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近江八幡 池田町遊郭ぞめき一

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琶湖の東岸にある近江八幡市は中世より湖上交通の要所であり、近世に入ると大津、堅田、今津などの琵琶湖諸湖と丸太船で通じ、年貢米や八幡商人が扱う諸商品の湖上運送の拠点となって繁栄しました。

又、琵琶湖沿いに朝鮮人街道が通り、東よりには中仙道の武佐宿が置かれ、武佐宿から八風街道が東進して伊勢国に通じ、その途中の八日市村では御代参街道が交差して東海道にも通じていました。

産業としては農業を中心に漁業も行われ、蘭の栽培、畳表、灯心、蚊帳などの加工内職も盛んでしたので、商、工、農、魚業が盛んで水路、陸路の便がよいという大変恵まれた土地でした。

盛時には三十二種類の株仲間が結成され、町内の活動に留まらず、関東一円を中心に全国的な商業活動を行った八幡商人を輩出しました。『滋賀県の地名』平凡社

この経済的にも立地にも恵まれた町に傾城町が存在したのは古く、慶長六(1602)関が原決戦の二年後、京の二条柳町から六条三筋の廓に移った年には既に記録に残されています。これはこの年、琵琶湖内の全ての船を調査した時の船改帳の中に、八幡の持主名に「けいせい町彌蔵」と書かれていた事で分かります。

徳川時代になると八幡神社境内や鉄砲町のあちこちに私娼が春を売りました。
江戸時代の中期過ぎ片町の住職が寺の繁栄と風俗的な見地から一箇所に集めるべきであると主張して、土地と家まで提供して近江八幡池田町に遊郭を造りました。

これが西向きのご坊さんと言って湖北の遊客に親しまれました。

池田町遊郭としての最盛期は文政から天保頃らしく、大きな茶屋は抱芸妓三十名に及ぶものもあり、西町全部に芸妓百余名、娼妓三、四十名という立派な花街だったようです。一流の廓の格式は高く、妓は京都祗園の出身に限り、衣装は贅を極め、一席の宴遊にも数度着替え為す有様だったという伝承もあります。

天保前の全国の遊所の格付けをした『諸国遊所競』によると江州八幡の番付はかなり高く上から二段目(五段まであり二段目までは字が大きい)で西の前頭十八枚目、ちなみに東の十九枚目に先斗町が見えます。

先斗町も八幡池田町も片や東海道と高瀬川、片や八幡堀と朝鮮人街道、水陸の便に恵まれた複合型の遊里でした。そこには人と物と富が集中します。そこに流れる水と仕事にも遊びにも長けた旦那さんがいい芸妓を育んだのです。

参照:滋賀県八幡町史、滋賀日日新聞昭和33年2月22日





by gionchoubu | 2018-05-29 11:11 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その七

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昭和33年3月15日 京都新聞より

赤線きょう千秋楽 あすから消える“橋本の灯”千二百年の歴史に幕 貸席組合は大衆温泉へ衣がえ

全国の赤線はきょう十五日で姿を消すが、八幡町の橋本遊郭も一斉に店じまい、十六日午前十一時からは組合講堂で業者と授業婦が集り「橋本遊郭解散式」を行うことになった。同遊郭の生れたのは神亀元年、これで千二百年三十余年の歴史に終止符をうつ。

同遊郭には現在七十八業者があるが、うち十七軒は従業婦が一人もおらず、このところ開店休業の有様―。しかし営業しているというものの、引手を出せないためか最近のお客は顔なじみもお得意ばかりなので、楼主の方も最後とあって花代を割引したりしてサービスに努めている。

また中には、料理屋への転業準備にかかり、店先には部屋つくりの砂や大工道具が置かれ、職人が昼夜の別なく出入りしているなかで客をとる風景もみられるがさすがに転業を控えてあちこちの電柱には従業婦の職業に一役かってか「求女中」や「仲居募集」の広告がはってある。

一方橋本貸席組合(増田末吉組合長)では、いまある組合講堂を利用して大衆的なラジウム温泉にすることを決め、組合員らの共同出資で経営することになった。

ラジウム温泉の計画は、橋本の地を大衆的なものにしていこうというところから考えられたもので、岐阜県多治見市の某鉱山会社の協力を得てラジウムを含んだ砂を買い、いまある役三百坪の講堂を改築して砂フロや温泉を造ろうというもので転業後の橋本に活を入れるものとして期待されている。

そして二日後の十七日の京都新聞では

『立派に更正して 八幡 橋本遊郭の解散式』

綴喜郡八幡町橋本遊郭従業婦互助会(高熊夏江会長、会員二百二人)の解散式は十六日午前十一時半から貸席組合講堂で行われ、千余年の紅灯の灯を消した。

この朝、従業婦たちは朝ブロで身を清めたのち、二百人のほとんどがフリ袖姿の和服会場に集った。

まず来賓として田辺警察署長、府婦人相談員らから「立派に更正して下さい」とお祝いの言葉が述べられ、また高熊会長は涙を浮かべながら「善悪は別として永年住みなれたこの地もきょう限りと思うともう胸がいっぱいになって・・・・。これからはどんな惑いにも負けず強く生きて行きましょう」とあいさつ、別れを惜しむ従業婦たちで一時は沈黙が続いた。

最後に立派に更正をするため万歳を三唱した。なお同貸席組合(増田末吉組合長)から従業婦らに帰郷費として一人二千円、同互助会から九百円の二千九百円が贈られた」。





by gionchoubu | 2018-05-25 15:09 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 赤線

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全国を駆け巡る“花街ノスタルジア”さんのサイトによればこの辺りが水口検番跡

内務省警保局が編纂した『公娼と私娼』によると、昭和五年の甲賀郡水口町に営業者数十五軒、娼妓十人となっています。この営業者数は貸座敷のことで、これは娼妓置屋、妓楼、芸者置屋、お茶屋、これらの兼業者を総計したもので、娼妓数より貸座敷が多いのはこの数字に表れない芸妓が多かった事を示唆しています。

同じく昭和五年発行の『全国遊廓案内』で「水口遊廓は滋賀県水口町にあって関西本線柘植から草津線に乗車、更に岐阜川駅で近江鉄道に乗って水口駅へ下車する。妓楼、其他詳細な事は判明していない」が全文で実にそっけないものでした。

同署他の滋賀県の遊廓の遊興制から察して、娼妓は廻しをとらない大阪方式で、又遊客が娼妓を選ぶのは写真でなく、実際妓楼内で対面して女を選ぶ陰店を張っていたのは間違いない所だと思います。

昭和のころになると打寄せた不況の波と、戦時体制への移り変わりでだんだんと衰微の道を辿り、戦争末期には大部分が転廃業を余儀なくされました。

戦後は赤線の名で業者の数も十二・三軒までもどしたものも売春防止法の発行で水口石倉新地も法の前に終止符を打つことになったのです。

廓は平和、なると、一富士、立花、大正、若松の六軒で九人の従業婦が最後の稼ぎをやっていましたが昭和三十三年二月二十八日にその幕を閉じました。

二十七日夜から二十八日にかけては名残を惜しむ遊客で平日なのに紋日なみの賑わいを見せ、三月一日午後から同町魚庄で解散式をあげ元従業員は各楼主から一人当たり五千円〜一万円の餞別が渡され、その後は帰郷、旅館勤め、女中とそれぞれ新しい門出につきました。

業者の方も旅館三軒、下宿二軒、飲食一軒の転業希望を県に申し出でているものの、三月中にハイヤー、質屋、マージャン屋などへの転業をも考えていました。

県では水口石倉新地の開放は業者と従業員が少ないため案外問題ないとみていたようです。

『艶本紀行東海道五十三次』の著者、林美一が石倉新地が解散した四年後の昭和二十七年に訪れたとき、建物が手入れされていない為、薄汚い一郭になっており、中には一階が物置みたいになっている家さえあり、

「赤線のあとは、どこへ行っても栄華盛衰のあとをまざまざと見せつけられるものだが、ここは特にわびしい思いがした。」と述べました。


by gionchoubu | 2018-05-22 11:01 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 石倉新地

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当時の貸座敷、志乃ヽめ旅館

慶応から明治初年にかけてはますます栄え、この時代は水口女郎の名が街道筋の話題を賑わしたといいます。

しかし明治維新後に藩主加藤氏が去り、鉄道敷設、さらに海路の便が開かれ、旅人は旧街道を通らなくなり商況は大いに衰えました。

そのため『甲賀市史第四巻 明日への甲賀への歩み』を見ると明治二十二年西村利一が初代水口村長に就任すると、遊郭と米穀取引所の設置を計画し村では誘致が難しいと町へ昇格させました。

明治二十年頃から遊郭設置の願書を県二再三提出するも中々認可されなかったので、兼ねて県会議員もかねていた西村は県の警察部の機密費削減を復活させる代わりにとの条件を出し、とうとう明治二十七年新遊郭の認可をとりました。

これが石倉新地で街道筋の飯盛旅籠で余命をつないでいた女郎や町に散らばっていた遊女をあつめて明治三十二年に町外れに誕生したのです。

明治三十二年一月十一日付けで、水口遊郭創業事務所から十五日に丸金楼で開業を祝う宴席の案内が発送されています。(甲賀市蔵)

昭和三十三年三月一日の滋賀日日新聞によると、このとき町の有力者だった中村又兵衛、荒川松冶郎、中西伝兵衛、大村利兵衛らが発起人として尽力したといいます。

新遊郭の設置にあたっては、かつての飯盛旅籠の一部で女郎屋として余命をつないでいたもの等、町にちらばっていた遊女を集め、旧本陣の一部を取り壊し四軒の遊女屋を建てました。中でも長盛楼は吉原遊郭の大まがきを真似て豪壮な建築でした。

そして遊郭の入り口にあたる中島町に米穀取引所もでき、遊郭は大いに賑わいました。ただし米穀取引所の方は運営が難しく、日露戦争直前の不況もあり、明治三十六年に解散しました。

明治末期から大正にかけて業者も二十軒に増え、芸妓約三十人、娼妓約二十人の花街に成長し、芸妓は京都の祗園とも交流も深く名妓と呼ばれるものの少なくありませんでした、と紙面にありますが、『滋賀県八日市市八日市新地遊郭』三露俊男著が公的資料に実数を求めた資料では貸座敷数が明治四十一年に十一軒、大正元年十三軒、昭和元年十五軒(娼妓二十一人)となっており、こちらの数が正しいはずです。

この頃が石倉新地の全盛期で、政党はなやかな頃、選挙となれば廓も大繁盛、芸娼妓も政友派、民政系に別れ互いに道で出会っても口もきかないという始末。
貸座敷も看板こそあげませんでしたがこの両党にわかれました。

こういった環境にあった彼女達はなかなか気骨に富み、町の繁栄策とあれば自腹を切って盛装をこらして町を練り歩き、総出の手踊りなども買ってでました。

こういった気前のよさにうつつを抜かし入れあげた町の一流どころに倒産騒ぎが相次いで出来たものもその頃でした。

ちなみに『大阪を中心とさせる近県電話帳大正十二年用』によれば登録業者の貸座敷業として一力楼、磯の家、東雲(しののめ)楼→現在の志乃のめ旅館と思われます、長勢楼、旭楼、宇気世楼、梅の家、萬花楼の八軒が載ります。




by gionchoubu | 2018-05-20 14:49 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 華の作坂

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                     高札の辺りが“華の作坂”町

水口宿でも作坂町を中心に、旅籠町、湯屋町、本町一帯は“華の作坂”と呼ばれ、旅人達が遊女と絃歌さざめき戯れて、朝ともなれば一夜の契りで別れを惜しむ旅人と遊女で、当時水量が多かった野洲川べりの屋型船にあでやかな彩りを添えたといいます。

明治の初めまで酒席でよく唄われたものに“京屋のおよしは馬より強い、諸国大名みなのせる”というものがあり、これは寛政年間(1798~1801)水口の京屋という旅籠屋にいた、よしという名の美人で評判の飯盛のことを唄ったものだといいます。

『諸国遊所見立値段附』には、あふみ水口四百文とあります。これを他の五十三次の宿場女郎の値段とくらべると、浜松、六百文、吉田、四日市、岡崎七匁、
小田原十匁、宮十匁より、白須賀、掛川、亀山、見附、五百文などと比べると、石部、藤枝と並び水口四百文はすこしお安めといったところです。

安政年間(1854~59)になると国事多難の折から水口で宿泊する旅人は最も多く旅籠は繁昌を究め、一戸五人の遊女では足らず、女中などの名目で女を置きました。

幕末の水口藩と京都の島原との話題を二つ、

島原輪違屋で、青年時代の伊藤博文となじみをかさね、和歌・書道にすぐれた作品を残し、安政二(1855)に発刊された宮古現存和歌者流梅桜三十六家選、木版の一枚刷りにも紹介された桜木太夫。

この桜木太夫を見受けした京都奉行同心森孫六が安政の大獄で勤皇の志士を捕らえたのが恨まれ、文久二(1862)年九月二十三日、土佐・長州・薩摩の暗殺団に石部宿で大河原十蔵、上田助之丞、渡辺金三郎と共に殺され、森、渡辺、大河原の首が京都粟田口の刑場に竹につるされてさらし者にされました。

もう一つは以前このブログで紹介させていただいた逸話です。

文久三年(1863)近江の水口藩の公用方が会津藩の公用方に、新撰組の乱暴狼藉は目に余る、という様な話をしました。これを受け新撰組の上部にいる会津藩は、新撰組に注意をいれました。

これを聞いた新撰組局長の芹沢鴨は部下を水口藩に向かわせ、その公用方を引き渡せ、とねじ込みます。水口藩邸では詫び状を入れることでその場を収めました。

しかし、その場しのぎの詫び状の件が水口藩主に知られると首が飛ぶと水口藩士は思い直し、間に人をたてて、詫び状を戻してくれと芹沢に頼みました。

そして水口藩は島原の角屋に芹沢らを招待して手打ちの席を設けました。総勢100人を超える規模、島原の芸妓まさに総揚げの大宴会です。

この席で、最初は機嫌よく楽しんでいた芹沢ですが、飲む程に酒乱の悪癖が顔をだし、角屋の仲居が自分を避けているのを感じ、普段からの角屋側の自分への扱いに対する不満が爆発したものと見えて、部屋に飾ってあった太鼓を二階から投げ落とし、「尽忠報国」と書かれたいつも持ち歩く鉄扇で飾り壺は叩き潰す、さらには階段の飾り欄干を引き抜き、開下で振り回し、帳場から台所まで悪鬼の如く手当たり次第壊しまわり、最後に角屋徳右衛門に七日間の店じまいを申しつけました。

水口藩士も幕末の一幕“芹沢鴨 島原角屋での乱暴狼藉の場”で脇役として登場したことになるのです。

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水口宿の入り口三筋町の真ん中の道が東海道
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       湯屋町         

by gionchoubu | 2018-05-16 10:53 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

水口遊郭ぞめき 宿場女郎

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   水口宿

渡辺寛は『全国女性街ガイド』の貴生川の欄に「国宝的な草葺きの女郎屋が六軒建っていて、女たちも古典的存在。草津線で草津から三十五分のちか間にあるのに、お訪(おと)なうものは風ばかり。」の一文に誘われて以前貴生川を歩いたもののそんな雰囲気は微塵もありませんし記録も一切残りません。

思うにこれは貴生川町を含むその先の水口町の石倉新地を指していたものと思います。

水口の遊里は明治に誕生したこの高倉新地とその前身にあたる江戸時代に東海道五十三次の一宿であった水口宿の宿場町の遊里の時代がありました。

愛知の岡崎宿や吉田宿などと同じように、水口の遊里は城下町型と宿場型の二面をもつ複合色里でした。つまり遊客は街道の通行者以外に城下に住む侍、町人達もなじみとなっていたと考えられます。

『東海道名所記』に宿場女郎が旅人の胸倉を捕らえ無理に家に引き込み

「これはいかに、まづ物を言わせよ」

と旅人を有無を言わせず捕らえる様子が書かれているそうだし、

淫水亭開好という物騒な名の人が書いた『東街道五十三次』の水口に

「此宿にやどりをもとめ翌日は早都入りにて道中のおじゃれも今夜かぎりと、めしもり二人呼て大洒落にしゃれ、其夜は主従とも陰茎骨かぎり犯のめし、足も腰も口も陰茎もはっつり草臥打伏(くたびれうちふし)けり。」

と、明日は京都に入るので、羽目を外すのもこれが最後と、これまた物凄い事がかかれているそうです。

年代的に遊女関係を中心に水口宿の歴史を見ていくと、

慶長六(1601)年東海道に宿駅宿次制がとられ、水口宿は本宿ときまる。

やがて飯盛女の名で遊女が跋扈したらしく

寛文九(1669)年の代官、猪飼次郎兵衛条々には「一、遊女一切抱置候間鋪事、」という一項がはいります。

その後また次第に飯盛女は盛んになったので。

明和九(1772)年三月再び藩主加籐氏から町奉行の手で禁止されました。

十年後の天明二(1782)年旅籠屋から「宿場維持の為相当の冥加金を納入するから飯盛女を置かせてくれ」と嘆願するとこれが認められ一戸あたり五人の遊女(飯盛女)が認められました。

幕府令では一戸あたり二人なので、ずい分思い切った政策といえるでしょう。

ただしそれ以後藩士が旅籠屋へ出かけて遊興することは厳禁されました。

参照:艶本紀行 東海道五十三次 林美一著






by gionchoubu | 2018-05-14 12:36 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

石部宿の飯盛女

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   旅籠の部屋の様子(関宿)

今は死後に近い石部金吉を広辞苑で見ると「石と金と二つの硬いものを並べて人名めかしたもの、きわめて物堅い人。融通のきかない人」と有りますが、滋賀の石部宿の石部が由来という説もあります。

そんな色恋とは間逆の金吉を生んだ石部にも宿場女郎はいました。諸国遊所見立角力並に直段附には近江水口と並んで下層遊里の一つとして四百文の料金で紹介されています。この四百文は旅籠ゆえ、当然女郎とのお泊り料金と思います。

『滋賀県の地名 平凡社』を見ると、慶長六年(1601)徳川氏によって東海道の宿として整備され、天保十四年(1843)当時、本陣二軒、旅籠屋三十二軒を数えました。

『艶本紀行 東海道五十三次』林美一著によると、「石部おやまと目ざしのひもは、あたまそろえて売りにでる」とあります。おやまとは京阪の遊女で太夫、天神の二妓以外のものを指してごく一般に使われたものです。

ちなみにおやまの語源は小山次郎三郎という人形使いが技にすぐれ、美女をさして小山人形の様なり、が転じて遊女の総称なり江戸の女郎買いを関西ではおやま買いといいました。

安政五年(1858)には旅籠は六十二とずい分増え、田中屋、近江屋、八百屋、俵屋などの飯盛旅籠として繁昌した店の名が伝えられており、『石部町史』には古老の話として、宿内のみのや橋の下から赤前垂れの女が客引きに現れたという話が載るそうです。

さて、石部の飯盛が400文、一文25円で計算すると1万円になります。

さらに最下層の女郎、京都では、しらみのづし(白梅辻子)清水前(阿古屋新地)などが最下層で100文僅か2500円で女を買えたことになります。

最高級は島原の太夫で76匁(1匁=67文)といいますから今でいうと13万円といったところ、ちなみに天神はその半額です。

その他、京都でみていくと西の関脇、祇園町(四条通り)が花代1万4千円ほど、泊れば4万三千円ほど、東の小結、祗園新地(富永町や元吉町、末吉町あたり)で花代は祇園町の半額といったところ。七条新地と五条橋下は一切二百文で五千円、お泊りでも一万二千五百円ほどです。

又五十三次の宿で高いのは現在名古屋の宮宿や静岡の浜松宿で1万六千円ぐらいから、となっています。

石部に話を戻すと『膝寿里日記』という本に「固い石部の木枕よりも、わたしやお前の膝まくら」の歌のある挿絵で、一度枕をかわした飯盛女が、もう沢山の表情の男を再度お床に引き入れようとする様子が載っています。


参照:艶本紀行 東海道五十三次 林美一著

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by gionchoubu | 2018-05-10 14:12 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

土山宿の飯盛女

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      土山宿

東海道五十三次で三重県の坂下宿を過ぎると、旅人は滋賀県の土山宿にはいり、水口宿、石部宿、草津宿そして大津宿を過ぎ終着の京都三条大橋を目指しました。

江戸時代の艶本にはこの五十三次のうち坂下、土山、水口、石部の四宿に飯盛(即ち飯盛女郎)は居ないとかいてあるそうですが、実際この四宿にも飯盛女郎は存在しました。

実際『諸国遊所見立値段附』(天保二年卯之霜月増補改正)にも“あふみ土山四百文”と女郎の値段まででているので、居なかったと考えるほうが無理があります。

土山は鈴鹿峠の西麓に位置し、鈴鹿馬子歌で「坂は照る照る鈴は曇るあいの土山雨が降る」と歌われており、広重も土山宿の雨を描いてます。

明治に入り街道に遊郭があるのはよろしからずと大津は四の宮から真町に、草津は東新地に、水口も石倉新地と街道を離れて新遊郭を誕生させたが、土山はそもそも旅人が居なくなれば存在の意味がなくなり、知らぬ間に遊女はいなくなりました。

嘉永二年(1849)刊の『東海道五十三次柳樽』に「なまかべにぬる土山のとめ女」という柳句があり、これも土山に宿場女郎がいた大きな裏づけになります。

出女や留女はまさしく宿場の軒先に出て旅客を留んと袖を引っ張る女郎で飯盛、おじゃれ、柱負い、夜馬、足洗女の異名で街道に跋扈し旅人の一夜を慰めました。しかしこれらは全て俗名で、幕府は食売女(しょくばいおんな)と記しています。

東海道五十三次は別に旅人の便宜をはかる為に置かれたものではなく、幕府の軍用荷物の運搬(天馬)や、飛脚、郵便、電信の役目が一義であり、長じて参勤交代の大名行列の宿などとして使用されたのであります。

そして天馬(公用場)の負担、宿の経営も全て宿に負担させる代わりに幕府は地租を免除し、駄荷の運賃を得る特権と、旅行者を宿泊させる特権を与えたのであります。

ただしこれらの利益では到底宿場経営はなりたたず、宿場維持のためには宿場女郎は必要不可欠なものでした。

遊女渡世に厳しかった幕府は東海道の各駅に女郎を置く事を禁止したり、取締りしたりしましたが、結局享保三(1718)年に一軒に付き二人ずつの飯盛女を認めました。宿場経営維持の為飯盛女の名で遊女を置く事を黙認したのです。

宿屋に給仕女は必要です。宿でただ給仕する女なら何人いても構わないのに、わざわざ二人という数字をだしたのは、遊女をおくのは仕方がないものの分限を弁えぬといつでも厳罰に処するぞ・・・と言ったところでしょう。

そして飯盛女(食売女)が売女であったのは官民両方の認識であった事も分かるのです。

土山宿にしても、もし宿場女郎を置かねば、旅客はその前の坂下で泊るか、すこし頑張って水口まで行ってしまうものも居るだろうという懸念から、宿場を維持する手段として当然置いたと考えられます。

これは他の五十三次の宿場でも同じだったのでしょう。

参照:『艶本紀行 東海道五十三次』林美一著

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by gionchoubu | 2018-05-06 11:35 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

八日市延命新地ぞめき 八日市新地遊郭

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そして昭和三十三年売春防止法施行の日を迎えると、接客婦に借金があっても警察立会いのもと、業者は検番で証文を破って焼き捨て、飛行機と共に栄えた新地の歴史は完全に閉じられました。(『八日市史 第四巻近 現代』)

さて、三露俊男著『付録・滋賀県八日市市八日市新地遊郭』によると遊郭内に関連した業種として、延命湯、呉服小物屋、髪結い屋、伸子(しんし)洗い張り屋、うどん屋、鰻のかば焼屋、洋食屋、関東煮おでん屋、かき氷屋、一銭菓子屋など遊廓女の利用がありました。

新地には筏(いかだ)川と清水(しゅうず)川が流れ、各所に石仏が祀られた板橋がかけてあり、ここや三辻や四辻で娼妓達が「招き」と呼ばれる客呼びのマジナイをしたといいます。

娼妓は客を呼ぶために、早朝木杓子を懐にいれ、客のくる方へ四つんばいになり、着物をたくし上げお尻を出し、木杓子で自分のお尻を打ちながら、「お客さん来ておくれ、これがこいしくないのかなー」「お客さん来ておくれ、これが欲しくないのかなー」と三度呪文を唱えます。

四辻の場合は四度同じ動作を繰り返します。ただしこれを他人にみられると効力が無くなるので早朝におこなわれました。

もう一つ私にとって衝撃的だったのは、娼妓になるのにも儀式があったと言います。

これは、楼主は娼妓になる女を帳場に呼び、廓での生活や仕事の説明をしたあと源氏名を決め浴場に連れていき身を洗い清めます。

風呂の脱衣場には、白木綿肌襦袢と半幅白木綿腰巻が乱れ籠にはいっており、娼妓がこれを纏うと、楼主は中庭に連れていきこれを剥ぎ取り土間に蹴落とします。

土間には木椀の中に味噌汁がかかった麦飯、所謂ネコメシがあり全裸の女は手を使わず犬ネコのように舌を使って食べなくてはなりません。それを楼主は竹箒で女のお尻を打ちました。

娼妓は廓の中では人間扱いされないというわけです。これは延命新地に限ったことではないはずですが、ここまでの話は聞いたことがありません。

同書には貸座敷を網羅した大正十年の八日市新地遊郭地図、昭和三十年頃の名前、男根神、性病にかからない呪い、娼妓たちが性病検査に合格する呪い、さらに淋病の民間治療法、登楼遊客の時間測定方、娼妓の前借の返し方と内訳・・・等こと細かく記されており、延命新地に限らず遊郭の内幕を知りたい人には必見のものとなっています。

さらに廓内の葬儀にまで触れており、

「一生年期奉公、五円」の契約で売られてきた女郎が結核で死ぬ時に楼主が手を握ってやりながら、年期奉公証文を目の前で破りすてて「もうくるしまんときや、極楽へ旅してや」と言ってやると、うれしそうに笑顔をつくり、こっくりうなずきながら息をひきとった・・・という話が延命新地の楼主からあったといいます。

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by gionchoubu | 2018-05-03 12:08 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

八日市延命新地ぞめき 廃業届

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第二次世界大戦後、八日市の新地も再開され、間も無く貸席二十一軒で芸妓七人、娼妓二十人になりました。

昭和二十年の十月には、八日市飛行機の残存軍用機の処理で米兵七、八十人が乗り込んできた時新地では料理屋、飲食店も休業中でしたがやむなく開業、このために県の警察本部から特製の布団の配給、八幡の税務署からビールの特配を受け、昭和二十一年の正月から日本人相手の通常営業まで、上記の連合軍兵士と能都川にいた元白人兵捕虜が遊客となりました。

その後延命新地は貸席業として営業、そして娼妓は接客婦となり所謂赤線となりました。接客婦は一応芸妓として登録され二枚鑑札として客の求めに応じました。

昭和三十三年の売防法完全施行直前に貸席二十一軒、女の登録二十三人、ただ実際に客席に出ているのは毎日十五、六人でした。花代は一時間四百円、泊りが千円、連日大変賑わいました。

明治・大正のころ延命新地のお客は五個荘のお客が多く、近江商人独特の勘定高い遊び手が多く、豪遊したような粋人の話も伝わりません。郭の生え抜きの話によると「たまさか情死ざたなどがあったとしても全くつまらぬ出来事からで気の利いた物語はありません」とつれない。

だから女も男に身受けされて出たという例は少なく、年期一杯つとめて借金を返済し郭を去っていきました。

さらに八日市の新地の特徴として、置屋の親方が大ていお抱えの妓たちを家族なみに扱って、そのため借財を負った妓で、二、三年のうちに借金抜きができ他の都市に移っていくか、又男のために借金をして元の家に戻ってくるのも多かったようです。

これは八日市の土地柄がそうさせるのかもしれない、とのことでした。

昭和三十三年三月一日の日日新聞

「八日市 延命新地では二十八日午前十一時貸席組合員二十一名が一斉に廃業届を八日市署に出した。

このうち完全廃業するのは朝日屋と千成の二軒、また芸妓置屋を営もうとするもの浜屋と清定、料理屋店営業準備のもの角笑、千代幸、吉勝、角菱、すし宇、大正楼、花の家、相生、入船、若松の十軒。

旅館営業準備中は魚善、清里、浅常、万遊楼、いろは、五月楼、新角笑の七軒である。

従業婦は全部で二十人で、前からの芸妓三人はそのまま残り、結婚生活に入るもの一人、その他結婚を希望しているもの七、八人あるが、いずれもまだはっきりせず、中には新地以外の場所で仲居をするものもあるが、大半は帰郷する。

最終の二十七日、二十八日も一般商店街はほとんど店を閉じた午後十時以後、新地ばかりは明るく灯が輝き、人の往来もちらほらながら絶え間なく、たまたま和服のショールの女、赤色の和装トッパーの女などが貸席に出入りするのが眼につく。」






by gionchoubu | 2018-05-01 11:48 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)