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大津、八丁、四の宮、真町遊郭 その一

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                        大津宿

江戸の日本橋を出て、東海道と中山道の最後の宿駅が大津宿です。終着の京都三条は目の前です。

『旅枕五十三次』に

「此地は〜略〜大に繁昌の所にして、はたご町を大津八丁という。町数すべて九十六丁あり、遊女五百文、又三百文なり。外に百文おちゃづけとて付事、外になき事なり。げいこは京・大坂の風にかわらず。たいこつゞみをうつ故、ざしき大ににぎわし。名物大津絵、名産源五郎鮒。逢坂 逢うさかは男女しのびあうの義なり、此辺山かげ森かげにて出合多くあるところ也」

『艶本紀行 東海道五十三次』で著者、林美一は、百文おちゃづけはチップの様なものでないか、と推測しています。

いままで見てきたように、江戸期の大津には柴屋町(馬場町)、甚七町以外に、飯盛女がいた大津宿の八丁と四の宮の遊所がありました。

参勤交代の大小名の侍や、羽織袴の大津の商人の振舞が上客だった柴屋町は別格として、八丁も四の宮もぐっとくだけた遊所だったと思われます。

大津八丁は北国街道との分岐点である札の辻から南へ向かう清水町までで、本陣二軒と脇本陣一軒あ置かれ、旅籠屋は元禄十二(1699)に八丁を中心に百三十五軒、江戸後期には七十一軒になっています・

八丁の飯盛旅籠は明治になって街道筋の凋落とともに消滅しました。

四の宮の遊所も何時頃出来たかわかりません。寛保二(1749)年町絵図では通りの北に町名の由来となった四宮社(天孫神社)、南に芝居小屋が記され、宝暦十(1760)年『大津珍重記』によると当町に料理茶屋街がある、と有るので江戸の中期には歓楽街であったのが分かります。

茶屋冥加銀を納めて料理屋渡世をしておりましたものの、これは表面上のことで、多くの売り女を抱えて客に侍らせていました。

八丁の旅籠屋に泊り客が多い時など四の宮の茶屋に客を泊めさせていたので天保十四年、甚七町遊廓とともに、幕府より茶屋途世を宿屋渡世に改めるように命ぜられています。

この時の御請證を見ると

四宮町として

巴屋、旧五人組に伊賀屋、大阪屋、筆屋、木屋、広島屋、米屋、大和屋、大黒屋などの名が並びます。

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大津宿本陣跡


by gionchoubu | 2018-07-31 13:56 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津 甚七町 花街

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甚七町遊廓は花街の様相の強い町でした。

昭和四年の『技芸倶楽部』の花街小品というあまり大きくない京都周辺の花待を順次紹介するシリーズの九に大津稲荷新地がとりあげられています。

大津の他の花街「柴屋町の喧騒もなく真町とはまた落ちついた感じのあるところである」と紹介されています。

馬野町人という筆者は、俵家で大たつのたま、たわらやの春次、滋賀千代の一若を呼んで飲めや唄へと大陽気にやりだし、大津の里のおもしろさを堪能したようで、

「流連(いつゞけ)によし散財によしおもしろい所である。土地の狭く、通りも細く軒と軒との触れ合いそうなのも面白い町の姿である。」

さらに、『季刊 湖国と文化 第112号』の甚七町の稲荷新地で著者の高橋勉氏は戦前の甚七町の思いでを語っています。

まず稲荷新地の象徴であるお稲荷さんの祠がお茶屋街のはずれあり、側に大人の腕で四抱え程もある太い幹に注連縄の巻かれた銀杏の木があった事。

表の浜通りから浜に向かう三本の路地(いちばん東の路地は恒世(つねよ)川沿い)が先でつながり、その一帯に京格子のはまったお茶屋が軒を連ねていた事。

数え年五、六歳の筆者は杵屋という置屋の二人の芸者に可愛がられ、決まって三時になると銭湯へ一緒に行った事。

陽が落ちると、お茶屋の軒先に灯がともり、寿乃屋(ひさのや)、俵屋、吉野屋、枡屋、大玉といった店の名が門灯の白いガラス被に浮かび上がり、二階から三味線の音が聞こえると、新地の夜の情緒はいやがうえにも高まった事。

そして新地に一軒カフェーがあり、「青い灯、赤い灯、道頓堀の・・・」などのメロディーが流れ、客引きの女給が外にでていた事・・・

甚七町の花街情緒が目に浮かんできます。

この甚七町の花街は太平洋戦争中に無くなり、戦後復活することはありませんでした。

『近江今昔』中神天弓著によると、

江戸時代、公儀の目付は浜通りが大井川であると狐に騙され、手拭を頭にのせ、裾をからげ、狂言の出方のように“浅いぞ浅いぞ”と川を渡る。向うの方では肩まで着物をまくりあげて“深いぞ深いぞ”と答えて渡る。

近所の人はまた狐に騙されとると大笑い。これではというのでお稲荷さんを建てて、やがて遊廓ができた。

狐はいなくなったが、それから客をだます芸姑が出来た。




by gionchoubu | 2018-07-28 11:04 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津 甚七町遊郭

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          甚七町自治会のブログにはその歴史が語られ、強い誇りと愛着を感じる事が出来ます。

弘化年中(1844~46)になると幕府の禁令も緩み、広島より来た業者が広島屋開業、その後瓦松という者も遊女屋を始め続々開業。

稲荷新地遊廓も明治維新の際は遊女屋軒を並べるほど繁昌する。

明治五年、芸娼妓開放令で一時廃業

同年十二月、新規営業を許可される。

明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で以下の様に等級分けされる。

上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円
中等=八幡池田町、彦根袋町、長浜南片町 同二円五銭
下等=大津甚七町、神崎郡八日市村 同一円

明治十二年、滋賀県租税便覧によると甚七町は中等免許地になり、【貸座敷営業】免許料金四円、一ヶ月賦金二円五十銭 【芸娼妓舞子営業】 免許料金二円五十銭、芸妓税一ヶ月一円五十銭 舞子 七十五銭 娼妓賦金 壱円、芸娼兼 税金七十五銭 賦金七十五銭

となる。

明治十四年ごろは全町殆ど貸座敷となる。

明治十八年 該業を営むもの四十六軒(貸座敷はその半分以下のはずです。)

明治二十九年の大洪水で大打撃を被り多くが他に移転する。

明治三十九年 貸座敷十二軒、芸妓十七人、娼妓四人

昭和五年刊『全国遊廓案内』では大津甚七町遊廓「は同市甚七町にあって、貸座敷数は約二十四軒、娼妓四十名位居る。柴地遊廓と略同様であると思えば間違いはない。」と実にそっけない扱いです。

柴屋町遊廓と同じとすると、遊興制度として店は陰店、娼妓も芸妓も送りこみ、廻しはとらない、という事になります。

ただし内務省警保局『公娼と私娼によると』同年に当郭の貸座敷は二十一軒に対し娼妓数十四人の信用できる数字があり、貸座敷数>娼妓数はその遊廓が芸妓本位の花街の要素を強くもっていた事を暗示しています。

さて、現在この由緒ある甚七町はお隣の肥前町と合わせて昭和40年に松本町2丁目と町名変更しました。

もともとこの辺りが松本村であった為の町名でしょうとも、せっかく甚七、肥前という素敵な名前を捨て、どこにでもある松本2丁目とした先人に私は強い怒りを覚えます。

これには当然国の大きな力が働いております。

世の中効率だけを求めるなら、文化は育まれません。

町名をおもちゃにしたつけは必ず払わねばなりません。



by gionchoubu | 2018-07-26 11:10 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津 甚七町 稲荷新地

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                         甚七町

大津百町の一つ甚七町の由来は、年代は未定なものの、ここに多くの土地を所有していた川屋甚七に有ると言われ、既に元禄年間(1695~1703)にその子孫が遊女屋を始めたと言う事です。

十五年の年月をかけて享保十九(1734)に完成した『近江輿地志略』の「稲荷社」に、

甚七町に在り〜略〜一年妖狐あって甚害をなす事あり。

狐は稲荷の使者なるを以って稲荷神を勧請す。

祭神は山城国稲荷神と同体也。今境内に茶屋をかまへ略遊女の類を隠しおく事もありとなむ。

享保十二末年の秋の頃より始めしとかや。

神社の境内不礼不敬不義の罪恐るべし。

この厳しい言い回しは、編纂者の寒川辰清が膳所藩の儒学者であったのと、この地志が十一代膳所藩主本多康命の命で編纂された為でしょう。

同じく柴屋町遊廓を述べる際も、広邑には必傾城町あるべき事なれども心得違ひにて身を亡し家を乱るに至る。若き時は血気未定らず慎むこと色にありとの戒め忘るべからざるの第一也・・・と地誌には必要ない小言じみた事も書いています。

さらに、宝暦十(1730)年の『大津珍重記』にも、当町稲荷新地に料理茶屋あり、と記されています。

明和元(1764)年京都町奉行の許可を得て新規遊女屋株三十軒となり年々冥加金を納めて営業しました。(享和七年に大津代官支配から京都奉行支配となりました。)

ところが天保の改革で全国の遊所のほとんどが禁止された時、甚七町の二十四あった茶屋も禁止となりました。

この時甚七町にあった店は丸屋、玉川屋、広島屋、井上屋、近江屋、鶴屋、大阪屋、中島屋、河内屋、柏屋、松本屋、鯉屋、山田屋、八百屋、青地屋、松屋、但馬屋、玉屋、己待屋、魚屋などで、遊女屋は宿屋又は他の業に転ずることとなりました。

甚七町近辺は別に相撲や他の興行もよく行われ、又賭博なども盛んで、遊女屋廃止後はしろいもじという若い女を抱えて他人に媒合(男の間をとりもつ)者がありました。

白首、白鬼、白女などは皆遊女の異名で、白湯文字は天保の頃より京都、大阪、筑前、伊勢、能登にて私娼を言い表していたので、しろいもじも白湯文字の事だと思います。

参照:『大津市志市下巻』大津市私立教育会編纂




by gionchoubu | 2018-07-22 17:28 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

守山宿の飯盛女

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                       守山宿

江戸期において、京と江戸を結ぶ東海道五十三次にはすべて飯盛女という娼婦がおりました。滋賀においてもその宿場として、大津、草津、石部、水口、そして土山にも当然宿場女郎はおりました。

同じく京と江戸を結んだ中山道はどうだったのでしょう?東海道は矢張りメジャーで宿場の規模も大きく、道中に主要都市もあり、おびただしい道中ものの艶本が存在します。

脇役の感が否めない中山道にも宿場女郎がおりました。ただし『飯盛女 宿場の娼婦たち』五十嵐富夫著で見ていくと、飯盛女の話は東京側に多く、東より倉賀野宿、板鼻宿、安中宿、坂本宿、追分宿、小田井宿、長窪宿、和田宿等での記録を見る事が出来ます。

上記以外、和田宿の次の下諏訪宿は温泉場でもあり、旅籠から出女が往来の男客に呼びかけ袖をつかみ客引きをしました。ここでは女郎を置かない平旅籠はほんの数軒だったとの事です。

さらに深谷宿も、たいへん盛んだったようで、渓斎英泉の浮世絵には意気揚々と宿場内を褄を取りながら闊歩する飯盛の姿を見る事ができます。

ただし、『諸国遊所競』によると東海道では遊所として品川、浜松、小田原、吉田、府中、四日市、桑名、白須賀、岡崎、大磯、平塚、三島、川崎、掛川、草津、沼津、戸塚、蒲原と多くの宿場が載ります。

一方中山道の方は、東海道の五十三に対し六十九あるのに対し、東京の板橋と熊谷、本庄とずい分見劣りします。

尚、滋賀県の草津も載りますが、これは東海道と中山道をかねていますので、東海道が十九箇所数えるのに、数の多い中山道は、草津をいれて僅か四箇所と、江戸時代の後期の認知度はずい分低かったと言わざるを得ません。

さて、滋賀県の中山道の草津の次の守山宿の事情はどうだったのでしょうか。

『守山市誌』によると守山宿は宿高が近江八宿の内、高宮、柏原について三番目、本陣(大名が宿泊)が普通一つのところ二つ、脇本陣(家老などが宿泊)一、旅籠が三十軒ありました。

宝永四(1707)年の史料に「守山宿の旅籠屋に飯盛女を置くことは先年許されたことであるが、腰掛茶屋や料理茶屋などに五人、三人と召抱えて遊客の好みのままに酒席にはべらせ三味線や太鼓まで持ち出すなど、風俗、所行など全く売女同様で似ての外不埒である。厳しく申し渡して差し止めよ。」のお達しがだされておりますので、間違いなくいた事になります。

これは他の宿場でも同じようなものだったらしく、幕府は享保三(1717)年に旅籠屋一軒に付き飯盛女二人までの布令をだしました。




by gionchoubu | 2018-07-20 16:18 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

今津 花街

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                        丁子屋

今津の人に聞いた所、今津が位置する湖西は何事も京都式、一方草津、守山、彦根、長浜を有する湖東は東海地方の文化が色濃く入り、ずい分人々の気質が違うそうです。

たしかに湖東は東海道も中山道も東海を通じ江戸に至ったわけで、京都と東の文化が共存できる位置関係にあります。

一方湖西では若狭街道、通称鯖街道が京都大原から朽木、保坂、そして今津で九里半街道に合流し、若狭小浜と京都と若狭を結ぶ最短のルートを形成しておりました。

前回見てきたように、今津の花街の妓が京都の花街から連れてこられたのも、この鯖街道が結んだ絆のようなものだったのでしょう。

次に『今津町史 第四巻』からもう少し時代が下った今津の花街の様子を見ていきます。

今津の歓楽街の項を見ると、琵琶湖に面した中浜から北浜にかけての浜通りは、昭和初期には湖西随一の歓楽街として知られ、旅館や料理屋が軒を並べており、陸軍の演習場が饗庭野にあったため上級将校の訪問も多く、軍人宿指定を受けた福田屋や木綿屋などで逗留することが多かったとあります。

さらに旅館や料理屋が多かった事から、福寿、鶴屋、丁子屋、丸福といった置屋で芸者が生活しており、料理屋や旅館からお呼びがかかるのを待っており、時には置屋のなかった近江舞子から呼ばれる事もありました。

つまり前回見てきた明治の初めの茶屋はもう既に無くなり、京都の宇治や木津がそうであった様に
、芸妓は検番(けんばん)を通し旅館や料理屋に芸妓は入りました。

『今津葦海村』編集者 森田吉則を見ると明治四年の宿屋調べでは「善三」「左兵衛」「伊兵衛」「与助」「与左衛門」の五軒だったので、明治の初めの茶屋は泊り茶屋でなく、純然たるお茶屋であったはずです。

さて、今津ではこの芸妓斡旋場をケンバと呼んでおり、そこには芸妓一人ひとりの名札が掛かっており、それぞれの芸妓が今お座敷に上がっているかどうか一目で分かるような仕組みになっていました。

又芸妓はお座敷に行くとき三味線はもたずケンバに常駐する女性が荷物を持って付き添いました。

ケンバの裏には芸妓の稽古場があり、年に一回温習会まで催したほどの力の入れようでした。

確かに今津に花街は存在したのです。

ケンバに登録されている芸妓は、多いい時は二十人にのぼりましたが、昭和十六年には廃されました。

大阪市立大学大学院文学研究科佐賀朝研究室『遊廓・遊所研究データベース』が『滋賀県統計書』より作成した?滋賀県遊廓免許地の変遷によると、昭和6~14に高島郡今津町に芸妓数が記載されており、昭和5年には娼妓数まで記載されていたとの事でしたので、公認の遊廓機能まで併せ持っていた事が分かります。

1986(昭和61)年の『ゼンリン住宅地図』を見ると丸よし旅館、福寿旅館の名で三軒、福田旅館、旅館丁字屋が確認できました。つまり福寿、丁字屋は置屋の後旅館に転業したことになります。


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                       福寿
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                      福田屋


by gionchoubu | 2018-07-18 14:28 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

リンク

弊ブログが大阪市立大学大学院文学研究科
佐賀朝研究室 遊廓・遊所研究データベース
リンク集 街歩き参考サイトに載せて頂いております。

http://yukakustudy.jp/
by gionchoubu | 2018-07-16 12:28 | *リンク | Comments(0)

今津 女奉公人

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                       今津

平成八年、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」明治四年今津の茶屋として魚屋、中村屋、米屋、伊勢屋、舟屋、傘屋、大和家、亀屋、正木屋そして浜屋二軒の十一軒を確認しています。

さらに同研究では今津町史編纂室所蔵「(明治2年―9年)所用書留帳」を調査し、今津町へ奉公に来たと考えられる者十六人を掲げています。奉公先は十一軒の内、魚屋、中村屋、米屋、舟屋、亀屋、浜屋軒でこの六軒が置屋と思われます。

それ以外の伊勢屋、傘屋、大和家、正木屋ともう一軒の浜屋が揚屋になるのでしょう。

この十六人は明治二年から四年にかけて今津に奉公、差遣、年期奉公、養子縁組、商用、出稼の名目で、十三人が京都、二人が大津、一人が平ヶ崎村より、内八人が八坂新地(祗園)と宮川町(一人)から来ています。

年齢は記されているものは十四歳より三十歳です。

北野裕子氏はこの女達の大半が今津に来たのが、明治四年の五月に集中しているのは、その年の二月に飯盛女を抱え商売している者へ、七月までに移転が申し渡されたのを受け、茶屋が不景気を理由に翌年五月までに猶予を申し出た間に相当するので、経営不振に陥った茶屋が巻き返しを図らんがために京都から女を呼んだのであろうか、むしろ、京都の方から維新による打撃のため流失してきたのでは無いだろうか、と鋭い分析をされています。

面白いのは、上記とは別に明治四年五月に男性の三味線引き三人が米屋と亀屋を引受請人として今津に入り、さらに祗園の富永町の芸妓、玉木妹くミが伊勢屋に六月から七月二十日まで出稼ぎを申しこんでいます。

ここからは私の推測です。

まず明治二年から四年にかけて今津に来た十六人の内、八坂新地と宮川町からの八人は酌人として、他の女はあるいは飯盛女として売られてきたのだと思います。

酌人は芸妓より一段下の資格で、座敷で遊芸も芸妓と同じくすることが出来ますが、ゆるやかな資格です。

そして伊勢屋に来た祇園の芸妓はこの酌人に稽古をつける目的できたのだと思います。伊勢屋にいたのは実際六月から七月の頭までで、その間みっちり座敷舞の指導をしたのだと考えます。

舞の師匠が当時の今津村にいたとは考えられず、こういった風に京、大阪の花街の芸妓が期間を決めて地方の花街の指導に当たるというのは他でもあったのかもしれません。

さらに当時の祗園は、少なくとも明治五年までは踊りの流派が井上流と篠塚流の二本立てだったので、厳しい井上流でなく、比較的習い易い篠塚流の芸妓だったと思います。ちなみに、宮川町を含め江戸期の京都の花街はほぼ篠塚流でした、

明治四年に食盛女(飯盛女)と酌人が旅籠屋や料理屋に立ち入る事を今津役所が禁じたあと、食盛女を抱えた店のみ移転を申しつけられたのは、食盛女が不特定多数の男に対する売色が全ての仕事で、酌人は、茶屋が選んだ特定の男に売色もさせたでしょうが、一応芸が表であったためだと思います。

役所はこの二つを明確に区別していたはずです。




by gionchoubu | 2018-07-15 14:29 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

今津 飯盛女

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                       今津の町並

中世以来、湖西有数の湊として栄えた今津湊。近世では若狭からの物資は九里半街道を越えて当地に入り、丸船に積まれて大津や湖東の湊に運ばれました。

また若狭方面から琵琶湖に浮かぶ竹生島へ参詣に行く人々でも繁昌しました。

実際現在でも竹生島のアクセスは琵琶湖東岸の長浜や彦根以外、西岸の今津のルートもあります。

近世初期から中期にかけては貨物・藩米の扱いが年間二十万駄馬あったものの、西廻航路の発達に依よりしだいに衰退、幕末ころには扱いは十分の一ほどに減少したといいます。

今津湊を有する今津村は秀吉時代より芳春院の御粧田として加賀藩領になり、西近江路の宿駅で荷物問屋数軒あり公用の継立の用を果した。安永三年には五百余の家数がありました。

以上が平凡社『滋賀県の地名』による今津宿の江戸期までの略歴になります。

江戸期に今津宿で飯盛女が他の街道宿のように売女として渡世をしていたかを知る手立てはありません。しかし『近江研究35号』、北野裕子氏の「明治初頭の茶屋と女奉公人たち―近江近津宿の飯盛女・芸者・三味線弾―」を読むと、その土壌は、少なくとも江戸期の後期にまで遡れそうだと考えるのが自然と思います。

江戸期に於いて滋賀の彦根藩は自藩に遊廓の設立を認めず、井伊直弼大老にいたっては彦根藩飛び地領の下野国佐野領(栃木県)の売女(遊女)まで廃止するという徹底振りでした。

今津藩の母体である加賀藩も遊廓には厳しい藩で金沢の東の廓が公認されたのは文政三(1822)年のことでした。

ただし加賀藩の支藩の大聖寺藩には公認の遊廓として串茶屋が北陸街道で栄えており、文政以降なら今津で遊女渡世が黙認されていても不思議ではないと私は思います。

さて、「明治初頭の茶屋と女奉公人たち」によれば、明治四年の一月の諸用書留帳に、近年食盛女や酌人が町屋に横行し風儀が乱れるので旅籠屋や料理屋に立ち入ってはいけない、という今津役人のお達しがだされています。

さらに二月、以上の申しつけが全く功を奏しなかったとみえて、食盛女を抱えて商売するものが市中に合い混ざって収支がつかないので河童(子)町裏屋敷地へ移転して、そこで盛大に商売をしてくれ、と趣旨を変えています・・・続く



by gionchoubu | 2018-07-13 11:53 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

朝妻の白拍子

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                          朝妻 

米原の近く、天野川河口にある朝妻湊は、琵琶湖有数の湊として知られ、この湊を含む朝妻村は古代の坂田郡朝妻郷の遺称地であり、陸路、水路の要所として栄えました。

しかし天正年間に(1573―92)に長浜湊開かれると衰微し、江戸期になると、朝妻千軒といわれた面影は薄れてしまいました。

西行法師が『山家集』で「おぼつかな、伊吹おろしの風さきに、朝づま船は逢ひやしぬらんん」と唄われた朝妻船こそ水上売笑婦として朝妻の里で、江戸以前たぶん滋賀県で一番古い色里の遊女の象徴だったのです。

また、也足軒通勝が船中妓女と伝える題で「このねぬる朝づま船の浅からぬ契りを誰に又かはすらん」と具体的に古の遊女船の存在を伝えているのです。

朝妻船といえば、元禄時代の浮世絵絵師、英一蝶の作った端唄「仇し波、寄せては返る浪、朝妻船の恥しや、あヽ又の日は誰に契りをかはして色を、色を、枕恥し、偽りがちなる我が床の山、よしそれとても世の中」と、鳥帽子、水干姿、鼓を置き、手に末広の扇を持った白拍子が船に乗っている姿が知られています。

白拍子は芸妓の祖先ともいわれ、鎌倉時代、源頼朝に鐘愛された千手の前(せんしゅのまえ)は琴、琵琶を弾じ、今様などを舞い、又朗詠などを吟じお酒のお供をしました

時代祭りでお馴染みの静御前も高名な白拍子で、やはり頼朝の前で、白い小袖二かさね、唐綾を上にひき重ね、矢張り白袴、割菱縫った水干を頭に舞いました。

その他、木瀬川の亀鶴、手越の少将、大磯の虎、鎌倉一といわれた微妙など皆貴人に侍った高級遊女でした。

水干に立烏帽子、白鞘巻を指した男性装束で舞う白拍子舞の祖は平安時代の若歌の前、島の千歳とされており、この舞手が遊女化したものとされています。

さて、英一蝶が描いた朝妻船は彼が晩年イメージを膨らませて書いたものらしく、最初は唯小船に烏帽子、鼓などを取り散らしている様が書かれていたに過ぎない、と山東京伝は『近世奇跡考』に書いています。

以上は『滋賀県の地名』以外に昭和四年に発禁になった田中香涯という人の『耽寄猥談』という書物を参考に書いていますが、この作者は英一蝶が水上売笑婦たる朝づま船に烏帽子水干を著せ、鼓をもたせて之を白拍子化したのは芸術的美化であろうとしています。

私に言えるのは、滋賀県の遊里史において、一番新しいのが雄琴の特殊浴場群なら、一番古いのがこの朝妻であろうという事です。

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by gionchoubu | 2018-07-11 12:26 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)