詞は全く出てきません。。

この後も宮川音頭の歌詞は一定せず、現在の歌詞になるには長い時間を要しました。

振り付けは楳茂都陸平です。

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                    宮川音頭の始まりです。
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by gionchoubu | 2018-09-24 12:42 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その十

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         舞踊「末広がり」宮川町芸妓、高木叶乃、馬場若瀧 大正十三年

昭和二十九年に文芸春秋新社から出版された『風流抄』船橋聖一著に赤線時代の宮川町の事が載っています。

芸者屋や娼妓置屋は小方屋(こかたや)と呼び、芸妓の花代が一時間330円で先斗町より少し安い。娼妓(戦後娼妓は制度上ありませんので宮川町では女中と呼ばれていました。)は一時間385円とあります。

筆者は、お連れの写真家と、当時の組合長が経営していた遊嬉楼に揚がると、娼妓が入る小間でなく、只散財するだけの散財部屋に通され、芸妓、娼妓の会長、副会長に会っています。

芸妓では年菊、よし子、きん子そして十八才の舞妓、年祐に合い、年祐は姉さんに「先生に東京に連れていって貰うて、女にして貰いなはれ、」などと本当か冗談か言われています。

副会長の娼妓は看護婦さんか家政婦さんのようで、頽廃的なところがどこにも無いという印象を聖一は持ちました。

宮川町の中には亭主持ちの娼妓もいて、朝の客を送り出すと、着物を替えて、自分の家へ帰って行き、夕方までは女房役を務め、夜になれば廓に戻りました。亭主は戦争出で傷を受けたり、あるいは長い病人で、女房の非常手段を認めざるを得ない人達でした。

『京の花街』渡会恵介著によると、この旧習はこの著書が発売された昭和五十二年ごろも続いており、芸妓ばかりの“芸”の町と化した宮川町には所帯持ちが多く、芸妓の約八割まで“家”を構えていているが、結婚しているわけでなく“所帯主”という意で、月二回の休日に、日頃たまった雑用を一度に片付けている。

宮川町の特徴は芸妓でも、娼妓でも五日働くと三万円だけは信用金庫から貸し出すことになっており、日歩は三銭五厘、年利で一割二分との事でした。

昭和二十八年には大阪の南地の名物であった芸妓の宝恵籠行列が、正月の宵えびすで宮川町の芸妓を載せ市内を周りました。。これは昭和三十六年の阪急地下鉄工事がきっかけで無くなりましたものの、現在東映の女優さんが乗り伝統は続いています。

昭和四十四年に学校法人東山女子学院が発足し、宮川町の芸・舞妓は全てここの生徒で、毎年一月七日の始業式を“技芸初め”と唱えました。初代の校長は舞いの師匠である楳茂都陸平で、芸能化・社会科の二部制をとり、社会科では英会話なども取り入れました。外国人の花代が二倍と決めてあったのも外国人客を意識したものと考えられます。

お茶屋の駒屋の先代も先進性のある方でGEISYA HOUSEで売り出したこともありました。

この駒屋と親戚の石初が現在でも宮川町の双璧になります。



by gionchoubu | 2018-09-20 13:02 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その九


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                    宮川町の路地

大正の初期から昭和の始めまでぐらいで花街、宮川町がたいへん賑いました。

大正の中頃には芥川龍之介もよくこの町で遊んだようです。


宇野浩一は「芥川龍之介―思いだすままに―」の中で昭和九年に龍之介に誘われて宮川町に行ったことを回顧しています。

龍之介は慣れた様子で最初に先斗町により、そのあと宮川町で宇野浩一は龍之介の手配で一泊することになり、事の顛末をしたためました。

其処には私の龍之介像とかけ離れた姿が描かれていました。興味の有る方は宇野浩一全集でどうぞ。

宇野浩一は当時の宮川町の様子を

“宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目の格子づくりである。
それらの家家は、両側に、すき間なしに、たっている。それに、町幅は五六間であったから、私は、宮川町に一歩いれた時、北から南へまっすぐに通っているその五六間幅の道の両側に、一階、二階、三階、と、それぞれの高さの、細目の格子が、両側に、一枚の塀のように、ずっとつづいているのを見て、思わず、あッ、と、心のなかで、叫んで、立ちどまった。

一と口にいうと、それは、ありふれた形容であるが、壮観であった。”

又、京大の教授が「遊ぶんだったら宮川町へ行け」といったことがあるそうで、当時の宮川町は花街の要素が非常に強く、それに芸妓と遊んだ後、お客の要求によっては娼妓が相手になるので一般に芸妓の身持ちは硬かったといいます。

それだけに古老の話によると「宮川町に行った」と親に言えばあまりしかられなくてすんだそうです。

日本が国際連盟を脱退して、中国で関東軍が南下を始めた翌年の昭和九年七月八日、歌舞練場に国防婦人会宮川町分会の発会式が挙行され、二十六日から三日間防護演習が行われ、宮川町歌舞練場は新道分団の配給本部に充てられました。

戦時中は一億総決起の言葉で産業動員にかけられる者もあり、数もへりました。また、芸者遊びが色眼鏡で見られたので娼妓に重点がおかれ、戦後の一時期、宮川町は大正、昭和初期の芸者の町としてより接客婦の町と一般に見られるようになりました。

昭和三十二年、同町には二百五十三業者、接客婦二百六十二人、芸者百二十五人と府下十三遊郭中最大の陣容を誇り、水揚花代は昭和三十二年で一億八千九百七十万円に上がりました。

ちなみに当時の接客婦の場合を見ると一時間の花代六百五十円のうち二百五十円が接客婦の取り分で。置屋百円、揚屋二百四十円、税金三十九円、組合二十一円の分配で、月収平均四万三千二百三十八円で、ちょっとした会社の課長クラスの月給並みでした。内半数は前借金がありました。

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by gionchoubu | 2018-09-17 11:25 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その八

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昭和7年110号『技芸倶楽部』によると京都市内の遊郭でダンス芸妓が始めて生れたのは宮川町ということです。ダンス芸妓が生まれたのが十数年前と書かれていますので、大正の十年代になるのでしょう。

巷にはダンスホールが溢れ、銀幕の映画女優の人気に対し、一番危機感を持ったのが花街の人達であったのは容易に想像できます。

京の花街のダンス芸者は上七軒と宮川町以外では先斗町が少女歌劇団までもっており、で祗園乙部(現祗園東)でも神戸から教師を呼び、芸妓だけでなく娼妓にもダンスを教えていました。

その後宮川町のダンス芸妓は増えたり減ったり、さらに殆ど中絶したり、したようです。大正15年の名簿に立花ダンスという置屋があり、千代子、ラン子、ルリ子というダンス芸妓の名がみえます。

この大正15年というと1926年、最初のトーキー映画と言われるアルジョンソンの『ジャズシンガー』の封切りの一年前、フレッド・アステアは映画デビュー前、姉のアデールと舞台で踊っていた時代なので、いかに宮川町のダンス芸妓がモダンだったが分かります。

昭和32年10月29日の京都新聞によると、大正13年にモダンバレーを宮川町がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」など数曲ピアノに合わせ派手に踊った事があり、きっかけは同廓の舞踊の師匠であった楳茂都陸平の指導という事で、同氏が宝塚歌劇団で舞踊の教師をしていた関係でした。

その後昭和になって、即席で芸者の免許が取れるのもあって宮川町にダンス芸妓が現れ、歌舞練場で着物を着た丸髷の芸妓が連日レコードにあわせ、「クイック、スロー、クイック、スロー」とやるものですから、珍しがりやが相当つめかけ、名物になったということです。

昭和5年には上記の立花屋に星子(せいこ)、ケイ子、洋子、エス子以外に大君という置屋もダンス芸妓を持ち、千鶴子、ハト子、そして一時マキノ映画の女優でバーレスク舞踏出身といわれたヒトミがおりました。

昭和7年ダンス教授の木村駒子の元、約三週間、歌舞練場の舞台を占有し、数十名の宮川町の芸妓に不眠不休の状態で稽古をつけ、主催宮川舞踏研究場主催『宮川町芸妓ダンス大会』が7月13日から15日まで午後六時から宮川町舞踊研究所が主催者として催されました。

プログラムは交響楽、ミニユウエット、刃、蒲田、満州娘、スペイン、ハンガリア、オリエンタル、森の暁、花売娘、セノオオリエンタル、メバエ、鶴亀、カッポレ、ボルガノ船頭、出船、小波、大波、くるかくるか、越後獅子、波の精、ラッキーセブン、トロメライ、影を慕いて、アイラシキワルツ、カスツチュームボール、興国行進曲

衣装は全部松竹衣装部借り入れ、借り入れ料だけでも壱千余円、出演者五十余人、入場金壱円、大盛況で席は全て埋まりました。

昭和七年は1932年、アステアが華麗な動きを見せたミュージカル映画「トップハット」(1935)や大掛かりな仕掛けが評判だった「巨星ジークフェルド」(1936)

以前となり、特にフィナーレの興国行進曲のスケールには只々驚かされるばかりです。

このダンス大会の後援が宮川町長唄むつみ会、義太夫芸妓に長唄にダンス芸妓、古(うにしえ)を尊び時代の最先端をいく姿は今も健在、二年前の「京おどり」では出演者にピコ太郎芸妓のパフォーマンスがあり、私は拍手喝采でしたが、大概の観客の方は何が起こっているのか理解できていない様でした。

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                 すべてが宮川町の芸妓です。     

 



by gionchoubu | 2018-09-14 13:13 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その七

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               ふく恵ちゃん(今回の画像はずーと以前のものです)

宮川町の踊りの流派はもともと篠塚流で、文久三年生れの原たかは十才頃から竹内みつに稽古をつけてもらい宮川町の師匠になりました。竹内みつは篠塚流三代目の文三の直門だった人です。

藤村東三も宮川町松原上ルに住み宮川町の女達を教え評判が良かったといいます。

宮川町で最後に篠塚流を教えたのは玉うのと云う師匠で明治の終わりごろまで教え、その後上七軒で師匠になりました。

その後宮川町では舞踊会の大家、楳茂流(うめもとりゅう)の開祖である楳茂都扇性の二世を専属舞踊教師とし、その後息子の陸平が師匠となりました。

陸平はもともと宝塚歌劇団で舞踊の教師をしていましたが、父の扇性が宮川町の師匠だったので、これが縁で其の後長きに渡り宮川町を指導しました。

楳茂都流は幕末鷲谷正蔵が御所の大橋の局より教はり、子の将曹に伝え自ら今様風流舞楳茂都流を起し扇性(初代)と名乗ったのが起源となります。

大正十五年の『技芸倶楽部』を見ると、楳茂都美彌、永井ます、上原八重、楳茂都富佐が舞踊科の師匠で、その他浄瑠璃科、鳴物科、長唄科、清元科、常磐津科、抹茶科、裁縫科がありました。

当時宮川町というと座敷で義太夫のさわりを語る義太夫芸妓が有名で、太芸者(ふとげいしゃ)と呼ばれ、最盛期に八十人の太芸者がいたといわれます。大正十五年には、近江徳に、うた助、上久千代に、三八、八助、橘に初之助、大初に富助、亀久に好介、下今井に友之助、よし梅に丸之助、新谷に龍八、後谷に○助今も宮川町の大看板のお茶屋、石初にも染八という義太夫芸妓がいました。

お気づきでしょうか?義太夫芸妓は全て男名がついています。これは全国共通の事で、女の色香を売るのでは無く、芸を売るのだ、という心意気といわれています。

昔花街の子供たちのうち、美しく、芸が好きなものは舞妓から芸妓に、気のよくつくものは仲居に、そして芸の覚えがいい妓は義太夫芸妓を目指したといいます。

宮川町の主な義太夫は三輪会という組織を持ち、三輪会に属さない義太夫が大正十五年に幼声会を結成し浄瑠璃会を行いました。

昭和七年七月、芸妓四百五十余、娼妓三百三十余名、御茶屋は三百余で、遊嬉楼、福山楼、明治家、平井、大和屋、西秀などが代表的な家でした。


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                      菊夕さん
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                     富美苑ちゃん
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                     富美苑ちゃん
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                     ふく里ちゃん
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                     ふく尚さん


by gionchoubu | 2018-09-11 14:50 | 宮川町 | Comments(0)

宮川町ぞめき その六

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                大正の中頃、元禄花見踊りを演じる田中君尾

明治三十四年二月の宮川町貸座敷組合規約を見ると百三十九条に渡る多くの取り決めがありました。第二条を見ると、

第二項 営業取扱所は事務所に隷属し組合営業取引の事を司る。

第三項 女紅場は事務所に隷属し婦女の教育を司る。

第四項 歌舞練場は事務所に隷属し婦女に歌舞音曲を教授す。

第五項 医局は事務所に隷属し娼妓の梅毒を予防し及び組合衛生の事を司る。

営業取扱所は検番のはずで、検番の長が組織の長でなく、組合長の取締役が検番、女紅場、歌舞練場、医局のトップとして絶大な権力を所有していた事が推察されます。

さらこの時、宮川町区域貸座敷芸妓組合規約と宮川町区域貸座敷娼妓組合規約も出されています。

明治四十三年一月、宮川町、祗園乙部の三遊郭主唱で芸娼妓救済所を設立

大正二年京阪電車が開通することにより、同年四月目隠しの為、又風致を添えるため、疏水の沿岸に松、桜を数百株を植えました。

また同四年二月二十一日、芸妓の首唱により組合員二百二十三名連署にて歌舞練場改築を要請し、翌月二十日、議員会に於いて之を可決、七月七日起工、十一月一日上棟式、大正五年四月十五日竣工しました。

そして五月七日より一週間改築披露の温習会を開宴しました。

大正四年発行の『京都府誌下』によると大正二年宮川町には貸座敷三百二十七、芸妓二百六十九、娼妓二百九十七と記載されています。

昭和四年刊、松川二郎著『全国花街めぐり』は京の花街を分類し、祗園甲部、先斗町、上七軒を芸妓本位、島原を娼妓本位、そして祗園乙部と宮川町を芸・娼妓本居としました。

同書によれば、代表的な揚屋(貸席)は三軒有り遊喜楼は親切、大和屋は客室が多く、西秀は最新の設備を誇りました。

そして芸娼妓置屋約七十軒、芸妓四百五十名、揚屋約三百軒で娼妓数は書かれていません。翌年刊行された『全国遊廓案内』では貸座敷百五十軒で娼妓は三百三十人としています。

当時の宮川町は芸妓も現金制度で高城の叶乃(かなひの)、叶之助、花園の市丸
花園の市丸、田中君龍、鈴絹の種代などが流行妓でした。

遊郭としての宮川町の遊興制度は仕切り花制で、娼妓を呼ぶ場合、例えば暮から十二時まで四円五十銭、十二時から朝まで三円五十銭で外人は全部倍額という事でした。



by gionchoubu | 2018-09-09 11:06 | 宮川町 | Comments(0)

八ッ橋裁判 真相

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昭和32年3月7日の京都新聞夕刊に『都大路』(56)春日通その一 唄に残る権兵衛さん「八ッ橋」起源に諸説という見出しがありますので後半を紹介させていただきます。

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(聖護院の)畑が市街に変わって、名産聖護院大根はもうありませんが、変って京菓子八ッ橋」があります。

明治末期ヒッチョステンショ(七条ステーション)で夷川五色豆と一緒に旅行客へ売ったのが、八ッ橋が京土産となった最初ですが、1900年パリの万国博で京都市代表としてグランプリをとったり、1909年アラスカの太平洋博で日本最初の金パイをもとったりして日本的存在となり、今では年間五億円をかせぐ京土産中の横綱格で、とにかく大したものです。

一体に名物になるといろいろ有難やのもったいをつけたがるものですが八ッ橋の場合は、これがまた諸説入り乱れて互いに「こっちが本家だ」とメクソ・ハナクソでややこしいのです。

別にハクなどつけなくても「うまいモンはうまい」でよさそうに思うんですがね。がまァとにかくそのメクソやハナクソを一応紹介だけしておきましょう。

聖護院八ッ橋総本店鈴鹿社長の話

「ソウ(箏)曲の開祖として全国的名声のあった八橋検校の死後、黒谷金戒光明寺にある墓へ参る人が絶えないので元禄ごろから参道の聖護院で琴になぞらえたセンベイを売ったのが始め」

郷土史家田中緑江氏の話

「明治の中ごろ伊勢物語で有名な三河国池鯉鮒(知立)の八ッ橋から菓子職人が入洛してブラブラしていたのをコライケルと製法をきいて大々的に売出したものですわ。京に三河の八ッ橋じゃ面白くないのでインネンをこじつけた。

とにかく明治以前に八ッ橋という名物は京都にはおへん」

土地の古老、当年六十九才の岡田光太郎さん

「祖母から聞かされたが三河から来たジイサン、バアサンがこの辺で隠居仕事に八ッ橋と称する菓子を売っとりまして」

井筒八ッ橋本舗の話

「八ッ橋検校はなかなかの倹約家で流しにザルを受けて集った流れ米で接待用のセンベイを焼いた。これから来てますのや」

聖護院八ッ橋西村源太郎氏の話

「業平が東下りのとき三河池鯉鮒でかきつばたの歌をよんで以来“八ッ橋”は鎌倉路唯一の名勝として中世の日本人のあこがれのマトだったのです。

昔はだから“八橋太夫”とか“八橋?”とか“八橋検校”とか、最高のものには何でも“八ッ橋”の名をつけている。日本一の菓子というので“八ッ橋”と名付けたこれが本説ですわ。

琴と結びつけるのは文学を知らない俗中の俗説だ」

どうも茶店が繁盛するほど墓参へ陸続とつめかけたというのは神武以来きいたためしがないし、かといって・・・いや、よしましょう。ミイラとりがミイラになりそうです。(河合健記者)

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江戸期の名物は名所図絵などで紹介される事が多いいのですが、私自身八ッ橋は見たことがありません。明治著名諸案内にも八橋屋さんは菓子、饅頭の欄に載りません。その他の信頼置ける著述でも聖護院と八ッ橋を結びつけたものは見たことがありません。

文中の田中緑江氏は京都の風俗に関しては何でも知っていた人で、多くの著書を出し、俗説や憶測では決して惑わされなかった人で、私がブログを書く上で、最も信頼している人の一人です。


by gionchoubu | 2018-09-07 14:11 | Comments(0)