花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
未分類

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

花街ぞめき様へ 元..
by narahimuro at 18:15
> narahimuro..
by gionchoubu at 14:16
> あきさん コメ..
by gionchoubu at 14:51
本当に詳しく、有難うござ..
by あき at 21:27
花街ぞめき様へ 元林院..
by narahimuro at 22:47
> やまねさん し..
by gionchoubu at 12:40
河原町四条の蝶類図鑑は常..
by やまね at 11:23
> やまねさん そうで..
by gionchoubu at 12:36
ちなみに プログレががん..
by やまね at 22:56
> kwc_photoさ..
by gionchoubu at 10:35

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

花街 元林院ぞめき 三
at 2018-12-09 12:56
花街、元林院ぞめき 二
at 2018-12-06 12:58
上七軒 大文字 勝奈さん その四
at 2018-12-05 12:24
花街 元林院ぞめき 一
at 2018-12-02 17:25
大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 三
at 2018-11-28 12:34

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2018年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

長浜 南片町遊郭 辰巳藤

f0347663_11280956.jpg

長浜町遊廓の起源は、慶応の初年妙法寺先住の世話で、鉄砲町の内、神明神社の前、南北の筋に五、六軒あったのが始りとされ、明治の初年、県下第一号の公認得て「辰巳藤」が南片町で貸座敷営業をはじめました。

明治四年に妙法寺門前町南片に遊女屋渡世が十六軒あり、彦根県知事が大通寺に来たとき芸者が接待したという記録があるそうです。

ところが明治五年十一月九日県庁より遊廓廃止の命が下った二日後の十一日に長浜大火で妙法寺も遊廓も全て焼失しました。

明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で以下の様に等級分けされました。

上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円
中等=八幡池田町、彦根袋町、長浜南片町 同二円五銭
下等=大津甚七町、神崎郡八日市村 同一円

つまり明治元年に許可を得た南片町の遊廓が明治五年に廃止されているものの明治六年には存在していることになり兎に角要領を得ません。

滋賀県統計書によると明治十六年末に十四軒の貸座敷と娼妓五十一人、明治二十六年末には貸座敷十五軒、娼妓七十一人と有ります。

『近江長濱町志 第三巻』の第十一章、遊廓によると、昭和の始めの数字と思われますが芸妓四十六人、娼妓五十一人で

芸妓を抱えていたのが、宮川楼、中藤楼、辰巳藤、川島屋、富田屋、娼妓を抱えていたのが大種楼、都楼、浅野楼、北川屋、大坂屋、島屋、富久美屋、福助楼、芸妓・娼妓とも抱えていたのが高崎楼。敷島楼は休業とのことでした。

休業中の敷島楼以外の貸座敷は芸妓か娼妓かもしくは両方を抱えていた事になります。

『全国遊廓案内』でも長浜の娼妓はやはり居稼ぎになっております。つまり女郎屋に娼妓は住んでおり、客はこの女郎屋に入ることになります。

この反対が送り込み制で娼妓は置屋に住み、客のいる揚屋に送り込まれていくのです。

芸妓も同じで、長浜では置屋とお茶屋が兼業になっていたという事になります。

その他、店は陰店、通し花制で廻しはとらない、一時間遊びが一円五十銭で一泊すると四、五円、この料金に台の物(客席に出す酒、肴、茶菓等の事)は含まれておりませんでした。

参照:長浜百年、近江長濱町志 第三巻、長浜市史四 、



by gionchoubu | 2018-06-30 11:33 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その四

f0347663_14510988.jpg
              現存する油屋さんの隣が東楼でした。
              今回訪れた時この吾妻の看板はありませんでした。

f0347663_14554132.jpg
f0347663_14563044.jpg
               廓内の水子地蔵尊に東楼が奉納した額があります。         

草津新地遊廓をささえてきた一番お客さんは地元の農村青年で、映画館も劇場も貧弱で農村成年の青春を満足させられなかったが、この郭の灯だけは夜の青年の胸をおどらせ、夕闇せまれば、こっそり白米一升をしのばせショーとタイムを楽しんだ、という時代もありました。

また県庁のお役人たちも宴会は石山で、二次会は草津新地へすべり込むコースが常道とされていていました。京都へは大げさだし、大津柴屋町では顔がさすので、草津新地は絶好の「安上がりのよろめき場所」だったのです。

経済的には娼妓一人でほぼ一家を養える程度の収入はあったとされており、このことが逆に遊客であった草津近郷の人々にとって新地が散財の場でもあったといえました。

昭和三十三年に売春防止法が完全施行されるまで、新地関係者も様々な対策を行いました。各種の寄り合いをしたことは無論のこと、業者や娼妓などが政権政党へ集団入党し、政治的圧力によって売春防止法を阻止する方法を考えたりしましたが徒労に終わりました。

昭和33年2月26日の滋賀日日新聞によると、

『六十年の売春史に幕、草津東新地で解散式』『関西赤線のトップ、接客婦の半数は帰郷』

既報=草津市東新地貸席組合=十一業者、中村一組組合長は、二十五日午前十時から同事務所で解散式を行い、関西赤線街のトップを切って六十年の歴史の幕を閉じた。

「この日、事務所前と各業者の店頭には“休業あいさつ状”が一せいにはりだされ、接客婦三十三人は午前中に最後の検診を受け、各業者ごとにささやかなお別れパーティを開いたうえ、帰郷者十七人は最も遠い鹿児島姶良郡蒲生町字下久徳、農業A子さん(22)が一万円をもらったほか最低三千円までを旅費として楼主から支給され、それぞれ郷里に帰っていった。

残りの十六人は芸妓に転向するもの九人、旅館女中一人、結婚三人、未定三人だが、芸妓見習四人は東新地芸妓置屋事務所を旧貸席組合事務所内に設け、旧楼主らも料理八、旅館三に転業することになり、東新地料理屋組合、旅館組合を結成、いずれも天下晴れての許可を待つ事になった。

東新地の全盛時代は戦前で業者十五軒が百五十人の女性を抱え、芸妓六、接客婦四の比率で二本立て営業をつづけていた。

中村組合長の話

二月末日でいっせい閉店を県連合会で申し合わせいたのを草津新地だけが繰り上げたのは警察の圧力が加えられたのではなく、ここの女性たちに一日でも早く更正してもらうためだ。

すでに三人が結婚生活にはいることになっており、他の人々も県夫人相談員の上杉愛子さんの努力で就職の道が開かれようとしている。十一業者も新商売のスタートに速やかな心構えと固い決意のチャンスを逃がさぬためである。」

『朝日新聞滋賀版』昭和33年2月28日によると、本来従業婦の十数名が芸妓に転進を希望しており、昭和三十三年初頭より大津から師匠を招いて三味線、長唄の練習を行っていたものの、警察から元からの芸者十人以上の新規芸妓は認めないという方針をだされたので結局四名のみの志望になったようです。

さらに風俗営業の料理店。飲食店と芸妓置屋を兼ねることも禁じられたので、この四人はこれまでの貸座敷業者のところに居住することが出来ないため、もとの検番に宿泊せざるをえませんでした。

その後の顛末について、私では追うことができませんでした。

参照:草津市史 第二巻





by gionchoubu | 2018-06-27 15:03 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その三

f0347663_12051534.jpg
                          東新地

昭和二十年九月二十三日の『滋賀新聞』

動員されていた「工場からの復帰姐さん二十七名が出揃い、終戦このかた(中略)娯楽境を志し、紅燈絃歌の敢闘を約す女性群が続々と馳せ参じて開業を届出ている現状」と伝えています。

終戦直後は芸妓がさっぱり売れず、もっぱら従業婦の名の、戦前なら娼妓という立場の女性が多く、一時はその数も六十人を越えました。所謂赤線地帯としての営業でした。

戦前と違うのは、客が近郷の農家や商家の主人以外、昭和二十二年から二十四年ごろまで進駐軍の兵士が来るので、カウンターを設けて洋酒バーを設置した貸座敷もあったといいます。

昭和二十九年には当時の町長が観光対策の一案として新地の門前に大ネオン一基を建てることになり町からその補助金四万五千円を出すことになり、これに対し町民から非難の声が上がりました。

なぜなら総工費十二万の大鉄骨ネオン灯にはなまめかしい裸の女性が夜空の星を眺めて寝そべっているもので、通学の学童にとって風紀上好ましく無い物だったからです。

草津新地は創業当時、構えは吉原土堤八町を模したものと言われ、その入り口の大ネオンはさぞかし人の目を引いたことでしょう。

昭和三十年ごろから渋川町地先に綾羽紡績が誘致され、隣の守山町に日窒アセテートが建設工事を進めるようになってから思わぬ糸ヘン景気が訪れました。

そして周辺の八号線工事の活発化と併せ糸ヘンの行員さんや建設工事関係者で新地は毎夜超満員でその相手の従業婦も五十人いたといいます。

さらに、国道一号線の横にあったので、トラックの深夜運転の運転手の運ちゃんの休憩場所となり、東は岐阜、西は大阪まで、多くの運転手が利用したということです。

そして遊びの費用が安いのも東新地の特徴でした。昭和三十三年の閉鎖ぎわの花代は正味一時間四百五十円、泊り千円で、大津柴屋町より時間で五十円、泊りで二百円安く、草津遊廓の安いのは昔から大津、京都でも知られていて汽車で行ってもその方が安上がりとされていました。

当時の大津の古老の話では「カエルの鳴声ききながら、遊興三まいにふけるのも案外田舎臭い情緒もまってオツなもの、生き馬の目をぬくというような都会とちがった気安さがあったもんだ。」

と、むかしの草津新地廓をなつかしむ声もきかれたといいます。

参照:滋賀日日新聞 昭和33年2月26日



by gionchoubu | 2018-06-24 12:08 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その二

f0347663_15300348.jpg
                       開盛楼

『宿場春秋 近江の国・草津宿史話』小林保夫 八杉淳著「宿場の飯盛女」の項を見ると、天保九年三月九日に草津宿助郷村方から出された願書(『膳所藩郡方日記』)で、近年草津宿で急増した飯盛女が助郷や商いの為に草津宿へ出る若者を誘うので村の風紀が乱れて困るから禁止して欲しいとの要望を出している様子が分かります。

さらに、「飯盛女所業取締方請書」にも、飯盛女の衣装が派手になり、所用で草津宿を訪れた若者を無理やり泊めてさらに酒食代を貪っているのにも拘わらず役人たちは見て見ぬふりをしているので、今後不届き物は召しとらえるという事が記されています。

結局奉行所は、この件にかんして、五月十九日に飯盛女を三十日間引き払う事を命じました。

同書には飯盛旅籠での遊興費(安政年間)も載っていました。

玉代(上玉)七百文、同(普玉)五百文
酒肴代(酒一本と肴一品)四百文
祝儀代(番頭・仲居へ)二百文

酒肴代と祝儀代をあわせると玉代と変わらないことが分かります。

明治になり、旧東海道五十三次にあった遊所は、自然消滅した所、そのまま残った所、そして東海道線の開業によりお客が寄り付かなくなったり、街道上に女郎屋があっては風紀上よろしく無いとの理由で移転した所に大別されます。

移転組として、神奈川宿は明治十七年、程ケ谷宿が明治三十三年、沼津宿が大正五年、江尻宿が大正末年、浜松宿は大正の末に街道沿いを離れました。

草津に於いて、町の東端の田圃をつぶして東(あづま)新地が誕生したのは明治三十三年とされ、旧草津街道に残っていた女郎屋が移りました。開業当初僅か三軒でのスタートだったと言います。

堀井吉之助にこの年「貸座敷免許鑑札」が下付されているのと、草津の新地が明治三十三年県税賦課規則で、四等地として税地等級の対象となっているのが根拠となります。

東新地の最盛期は、昭和57年の聞き取りによれば、第一次世界大戦の戦需景気による大正八年頃をピークとし、中央の広い道路を挟んだ両側に貸座敷が並び、

北側西より、角屋、煙草・菓子販売業、油屋、東楼、検場、中君楼、池田楼、山貞(やまて)楼、中村楼

南側西より、吉富楼、月の家、常盤楼、開盛楼、大富楼、すし屋、富士楼、松葉楼、寿楼、栄楼が軒を連ねました。

北側中央の検場(検番)には芸妓、娼妓を呼んで遊ぶ揚屋の組合、芸妓、娼妓を抱えている置屋の組合、料理組合が置かれていました。

ただし、草津町の東新地は揚屋(お茶屋)、娼妓や芸妓の置屋、そして仕出しを担当する料理屋の所謂三業が明確に分離しておらず、中村楼と大富楼のみが芸妓置屋であったといいます。

又、芸妓は新地内のみでなく、双葉館魚寅楼など他地区の宴席にも呼ばれるため、大正期に人力車五台をもつ車屋も存在しました。

参照;『草津市史 第三巻』、『艶本紀行 東海道五十三次』林美一著


f0347663_15312749.jpg
                       双葉館魚寅楼


by gionchoubu | 2018-06-20 15:34 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

近江のお兼

f0347663_12193648.jpg
                        湯女町

滋賀県海津といえば「日本のさくら名所百選」の一つに数えられる程の桜の名所、湖岸に咲き乱れる桜は奥琵琶湖に春の訪れを告げる風物詩となっています。

そしてもう一つ「近江のお兼」の舞台として歌舞伎や日本舞踊の世界にはお馴染みの地として知られています。

建長六(1254)年の『古今著聞集』によれば、「近ごろ、近江の国かいづに、金という遊女あり」と著され、それによると、東国の武士が大番(京都警固)の役目で京に上がる途中海津の宿につきました。

一行が馬を湖に入れて洗っていると、そのうちの一頭が物に驚いて駆け出した。大勢が弾き止めようとしたものの、それを振り切って猛スピードで掛けていきました。

それに出くわした遊女お金は、すこしもあわてず、高下駄でさし縄の先を踏みつけました。すると馬はやすやすと止まってしまった。馬の弾く力はものすごかったので、お金の下駄が砂に深く食い入って足首まで埋まってしまいました。

これを目の当たりにした人々は驚き、お金の大力ぶりにたいへん感心しました。

このお金は、指の力だけでもものすごく、五本の指ごとに弓を張り、五張を一度に引くこともできました。

有名な法師の妻にであったお金は法師が他の遊女に浮気をするので、「かの事くわだてんとて、またにはさまりたりける」法師は両股で締め上げられ気絶してしまい、死にかけたというエピソードもあります。

お金(兼)の話は上村行彰著『日本遊里史』にも載り創世記の遊女の章を飾ります。

地元の古老の話によるとお金は湯女町の遊女だったとも、池田屋(のちに浜屋)という宿屋の用心棒だったともいいます。お金がすんでいたという湯女町の名は、裏通りを入った小道の通称名として残りました。

湯女町・・・あるいは小さな遊所だったのかもしれません。

「石でもごんせ、俵でもござれ、五十五貫(二百六キロ」はなんさんのその・・・」

伝説にのこる怪力でならした、おおらかで、すこしユーモラスな遊女お金の姿・・・中世で言う遊女という女性が、現在で売女の意味のみて使われる遊女とは違った意味の女性であったのは確かだと思われるのです。

参照:『名作作散歩 歌舞伎と京都』京都新聞社編、『海津物語』滋賀県高島郡マキノ町発行


f0347663_12203055.jpg
馬が暴れたあたりでしょうか?

f0347663_12215000.jpg
                        お金のお墓
f0347663_12224140.jpg
                      お墓のある福善寺


by gionchoubu | 2018-06-16 12:23 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

草津東新地ぞめき その一


f0347663_12053999.jpg
                      草津宿本陣

『旅枕五十三次』に「駅中に札の辻あり、木曾街道のそれ道なり、此宿の遊女五百文、また四百文もある。ある説に云。此宿の下品のめしもりも近在貧賤のものゝ娘、あるいは下女、はしたの類、ひそかに此宿へ出て客をとり、小遣いとする故に下者多し。名物、うばが餅」とあります。

木曾街道は中山道のこと、大津宿とともに東海道と中山道を兼ねた草津宿は本陣、脇本陣とも二軒ずつあり、旅籠は文政二年(1819)百八十軒あったといいます。

さらにお伊勢参りのお客もほとんどここに一泊して賑わい、大名、小名、町人もここで旅装を解いたと言います。

「草津の買物は姥(うば)が餅とお女郎さん」と飯盛女も名物だったようです。『諸国遊所見立角力並に直値段』によれば草津の遊女の位は、前回紹介した近江八幡より劣るものの、水口宿、石部宿よりは上位にあります。

『草津市史第二巻』によると、飯盛女の横行に手を焼いた幕府は度々取り締まりをしました。ところが享保三年(1718)、幕府自ら課した負担ばかり多いい宿場経営維持の為に、やむなく旅籠屋一軒に飯盛女二人という名目で事実上遊女を認めたのです。

この間草津にどれくらいの遊女がいたか不明ですが、文化二(1805)年の「間之村休泊御差止方等請書」や同十一年の「飯売女取締方請書」で定の人数以外に飯盛女を置かない、いささかも華麗の義がないように取り締まるとの請書に草津の問屋・年寄が連印しているので、確実に草津に飯盛女の名の遊女がいたことになります。

さらに「膳所領郡方日記」によれば、文政九(1826)年二月草津宿宮町の?屋文右衛門ら四名は“風儀宜しからざる下女共抱え置き、衣服等倹約ニ背キ候趣ニ付き〜”罰金、手錠、宿払い等の処罰をされています・

同じ文政九年には六丁目の徳兵衛が下女に客を取らせ、法外の折檻を加えたために下女は自殺、これを届けず隠そうとしたので全財産没収の上追放の処分を受けました。

これは旅籠一軒につき飯盛女二人では到底需要に間に合わず、下女の名目で売女を置いたのを見せしめで取り締まったのだと考えられます。

天保九(1838)年の飯盛の数は六十人で、二十人を一組とし、取締人をひとりずつ置いていました。

そして同年幕府の令で飯盛女自体が禁止、しかし草津宿では請願により同十三年に給仕女を置く事が許されました。この給仕女は三味線・太鼓・酒の相手、歌舞、売春行為は決してなさぬ事。衣服、帯、襟、袖、下駄、草履まで全て木綿製にする事、櫛や髪飾り、笄に鼈甲や金銀を用いない事、蛇の目傘やもみじ傘を用いない事などが申し渡されました。

つまり天保九年以前の草津の飯盛女は衣服、帯、襟、袖に木綿を使わず、櫛や髪飾り、笄に鼈甲や金銀を用い、酒の相手をしながら歌舞、三味線、太鼓で旅人ををもてなし、春を売っていたことになるのです。

f0347663_12060156.jpg

                 東海道と中山道を兼ねていた草津宿


by gionchoubu | 2018-06-11 12:09 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

近江八幡 池田町遊郭ぞめき三

f0347663_11523744.jpg

八幡堀に近い池田一丁目、二丁目、元玉屋の三町を合わせて「西町」とよばれていた八幡町の遊郭は明治六年二月県下の他の遊郭とあわせ納める税金で以下の様に等級分けされました。

上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円
中等=八幡池田町、彦根袋町、長浜南片町 同二円五銭
下等=大津甚七町、神崎郡八日市村 同一円

西町と呼ばれた頃の客筋は八幡近在の大商人や地主連中が主で、悠長究めたお大尽遊びをし、茶屋に十日も二十日も遊び続け毎日ドンチャン騒ぎをし、芸者は三味線の糸が切れるまで、撥が折れるまで演奏し続け芸妓の方が音をあげたという話もありました。

『滋賀県八日市市八日市新地遊廓』によれば、貸座敷の数は明治16年14軒、明治41年12軒、大正元年13軒とほぼ横ばいできましたが昭和元年32軒と急激に増えております。

昭和5年発行『全国遊郭案内』によれば、貸座敷10軒程で娼妓は三十人程、遊興制度としては陰店式の通し花制で廻しはとらず、一時間遊びが一円位、一泊すると四、五円で、これは同書による八日市延命新地の一時間一円五十銭、泊り六、七円見当に比べお安めです。

公的な資料である『公娼と私娼』、昭和五年六月末では貸座敷15軒に対し娼妓十三人ですので、『滋賀県八日市市新地遊廓』の数字とはずい分違うのが悩ましいところです。(貸座敷には芸妓置屋と御茶屋が含まれているのが普通です)

又、『滋賀日日新聞』の昭和33年2月22日の「消えゆく赤線地帯」の「近江八幡池田町」では昭和のはじめに池田町一丁目の山春、花月、池田町二丁目の京春、政乃屋、元玉屋町の鍵時、月歌など32軒の業者に芸妓三十五人、娼妓六十人、これまたずい分違う数字がでており、どれを信じたらよいのか分かりません。

さて、昭和になって元玉屋町の京都座が焼けると、軍国主義の台頭と併せ、八幡堀の水が枯れ舟運が途絶えたことで茶屋の転業、廃業が続出、赤線直前の長楽園(元池田町遊郭)組合の業者は八軒、従業婦三十名にまで落ち込みました。

従業婦を呼ぶに時間(正味五十分)三百六十円、泊り九百円でした。

そして最後まで営業を続けた池田町二丁目の“きんたか”も昭和三十三年2月26日廃業届けを近江警察署に提出、同時に料理屋に転業手続きを行い“名月荘”として新しい門出を迎えました。

かつての従業婦も昨年末から帰郷したり結婚したりで最後は帰郷前に主人夫婦を手伝い開業に備えました。

夜ともなれば、しゃれたスタイルで客足をのばすトリスバー“銀竜”が目に付くだけの町になりました。池田二丁目の検番跡にオープンしたのが銀竜でした。

何れにせよ池田町遊廓の最後は、江戸期に練り物まで出した繁栄に比べると、滋賀の遊郭、赤線の終焉のなかでも特に淋しく感じます






by gionchoubu | 2018-06-06 11:57 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

近江八幡 池田町遊郭ぞめき二

f0347663_12145921.jpg
茶屋の中池田町二丁目にあった大高楼は最も有名で、構造建築最も壮大に設備よく、大玄関は駕籠乗馬のまま通じ、裏には馬のつなぎの用意も有り、創建は元禄時代にあったとされ、皆川棋園はかつてここで「名月」の題字を掲げ、頼山陽は「紅紫相映」の雅号を大書し、さらに儒者であり画家でもあった粋人の梁川星巖も書や画そして星巖ノ間と称した離れ座敷を残しました。

この星巖ノ間などは床が高く、カクレ場所や抜け道がありまるでカラクリ屋敷、ここが後年倒幕のアジトに使われたと言い伝えられました。幕末多事の際、本町には西川吉輔の志市を出し、多数の策士が往来し秘密の計略がこの地でなされたとも伝えられています。

大高楼は明治にはいり女将の死亡と共に同町の京初楼として継がれ、京春時代を経て金鷹楼として営業したとの事ですがネットでは会えませんでした。

その他池田二丁目には大高と併称された大栄楼という大店もあったと伝えられています。

池田町遊廓がいかに財力を持ち繁栄していたかを知らしめたか・・・それは天保十一年三月二十五日、妓女による練り物が催された事が如実に物語ります。古今東西花街の妓女よる練り物が行われたのは現在特定できるものとしては京都の祗園、島原、上七軒、大阪の新町、島之内、曽根崎新地と超の着く一流所、東京の一、二箇所だけで、八幡町池田町は一時歴史上これらの花柳界と肩を並べたのです。

これは宮の馬場拡張祝賀の為催されたもので、絵番付けの原版が八幡神社にあり、刷物は町内の旧家にも散見するそうです。

大高(鶴尾、千さと、とみ松、政菊、春の、栄鶴、たけ)

大栄(鶴の、重鶴、今江、しげ葉、富栄、君栄、松栄、市松、千代の、菊葉)

鍵久(千世治、若治、きく葉、みつ葉、いは葉、千代松、きみの、千代治)

京防(てるは、八十栄、しげの、房松、うた松)

京屋(照葉、留松、歌松、しげの)

左が置屋( )内が妓女という事でしょう。

さらに徳川末期には金田、近江屋、京吉、玉三、梅本等の名の記録もあるそうです。

幕末維新頃の俚謡に「酒は但馬屋、醤油は鵜川、女郎は大高若松サン」ありました。大高の若松は名妓として聞こえ、もとは五条坂の路上生活者の女であったということです。

参照:滋賀県 八幡町史・中



by gionchoubu | 2018-06-03 12:17 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)