花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
未分類

以前の記事

2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

> 今紫 改 文車さん ..
by gionchoubu at 11:47
花街ぞめき様 お久し振..
by 今紫 改 文車 at 17:02
> narahimuro..
by gionchoubu at 11:05
花街ぞめき、いつも興味深..
by narahimuro at 21:28
> きようすけさん ..
by gionchoubu at 11:54
島原どう筋の大店K旅館は..
by きようすけ at 14:55
> きようすけさん ..
by gionchoubu at 11:31
記事の定義によるとかつて..
by きようすけ at 09:04
記事の定義によるとかつて..
by きようすけ at 09:04
> tourisugar..
by gionchoubu at 18:06

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

米子灘町遊郭 一
at 2018-10-16 11:09
とし夏菜、ふく美、とし桃、美..
at 2018-10-13 14:52
宮川町、とし純、とし夏菜、と..
at 2018-10-12 11:16
ふく恵、小凜、君友、富美珠、..
at 2018-10-11 15:59
とし輝、とし結、とし愛、とし..
at 2018-10-10 11:23

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2018年 04月 ( 8 )   > この月の画像一覧

八日市延命新地ぞめき 招福楼

f0347663_12153602.jpg
           超が付くほど敷居の高い招福楼

明治末期から大正初期ごろの延命新地の名妓として招福楼の春吉、小舟、鶴菊などが有名で後春吉を襲名した舞妓の?(字が潰れています)子などは売れっ子で、その後もつぎつぎと妹芸妓が襲名し、何れも名妓だったと言います。

招福楼と清泉楼(湊屋ともいった)はその頃の八日市花柳界の二大勢力でともに全盛時代を争いあいました。

延命新地の廓内の路地は通称「アカミチ」と呼ばれ、特に廓に入る表のアカミチは後代参街道の市道(商店街)から入るのが表道で、ここには小椋庄の代官屋敷から移築した黒塗りの大門はクロモンと言われ、この門を潜りぬけると招福楼の黒塀があって、廓の家並みの紅柄格子道に続き、黒塀の中に入ると招福楼の正面玄関になりました。

現在はこのアカミチも黒塀もクロモンも有りません。

飛行機のあった時代には五月楼のすみ子、里丸などは八日市小唄をレコードに吹き込み、また豆千代のレコードもありました。

新地の黄金時代は満州事変の起こった後で昭和八年頃まで続きました。

昭和五年刊『全国遊廓案内』日本遊覧社によると八日市延命新地に揚屋が四十一軒あり、娼妓五十人に芸妓が五十五人、で陰店を張っていました。この時期日本の遊郭はほぼ写真で娼妓を選んでいましたが、滋賀は彦根も八幡町、草津、大津、長浜とも屋内で実際娼妓を見て敵女を選べたのは県として、遊郭に対しそれほど厳しい態度を取っていなかった事が読み取れます。

また娼妓は送り込み制で遊興は時間制で廻しは関西方式で取りません。一時間が一円五十銭、同書では娼妓に対し芸妓の数が多いいのは商業上に花柳界の利用される率が多いいのに加え芸妓の花代が一時間七十銭と娼妓の半分以下と法外に安いのを挙げています。

『八日市史 第四巻 近現代』によると新地の全盛期は航空隊華やかなりし頃で、当時県下ではここだけが朝から営業し、県下一の売り上げを誇り、午前中は兵隊、午後は下士官、夜は将校・憲兵という決まりがあり、それ以外の遊客は蒲生郡、愛知郡が多く、女は西日本、取り分け九州の女が多かったといいます。

戦争が次第に進むにつれ、遊郭も不景気になり、昭和十四、五年からの企業整備のためもあり、戦争末期の昭和十年から二十年にかけて貸座敷は十四軒に減り、芸妓は一人、娼妓は三人になりました。

戦時中は廓の女たちも、戦争遂行に協力する意味で、近江絹糸で製造していたヘヤー・ネットのゴム糸通しを熱心にしました。ヘヤー・ネットとはもんぺ姿で髪の毛がほつれぬように網でおさえて、生産増強に努める婦人たちが使用したものです。

参照:滋賀日日新聞昭和33年2月21日『消えゆく赤線地帯(12)』
f0347663_12151532.jpg

by gionchoubu | 2018-04-29 12:19 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

八日市延命新地ぞめき

f0347663_12594965.jpg
八日市延命新地の起源は分かりません。ただ、物資集散の市場として、宿場として江戸末期には幾人かの茶屋女や飯盛女の私娼がいたという記録が、私は見ておりませんがあるそうです。

その場所は市神神社の近くで神事と関連して茶屋女が春を売るようになり、付近の市場が隆盛に成るにつれ飯盛女なども加わり私娼の数も増え、市神神社付近や法蔵寺付近に散在していたようです。

『八日市史 第四巻近 現代』に「八日市は市場町であり、また、交通の要衝に位置していたせいもあって、かなり古くから遊郭があったと思われる。」としていますが、『諸国遊所競』によると、現滋賀県に属するのは大津柴屋町、近江の草津、そね付、水口だけとなるので、江戸期に遊所として認識は無かったと思われます

明治六年二月に滋賀県下の遊郭を上中下に分け毎月の賦金を課しましたが、神崎郡八日市村は下等で賦金は一円でした。即ち明治六年に八日市に遊郭は存在した事になります。

明治十六年、貸座敷は十七軒で娼妓は四十人おりました。

明治十八年六月布達された貸座敷及娼妓営業取締規則によれば、免許が下りていたのは、神崎郡八日市町で区域は字八日市村ノ内新地字濱野村ノ内寺ノ前が指定地で大津の柴屋町、甚七町、真町と長浜の遊郭が滋賀県の中で等級一等に対して、八幡町、彦根町そして八日町の遊郭は等級二等で、この二等の賦金の月は貸座敷の上等三円五十銭、中等三円、下等二円で、娼妓一人に付き二円が課せられました。

明治三十年には貸座敷二十五軒、料理業四十七軒、飲食店二百三軒、これとは別にあいまい屋二七五軒、芸妓二十五人、舞妓二人、娼妓四十人、酌婦十八人、ほかに売春婦(私娼)九十二人いました。

一日平均三十九人の娼妓が接客し、一ヶ年の客数延べ約三万人、一日平均八五人の登楼客、一人の客の使う遊興費は一円十七銭二厘。娼妓は一日、二・二人の客を取っていた事になります。

明治四十一年から大正元年までほぼ貸座敷三十軒、その後第一次大戦が終わったあとの好景気に乗ったのと、同十一年に飛行隊が沖野ケ原に設けられたのを受け大正の終わりごろには貸座敷四十八軒を数え、芸妓百軒に対し娼妓三十人と、立派な花街の様相を見せました。

芸妓を抱えていたのが、今では滋賀を代表する名料亭を続けておられる招福楼の外、朝日屋、角笑、新角笑、清泉楼、御多福楼などが有り、一方娼妓を置いた店に魚善、いろは楼が有りました。

参照:文中の著作以外に『滋賀県違警察規則累算』滋賀県警察本著、滋賀日日新聞昭和33年2月21日『消えゆく赤線地帯(12)』
f0347663_13001405.jpg
f0347663_13004279.jpg
f0347663_13010469.jpg


by gionchoubu | 2018-04-25 13:01 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

島原、太夫道中



f0347663_11212871.jpg
平成30年2月25日、私がまいまい京都のガイドとして20人の応募者の方を輪違屋にお連れしたとき、輪違屋の屋内で如月太夫子に太夫道中を再現してもらいました。

昭和28年4月19日、京都新聞

『艶麗、島原太夫道中』『供を連れ揚屋へ 花の4月21日 八文字ふんでシャナリしゃなり』

京名物の一つ島原太夫の道中が今四月の二十一日同郭内で行われ一般の鑑賞に供することとなったが、この行列は島原がこの地に移されてからおよそ三百年、その間の歌奴たちの風俗の移り変りを示すもので結髪、服具の着装などを各時代の風俗画家の遺作等により新しく考証、江戸時代の初めのものを除いては衣服その他ほとんど全部その時代の実物遺品を使用したところにこの時代風俗絵巻の特徴がある。

寛永時代から現代に至るまで七ツに分けたそれらの時代の結髪様式、頭飾具の意匠、形式寸法装着法などそれぞれ十分鑑賞に価するもので花車を先頭に寛永正保時代、貞享元禄時代、安永天明時代、文化安政時代、明治初期、現代と移り変わりを示している。

この島原の太夫のどうちゅうはどうして出来たかというに、島原に遊郭が設けられたのは寛永八十年(現文のママ)京都とその近在から容色にすぐれた女達が島原に集められ、各階層の人達がこの女達を相手に遊び楽しんだ。

そのころの音楽、服装などの流行は島原から始ったもので、ここの女達にも階級が出来てその最上級に位するものが太夫と呼ばれた。

当時の女達はこの位にあこがれる事、このごろの映画スターにあこがれるのと同一であった。

彼女達を相手として遊楽する場合は揚屋と称する家に彼女達を招く。太夫が自分の家から揚屋まで出かけるのに新造、かむろら多くのお供を引連れ八文字を踏んでしゃなりしゃなりと練って行ったものでまるでコシ入れのように太夫の身の回りの用具一切を持参に及んだものである。

これを道中と呼んだ。そしてこの道中を道ゆく人達は今のレビューでも見るように足をとどめてながめたものである。

それが毎月二十一日に一種の式としてこの道中が行われるようになり。それが残って今では花の四月二十一日に行われるようになったものである。

そして道中後の同年4月22日の記事

『艶麗絵巻 島原の太夫道中』

京の春の年中行事の一ツ島原の太夫道中は二十一日午後三時から花曇りの空のもと可愛い、子供如く花車を先頭に行列は組合事務所を出発寛永、正保時代から年代順に文化文政、明治と移り玉袖、九重、美吉野、光扇、春日、君太夫と禿引舟を従えて八文字を踏みながら曲輪の中を練り歩き約一時間にわたり古典艶麗な風俗絵巻をくり展げて同四時過ぎ道中を終った。

昔にかえって無料公開というのが効いたのか数万の人が押しかけ道中開始二時間前に大門を閉じるという盛況であった。








by gionchoubu | 2018-04-22 11:34 | 島原遊郭 | Comments(0)

亀岡の花街 芸者スト 円満解決

f0347663_11503295.jpg
                      亀岡の花街のあった辺り

全国に大きな話題をなげ、さる七月九日に一応解決をみた亀岡芸者ストは、その後も感情のもつれたまま百五十日近くも一部芸者がボイコットされるなど未解決のまま尾を引いていたが「市の発展のためにも」と自らあっせんを買って出た大槻市長らの努力で十八日夜ようやく解決、近隣から注目されていた“赤い気焔の争議”に終止符をうった。

同、11月30日より抜粋

本月十八日午後六時から市助役式で

* 料理業者は各人に置屋の開業を認める
* 開業の権利を受ける為には規定の入会金、出資金(計四万)を払い検番に加入するとの条件で円満解決をみた。

同、11月22日

『和気あいあい 亀岡の検番発表会』

亀岡の芸者スト問題も大槻市長らの調停斡旋によりさる十八日円満解決をみたが、二十二日朝十一時から同市北町楽々荘で晴れの検番発表式が大槻市長、人見府亀岡事務所長らを招き行なわれた。

この日百四十余日の暗雲もカラリと晴れたねえさんたちもあでやかな姿をみせ、市長らと和気あいあいの空気をみなぎらして、“これからおたがいに手と手をとって街発展の為に努力しましょう”と誓いあった。

なお役員は次のように選出。

理事長=中田正平、専務理事=中沢治一、理事=内田庄太郎、川島宗次、奥村喜一郎、中西完治、竹岡まき、監事=奥田民夫、上原やえ

11月30日の京都新聞に『亀岡芸者ストを顧みて』『封建制打破できず 幹部の座敷止めで暗礁に』の表題で、この五ヶ月に渡る全国的にも異例の芸者ストライキの顛末が載っており、結論として最後に亀岡芸者による“花街に残る封建制の打破”の意気込みに対して“大した効果はなかった”としています。

そして調印の席に列席の法務局の一係員の「大切なのはどちらが勝ったということではなく、円満に握手したいということだ」という見方を紹介しており、今回の長い争いを今後の民主的な業界発展の貴重な試金石としてほしいところであろう、と記者は無難に結んでおります。





by gionchoubu | 2018-04-21 11:51 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

彦根 袋町遊廓ぞめき 料亭小島

f0347663_12395562.jpg
                     料亭小島さんの座敷

明治の末期から大正初期ころの袋町遊郭の様子は店仕舞は、午前一時。ただ十二時と一時になると検番の男衆が太鼓を鳴らして廓の中を練って歩きました。

十二時にはドン、ドンと一ツずつ鳴らして歩いたが、これを聴いたお茶引女は一番号が鳴ったときさみしい顔をしました。そして一時には二ツずつで店をしめたそうです。

大正九年ごろからの不景気を境に次第にさびれ、昭和四年の末、業者六十九人、娼妓八十三人、雇人九十三人になってしまいました。(滋賀日日新聞)

昭和五年刊『全国遊廓案内』によると貸座敷は六十五軒あって、娼妓は約八十五人、福岡、佐賀、埼玉の女が多く、店は陰店、娼妓は送り込みが多く、居稼ぎは極少数。遊興は時間制、又は仕切花制、費用は一時間遊びが一円十銭、宵からの一泊は四、五円で代の物は付きませんでした。

妓楼は

中村楼、富士房、桔梗屋、清瀧楼、瀧柳、上田楼、重の屋、大宇野、中鶴楼、大朝楼、萬笑、春富、丸花楼、萬屋、萬栄、丸矢、日の出、辻春、角屋、花国楼、丸久、川岸、川瀧、京鹿、泉楼、若浅、新盛、一富士、伊吹楼、正歌、吉花、小川楼、若狭や、正春、佐文、北村屋、正木屋、清仲楼、山田屋、丸々楼、萬歌、清捨、八千代、吉兼、矢の春、角田屋、高橋楼、梅月、大琴、朝日楼、川衣、吉瀧、丸琴、中花、川崎屋、吉鶴楼、萬冶、千歳楼、皆遊、金亀楼、川常、川與、花梅、川巻、花の屋、等

昭和33年2月26日の滋賀日日新聞は売春防止法完全施行をほぼ一月に控えた袋遊廓の様子を伝えています。

「いまの袋町には芸妓が十八人、接客婦は五十一人いるが、今月一ぱいで芸妓を残す五十一人は姿を消す。

彼女たちの身のふり方は五十一人のうち四十一人までが帰郷、芸妓七人、旅館女中一人、結婚その他二人といるが、再びこんな売春生活にもどらなくてもよいはっきりとした更正の手がうたれることが望ましい。

四十軒業者の転業はお茶屋(貸席業)一軒、旅館二十二軒、料理屋十六軒、下宿一軒となっている。

しかし袋町の遊郭解体が県下で最も困難ではないかともみられている。

その袋町遊郭の中心街から派なれていることで、いまの場所で旅館、料理、貸席などをやっても客の誘致ができるかどうかというのだ。

地元では都市計画による健全歓楽地帯をつくりたいのが希望のようだ。」

中村遊郭でも見てきた通り、これらの転業された業者さんはいずれ売春制度は復活される期待を持ち、とりあえず他業種で身をやつし、好機を待っていたものと思われます。需要が見込めない地で二十二軒の旅館が突然出現しても、ほとんど客はなかったはずです。

* 『滋賀県八日市市 八日市新地遊郭』三露俊男著の彦根袋町の所で

明治44年 貸座敷13軒 娼妓―人
明治16年 貸座敷59軒 娼妓38人
明治41年 貸座敷53軒 娼妓―人
明治42年 貸座敷55軒 娼妓―人
明治43年 貸座敷57軒 娼妓―人
明治44年 貸座敷58軒 娼妓―人
大正 3年 貸座敷 ―軒 娼妓―人
昭和 元年 貸座敷71軒 娼妓―人(芸妓127人)

がありますが、最初に明治44年が書かれているのはミスプリントだと思いますので、いずれ出典を確認、書き換えた後本文に入れるつもりです。

f0347663_12412344.jpg
f0347663_12414677.jpg
f0347663_12421204.jpg
f0347663_12423204.jpg
                     抜け道がありました。



by gionchoubu | 2018-04-12 12:43 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

彦根 袋町遊廓ぞめき 萬屋(よろずや)

f0347663_14473629.jpg
                   萬屋さんの見事なうだつ

滋賀県下で一番早く女紅場が出来たのは彦根の袋町で明治十年二月、教師二人、生徒百二十五人で始まり、習字・作文や裁縫などを廓の女に教えました。この年娼妓一人を抱えるに金十円、年期は三円と決められ、線香が六本から七本の燃える時間を一時間としました。(『袋町提出資料』)

明治十四年十一月一日付けの『江越日報』によると、当時の袋町遊郭には芸妓三十一名、芸妓三十一名、舞妓十八名、芸娼妓二十四名(所謂二枚鑑札の妓と思われる)娼妓三十四名、合計百七名の女性の出稼ぎがあったといいます。

同年九月袋町の貸座敷業者たちは、当時日本基督教婦人矯風会と日本救世軍という二つのキリスト教団体の活動により娼妓の自由廃業運動が日本中で盛んになったのを受け、

一、 救世軍が来た祭には粗暴過激な対応をしないで相応の対応をするが、不当なばあいは全力で排斥すること。

二、 娼妓への待遇を篤くし、過酷な扱いをする業者には規約に即して厳しい処罰を課すこと。

三、 娼妓の外出はできるだけ自由にして拘束しないこと。

ところが明治三十三年十月娼妓取締規則が発令されると、貸席業者へは一定の規則を行うことと同時に、娼妓は庁府県令で指定した地域に居住できず、外出に際しても所轄警察の許可が必要となり、実際同年の十二月に無断外出した二十二歳の娼妓が彦根区裁判所の判決により十二日間の重禁固に処せられたり、無断で客と伊勢参拝をしたとして二十二歳の娼妓が五円の罰金を課せられました。

明治三十七年六月二十二日袋町一円を貸座敷免許地に指定

明治、大正の袋町の様子は、昭和三十三年二月二十八日『滋賀日日新聞』の特集で廓の娘として生れた川崎千賀さんの話がリアルに浮かびあがらせてくれます。

「明治三十年ごろ、まだ電灯もなく広い台所と廊下はランプ、座敷はロウソクで、客室は行灯。

ろうそくのことを“しろさん”と呼んでいたが、当時こんな歌を歌ったものです―二銭まけとき気は心・・・二時間三十二銭。

そのころは、あの狭い通りの人力車が芸妓衆とお客を乗せて通ったたもので、大正になったころも芸妓に三味線をひかせて廓中を小唄などで流して歩いた客も珍しくありませんでした。」

参照:上記記載の資料以外に『彦根市史 中冊』

f0347663_14470797.jpg
                      うだつが上がらないの語源です。
                      関西では珍しいので近所の方も自慢されていました。
f0347663_14480030.jpg
                         右端部分
f0347663_14500233.jpg
                         全景



by gionchoubu | 2018-04-08 14:50 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

彦根 袋町遊廓ぞめき 遊郭誕生

f0347663_17540486.jpg
                   御料理屋の一室、かつての妓楼です。

滋賀日日新聞の昭和三十三年二月二十八日の『彦根・袋町』の特集の記事では、江戸期の彦根の遊郭の起源は前記と違って、この城下町でも遊女、飯盛女、食売女は揚屋、女郎屋の暖簾で商売しており、これを嘉永年間(1848~1852)足軽屋敷であった袋町に集め、さらに大洞神社と井伊神社の境内にあった茶屋十軒を袋町に移して集娼妓地にしたという見方をしています。

確かに天保四年(1833)、御城下を賑わす為、大洞辺りに桜を植えることが取り決められ、大洞山内及び井伊神社の境内に花見茶屋四軒の出展が許可されていました。

日日新聞の記事よれば、袋町に遊郭が出来たのは江戸期の終わりで、前回見てきた文献と大きく違う事になります。

ただ何れにせよ、どの資料を見ても、明治四年(1871)に袋町遊郭が設立したのは間違いありません。

明治の初め多くの遊郭が公許として日本全国続々誕生しますが、袋町遊郭もその一つとして営業許可が下りたのです。

その時の許可書は長く袋町芸妓組合の保存されていたといわれ、その大要


一、 別紙絵図面朱引内で営業すること。

一、 売女妓女は風俗を平人と同じにしてはいけない。
   髪型も一見して商売人であることが判るようにせよ。

一、 許可に当たっては金二百両を差し出すこと。
 
一、 万一他所で売女行為をするものは厳重処罰する。

といったものであったといいます。

この一般人との髪型の違いはマゲのあたりに一定の印をつけさすというもので、売女をかかえるときは身元を調べ、その増減も報告させ、地域内にはサク門を構えさせました。

そして最初にできた袋町の茶屋は八千代楼、山田屋、正木屋、よろず屋の四軒で、一年遅れて川崎ちかの川ちか楼が明治五年に創業、後に川崎屋になったという事です。

そして明治六年二月県下の遊郭は

上等=大津四ノ宮町、真町 賦金一カ月金二円

中等=八幡池田町、彦根袋町、長浜南片町 同二円五銭

下等=大津甚七町、神崎郡八日市村 同一円

といった具合に等級分けされました。
f0347663_17552803.jpg
                こちらは空き家になった妓楼の二階
f0347663_17581283.jpg
                        その玄関

by gionchoubu | 2018-04-05 17:58 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

彦根 袋町遊廓ぞめき 花の生涯

f0347663_12455636.jpg
 袋町のこちらのお宅は、地方のテレビ局でも紹介されており素晴らしい意匠が施されています。現在お住まいの方は花街時代とは別の方です。

昭和三十年刊『全国女性街ガイド』の彦根の欄で著者の渡辺寛は「ちょん髷時代から建ってる袋町遊廓に十五、六軒。ここは泊りが安く七百円から。最近は駅前の青線くわれ生気なし。」と書いていますが袋遊郭が誕生したのは明治四年四月のことで、江戸時代には彦根に遊郭は存在しませんでした。

彦根藩は他藩にまして遊女渡世にきびしく、御城下で遊郭のようなものは立藩以来禁止で厳重に取り締まっていました。

井伊直弼大老にいたっては彦根藩飛び地領の下野国佐野領(栃木県)の売女(遊女)まで廃止するといった徹底ぶりでした。売女禁止は藩是といってもよかったでしょう。

この件のことの顛末は、嘉永六(1853)年直弼がこの飛び地を巡視した折、地元領民が遊女の弊害を陳情した者があり、是を取り上げ廃止の方針を打ち出しました。

家臣が「他領のものが悪し様に告げたもの。」「旧制を一度に配せば領内の者が困るであろう。」と意見を述べても直弼はこれに一切耳をかさず、佐野を去るときも「急に取りつぶしをすると告げると、かならず色々理由をつけて猶予を申し出るものが現れるが一切耳を貸すな。」と、わざわざ代官元持喜三郎に念を押す徹底振りでした。

しかしどんなに厳しく取り締まろうと、平田町、小藪町などに「さんじゅうめ」(三十文で買える女の意か?)と呼ばれる遊女がいたという古老の話もあるので、御城下を離れれば街道沿いには飯炊き女の名で春を売る女はいたかもしれません。

ただ、自国で遊女はまかりならぬとも、他領で遊女渡世はお咎め無かったようで、享保年間の文献を見ると袋町の半六の女房ら数名が「すぎ」という女を祗園新地へ三百匁で、柳町の又衛門の女房が宿無し伝六らと「いわ」という女を二条新地へ百二十匁で売った記録が残ります。(中村尚家文書)

彦根藩の風俗取締りが如何に厳しかったかは、元治元(1864)年、城下の上魚屋と下魚屋町そのほかの町で魚屋が離れ座敷を建て、酒肴や三味線や、女舞で客をもてなしたのを不埒として処罰を下したことでも分かります。

それにしても何故渡辺寛が江戸期の袋町に遊郭ありと疑いも無く断じたか・・・それは作家船橋聖一が井伊直弼を描いた小説『花の生涯』の影響によると考える事ができます。

その小説の「青柳のいと」の下りを紹介すると、ある浪人風の男を描写する際

「堤の東は、袋町の花街である。ことによったら、堤を下りて、この廓の揚屋に登楼しようという客が、暫しの時を消すために、堤の上をそゞろ歩きして居るとも思われないことはない。」

この作品は昭和27年から28年にかけ毎日新聞連で載され人気を博し、その後も舞台、映画、テレビの大河ドラマでもお馴染みになり日本人の心に染み渡りました。

参照:『彦根市史中冊』、『新修彦根史3巻』『、彦根史話下』宮田常蔵著、『滋賀県の地名』平凡社

f0347663_12550638.jpg
f0347663_12553117.jpg
f0347663_12555673.jpg
f0347663_12561810.jpg
f0347663_12564041.jpg
f0347663_12570214.jpg
f0347663_12572441.jpg
               こちらは凹面になっており技術的にも巧みなものです。
f0347663_17421253.jpg
f0347663_17425160.jpg
f0347663_13440391.jpg

by gionchoubu | 2018-04-01 13:02 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)