花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
未分類

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

花街ぞめき様へ 元..
by narahimuro at 18:15
> narahimuro..
by gionchoubu at 14:16
> あきさん コメ..
by gionchoubu at 14:51
本当に詳しく、有難うござ..
by あき at 21:27
花街ぞめき様へ 元林院..
by narahimuro at 22:47
> やまねさん し..
by gionchoubu at 12:40
河原町四条の蝶類図鑑は常..
by やまね at 11:23
> やまねさん そうで..
by gionchoubu at 12:36
ちなみに プログレががん..
by やまね at 22:56
> kwc_photoさ..
by gionchoubu at 10:35

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

花街 元林院ぞめき 三
at 2018-12-09 12:56
花街、元林院ぞめき 二
at 2018-12-06 12:58
上七軒 大文字 勝奈さん その四
at 2018-12-05 12:24
花街 元林院ぞめき 一
at 2018-12-02 17:25
大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 三
at 2018-11-28 12:34

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2017年 08月 ( 14 )   > この月の画像一覧

京都パンパン赤線時代 二十三

f0347663_12201147.jpg
                    若い女性に人気の祇王寺

照葉は大正七年、江藤との妾生活を清算した後大阪南地に戻り、再び左褄をとります。ふとした機会から北浜の若相場師、小田末造を知ったのは大正八年、照葉が二十四歳の時でした。

「わしの女房になってんか、なってくれたら、アメリカへ新婚旅行に連れていくがなあ」

日頃アメリカに興味のあった照葉は「いくらでも、その代わり、アメリカへ連れていってくださいよ。でなけりゃすぐ離婚しますよ」嘘のような話が本当になり、照葉は北浜の株屋の女房になり、当時の宗右衛門の町雀を驚かせました。

そして大正九年、二人は渡米します。そして照葉はハリウッド映画スター早川雪州との関係を夫に疑われます。二人は疑われても仕方が無い行動を取った為です。どこへいってもスキャンダルの方が彼女を追いかけてくるのでした。

渡米して二ヶ月が過ぎ、小田も朝帰りが多くなり、ジッとしておれない彼女はアドレナリンやタカジアステーゼの発見者として名高い高峰譲吉博士のオフィスを訪ね、ニューヨークの郊外のタリータウンの家政学校を紹介してもらいました。

そこでタツ(照葉)は寄宿舎住まいをすると。同じ学校でルームメイトのヒルドガルドと同性愛関係となり、それが原因で放校処分を受け帰国しました。

フィクション作家でさえ躊躇うような事件が次から次へと舞い込むのは彼女にそれを迎え受ける情熱と隙と、さらに男も女をも狂わす美貌があったからです。

大正十二年、次に照葉の身に起こったのは、主人の小田の関係で、創世記の日本映画の女優として帝国キネマの中川紫郎「愛の扉」のヒロイン“お葉”という十八歳のしか煎餅売りの役で映画デビューを果したことです。

この時照葉は二十八歳、相手は若い役者の五味国男で、試写会のとき酔いにまかせヒルドガルドからもらったコンパクトを五味にあげてしまいました。

これが五味の心を発狂させ、思いに焦がれきった迫り寄る五味に身をまかせてしまったのです。これを知った小田は当然悪鬼の如く怒り、連日の折檻を受けます。

不倫の妻は、衝動的に常用している手に余るほどのアダリンを口に含みウイスキーで流し込みました・・・が、幸い辛くも一命をとりとめました。

照葉の自殺未遂の結果、なんとか表面上夫婦関係を取り戻した二人は再びアメリカにわたり、そこから夫婦でパリに渡り、そこでも謎の男性に身をまかせてしまいます。

その後日本に再び舞い戻り再び、五所平之助監督の「奔流」という松竹映画に出演したり、花隈で再び左褄をとったり、道頓堀で「テルハの酒場」のママになったり・・・

そして、迷い、悲しみ、流転を生み出した自分の髪を落し、昭和十一年七月に京都大覚寺塔頭祗王寺高岡智照として入庵、生涯をこの寺にささげました。

大正十四年に離婚した小田末造は、昭和十七年に祇王寺の智照を尋ね、「どうせ死ぬなら好きなアメリカ人に撃たれて死にたい」と言い、同年ニューギニア・ギルバで戦士しました。

押し寄せる敵兵に、もはや銃にもことかき、スコップやツルハシで立ち向かい、見事仲間と散華されたと嘗ての上官から伝えられました。

小田は「わしの魂のいく所はたつ子の傍以外ない」と語っていたそうです。

照葉は平成六年、98歳でその生涯を終えました。

参照:高岡智照尼『火喰鳥』かまくら春秋
f0347663_12204274.jpg

by gionchoubu | 2017-08-31 12:34 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 二十二



f0347663_12214572.jpg
f0347663_12220767.jpg
                  上は舞妓の千代葉時代、下は新橋時代の照葉
              
千代葉が自分の指を切った事は大センセーションとなり、廓では八百屋お七とか、すえ恐ろしい毒婦のように噂しました。そして南地に居辛くなった彼女は東京は新橋の新叶家の静香を頼って生まれて初めて東京の地を踏みました。

静香は西の八千代、東の静香と例えられたほどの東京の名妓の一人でした。時は明治四十四年、千代葉はまだ十五の年、そしてここで初めて照葉の名を名乗りました。

この時、本人の承諾無しの上、三千円の身代金と五年間の年期奉公の条件で新叶家に抱えられたことを知った照葉は「強くなろう。なんでも強い人間になろう。大人の自由にされてはたまらない、親であろうが、強く出てくりゃ、こっちも強く出てやる」と思いました。

やがて照葉は超一流の新橋でめきめき頭角を現し、一、二位を争う売れっ子になり、桂太郎の殿様のお気に入りになり、西園寺公望の御前様からも名指しを頂くようになり、高橋是清にも可愛がってもらい、大隈重信も客になりました。

それ以上にかの女を引きたてたのが原敬、北里柴三郎、細川護立男爵・・・綺羅星のような名が並びます。

大正天皇の或る大典の時に、新橋の芸妓衆が仕丁姿で花車を引いて二重橋前で祝意を表した際、婦人矯正会の矢島楫子がこれを怒り、当時の東京市長の後藤新平に「売春婦風情を、大典に出すとは何事か」とつめよりました。後藤は「彼女等もまた陛下の赤子である」と平然と言い放ちました。

この後藤新平も照葉の大馴染みでした。

さて、一人前の芸妓になると、いくら座敷が忙しくてもそればかりでは華やかな芸妓稼業にはどうしても無理な借金が増えていきます。旦那を持たないと気前良く人付き合いが出来ません。

ところが、照葉の面倒を見てやろうという人は、かならず野暮なごつごつした金満家、彼女は金で売られた身は飽くまでも金のために売っていかなければならない運命にのろわれていると悟ります。

そして十八の時、清香の勧めもあり、四十そこそこで妻子のある江藤という鉱山師の男の妾になり、芝の愛宕下町のかなり大きな借家と、婆やとその婿夫婦、それに女中と小間使いの人をつけてもらい贅沢な暮らしを始めました。

「ねえ婆や、私つくづくいままで馬鹿だったと気がついてきたわ、江藤さんに何故もっと早く頼らなかったかしらとこの頃になって思うわ。お妾なんて、本当に嫌なこったと思っていたけど、なってみれば随分のんきでいいものだわね。こうして贅沢して気ままな暮らしがしていければ、嫌な人でもそれほど苦にもならないわ」

十八から足掛け五年という普通の女性が最も多感で輝く時、普通でない照葉はお妾さんとして静かな生活を送りました。

参照:高岡智照尼『火喰鳥』かまくら春秋

f0347663_12252551.jpg

by gionchoubu | 2017-08-27 12:30 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 二十一

f0347663_11260736.jpg
             当時の雑誌道頓堀ではその時の様子の臨場感溢れる記事がのります。

照葉が生まれたのは明治29年4月22日で、明治41年大阪宗衛門町の加賀屋から八千代の妹分、千代葉の名で舞妓になりました。

この八千代こそ富田屋の八千代として、飛ぶ鳥落すほどの人気、名妓中の名妓としてこちらも多くの逸話を持つ南地の芸妓です。いつかは八千代の生涯をなぞってみたいと思いますが、今回は照葉の話、タイプの全く違う当時の千代葉と八千代とは全くそりが合いませんでした。

千代葉はわずか十三で所謂水揚げされます。彼女の言葉をかりると“その当時、水揚げを頼まれる男性は「色街の通」と言われそれぞれの筋がありました。梅原さん(千代葉の水揚を試みましたものの幼いゆえ上手くいかなかったと述べ、ただ彼女に嫌悪感のみを与えました)はその「色街の通」の一人で、八千代筋妹分の水揚げ専門に頼まれていたのでした。”という事になります。

この頃南地の芸妓は十六、七歳の内に三回程度の旦那をとらされるのが普通で、水揚げ代は家形と御茶屋、男衆の三者で定められ、その割合に応じて分けられていたのです。生涯照葉は自分がいくらで水揚げされたか知りませんでした。

千代葉はこの水揚げを経験した事で、男女関係というものはあさましいものだと心に植えつけられたと述べており、この経験が彼女をして後年仏門を叩かせることにした大きな要因だったと思われます。

それでも、千代葉は恋をします、十代で両親を失くして、すぐ鼈甲問屋を継いだ若旦那で、二十代からお茶屋遊びを覚え、色街でたいへんなもてかたをしていた音峰の宗やんこと音峰宗兵衛です。

宗やんと千代葉の噂は油紙に火をつけたようにパッと宗衛門町に広がり、まるで千代葉が大阪中の色街の女の果報を一人で占領してしまったかのように、色んな当て推量や憶測までつけ加えて、周りから羨望とも、嫉妬とも、嘲りともつかぬ目で見られたのです。

くちさがない廓雀たちは「女を迷わしてきた音峰さんも、千代葉さんの凄腕にかかってしまった。」

そして、ある日千代葉が、いぜんから噂のあった古川という男の馴染みの茶屋に入り浸っていると通じていると勘ぐった音峰は嫉妬のあまり、捨て台詞を後に彼女を力まかせに振り払い出て行ったのです。

ここから常人でははかりしれない行動を千代葉はとります。身の潔白を示す為彼女がとった方法とは・・・

自分の左手の小指を剃刀で切り、切られた指をハンカチーフにくるみ懐に押し込み、自分の傷にはタオルをぐるぐる巻きつけると、音峰のいる玉突きのリンキ亭に行き、「わたいだす。これ、あんたにあげまっさ」懐から血に濡れた小指を宗やんの手につかませ、闇の中に駆け出していったのです。

参照:高岡智照尼『火喰鳥』かまくら春秋




by gionchoubu | 2017-08-25 11:33 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 二十

f0347663_11405908.jpg
舞妓時代の照葉

波乱万丈というのは此の人の為に有るのではないか、と思うほど数奇な人生を辿った大阪南地の超美人芸妓照葉、その人生エピソードを追うのは次回として、彼女が最後に選んだのは、嵯峨野の祗王寺で尼として仏門生活を送ることでした。

仏門を叩いて14年、54歳になった智照尼(照葉)に突然環俗説が持ち上がったのです。この風評に驚いた嵯峨大覚寺では、事の真相を調査するため味岡執事を大覚寺の塔頭である祇王寺を向かわせ事の実相を尋ね、彼女の心境を聞きました。

このとき同行したのが京都新聞の記者で、翌日の京都新聞、昭和24年9月13日『環俗説をめぐって 心にもない風評 かつての名妓、智照尼の語る心境』として掲載されました。

「どういう間違いでそうしたことが伝えられたか知りませんが、環俗などして照葉の昔にかえるなど思いもよらないことで、私はここ(妓王寺)を人生最後の死場所ときめている気持に絶対に変りありません。

私の話したように伝えられた中には私が書いた“照葉ざんげ”の文章からまことしやかに風評がとんでいるらしいのです。

ただこうした混迷の中になりますと私だって迷うこともありますが、併しどこまでも衣を着た気持で一生を過ごしたい念頭でいることだけはハッキリいえます。

私のこれまでの体験をなやみを持つ人たちに聞いて頂いて、多少ともこれらの人々に心のうるおいを与えたらということを考え出来ることなら悩みを持つ人たちに私の人生経験を話して生きたい―これが私の夢なのです。

私の日課?毎日のように書きものをしていますが過去の経歴にさまたげられることもあったり却々思うようにもいきませんが、これは率直にいって私個人の経済状態をどうこうということより妓王寺を保存して頂く気持がほしいものです。

私の落ち葉の句が問題になりがちですが、どうでしょう落花なら色気もありますが落葉ではもうおしまいです。

とにかく十四年すみなれたこの寺を私の死場所ときめておりますし、どんなことがあっても墨染の衣を着ている気持を捨てない私であることだけは断言できると思います。」

その落ち葉の句は紙面に載っておりませんが、照葉の自伝『火食鳥』の「あとがきにかえて 過去帳より」に米寿、八十八歳になった句が載ります。

奔放に生きし過去はも遠花火 智照          合掌




by gionchoubu | 2017-08-23 11:42 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 十九

f0347663_15091904.jpg
                         祇園会館

昭和24年3月20日の京都新聞に『祗園東新地誕生』の広告が出ました。

組合名改称公告 今般当組合従来の名称祗園新地乙部組合を左の通り「祗園東新地組合」と改称致しました宜敷く御諒知下さる様此段公告致します(旧称祗園乙部)祗園東新地組合 組合長 松村重治郎

そして初めて祗園会館の名称が使われます。それまでは祗園演舞場としてダンスホールを経営していましたが、昭和23年六月閉鎖して本来の演舞場の復元をした、と説明があります。

さらに三月二十一日より二十七日まで祗園東新地組合として第一回春の恩習会(一部料金税共金百五十円也)の告知も掲載されています。

この時の建物は総檜造りで、現在の鉄筋に祗園会館は昭和三十三年に建てられたものです。又名称も祇園東歌舞会が現在の正式名称です。

昭和24年3月29日の京都新聞

『花街の女をボスから解放 封建色残る組合を労供事業と認定』

京都七条、西陣両職業安定所では全国のトップを切って花街の民主化に乗り出し、管内の祗園甲、乙、島原、宮川町、中書島、先斗町、上七軒の七芸妓組合と下河原月見町のヤトナ従業員組合をいずれも労務者供給事業に認定、これに所属する芸妓八百十六人とヤトナ三百二十五人を解放することになった。

これらの花街は旧制度にしばられ、表面上は芸妓は自前の建前をとっているが、芸ギ組合に加入することによって営業できることや、その紹介で客席にはべる点など、また賃金(花代)は直接自分らが受取るのでなく、貸席業者と組合を通じて受取っている点など明らかに非民主的な従属関係があるとしました。

しかしこれによって花街が全面的に民主化されるとは言い難く、働く彼女達が業者依存の態度をさらりと捨てて明朗な開放的な社会を作り上げる意欲を高めなければならない、としています。

昭和24年5月14日

『売春のピンはねる 旅館の女将と情夫を送検』

東山の祗園南側旅館Tの女将Yと情夫Iは共謀して、昨年九月ごろから和歌山県伊都郡のKさん(十九)を女中名義で同居させ、百貨店店員や洋裁見習生のように言って買淫させ、Kさんには三百円位より支給せず、中間摂取したほか、本年四月初旬ころから伏見区の女中Tさん(二十七)を未亡人、有閑マダムなどに仕立てて同様買淫させた疑いによるもので、児童福祉法、勅令九条、風俗取締法違反容疑で送検されました。

これは氷山の一角で、こういった行為はいくらでもあったと思われます。


by gionchoubu | 2017-08-22 15:10 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 十八

f0347663_11592103.jpg

昭和24年3月13日の京都新聞

『やはり生活の苦しさ、やせても真面目に働きたいが 彼女らはどうして墜ちたか、ヤミの女の実態調査から』の記事が大きく載ります。

要約しますと、敗戦後はヤミの女、街路嬢―いわゆるパンパンガールの続出が目立ち、京都地区だけでも四、五百人を数えている。京都福祉研究所では昨年九月以後、戦後の特殊変動によってパンパンとなったものの実態調査に乗り出しました。

街路婦は彼女達の責任の責任だけでは無く、敗戦社会の生んだ哀れむべき落し児である。平安病院の調べによると、この道に迷い込んだ理由として、生活苦によるもの四十九%、紫草苑調査によると、二百二十一人中、生活困難四十七、戦災四十九、家庭不和三十四となりました。

平安病院でHという街路婦が自作のこんなズンドコ節を紹介しました。

「肥えてパンパンといわれるよりも、やせてまじめに働きたいが、千や二千で世帯は出来ぬ、こんな世界にだれがした」

戦争の為に親を失い親類にも顧みられず、数人の弟妹をかかえて生活戦線に疲れ果て、あるいは敗れてしまった女性、孤児として街頭に投げ出されて身体一つを頼みに生きる女性、戦争中多忙の為タイプライターとか洋裁とか手仕事を覚える余裕も無く、厚生しようにも手立てがないのが実情です。

街路婦には、戦争未亡人、引き上げ者もたまにはいるが案外少なく、二十歳前後の女学校出が圧倒的に多いいとの事です。

Kという女性は夫が未帰還であるが子供三人をかかえ、生活のため街路婦になり、外国人とのみ関係を持つといいます。日本人と関係していると夫がもし帰還した時、感情上その他のもつれがおきると困るからがその理由。

また、中年婦人で珍しいおもちゃや菓子をもらって喜ぶ子供の顔みたさに此の道に入った人もいます。普通に勤めたら三千五百円くらいの月給ではなに一つ子供に買ってあげることが出来ないからです。

彼女達の月収は平均一万五千円から二、三万、中には七万という者さえあると噂されていました。ただ生活が花やかため配給の実績が無い者が多いいし、食料はヤミに依存しているため貯蓄が無く浪費も多く、親への仕送りも滞り勝ちというのが多数。さらにはパンパンとみると下宿代もびっくりする程とられる、というから「ひどいわ」とこぼす女もいる。

パンパンになったもう一つの理由は虚栄心から墜ちた場合があげられます。良い服、良い靴、良いハンドバック、さっそうとしたニュールックで街を歩くパンパンに、一部の女性は蔑む気持と同時に羨望の気持もわいてしまうのです。

Eというパンパンガールが「自分の住んでいる囲りは日本人が少なく友達などもそれらの人と交際して美しい格好をしているのがうらやましくて一度でもよいからあんな洋服をきてみたいといつも思っていた、ある機会に友人から紹介され喜んでダンスに行ったりしたが“あそび”とはそんなものでないことがやっとわかった、その夜は実にいやでおそろしかったが、それでも菓子などをもらってうれしかった。」と告白しました。

記事は、性的知識の貧困は実にひどく、今後の性教育の必要を感じさせられる。全職を調べるとキャバレーの女がほとんどで、ある点良家の子女のこういう場所への出入りはつつしまなければならない事を示している・・・と結んでしました。



by gionchoubu | 2017-08-20 12:01 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 十七

f0347663_12183441.jpg

昭和24年、2月2日の京都新聞

『ダンサーも労働者です』固定給も支給、ホールに労基法適用

昨年六月美松ダンスホールの七ダンサー整理によってダンサーが自営業と主張するホール側と、雇用契約があるので労働者であるとするダンサー側との対立が生まれました。

京都労基局でも全国的に結論の出ていない問題だとして再度本省と打ち合わせ、十二月には美松、北野、歌舞伎など市内大ホールへの実態調査を行いいました。

そしてダンサーの指揮、監督、命令など使用者が握っている点などの数項目を指摘し、雇用関係はともかく使用従属関係が認められる以上、労基法の適用を受けると結論付けました。

これにより業者は適用事業場報告や労働者名簿、賃金台帳の備えつけは勿論、一切の使用者としての責任を果さなければならなくなりました。

これで収益が契約高に達しない場合、自分の衣類を売ってでもその損害を補わねばならなかったダンサーも当然その負担から逃れることになり、あらたに固定給も支払われ、無茶な整理からも守られ、やっとダンサーも労働者の仲間入りとなりました。

上記の実態調査が行なわれた市内大ホールの美松は新京極上ル西、歌舞伎は河原町上ル六角西、北野は昭和26年の紙面の宣伝欄に北野アベックホールとして千中下ル西と書いてあります。

その他上七軒の北野会館に有ったのは上七軒キャバレーで以上は全て日本人中心のダンスホールはづです。

進駐軍専用大ホールが有ったダンスホールとすると以前紹介した、昭和八年に誕生した九条山の東山ダンスホールがありました。もうひとつ進駐軍専用として円山公園の藤の棚に都キャバレーも紹介させて頂きました。こちらは昭和25年4月1日、京都唯一の進駐軍専用飲食店キャバレー、円山パラダイス(京都ナショナルクラブ経営)として再オープンしましたものの昭和26年1月15日未明に全焼しました。

もうひとつ、祇園花見小路にあったキャバレーグランド京都は、戦後より昭和24年4月9日までは進駐軍専用、十日より一般邦人の社交場として使用することが許可されました。

昭和24年、2月26日の京都新聞

『これもご時世どす 護身術を習う芸コはん』

「そんなにきつうしやはったらいとおっせ」

「かんにんどっせ」

これはきのう先斗町歌舞練場で芸コはんが護身術をならう一風景・・・

万一暴漢に襲われた場合を考え、お茶屋組合が正道館の長島五段らを招いて昼からその講習会を開いたが同じ畳の上でも一寸勝手が違うのか芸コはんも遠慮がち

それでも人になれるものは早いもの・・・しまいにはこんな時にはどうしたらよろしおすと質問をあびせ先生達があせをかいたり赤くなったり・・・

写真はこんな工合どっか・・・と護身術のおけいこ



by gionchoubu | 2017-08-19 12:26 | パンパン、赤線 | Comments(0)

まいまい京都 輪違屋コース

f0347663_15413744.jpg
f0347663_15420305.jpg


以下の日時で輪違屋さんのお座敷に如月太夫を御招きします。

お馴染みさんは別として、一般募集で輪違屋さんに一見(一現)さんがお座敷に挙が

れる機会は現在まいまい京都の企画のみだと思います。

太夫道中、お座敷拝見、かしの式、舞、演奏も素晴らしい感動を呼びますが、如月太夫、

輪違屋十代目御当主高橋利樹さんとゆっくりお話ができるのがなによりと・・・

浮世場離れの別世界をご堪能ください。

くれぐれも魂を抜かれないように・・・




予約あと少し→すいません定員になりました。

http://www.maimai-kyoto.jp/program/machiaruki/17au039/


9月18日(月)11:30~14:30

【輪違屋】粋を極めた芸妓の最高位・太夫さんとお座敷遊び
~幕末の空間が残る格式高き島原唯一のお茶屋、十代目当主がご案内~





京都で唯一、幕府より公認を受けた
格式高き花街・島原。
そのなかで今も営業を続け、日本でただ一軒
太夫を抱えるお茶屋が、輪違屋です。

襖に道中傘を貼りこんだ「傘の間」や
本物の紅葉が塗り込まれた「紅葉の間」、
近藤勇の屏風など、新選組や志士たちも遊んだ
幕末の空間で、太夫さんとお座敷遊び。

島原の太夫は、知識、品格、遊芸と
すべてにおいて極上、大名や公家たちの
お相手を務めた芸妓の最高位。

可愛らしい禿を引き連れ練り歩く
「太夫道中」や顔見せの儀式「かしの式」、
お点前、舞・胡弓などの技芸。
京料理やお酒を味わいながら、
粋と艶を極めた
絢爛な饗宴を堪能しましょう。

固く閉ざされた「一見さんお断り」の世界へ。
花街を知り尽くした十代目当主の
レクチャー付きなので、
初めての方や女性の方もご安心を。


※飲酒を伴うため、ご参加は
20歳以上の方に限らせていただきます。

開催日時
2017年9月18日(月)11:30~14:30頃
※開始10分前にはご集合下さい。
集合場所
JR「丹波口」改札口前
※手旗を持ったスタッフがお待ちしております。
参加費用
28,000円 (保険料含む) ※料理、お酒付き
定員
20名(先着順・要予約)
注意
・靴下を着用してご参加ください。
・催行人数10名に満たない場合、開催日の7日前までにツアー中止をお願いすることがございます。
参加予約
ページ下【参加予約はコチラから】ボタンをクリック
または、まいまい京都事務局までお電話ください。
電話:075-462-2312
(受付時間10:00~18:00 ※水・日・祝は定休日)

  • 参加費は当日集合時にお支払い下さい。お釣りのないようお願いします。
  • 参加予約後のキャンセルは、この日の為に準備を重ねてきたガイド・事務局ともに、とても悲しい思いをいたします。キャンセルのないようお願いいたします。
  • 開催3日前以降のキャンセルは、キャンセル料をいただきます。
    ⇒キャンセル料について詳しくはこちら
  • 歩きやすい服装と靴でお越しください。
  • 日除け、虫除け対策は各自でお願いいたします。
  • 雨天決行です。警報や注意報が発令されるなど荒天時は中止します。中止の場合は、開始時間の2時間前までに連絡いたします。



コースルート

【距離:約0.5km】JR「丹波口」 → 1.島原西門跡 → 2.島原住吉神社 → 3.歌舞練場跡 → 4.輪違屋(お座敷遊び) → (解散)

ガイドさん

高橋 利樹 さん

輪違屋十代目当主。幼き頃より太夫や芸妓とともに暮らし、三味線や鼓の音を子守唄代わりに育つ。太夫や芸妓に芸事を教えるため、自らも芸に精通する。著書に『京の花街 「輪違屋」物語』。
⇒京の花街「輪違屋」物語(Amazon)

担当コース:

担当コースを全てみる



正脇 良平 さん

祇園の旅館「ギオン福住」支配人。祇園甲部、祇園東、宮川町の芸舞妓の手配、また自らお座敷の司会進行を手がけ、花街文化に親しんできた。全国200箇所以上の花街・花街跡を訪問。現在は専ら「祇園ねりもの」(もう一つの祇園祭として江戸時代中期より絶大な人気を博すも、昭和35年を最後に途絶えた芸妓による仮装行列) の復興を目指して活動中。
花街ぞめき(ブログ)

担当コース:


by gionchoubu | 2017-08-17 16:02 | 島原遊郭 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 十六

f0347663_11400647.jpg

昭和24年1月1日の京都新聞

岡崎法勝寺跡の谷崎潤一郎の別荘に和田記者が訪れ新春放談を試みました。

文豪谷崎よもやま話 新春放談 懐し祇園の春 京舞をゆっくり観たい

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


京都の住み心地はいかがですか

前にいた「俺松庵」が戦災で焼けたから、こっちに来たが京都は焼けなかったし静かでいい

京都の四季ではいつがお好きでしょうか

そりゃ春と秋だね、夏は今年みたいに暑いとやりきれないし冬はずい分冷え込むから

春といいますと吉井さんが「かにかくに祗園は恋し」と詠んでおられますが先生はどうです、やはり春は祗園をなつかしまれますか

そりゃあの辺の春景色はいいね、以前はよく行ったものだよ、終戦後は一度もいかないが祗園のしだれ桜も枯れてしまったというじゃないか、惜しいことをしたね

秋はやはり嵯峨野を賞でられますね

何といっても秋の風情は嵯峨だ、祗王寺から二尊院へのあの辺は特にいい、祗王寺にもここ久しくツエをひいたことはないが―二尊院にはこの秋虚子の碑が立ったとか―

外出は近ごろあまりなさいませんか

散歩はよくする、岡崎のこの辺が好きだ、街へもちょいちょい出かけるし吉村君と新村君とこへ訪ねるくらいだ

京都の絵かきさんとの御親交は

そんなに深くはない、十一月の初めに虚子入浴のとき福田平八郎。金島桂華と一座したが愉快な一時だった、だれの絵が好きだって?そうつは不公平でさしさわりになるから止めとこじゃないか

顔見世へ行かれましたか、ご感想は?

行くには行ったがも一つだった、何だか物足りなかったね

雁次郎と中村芝翫との「廓文庫」が出ていますが去年の六代目と故梅玉との差をどんなに思われましたでしょうか

比べるのが無茶だよ

吉右衛門はいかがでした、六代目とはどちらがお好きでしょうか

むろん吉右衛門もいいよ、だけど私はどちらかというと六代目びきだね、名古屋でやってるそうだが

観て参りました、体の調子がすぐれぬといいながら藤娘などまさに至芸でした

ありゃいいね

顔見世以外のお芝居はごらんにならないのですか

関西の芝居は見ない、東京へ出かけた折にはちょいちょい観るが

映画はよくごらんになるそうですがお好きですか

とり立てて好きというわけでもないが試写会や何かに招待されて時々みる、それに熱海にいると夜退屈しのぎによく出かける

映画に行かれる時は奥様と御一緒にですか

まあそうだ、子供を連れて行ったりする

最近ごらんになった映画はどんなのですか

熱海へ来るのは邦画が主でね、洋画もおくれては来るが邦画を見る機会が多い、田舎のことで映写も悪いのだろうが写真がきたない、この間も「蜂の巣の子供達」を観たがあまり写真が悪いので途中から飛び出した、こちらでは「海の牙」が大変興味深かったね

このまえ「愛愁」がよかったという話をききましたが先生はアメリカ映画よりフランス映画がお好きと見受けしますが―

まあそういうことになるだろう

その他先生のご趣味は?

京舞、邦楽、能、狂言など好きでこれらはみずから進んで見に行くよ、京舞といえばおさだ(松本佐多)さんにもしばらく会わないな

そのおさださんをモデルにした自由劇場という小説が本紙にのっていますがお読みになってますか

いや小説は全然読まない、新聞は朝日、毎日、京都と英文毎日に目を通している

食物ではどんな物がお好きですか、油こい物が好物だとかききますが―

油こい物が好きかって―、そんなことはないよ、もう老人だからね、純京都風の料理なら何でも好きだよ

ここで氏は初めて話を止めてお茶をのむ、限られた十分に最大限の質問をと必死になってたたみかける記者がたじたじとなるほど答えは早い、「たて板に水」があたらねば電光石火の勢いでという調子―

今回の谷崎さんは茶の着物の上に黒のちゃんちゃんこを重ね、めずみ地に黒のたてじまの首巻という出立ちである。

もう十分すんだよ、この辺でいいだろう」と立ちかかる氏に質問をつづける

明日から熱海へ行かれるそうですが熱海はお好きですか

好きとかきらいとかじゃなく何しろ京都と違ってあったかいからね、それに来客が少ないからよいよ、電熱でももう少しふんだんに使えれば京都にいてもよいが今の様子じゃずい分冷えこむし、もう老人だから体にこたえ神経痛がおこるからどうしても熱海行きが必要というわけでね

最後に今年の抱負をおもらし下さい

もう死ぬまでにやることは予定がついているので年が改まったってちょっとも変りなんかないよ、熱海行きでせわしくしている、もういいだろう

記者は冷えたお茶もそのまま、玄関まで見送られて恐縮至極、氏の健康を祈って家を辞した

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

恐縮至極のわりにはグイグイ行く記者さんでした。





by gionchoubu | 2017-08-15 11:45 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 十五

f0347663_12410901.jpg
昭和23年12月15日の京都新聞『「ヤミの女」一掃の覚書交附 一部は軍事裁判 仲介者なども処分』

昭和二十三年法律第一六七号性病予防法の施行に関して、以下の事項に対して、違反のないよう府民に徹底させ、違反者の撲滅に全力をあげる事になった。

市警、摘発開始 街路婦の取締まりは現在まで強力な処分規定がなかったため主として性病予防法に基づき各警察署で間断なく取締りを行ない平安病院で検診の結果、病気でないものは釈放、保菌者のみを入院させ全治すれば市警保安部へ登録、説諭を加えるのみで釈放していた。

同部の調査によるとこの登録は約三百人で未登録者は相当多数に上ると共に増加しつつある常態である。

最近は彼女らが客引きすることはなく喫茶店や一定の場所にたむろしリンタクやクツみがきなどを通じて客をとり旅館や特定の民家でかせぐという方法で専門的に部屋を提供している者もあるとみて同部では今後この覚書にもとづき徹底的の取締りを行い本人と遊ぶものでも軽犯罪法で摘発することになった。

一、 買いんの仲介や世話をする目的で占領軍軍人に話しかけたり場所を提供した者は占領の安全に害した者として軍事裁判に附する。

二、 この点について日本の官公史は娼婦を逮捕、日本の法律に従って処罰すべきである。

三、 性病予防法第十六條の速やかな実施と、知られる限りの娼婦のひんぱんな検診

四、 病気をもった娼婦を伝染のおそれがなくなるまで入院させ退院後も完全に当該官公?に連絡させる。

五、 接触の状況を徹底的に調査して、法律第十二條に基き容疑者を捕らえるための完全な密過追求制度を設ける。

六、 娼婦の写真を整備して憲兵司令官に提出すること、占領軍軍人が立ち入るのをみかけた娼家及び娼婦をともなって立入った家は直ちに憲兵と共に検視する。

七、 何らかの法を犯して捕らえられたもので性病の疑いある者は検診して治療を施し全治するまで監督すること。

以上は私娼、即ちパンパンに関する取締りに関するものとすると、同年十一月二十八日に載ったのは座敷女中募集に関する旧遊廓地で起こった事と思われる記事であります。前回の『若い女に売春』の手口と良く似た方法で業者が女を集める様子が描かれました。

元女教員が涙でつヾる転落の手記『乙女の誇り二千円で消ゆ』甘い広告 座敷女中月収二万円で病毒の身に、を要約しました。

「座敷女中入用、月収二万円以上」との好条件の新聞広告で地方から無知な婦女子を誘い客を取らす悪質業者が最近多くなり、市警察保安部でも明らかに人権を蹂躙した行為として断固摘発の手を進めている。

昭和二十二年三月に瀬戸内海を真下に見る師範女子部研究家を卒業したUさんは生まれ故郷の小学校に就職し、二年目の教師として、校長から人格も認められ会計係りになったが「一寸先はヤミ夜」学校もそのまま五月のそよ風に乗って「月収二万円以上、女中求むXS」の文字に誘われ家、親、兄弟を捨て京都のXSに来ました。

XSの主が四、五日休んでつかれを治して働いて下さいとの言葉に、家を捨てたさびしいUさんはほろりとなって言葉のままに一週間を過ごしたものの、このままではいけないと思い

「何か仕事いただけます?」

「あなたは接客係として家へ来てもらった人である、今夜から他の人に負けないように働いてください。」

接客係、接客婦の仕事を主人に聞くと

「オヤマ」です。(関西でオヤマは遊廓で客を取る女です)

そして「あなたが家にきてから部屋代、食費が千円以上になっています」

結局Uさんはヤミ屋の四十男の為に乙女の誇りを二千円で涙と泣き声に消して無くしてしまった。

なにゆえ希望でなった教師の職を投げ打って、有りえない好条件のXSにきたか、無一文で飛び込んで手持ちが無かったのか、そもそも一週間も娼家にいて他の女が何をしていたのか気づかなかったのか・・・色々同情しにくい側面もあります。

六日目に検査がありキズで取られて十日間入院

結局Uさんは、入院―借金―返済―入院―借金―返済とぐるぐる水車の如く回って行くだけであり、今後どうなって行くのか・・・という救いの無い状況で話は終わってしまい、識者によるありきたりな話に移ります。

こういった女性が一日何人客をとったかを知る資料は非常に少ないものです。Uさんは平均一日六人の客を取ったと告白しました。








by gionchoubu | 2017-08-12 12:44 | パンパン、赤線 | Comments(0)