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京都パンパン赤線時代 十

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                    この件に関しましては・・・

少し時間を戻します、昭和23年6月19日の京都新聞に

“ヤミ”また増加?ダンス芸者は独立登場、売淫取締法をどう見る、の記事が載ります。

政府は人権問題や男女同権を表に挙げていますが、取り締まり側が一番問題にしているのは、性病の蔓延が国家の根底を揺るがすことにあった事だったと思います。

これは多くの兵隊を駐留さす、GHQの意向でもありました。

ところが、売淫取締法のもとで厳正な行政処分が行われれば、特殊貸席は廃業せざるを得ず、これに属す多くの接待婦が全員解雇ということになり、そうすれば全国的にみて莫大な失業者を生む結果になり、ヤミ売淫が潜行、健康診断も受けなければ、性病がさらに広がるだろうという予想もありました。

多くの思惑が渦巻き、政府の打ち出す方針は迷走を続けます。

そして翌日6月20日の紙面ではいきなり当局があれほどこだわった『接客婦の定期検診は廃止』の見出しが出ました。その内容は。

「性病の撲滅を一層徹底させる為これまでしゃく婦やダンサーに行って来た定期診断と健康証明書の発行は廃止すると十八日京都軍政部衛生課から発表された。

性病をもっとも多くもっているとみられるしゃく婦やダンサー、雇仲居など接客業者に対し過去二ヶ年にわたって定期診断、なおったものには健康診断書を発行してきたが、性病にかかっていない一般市民にかえって安心感を与え、安心してしゃく婦と接触する傾向があるので、今後はこれを廃することに決めた。

今後性病にかかったしゃく婦らは府立平安病院、舞鶴康生病院、各保健所で安い診断を受けてもらうことになったが、これは全国府県に先がけて京都府で始めて行なわれたもので、一般市民の性病に対する認識を十八日限り一段と深めてほしい。」

そして、性病予防は各自の責任で、という小見出しの後、府衛生部長の談とすて、芸妓達への定期検診(検黴)も、同時に廃止となりました。

警察が、旦那を持たない芸妓に性病定期検診を強制的に受けさせなければならないと考えたのは、当時旦那を持つ前の芸妓の内、少なくない割合の芸妓が、不特定な男性客と接していた事を、既成の事実として捕らえていたのは当然のことです。

これまた、芸妓に対して、少なくない比率の男性の目的が、座敷で舞を鑑賞したり、地方の三味線に合わせ義太夫を唸ったり、お座敷遊びに興じたり・・・だけで無いのが人の世の常・・・というものです。

とにもかくにも、京都で昭和二十一年の春に始った芸妓への検黴は二年ほどで終わりをつげたのです。

はたしてその間、どれだけの芸妓が検黴を受けたのか、あるいは受けなかったか、私の知る限り、その消息を知らせてくれるものは有りません。

当時、そしてそれ以前の芸妓に対する公然の秘密・・・もう少しお付き合いください。



by gionchoubu | 2017-07-31 12:43 | パンパン、赤線 | Comments(2)

京都パンパン赤線時代 九

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昭和24年12月11年、夕刊京都新聞の記事より、

あきれた戦後派少女気質、盗み重ねて転々 「貧乏にアキアキ」家出の16娘

「わずか十六歳だというのに七条新地はじめ島原、福知山などの遊郭を荒らし回った少女が九日、七条署から送還された。

この少女は福岡県福岡市高根釣子(十六)―仮名―といい七日午後二時ごろ中央市場附近の家にアキスに入ったところ七条署員に捕まったが、はじめは福岡から家出したばかりだと言い張っていたが辻つまが合わず、係員が追求したすえ各地の席貸を手玉にとったしたたか娘とわかりアプレ・ゲールの少女気質の一つとして係員を驚かせている。

自供による彼女の放浪日記は次のようなものである。

九月の末ころ私は友人と一緒に家出した。左官である家の暮らしは貧しく、私が長女であるためいろいろ仕事をいいつけられるのがいやになり、家の金千七百円を持ち出し京都に知人があるという友達と一緒に出かけた。ところが友達は家が恋しくなったのか広島の近くで途中下車してしまい私だけ京都に着いた。

駅前でしょんぼりしていると六十余りの婆さんがきて“こんなところにいても危ないから仕事を世話してやる”といわれ連れていかれたのが七条新地の小林とかいうお茶屋だった。

二、三日働くうちいやになり客の金を盗んで見つかり、そのまま飛び出した。駅前にいるとまた婆さんが来てこんどは島原に連れて行かれた。ここも長くは勤まらず、同僚の文ちゃんというのと相談のうえ店の着物を着たまま、二、三日で飛出し十月ごろ福知山にいき同所の遊郭で二十日ばかり働いた、しかし福知山はさびしすぎました、また京都が恋しくなって同僚の上着など衣類数点を盗んで逃げ出し京都に舞いもどった。

すると駅前になれなれしく近寄って来た男があり、言うがままに駅の近くの宿屋で四五日暮らしたが男がイヤになって別れ十一月五日また新地の坂下という家に二十一歳だと偽って住み込んだ。

その晩泊った客がフロに言ったスキにお客の現金、時計を盗んでまた飛び出し数日遊んだ。ところがこんどは中央市場でパンパンとして警察に捕われ性病だというので平安病院で治療を受けさせられることになった。

しかし病院がイヤでイヤでたまらず二、三日後また一緒に入っていた人の洋服数点、現金五千円を盗んで深夜窓から溝を伝って逃げた。それは十一月の二十日ごろだったと思う。

盗んだ金を費い果したころ家が恋しくなり旅費をつくろうと中央市場近くで見つけた留守番のいない家に入ったところで捕まった。」

この一連の話でわかるのは、遊郭自体廃止になっているものの京都の場合、皆遊郭と呼んでいた事。京都駅にこういった家出娘等を待ち受け、旧遊郭地に斡旋するブローカの様な人間が存在したこと、又、受け入れる業者も、何の審査もなく、身元も調査する事なく簡単に女を雇いいれる事、そして茶屋では検黴を受けずに仕事が出来た事・・・遊郭時代とくらべ赤線時代のなにかとルーズな所が浮きぼりになりました。





by gionchoubu | 2017-07-26 12:42 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 八

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                      福井県、武生町遊郭跡

検挙で乙女の秘密さぐられ哀れ転落の成果へ、涙でつづる夜の女記

昭和二十三年5月4日、京都新聞の記事より・・・

約半年、いわゆる街の女として夜の街で客を求めていた福井県武生町出身の十七歳の街田良子と滋賀県北小松出身の十八歳の吉野佳子(いずれも仮名)二人の女が、もう二度と仲間には帰らない、厚生させて欲しいと七条署に出頭、事情を聞いた山田保安係長が八方奔走し、元京都中央保健所長、関乃戸氏に頼み込んだところ、本人が厚生する気なら引き受けようという事になりました。ゆくゆくはパーマネント技術でも教え、自分の娘として面倒見ようとその手続きを急いでいる。

滋賀県出身の方の少女の、この間のなりゆきの手記が以下になります。

十一月十四日・・・継母にしかられたので自分の衣類(約四万円)をもって家を出る、当分は売り食いで暮らす。

十一月三十日・・・ひる大阪曽根崎署のパンパン狩りに引っ掛かる。泣いて身の潔白を申し立てた聞き入れられず乙女の秘密をさぐられやけくそになる。

十二月一日・・・金はなくなる。でも、のろわしいきのう、一層パンパンにでもなろう。

一月八日・・・中立売署に検挙された、でも病気がなくてすぐ帰してもらう。

二月末日・・・このころでは一日千円のかせぎがある、でもこんな商売から足をあらいたい。

三月末日・・・“ああもう一度むかしの私に戻りたい”“前の姿で親許へ”“でもいまの私のままではかえれない”“ああ昨年の十一月三十日が怖ろしい”

四月二十日・・・ついに決心して警察の門をたたく、恐しいと思っていた巡査も誠心から話せばみんな親切だ。係官の言葉が身にこたえる。

四月二十二日・・・とにかく自分で働かなけりゃ、ある人の紹介でくつ磨きをみてひやかす。でもあんな姿よりましだ。

四月二十六日・・・くつ磨きをしてもう五日になる。手も顔もこんなに黒くなる。一日にせいぜい百円から百五十円であるがなんだか生活に楽しみが出てくる。

四月二十八日・・・おじさん(関乃戸氏)が迎えに来てくれた。もうどんなことがあってもパンパンにはならない。真面目になったら家へ帰れるのだ。

四月三十日・・・ああやっぱり私はあのおそろしい病気におかされていたのだ。痛む、おじさんに迷惑をかけたくない。病院へ行くのはイヤだけれど自分の罰だ、過去を清算して出なおそう。そのときはあじさんも迎えに来てやるといっている。

後追い記事など望むべきもないのですが、この少女が、どうかその後花柳病気が完治し、幸せな家庭を築き、今でもご存命なのを願うばかりであります。





by gionchoubu | 2017-07-25 14:18 | パンパン、赤線 | Comments(0)

五条楽園ぞめき 赤線地帯

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宮川町を通り抜けて五条に出る。五条の大橋を渡って南へかけて橋下(五条新地)が有る。牛若丸は京の五条の橋の下でベンケイにひっぱられる。橋下といっても自由学校ではない。五条南にあるから『下』という(京都では北を上ル南を下ルと謂ふ)

橋下になると、乙部や宮川町と違ってグット近世風な遊廓になる。まず入口に赤いネオンで五条新地としてある。

建物も和洋ゴタゴタ型で、ネオンがあかあかとついている。だがやはり特飲店
ではなく遊廓だ。各家に女が居る。こゝは人通り十二時を過ぎるまで絶えない。

大部分がひやかし客だ。ひやかし客の種類も色々だ。サラリーマンから百姓のアンチャン連に到る。それだけに柄も悪い。

それだけに場所も一番広く、家も一番多く、全体からみればC級だが、中でも一級、二級、三級位ひにわかれ、一級などは乙部の近代化といふ感じだ。

廓の真中を有名な高瀬川が流れている。加茂川にそった所が三級、高瀬川にそった東側が一級、西側から河原町にかけてが二級といふ所だろう。

女も色々だ。一級には美人型で味、サービス、テクニック共に、乙部などはるかにおよばないのが居る。値段もまちまちで一級だと乙部並、二級で宮川町並、三級だと値切れば時間だと二百五十円、泊りだと十二時からでも四百円で泊まる。

一級でも乙部と違ふところは、十二時過ぎれば、時によっては五百円で泊る時もある。ひやかして端から端までへまんべんなくぶらつくと、二時間は優に掛かる。

高瀬川にそった所は、さすがに路へ進出せる突撃型は少ない。交番が目を光らせてるからだ。それでも、入口に立つと、中から黄色い声の一斉射撃を受ける。

婆さんにつかまって中に入れられるともう逃げられない。声の射撃が肉体の射撃に変わる。まともにだきつくのや、後ろからだきつくの、そして腰をぐいぐいくっつけてくる。

ひどいのになると男の急所をつかまれる。オトナが逃げようとしてもセガレが逃げない。そうなれば色男も台なしだ。

今しも客を送り出した女が長ジュバンだけで表へ出て、もう次の男にだきついてる。軒下でも結構暗いので何をしているかわからん。

女は着物で、男と何か話している。体をしっかりくっつけてる。よく見ると、男の一方の手は、女のそで口から中に入り、片方の手は、女がにぎってごそごそしてる。

まさにギョギョだ。心臓が弱い者なら眼を廻してしまうだろう。


この文は、青春タイムス社『新日本艶笑地図』(じゃぱん・えろちっく・びゅーろー)昭和二十六年五月号『新日本艶笑案内京都の巻』からのものです。(カストリ出版の復刻版)

七条新地から五条楽園に移る過程、この区域の赤線時代の様子を映しだしたもので・・・この臨場感と言ったら、実際その場所でルポタージュしなければ得られないであろうもの・・・その生々しさは半端ではありません。

公許の遊廓と言うタガが外れたた赤線地帯・・・写真で娼妓を選ぶわけでもなく、女が直接出て来たり、やり手婆さんに捕まったらもう逃げられないという・・・規則がある様な無いような、戦前の遊廓時代ならとても考えられない・・・まるで江戸時代の初期の遊里の絵図に描かれたある種のおおらかさ、したたかさが赤線の一つの特徴ではないでしょうか?

文士、映画製作関係者を含む、この時代を通り過ごした男達が赤線に大した思い入れを持っていたような気がするのは、赤線に囲まれた区域が・・・一種の大らかさと強かさから生み出された人間が本来備えている感情にまみれていたからでは無いでしょうか?




by gionchoubu | 2017-07-22 12:02 | 五条楽園 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 七

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                      中京の遊里跡にて

昭和二十三年一月十八日の京都新聞に「“結婚”が此処の書き入れ、美容院をのぞきます。パンパンのお行儀の悪さ」という記事が載ります、内容は、最近パーマネントをかけることが都会婦人の資格の一つの様だ。京都市のパーマ屋さんは二百余軒にのぼる。ところが、お行儀の悪いパンパンガールが集団的にやってきて、順番待ちの間に食べ散らかしたり、歌を唄たったりするので困ることがある・・・といった様な他愛も無い記事です。

私が見た限り、京都新聞にパンパンガールの言葉がでたのはこれが最初です。注釈も何もつかずに出ているので、この時期パンパンは随分一般的な言葉になっていた事がわかります。

パンパンの語源に関しては、『遊女と街娼』で錦織剛男著に二説載っています。

大正三年十月に日本海軍がサイパン島を占領した時、水兵がチャムロ族の女達と品物と交換にたわむれるとき、手をパンパンとたたいて呼んだのが語源。あるいは第二次大戦の時、仏印に上陸した日本軍に、食糧不足に苦しんでいた安南の娘達の娘達が「パン、パン」と食料(パン)をせがんだのが起こりともいいますが、どうも俄かに信じ難い話と私は思います。

パンパンの語源説は他にも沢山あります。しかし乍ら、これだけ広くこの言葉が広く認知されたのは、当時の情報の伝達状況も考え合わせると、局地的な発生と考えるより、大きなコミュニティによる共同認識が不可欠であったと私は考えます。

語源説の一つに英語のpom-pomが由来というのが有ります。第一意が機関銃や高射砲で、それが二番目の意で性交となります。私は連合軍や進駐軍が戦中か戦後、高射砲を撃つ→性交→売春婦と転嫁させたて用いた言葉を、日本人も倣ったと考えます。

発音はパムパムですが、日本人にはパンパンとしか聞き取れなかったのでしょう。

ちなみにハイフォンがないpompomはチアガールがもているいわゆるポンポンです
。高射砲の方のpom-pomは今は殆ど用いられない様で、私が尋ねたアメリカ人は御存じありませんでした。

さて「料飲休業施行規則交付」が昭和二十二年、七月五日に発令されたその後、花街においては二、三ヶ月でこれが有名無実になった様子が十一月二十三日の京都新聞に載りますので、全文紹介させて頂きます。

なめられた七・五禁令 連日のドンチャン騒ぎ 花街はエビス顔

「七・五政令の公布以来その狂態をひそめたかに見えたドンチャン騒ぎもインフレ成金のあの手この手の政令破りでまたまたはげしくなり、今やするどい世論の対象となってきたが、この好ましくない事実は紅燈街の花売高にも克明に反映している。即ち

即ち祗甲芸妓かせぎ高は 七月十七万一千本から八月五万九千本と激減したのが、九月八万二千本、十月十三万一千本にハネ返ったのを初め

妓乙芸妓七月七万一千本が八月に七千三百本、九月七千四百本、十月一万二千本
酌婦は七月三万一千八百本、八月三万一千九百本、九月三万六千三百本、十月四万五千九百本

宮川町芸妓七月一万四千六百本、八月一万一千六百本、九月一万四千本、十月一万七千八百本、
酌婦は七月六万四千七百本、八月七万二百本、九月八万二千二百本、十月九万八千四百本

といずれも尻上がりに復元している。これらはまさか酒一滴なしの芸者遊びでもあるまいから、この方面に流れる料理や酒の数量は相当なもので、今や政令破りの乱痴気騒ぎが、洛中洛外にわたって連日半公然と演じられてるわけだ。」




by gionchoubu | 2017-07-20 14:21 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 六

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    娯楽の殿堂、美松


昭和二十一年の九月二十日の新聞によると、前日の十九日、十年ぶりに島原太夫道中が催されました。午後四時に廓内事務所を出発した道中は、芸妓の引く
花車を先頭に薄雲、玉、光扇、君太夫と大きな傘をさしかけられ、大通りから住吉神社に参拝して角屋の前を丹波口駅(今の場所でなく、当時は角屋の南、現在の公園)の通りに出て事務所に帰って解散となりました。

戦後初の太夫道中から少し時計を戻すと、食糧難、闇食品の横行の中、昭和二十一年の七月五日に半年間の期限を設け「料飲休業施行規則交付」が出されました。喫茶店は暫定に八月十五日まで営業を続けられるものの、料理組合では、氷屋、喫茶店ともどもすべての料理屋の休業の指令をだしました。

翌日の紙面には、「表戸ピッタリ 水接待にコーヒー沸し」の記事が載り、当日をもって東華菜館、ちもと、菊水などきれいさっぱり休業、今年最高気温だった昨日、喫茶店、氷屋も料理屋と歩調を合わせて休業したので、道行く人は大弱り、炎天の歩道を歩き続けねばならないアベック組み悲鳴をあげれば、街のアイスキャンデーの立ち食いだけは行列の盛況だったの事でした。

前日まで絃歌さざめいた祇園甲部、先斗町などもひっそり閑とした静かな風景で、貸席、待合街は文字通り灯の消えたよう、貸席組合の事務所も今後の芸妓達のはっきりした方針も立てられず、気の抜けたような寂しさ、普段着の芸妓が二、三人“これからはお客さんと茶で付き合っていただいて花代にするのやわ”と味気ない顔つき。

サロン美松、歌舞伎などは、美女無き椅子が雑然と並び、趣もないガランドウで、美松支配人も、今後の情勢では、女給とも相談して喫茶店でもやってみるか、と浮かぬ顔、すでにここの女給さんは解散となり、二階のホールに転向のダンサーは五、六人との事。歌舞伎サロンは場所柄を利用してダンス研究所に転向、支配人は女給の事を考えて喫茶店にでも、と思案中の様子でした。

五条料理飲食業組合は組合員の歩調がよくそろい、一糸乱れず休業に入り、もしこの禁を破れば転業許可もしない方針、喫茶店の開業は七、八の両日に申請を受付、八日から喫茶店を開業・・・これまた、京都中が喫茶店だらけになりそうな勢いでした。又この規則は現在の職を奪うだけでなく、大陸からの引き上げ者の受け皿にもなりえず、急場の処置には違いないとは言え、出口や展望が見出せない規則の感を私は持ちました。

さて、僅か数日後の七月十日の新聞を見てみると、そこには「まだドンチャン騒ぎ 祗甲では門燈あかあか」の見出しが出てしまいました。

府警察部保安課経済防犯課は飲料業営業停止に関する政令の徹底指導ならびに違反の摘発をなすべく、八日午後六時から十一時まで関係飲料業者等を調査したところ、宮川町の席貸待合業のマルワ楼で、某商事会社社長以下重役九名がサルマタ一枚でビールの栓を抜き、芸妓相手にドンチャン騒ぎをしているのが発覚して大目玉をくらいました。

又、安井で*席貸待合が客を泊めていたり、先斗町、祗園の大部分は営業停止にもかかわらず、門燈をあかあかとつけ、盛塩をし、水をうち客を待たんばかりの有様だったとありました。

*貸席、待合、お茶屋のたぐいは客を泊めるのは違法となるので、警察の目を気にしてお布団自体置かないのがルールになります。祗園の雑魚寝でお茶屋に臨時にお布団が運ばれたり、五条楽園などで布団が無い形で営業していたと聞くのはこの為です。



by gionchoubu | 2017-07-16 10:43 | パンパン、赤線 | Comments(0)

祇園ねりものと無言参り

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                       お旅所、無言参りでしょうか?

今週の京都新聞の一面に、ねりものの話題が載り、私も紙上コメントさせて頂きました。

http://eonet.jp/news/kansai/kyoto/233041.html

このブログを始めたのは祗園ねりものについて知って頂きたいとう理由が一番で、なんとか今一度ねりものを復興したいという思いに駆られたからで、たいして上手くもない英語でも苦労して何度か発信させていただきました。

昨年、私の提案が届いたかどうかは分りませんが、祗園東の“祗園をどり”のテーマはねりもので、以前にくらべて、少しずつではありますが、祗園ねり物の関心が高まってきたと思います。

そして本年四月に刊行されたばかりの『モダン京都<遊楽>の空間文化誌』で祗園ねりものにも詳しい加藤政洋先生が祗園祭のねりものの章を設け、「祗園花街の芸妓衆による街頭スペクタクルの再現は、おもいのほか近い将来に実現するのかもしれない。」と書いていただき、実際はなにも進展していないのですが、私自身の気持だけは高ぶっています。

さて、同じく京都新聞の昭和二十四年の七月十七日、三度も祗園ねりものに出た、伝説の井上流の名手、松本佐多が無言参りの事など書いていますので、紹介させて頂きます。

懐し無言参り

“梅雨もからりと上ってエリ元が汗ばんでくるころ四条通りにホコが立ち初め「もう祗園さんどすな」とあいさつが交されだんだんお祭りらしい気分になってきます。

十日からは祗園の舞コ、芸コはんは祗園さんの紋をそめたカタビラのそろいの着物に、白地にすみ紋を書き、裏はきまってヒの紋ちりめんをつけた帯ををしめ、頭のかざりものも花グシとかんざしをさしたそろいの祭衣しようをきかざったもんどす。

十日の晩にはねり物が出てクルワ中を夜通し練り歩くのが古いしきたりどしたが明治二十六年きりで止めになりました。

夕涼みの床がかかるのも丁度この頃からで、木屋町、先斗町等鴨川に、こっちは疎水に床がかかったこともあり、向いのお茶屋さんから涼しい浴衣姿の仲居さんが赤まえだれでビールやかちわりを運ぶ忙しそうな格好もみられました。

四条の大橋の下にもしょうぎが出て、日中などはよく足をつけにいってヒル
がすいついて、きゃっきゃっ言ったようなこともおぼえています。

夕方になると涼風にのって祗園ばやしが流れ、めいめいの床にはお客さんが一ぱいで、そこで三味線をひいたり、舞を舞ったりもしたものです。河原には吹矢、氷屋、魚つり、ほおずき売りのよしず張りの店が軒を並べてそらにぎやかなものどした。

よい山の情緒も忘れられません。中京の古い商家が奥深いゆかしい感じのする構えを開けっ放して、それぞれ立派なびょう風をならべ、打水した店先にはしょうぎを出して、みんなが将棋や碁をして楽しんでおり、五ツカスリの浴衣を涼しそうにきた娘さんや子供達が集って地面にかがみながら花火線香に興じているのも祭の夜らしい趣でした。

十七日のお祭の日のにぎやかさも今日のものとは比べものになりません。あるだけのホコと山がみんな巡行したのどすさかいどんなに派手だったか判ると思います。

ちまきもこう高くてはまく事もできまへんが、昔は顔見知りのお客さんがひいきの舞コの顔を見つけてはどっさりまいてくれはったもんどす。

この晩から無言参りが始ります。近ごろはこんなもんに夢中になるコもいなくなりましたが、若い時分はにぎあいました。お花がひけてからそのままの姿や、また浴衣にきがえたりして行くのが一つのたのしみどして、途中でうっかり「おかあはん、こんばんわ」と意ってまた家にもどって出直すコや、ほんまに願いごとがあるコがまじめに通っているのを物をいわしたてやろうと、お客さんがたがふざけはる姿もみうけられました。

ふるくさいかもしれませんが昔の祭情緒だけは残したいものどす。(談)”




by gionchoubu | 2017-07-15 11:21 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

オフ会の再お知らせ

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オフ会のお知らせ


*大変申しわけありません。メールアドレスに不具合があり、お申込み

頂けない状態が続いておりました。現在は復旧していますので、お手数で御座いますが今一度下記メールまでコピペして御連絡下さい。



花街、遊郭、赤線等の情報交換などのゆるーい会を企画しました。


全く知識無く、なんとなく面白そう・・・での参加OKです。


日時:2017年723日(日曜日) 19:00頃

場所:たぶん西院か祇園

会費:3000円~4000円程度、 料理、アルコール付


参加は20才以上でお願いします。


参加御希望の方は

gionheibu@yahoo.co.jpぞめき隊まで


繊細は後日お知らせします。


皆さまのご参加お待ちしております。
by gionchoubu | 2017-07-11 15:59 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 五

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キャバレー歌舞伎・・・旧京洛映画劇場となっています、河原町六角北の京宝はこの時期存在していますので、もう少し西にあったと思います。右欄には、ここで、あきれたぼーいず、田端義夫、森光子の出演予定が記されています。

昭和二十一年、八月二十七日の京都新聞によると、七条署では二十五日夜八時から十時まで伏見、七条、岡崎、三条、四条、祇園、円山方面で夜の女の検挙を行い、平安病院で検診させたところ、十四人中三人にが病毒に蝕まれており、強制入院させました。

収容者は十八歳から三十一歳までで、その中には人妻一、女学生一、美容師見習一が含まれるとの事でした。

尚、同日の紙面で、失明等の危険をもつメチール(アルコール)を販売した十二人の被告に、十五年の極刑が言い渡されており、又、この月より、二十一日の弘法さんと二十五日の天神さんの露店が許されたものの、禁制品の煙草や清華物を、所謂闇販売をしたとして、正午までに千余軒中、七十八名が検挙されています。

私娼、メチルアルコールそして闇販売と当に時代を感じさせる一日でした。

さて、前回酌婦、芸妓、雇仲居、そしてダンサーの検黴状況についてかきました。カブキは166名中一人の梅毒保菌者がおらず優秀な成績だったのにもかかわらず、九月三日の紙面では、八月三十日の午後十時にキャバレー歌舞伎のダンサー十余名が、閉店後京都ホテル裏のダンサー合宿所に帰宅したところ、入り口張り込み中の警官が彼女等を売淫容疑で木屋町二条の派出所に拘束し、強制的に平安病院で検黴させて問題になりました。

ダンサーは指定期間中に検黴した検診証明を提示、キャバレー歌舞伎の支配人も派出所で説明したにもかかわらず、警察側はこれを無視したことで、歌舞伎のダンサー達は行き過ぎた取締りに憤慨、キャバレー協会としても厳重抗議に踏み切る事にしました。

キャバレー歌舞伎があったのは河原町六角西ですが、近所の店にお聞きしてもわからず、この辺の古いことをご存知の料理屋さんを紹介していただいてお聞きしても首を傾げるばかり、終戦後仇花のように現れたキャバレー歌舞伎のことはご存知有りませんでした。

そして、八月二十八日から三日間も府警本部は市内各署を動員して大掛かりな闇の女の取り締まりをしたところ、検挙395名中81人が罹病者、20%、5人に1人が花柳病でした。

検挙者の年齢

21~25歳が181人で46%
20歳未満 が148人で37%で、25歳未満で83%を占めました。

学歴

国民学校卒業 151人で38%
同中退     82人で21%
女学校卒業  124人で31%
同中退     38人で10%

職業

無職     297人75%
ダンサー44人、事務員14人、女給10人、洋裁娘10人、店員8人、酌婦の街頭進出4人、看護婦3人、交換手、ゲーム取、職工が各二人でした。

闇の女になった理由

戦災や引揚者などで生活難の為 33%
放縦で身を持ち崩したもの   27%

そして記事は・・・好奇心から闇に佇み始めたもの18%で近代娘の無軌道ぶりをはっきり示していた。と結んでいます。



by gionchoubu | 2017-07-11 11:43 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 四

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都キャバレーは円山公園?の棚にありました。紙面で?は潰れて分かりませんが、藤の棚だと思います。この辺り(円山公園北)が都キャバレーの立っていた場所と考えてよいと思います。


昭和二十一年六月二十五日の京都新聞に「徹底的に検黴する」の記事が載ります。

府当局は、文化都市京都として観光的にも起き上がる日の近い現状から、芸妓、酌婦、ダンサーなど概算四千三百人を対象に強力検黴を実施、罹病者は市部が府立平安病院、郡部は舞鶴の康生病院へそれぞれ収容して、完治するまで治療の手を緩めないことになり、府衛生課は百五十六万余円の予算を計上し、府議事会で追加予算として承認を求める事になりました。

平安病院は、公娼制度の廃止、借銭の棒引きと民主主義の嵐とともに、外部との面会も自由など、その内容も改革され、名前も八坂病院から変更され、蔓延する花柳病撲滅のために、酌婦ばかりでなく、十遊廓の芸妓をはじめ、市内のダンスホールのダンサー、雇仲居の検診も一切引き受けました。

芸妓の場合は罹病者を東山病院へ、ここの分院として入院せしめ、ダンサーの場合は本院なり、分院なり自由選択で本院の場合は食事を含めて一日五円、分院だと一等二十円、二等十三円、三等八円で食事別でとなっていました。

ダンサー達のこの一週間の検診数と検診成績は

東山     121名(病気無し)
鴨川      48名(1名)
宮川町     23名(無)
五条     108名(1名)
都キャバレー  55名(1名)
グランド京都 140名(3名)
カブキ    166名(無)
?園ホール   53名(無)
北野      33名(1名)
伏見      50名(1名)

?は字が潰れて判読出来ません。

一方雇仲居は検診81名に対し4名と比率はダンサーに対し多く、もっと酷いのは「街の天国」で、その殆どが理病者と紙面で断じており、常時4,5名は入院しているとの事でした。

酌婦・芸妓は廓の事務所で、ダンサーはその保険組合で入院を負担できるが、「街の天国」、即ち密淫は本人から徴収するより方法がなく、それに戦災などで出稼ぎに来ているものが殆どで、入院しても逃げ出して、再び病菌をバラ撒くので一番厄介だと病院は語りました。

公娼制度廃止で娼妓は制度上存在せず、但し売春そのものは非業法でないという赤線時代は云わば過度期の時代で、旧娼妓は酌婦という名目で、実質娼妓と変わる事は無かったのでした。

さて、上記内の都キャバレーは何処にあったのでしょうか、昭和21年10月26日の京都新聞の募集欄に、一般に開放サル(一般外人、邦人)新装都キャバレー、27日 優雅ナル和風建築ノ近代ホールとあり場所は円山公園内になっていました。

募集は舞踏員多数、ボーイ若干名等でした。

求人と宣伝を兼ねた効率のよい媒体利用です。

ちなみに、昭和三十六年に政府による都市公園法で、公園内にバーなど禁止になりましたので、それ以前には都キャバレーは無くなっています。



by gionchoubu | 2017-07-08 14:08 | パンパン、赤線 | Comments(0)