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娯楽の殿堂 美松 その五

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                     美松の場所

昭和28年12月18日の京都新聞に、

美松新温泉愈々18日開場の広告が載りました。

浴場文化に栄えたギリシャ・ローマの名湯を彷彿せしめる日本一の総合大温泉境!

京洛百万人の待望久しい、保健休養の陶酔的快味溢れる温泉のデパートでございます。モダン京名所としての観光誘致に、働く市民の皆様へご家族団楽の一端をも奉仕出来ますよう何卒絶大の御支援お願い申し上げます。
美松社長 三大寺一能

大衆的な料金 五色噴泉大浴場 御一名 100円
       ロマン温泉場  御一名 300円
       トルコ温泉場  御一名 300円
      家族温泉ルーム 三名様迄 300円

この広告を見ると昭和28年の暮には美松のトルコは営業していた事になります。

昭和30年8月5日の京都新聞に『塗り替えられた京の地図 歓楽街は東へ行く 木屋町筋バー乱立、夜毎狂騒 新京極界わい 映画館へクラ替え』という記事が載り、キャバレー、アルサロなどの京の風俗店が新京極から木屋町に移り、新京極が映画館中心の街に変っていく様子が克明に描かれています。

その契機になったのは記事の前年の昭和29年に華々しく発足したばかりの“アイスパレス”が30年の七月に映画館に早変り、続いて“ダンスホール美松”“キャバレー田園”などが相次いで映画館へ転向しました。

記事の分析よると、これら映画館への転向は「映画館はもうかる」というより、深刻なデフレの影響で行き詰る経営の打開策として、年中客足に変動の少ない映画館意外に適当な企業がないこと、さらに新京極が戦後十年、歓楽街から興行街オンリーに移り始め、歓楽街は河原町以東、木屋町筋に移り変わるという立地条件の変化が主な原因としています。

“ダンスホール”美松の場合は、かつては百三十人ものダンサーを抱え、一夜に二、三十枚のチケットを切るお客がザラでしたが、二十六、七年を境に下り坂となり、デフレの進行につれホールでボラれるよりも小奇麗なカフェーか喫茶店、アルサロで女給と踊った方が安上がりで、トルコ風呂もあまり芳しくないとの事でした。

昭和三十年美松大劇、美松名劇がオープンした後の美松を職業別の電話帳で追うと、昭和五十一年の広告では、スチーム&サウナの美松で男性専用グランドバス、女性専用ビュウティバス、家族風呂。

昭和61年の住宅地図を見ると、美松会館 美松新温泉 一、ゲームコーナー ジョイランド美松 スチームサウナ美松 二、美松映劇 美松劇場

南の別館は一、美松ゲームセンター 二、コインランドリー美松となっていました。

戦後から一貫として京都の娯楽の殿堂として京都市民と共にあった美松。私の記憶では美松といえば映画館、そしてゲームセンターの美松でした。




by gionchoubu | 2018-08-31 11:36 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その四

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以前も紹介しましたが昭和29年の祗園をどりのパンフレット(下の画像)に

涼秋一浴千金 トルコ娘の美松新温泉 お色気で近代味豊かな御清遊は
名物トルコ風呂

アミューズメントセンター美松
二階 ダンス娘の・ダンス美松
一階 ビール娘の・ビーア美松
地階 地下温泉街・家族風呂

の広告が載ります。

さらに昭和32年4月12日の京都新聞に

お一人 390円 ビール突き出しサービス料税共
アルサロ制ナイトクラブ美松

五つの温泉に入ってお一人100円
トルコ風呂400円 家族風呂300円 美松新温泉

美松では有りませんが翌日の十三日の京都新聞にも、

木屋町トルコ風呂 花見帰りに・・・ご入浴六百円

サービス料入浴雑費一切含み 階上―大小宴会用お座敷有り、ご予算次第で相談下さい 中華料理・すき焼・和食 五周年記念場内総改装完成!
トルコ温泉 西木屋町、河原町通 松原上ル

の広告が載ります。

当時のトルコ風呂は新聞に広告が堂々と載るほど後ろめたさの無い存在だったのでしょうか?

それもそのはず。昭和三十三年四月に売春防止法が完全施行されるまで、赤線での売春は違法でなく、トルコ風呂を隠れ蓑にする理由はなかったのです。

トルコ風呂の第一号とされるのが昭和二十六年、東銀座に誕生した東京温泉で、経営者は密室での女性によるマッサージなので、風紀の問題には極端なほど神経質で、従業員の女性が客と外でお茶を飲んだだけで解雇された例もあったといいます。

昭和二十八年頃からトルコ風呂が増える兆しがみえました。一部の業者による、手でのサービスが流行り始まっても、ある経営者は、「儲かると聞いてトルコ風呂をはじめたわけだが、女の子たちに売春だけはやって欲しくないと心から思っていた。万一、そんなことをされて警察の手入れでも喰らったら、一族に顔むけできなくなる。」と話したぐらいです。

売防法が施行されたのは昭和三十三年四月一日。全国のトルコ風呂は約百軒を越え、いわゆる本番サービスが評判になり始めました。

そして昭和三十六年の全国のトルコ風呂軒数は七百六軒と僅か三年で七倍に増えました。

昭和三十八年、東京の一部を除いた全国のトルコ地帯の殆どの店は本番を主にしたサービスを行っていたなか、例外として京都と大阪だけはスペシャルサービスさえない、完全に健全な店が殆どだったといいます。

今回参照させて頂いた『トルコロジー トルコ風呂専門記者の報告』の著者の広岡敬一氏によるとその理由を、旧赤線の施設が残存して座布団売春と呼ばれた営業が続けられた事、またラブホテルなどでのパンマ売春が盛んで、あたらしく投資して売春を目的とするトルコ風呂を開業しても業者にはメリットが無かったからと分析しました。

こういった状況の中で、京都新聞による木屋町トルコ風呂と美松新温泉のトルコ風呂の広告だったわけです。


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by gionchoubu | 2018-08-28 14:15 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その三

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                          まる八跡

昭和29年6月30日の京都新聞によると、新京極の“一パイ横丁”の誕生は終戦直後、闇市がはやり、いかがわしいカストリが横行した二十一年の春、露天の希望者とキャバレー美松の客寄せ策が一致して、美松の軒際を一時的に貸したことから始まりました。

そして日が経つと、衛生法や建築法が次第に厳重になり、美松の手で美松の南北両側に軒店二十五軒を建設して一パイ横丁が出来ました。

ところが、美松では周辺の美観や防火の観点から、軒店を立ち退かせるため、昭和25年調停裁判に持ちこみ、調停委員によって四年間の猶予期間付明け渡しの調停成立、其の猶予が昭和29年6月30日で満期となりました。

一方借家側はこの調達成立で“四年間の寿命”と見定めるや十数万から数十万の権利金(家賃は千五百円)で他に譲って逃げ出し、元からの店はたった四軒、二十一軒は調停の事も知らずに権利金を払って入った可能性があったようです。


この問題を調停当時からとり上げた宗教家、阿刀土彦氏らは、花月劇場横の空地(市の管理地)の提供を市に陳情、市ではここに都市計画を計画に基づく緑地公園をを計画しており、かつ密集地の避難地として提供を拒否しました。

現在の新京極公園です。

美松側は調停通りおだやかな明け渡しを希望しているが、借家側が居座るなら強制執行も辞さないとハラを決めました。

美松吉村支配人談

「終戦間もないころはまあよかったが、現在は事情が許されなくなった。温泉ができてその採光のこともあり、従業員の厚生施設も十分にやれない始末だ。

また、消防局や府建設課からも警告を受けている次第で、今更とやかくいわれるフシはない。

こっちは法に従って穏かに事を運びたいと思っているので速やかに明け渡しを完了して欲しい。」

との事でした。

昭和31年の住宅地図を見ると北側に十一軒の店が確認できます。

北側の一番東に現在も営業されている喜の屋があり、中央辺りに最近までの営業がたべログなどで確認できた京極食堂の名も見えます。一番西にはその二階の意匠がお寺風で私自身が以前から気になっていた、現在古着屋の場所がまる八というお店だったのも確認できます。

兎に角31年版は、北側も南側も字が小さく判別が難しいので南側は昭和34年版で西から確認すると、美松ナイトクラブ・新温泉・食堂と美松関係並び、平井遊技場、スタンド万平、松すし、バーフローラー、バー双園、スタンドふりそで、バープラージ、多摩川・ちどり、となりました。

現在これらの店は存在しません。

ですから、立ち退きが成立したのは南側だったと思います。

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喜の屋、手前の味乃家も昭和31年の地図に載ります。


by gionchoubu | 2018-08-27 13:30 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その二

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昭和24年の九月の京都新聞

おしきせお気軽にぱい一 新時代のゐ酒屋
昔おなじみの美松スタンド とんかつの大衆グリル
宝焼酎35円、酒ビール80円、とんかつ70円
新装開店 新京極美松

の広告が載ります。ぱい一は当時の流行でしょうか、パイオツは聞いた事があるので、当時の流行言葉なのでしょう。スタンドというので、多分美松の一角に誕生したものと思います。

さらに同月、キャバレー美松は新設勤労者ホール部大々的な募集が載ります。

これはホールパートナー大募集の為で、待遇は固定給1分間80銭とキャッチーな物です。分給は珍しいので、逆に今使うとインパクトがありそうです。

募集されたのは職業ダンサーでなく、社交ダンスのお相手の社交パートナーで、服装はワンピース、スーツ、アフタヌーンとお好み次第で、イブニングドレスの着用は求められていませんでした。

「年令満19年以上迄の独身女学校卒又は同等以上の教養のある方、社交ダンスのできる方で新時代女性として正しいエチケットを持てる方、職業ダンサー又は職業接客係の経験者は採りません。」とあくまで素人路線を狙ったものした。

つづいて昭和26年7月の京都新聞で美松は、ひまわり娘を100名募集しています。

「ひまわり娘とはテーブルフレンドとして文化的に話のお相手をする美松エスプリーのシンボルです」・・・と良く分かりません。

ひまわり娘のいる美松エスプリーとは純アメリカンシステムらしく、智的勤労者の社交的安息所で、サラリーマン勤労者のユメノクニとの説明ありました・・・さらに分らなくなりました。

兎に角美松は機を見るに敏で、昭和26年9月8日にサンフランシスコで対日講和条約の調印式が行われると同月22日の京都新聞では

世界人と手をつなぐダンスの交和 キャバレー美松階上国際ホール

講和の秋は晴れやかにご同伴で御家族づれで国際気分に浸りましょう。

低料金 お一人様 150円 アベック 250円

きっとひまわり娘が満面の笑みで貴方を迎え入れてくれたでしょう。




by gionchoubu | 2018-08-19 15:42 | Comments(0)

娯楽の殿堂 美松 その一

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昭和四十七年、新京極連合会と新教極ジュニアクラブが発行者の『新京極』のよると、

美松・・・長らく金蓮寺本堂であったが、昭和二年取壊し、同三年、移転したのち、広場でローラースケート、ベビーゴルフリンク等があったが、昭和七年ごろ三京食堂となり、戦後はビヤホール、美松キャバレー、美松新温泉等を経営、同三十年、階上に美松大劇、美松名劇を開場した。

同社東南端には昔から小さい弁天堂があって、ホトトギスの松や千鳥ケ池の名もとどめていたが、同社の拡張にともない、無くなってしまった。

昭和二十一年の十一月の京都新聞の宣伝欄に

従業員大募集 業界の惑星 キャバレー美松遂に起つ! 

一、ダンサー四00人 階下 ソシヤルサロン
一、接客社交嬢 一00人
一、少女給仕 二十歳迄 五0名
一、ホールボーイ、バーテンダー、男女職務、女子事務員、企画宣伝美術部員
  ホール??主任、其他 各数十名
面接―毎日朝一0時―夕四時 京新京極四条上ル 美松クラブ
全??西一の豪華理想ホール完成近し 十一月オープン
ソシアルサロン同時開店

同じ紙面に京都府より『南方諸島方面引き上げ希望者二告ぐ』の告知が出ている時代の美松の大募集は京都市民に高揚感と希望を与えたのでは無いのでしょうか?

それから一年後の同新聞に

新京極 ダンスホール 美松

ダンサー募集、来たれ絶好の職場へ
2日、日曜ひる1時開始 全日本ダンス選手権大会 第三部ワルツオープン
花と咲くワルツの妙技 京都日日新聞主催 
正午十五時迄の御入場に限り90円―(半額入場)

この変わり身の早さが美松の身上で、大衆の求めるものを常に先取りし身軽に具現化ました。

僅か一年後にキャバレー美松、ソシアルサロンからダンスホール美松に名称が変わりました。

続いて昭和二十四年五月の紙面では大衆路線を強調しました。

ダンスの美松 何よりも安い ご家族連れのお楽しみは夜のキャバレー

果然大衆の共鳴を博し満員御礼 新緑の薫りゆかし キャバレー美松
新京極の歓楽センター 豪華三百坪のポールルーム
アベックでもお一人でもご入場250円均一 
豪華タンゴバンド 
簡単―明朗―経済 ダンスの〔テケツ制〕新発足 サービス習慣

皆様のアベックプラン 子供でもわかる比較
お二人で喫茶店へ コーヒー2―140 ケーキ2―160 御会計300円
お二人で美松へ アベック御一組 入場税共一切250円
ラストまで・・・踊るも良し語るも良し





by gionchoubu | 2018-08-18 15:46 | Comments(0)

五条楽園ぞめき、女だけの街

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                       映画の一場面

昭和三十二年二月封切りの松竹映画に『女だけの街』が有ります。同月の京都新聞では“くるわにメス”と銘打たれているように、売春防止法施行直前の京都七条新地の話になります。

監督は内川清一郎、脚本は内川清一郎と関沢新一、キャストは大木実、田崎潤、高千穂ひづる、小山明子、山田五十鈴、浪花千栄子。伝説の芸達者の名前が並びます。

物語は・・・

八年間の服役を終え、ふるさとの七条新地に帰ってきた牧組のヤクザ宮鉄太郎(大木実)は新興勢力、陣場大吉(田崎潤)が牧組のナワ張りを見て憤懣やる方ない思いだった。

鉄太郎の帰りを待っていたのは利美楼の女将お波(浪花千栄子)だった。彼女は鉄の死んだ母の朋輩で幼い時から彼を引き取って今日まで親同様育ててくれた義侠肌の女だ。

鉄はこの家の娼婦みどり(高千穂ひづる)に惹かれ、みどりも「ヤクザって愚劣よ、人間のカスよ」と鋭い言葉を浴びせながらも鉄を恋してゆく。

そのころ廓一帯は陣場の計画的な玉抜きで大騒ぎ。同僚の栄子(山田五十鈴)の入院費、葬式代の一切を自分の貯金をハタいてお波に渡し、遺児の健一の面倒を見るという健気なみどりの言葉に、鉄は賭場で荒稼ぎをしてみどりとの新生活を夢見て帰ると、みどりは置手紙をして姿を消していた。

玉抜きのバックが陣場で、みどりもそこにいると聞いた鉄は包丁を手に飛び出すのだった―

この映画の封切り後の座談会で、映画評論家の滝沢一は「この映画は消えゆく赤線地帯の七条新地を背景に矛盾の中に組み立てられた現在のやくざを描き、実景七条新地のロケも生きており、セミ・ドキュメントリー映画として真実感があった。」と述べています。

内川監督は「いろいろの実話を寄せ集め、売春防止法、暴力団といういま身近かに起っている問題をウソがなく真実にドラマの構成に持ち込もうとした。」と此れを受け答えました。

家庭調停委員の渡辺愛子氏は「売春防止法の施行を前にして、それまでに少しでも多く稼いでおかねば・・・という楼主や売春婦、崩壊寸前の花街の女性を抜させたり、これらの業者の家を買って旅館屋ホテルにして甘い汁を吸おうという悪辣なボスなどを見せられ、私たちの知らない世界のあることを知った。」

最後にこの作品の重要なパートを担った浪花千栄子は「仕事の都合で皆さんより一番早く七条新地の知合の家へ見学に行きました。朝と夜いきましたが、朝の起きぬけのきたない人―私らもそうですが―夜の化粧であまりきれいになっていられるので、男の人がボーとなるもの無理ないと思いましたわ。」

私自身この七条新地が等身大で映し出されているかもしれない松竹映画が存在したのを全く知らず、当時の京都新聞を図書館のマイクロフィルムで追って行くうちに偶然出合いました。

生きている七条新地の姿。

何方かこの映画を見た方は居られますでしょうか?

何とか見る機会を得られないでしょうか?





by gionchoubu | 2018-08-16 15:58 | 五条楽園 | Comments(0)

上品寺と法界坊の鐘

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                   花扇と法海の名前が刻まれています。

法界坊といえば歌舞伎『隅田川続俤』(すみだがわごにちのおもかげ)で、吉原で浄財を使い果たす破戒僧として堕落した姿で描かれています。

実はこの法界坊のモデルは滋賀県、中山道の上品寺(じょうぼんじ)の七代目の了海がモデルで実際は堕落僧どころか、志の高い僧侶でした。

この上品寺で配られていた『法界坊釣鐘縁起書』をみると、法界坊は十九歳の時師匠の譲りを受けて上品寺に住することとなったものの寺が非常に荒れ果てていたため、これを復興する為江戸に行き町中を托鉢して周りました。

そして吉原の花魁、扇屋の花里は仏法に志が厚く、それがため法界坊に帰依して熱心にその法話を聞き入りました。

法界坊は花里の許に行き女人の罪業のひとしを深重なることを諭し、弥陀の本願はかかる罪業深き衆生を救わんとして起し下さったという有り難い趣を諄々と説き聞かしました。

花里は法界坊が寺の釣鐘を建立する為江戸で托鉢をしているのを知ると

「自らは浮川竹の遊女の身であけくれ綾錦を身にまとうといえども露ばかりも善根をなした覚えもなく父母菩提のため又我身後生のため聊かにでも報謝の布施をさせていただきたいものです。」・・・自分は罪深い遊女で美しい着物を着ているものの、善行を全く成したことがありません。是非お布施をさせてください・・・

花里は喜んで廓内の寄付に日夜奔走したがその途中で惜しくも胸を患い病死してしまいまいた。

姉の花扇は花里の薄命を深く憐れみその志を受け継いで自ら先頭に募財して廻り遂に釣鐘建立の資金が調い、鋳物師の西村和泉守藤原政時の手で鐘は完成しました。

法界坊は完成した釣鐘を地車に載せ自ら曳きもって遠路二百余里東海道を引き下り故郷上品寺に帰着しました。

明和六年(1769)年の事でした。

鐘の供養をいとなんだ夜、法界坊の夢の中に花里が現われ、「自分ははかない無常にて相果ててしまったが、鐘を為した功徳により即身観世音菩薩になりました。」

法界坊が目を覚ますと不思議にも枕元に一体の観音像が置かれていたといいます。

破れ衣に伸び放題の頭髪、念仏を唱え喜捨を求めて大江戸八百八町を歩着回った男はさぞかし江戸の町では評判になったのでしょう。歌舞伎では好色でコミカルな破戒僧として本人は決して望まなかっただろう姿で描かれた法界坊。

しかし世の中とは数奇なものです。この鐘は歌舞伎の題材となって有名になったお陰で戦時中の供出を免れ現在もその姿を見る事が出来るのです。

法界坊の執念たるや恐るべし。



鐘の周囲には花扇を始め寄進者の名前が刻まれています。

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                       花里の名
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                    法界坊が鐘を運んだ台車
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by gionchoubu | 2018-08-14 14:00 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

遊所、近江そね村、そね付

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                        曽根沼

喜田川守貞の『近世風俗志』(守貞謾稿)の「諸国遊所競」に載る滋賀県の遊所は大津柴屋町、(近江)八幡、草津、そね付、水口、そしてこれに遊女の揚台を記した「諸国遊所見立角力並直段附」に載るのが大津柴屋町、八幡、そね村、草津、水口、石部。

この二つの番付の違いは後者に石部が加わっただけでしょうか、いやもう一つありまして、前者がそね付、で後者がそね村・・・付と村・・・当初は文庫版の誤植と考えていましたが、版画の坂も村、付の字が充てられています。

私の意見としてその元々の版画の板が誤植でそね付でなくそね村が正しく正式には曽根村の字を充てると思います。

そして更に大きな謎・・・そもそも遊所曽根村は存在したのか、さらに、有ったとしたら、その場所は何処だったのでしょうか?

『滋賀県の地名』を繰ると滋賀県には曾根のついた場所が三箇所あります。

先ずは曾根沼・・・その場所は現彦根市の宇曾川が琵琶湖に注ぐ辺りで、藩政時代は彦根藩領でした。元禄時代は人数七百十、彦根藩は遊郭に対し非常に厳格で、飛び地の栃木の佐野の遊郭まで廃止したぐらいなので、自藩領地に遊所がある筈は無いといえます。

二つ目は愛東川右岸、青山村の北西、八日市の東の曽根村で、ここも彦根藩領だったらしく、南に八風街道が走るものの、中山道の愛知宿からも離れ、江戸期に遊所が出来る要素一つもありません。

最後が長浜市の西、姉川左岸でここは少し脈がありそうです。集落の北よりに「左竹生島道」の文久時代の道標が立ち、さらにほぼ南北を北国街道も通ります。

遊所番付は天保時代前の設定ですが、この天保八年の郷帳では曾根金津村五百石余が旗本滝川領、曾根市場村・曾根綾野村九百三十四石余りが幕府領になっています。

しかしながら、ここに遊所が有れば何かの記録が有るはずですが、全く有りません。

この三箇所の共通点はすぐ側に川の流れがあることです。それもそのはず、そもそも曾根の語原は河川の氾濫があった場所、またはその結果自然堤防が形成された場所に有りました。

はたして近江にそね村かそね付と言う遊所は存在したのでしょうか?

情報あれば是非御願いします。

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                     この三画像が長浜の西の曽根村
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                       北国街道
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                        左竹生島道


by gionchoubu | 2018-08-12 14:55 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

滋賀県 日野町清雲新地 全滅ス

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昭和四年刊、上村行彰著『日本遊里史』の「日本全国遊廓一覧」では滋賀蒲生日野町大字日野青雲新地で貸座敷数四、娼妓数七と大変小規模な遊廓だった様です。

昭和五年刊『全国遊廓案内』を見ても「日野町遊廓に滋賀県日野町にあって、右記の水口町の隣接町である。此処も妓楼や制度が判明して居ない。」が既述の全てです。

実はこの二書が出版された時点でもう日野の遊廓は存在していませんでした。

内務省警保局『公娼と私娼』昭和五年六月時点調べによると、日野町の欄に貸座敷数も娼妓数、他の数字も全て―の印がつき代わりに大正十??十十一月全滅ス、と書かれていました。??は読めないものの大正時代の終盤に無くなっております。それにしても一遊廓が廃業するのに全滅という表現は初めて出合いました。

それでは青雲遊廓の誕生は何時だったのでしょう。

これも良く分からないものの、明治十八年六月の滋賀県甲第六十七号布達貸座敷及娼妓営業取締規則に大津の上馬場、下馬場、甚七町、長浜南片町、八幡池田町、八日市、彦根袋町が載るのに日野清雲新地が見えないので、明治十八年以降に誕生した模様ので、実に短命の遊廓だったと思います。

とにかく、『近江日野町志』や『近江日野の歴史』を開いても、図書館に相談しても、地元でお聞きしても、中々実態が分からないのが清雲新地です。

『滋賀県の地名』では清雲(せおん)町の見出しで現日野町大窪、上清雲町、下清雲町と書かれていますので、青雲新地ではなく清雲新地が正しい表記になります。

さて、『公娼と私娼』を今一度開いて当時の滋賀県の娼妓事情を見ていくと、娼妓稼業年数制限というのがあり、滋賀県では「規則に於ては制限して居ないが、其の取扱内規で、五年以上の稼業期間は絶対に許さない。而して、此の期間の計算については、県内に関するものとみなし、他府県に於けるものは計算に入れない。尤も五年以上稼業したいが為に、一旦県内より他府県に鞍替えし、更に県内に帰って来た場合は、其の登録を拒否する」

これは県によってまちまちで、北海道、岩手県、秋田県、埼玉県、新潟県、富山県、静岡県、三重県、佐賀県、鹿児島県、沖縄県のように全く制限のない所もあれば、だいたい娼妓稼業の年数として五年が制限の所が多い様です。

お隣の京都府は「規則及び内規に於て制限は附してゐない。しかし楼主及び周旋業者が談合の上五年を超ゆる契約は之を為さないことを通例として居る」とありました。

ただし、この五年以内がにどれ程の実効性があったかは不明です。


by gionchoubu | 2018-08-09 16:18 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、八町、四の宮、真町遊郭 その三

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真町は昭和25年西町と合併して真西町になりました。現在は長等一丁目

大津真町の温習会 大津市繁栄の一端

十月二十七、二十八の両日午後五時から大津市大黒座で真町(しんちょう)遊廓の温習会が左記の番組通り催され、二日目に往って見たが文字通りの満員、長唄「秋の色種」が今や終らんとする時であったがいづれも充分の声量を発揮し、舞「越後獅子」は富龍が病気休演で富鶴の一人舞であったが至って軽く達者に演って退け、吉次の「来るか」も千代香の「好た水仙」も中々好い聴物だった。

常磐津「紅葉狩」は能く練習が積まれて全体の意気カッチリ、舞「京人形」は小龍の人形は美くしい人形、人形らしい人形、富勇の甚五郎は動き過ぎる程能く舞い、両妓共格好の配役大当り、素囃子「多摩川」は小蝶と富鶴が段調、一同の意気能く会い、堂々たる多摩川を聞かし、哥澤振「綱上」は富蝶の振、哥澤としては少々硬はなかったか、併し其処に得もいはれぬ味のある好い振りを見せ殊に地が渋味の中にハンナリ好い咽喉を利かし舞「奴道成寺」は小蝶の振り確かに舞の人、而もアレ丈の坊主、アレ丈の地方、大切として中々の大舞台、正に当日の圧冠であった。

実は余久しく真町の温習会を観なかったが、今年久々見聞する事を得た四十名に足らぬ同廓の芸者が、誰も彼も共に平素技芸の練習に熱中し、況して温習会前となっては数日間殆ど不眠不休の猛練習で、舞踊が花柳輔好、長唄が杵屋君雄、常磐津文字春、鳴物が田中徳次郎、哥澤が哥澤芝弥三の各師匠で、弟子が熱すれば,師匠も熱し、そして真町芸妓の技量を斯様に発揮し得られたは真町其もの、大なる成功であり、大にしては大津市繁栄の一端であらねばならぬ、殊に舞台装置といい、衣装、かつら其他有らゆる設備に就いては多額の費用の惜しまれていない事を想像す、不況時にもかかわらず同廓としてこの奮発は芸術向進の上からも亦土地繁栄の上より見るも大に歓ぶべき現象であると感じた。

舞 子寶三叟

舞 月の巻

秋の色種

舞 越後獅子

紅葉狩


舞 京人形

素囃子 多摩川

振 綱上位

舞 奴道成寺

以上『技芸倶楽部』昭和六年十一月号に現在まったくと言ってか語られる事のない真町芸妓の心意気を見る事が出来ました。

尚、大黒座はもと稲荷新地にあったものが小川町に明治二十一年に移ったもので、二十八年にはさらに石橋町に移り千名収容になりました。



by gionchoubu | 2018-08-07 11:40 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)