花街あれこれ *このブログに掲載されている写真・画像を無断で使用することを禁じます。


by gionchoubu

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

カテゴリ

全体
上七軒
遊郭・花街あれこれ
先斗町
宮川町
ねりもの Gion Nerimono
舞妓・芸妓
祇園東
五番町
雇仲居
遊廓、花街の類形
京都の花街・遊廓
亡くなった滋賀の遊郭
五条楽園
私娼
島原遊郭
祇園
パンパン、赤線
島原、輪違屋太夫 賛姿語録
*リンク
亡くなった奈良の遊廓
未分類

以前の記事

2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月

お気に入りブログ

最新のコメント

花街ぞめき様へ 元..
by narahimuro at 18:15
> narahimuro..
by gionchoubu at 14:16
> あきさん コメ..
by gionchoubu at 14:51
本当に詳しく、有難うござ..
by あき at 21:27
花街ぞめき様へ 元林院..
by narahimuro at 22:47
> やまねさん し..
by gionchoubu at 12:40
河原町四条の蝶類図鑑は常..
by やまね at 11:23
> やまねさん そうで..
by gionchoubu at 12:36
ちなみに プログレががん..
by やまね at 22:56
> kwc_photoさ..
by gionchoubu at 10:35

メモ帳

最新のトラックバック

美は幸福を約束するものに..
from dezire_photo &..

ライフログ

検索

タグ

その他のジャンル

ブログパーツ

最新の記事

花街 元林院ぞめき 三
at 2018-12-09 12:56
花街、元林院ぞめき 二
at 2018-12-06 12:58
上七軒 大文字 勝奈さん その四
at 2018-12-05 12:24
花街 元林院ぞめき 一
at 2018-12-02 17:25
大和郡山 洞泉寺遊廓ぞめき 三
at 2018-11-28 12:34

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

歴史
近畿

画像一覧

<   2017年 06月 ( 17 )   > この月の画像一覧

祇園ぞめき その十八

f0347663_14171464.jpg
    三桝屋跡

祇園の君尾にしろ、小花にしろ、三本木の幾松にしろ、皆勤皇側でしたが、祇園新地三桝屋の君香は佐幕派の贔屓をうけた芸妓で、特に九条家諸太夫島田左近親章(ちかあき)に愛され、ついに君香は彼によって落籍されました。

左近は木屋町三条上がる路地(他の資料は木屋町二条下がる)の一軒を君香の住まいとし、この美しい流行妓を妾として囲いました。

ただし勤皇党の久坂玄瑞や寺島忠三郎、入江九一らに必用に命を狙われていた島田の足は、君香の家から次第に遠のいていき、彼自身は九条家の奥殿に潜んで何人の面会をも禁じていました。

ある日、君香が三条小橋を歩いていると、芸妓時代に時々座敷に呼ばれた桑名脱藩の本間精一郎に出会いました。本間は表面勤皇と見せかけ実は佐幕党の一員として勤皇の様子を探っていたのです。

本間は後日君香の住いを訪ね、鴨井の提灯箱に五三の桐の紋と角に島田の文字を見つけると、自分は佐幕党と教え、連判状を君香に見せ信用させ、是非島田と面会したいと言ったので、君香はその事を文に認め島田の元に遣わせました。

ほかならぬ愛妾の文に心を動かされた島田は、文久二年七月二日夜も更けると、白の薩摩上布、小紋絽の羽織、深編笠に雪駄の町人風に装い君香の元を訪れたのです。

久々の旦那のお越しに、持遇の平素に増し、積もる想いの情けに、盃の数も増した頃、本間精一郎が現れ、同志の事とて盃を交わし、密談に時を移し、本間は帰路につきました。

島田が君香の酌に更に数杯を傾け、川風涼しい縁側に横になった時、表戸が荒々しく鳴り、人が押し寄せてくる気配、数名の勤皇浪士が現れると、刀を抜く暇もなく煙草盆を目潰しに投げつけるものの、「漢賊待ツ」と一人が肩先に切り込みました。

切られながらも左近は磧伝いに川端戎側の目明し文吉の家を目指したのですが、勤皇方が待ち伏せしているのを見るや否や、今度は二条通り西へ九条亭に逃れんと駆け出した時、別の勤皇党が現れ、とうとう島田は取り押さえられました。

この手引きをしたのが、島田を売って勤皇方の信用を得んと目論んだ本間精一郎で、勤皇浪士と一緒に左近の拷問に加わり、ついに島田は秘密の奸策、連類者の名を白状しました。

君香も、こんな騒ぎが起ころうとは夢にも知らず、殆ど狂気の態、さらに勤皇浪士の手に取り囲まれ、種々取調べを受けました。

左近は「天誅を加えて呉れんず」と久坂玄瑞の刃で首を刎ね落とされ、死体は高瀬川に捨て置き、首は四条磧に晒されました。

島田の首は君香の願いで西大谷鳥辺山に埋められました。

其の後、目明し文吉も、本間精一郎も、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一もここに名が出た男は皆、自害、戦死、あるいは非業の死を遂げました。

維新後祇園新地に戻った君香は再び芸妓になりました。

ところが、座敷が淋しく廃業して小方屋を営み、明治の終わりごろに亡くなりました。

無常と言う言葉しか私には思い浮かびません・・・

参照:技芸倶楽部、維新と京美人(二) 東山西人




by gionchoubu | 2017-06-30 14:23 | 祇園 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 三

f0347663_10430803.jpg
昭和二十一年、六月二十二日の京都新聞の見出しに「先斗町で一悶着 受検者僅か九名に医官怒る」の記事が載りました。これによって先斗町が閉鎖されるかもしれないという出来事が起きてしまったのです。

芸妓の検黴実施が各方面から注目を浴びる中、先斗町の順番となりました。ところが検査を受けたのが、百七十名の芸妓がいるにもかかわらず、わずか九名、他は全部旦那がいるか、有夫がいるという届出をして検黴を忌避したのです。

さらに状況を悪化させたのは、検査を受けた九名の内一人が病菌保管者だったことが判明したからです。

立会いの医師は「かかる届出では他廓へも及ぼす影響が大である。」と当廓閉鎖も辞さぬと激怒、寺井取締りは陳謝、全芸妓の再検査をやることになって漸く火の手は収まりました。

寺井徹郎は遠州から来て先斗町に住みつき、やがて頭角を現し取締となって、その新鋭の気質が積極的な諸政策を生み出し、先斗町の発展とモダーン化に尽力した人です。

先斗町に洋装のモダン芸妓を打ち出したり、昭和四年五月、鴨川踊りに英国グロスター公殿下が観劇の際、殿下と握手をしたり、昭和十一年にチャップリンがゴダード嬢と矢張り鴨川踊りの観劇の際も寺井取締の時代で、昭和二年現在の歌舞練場を建てた出雲取締りの後、長きに渡って先斗町の発展に努めてきた人です。

「これはなかなか六ケしい問題で、此方にも手落ちがあったわけですが、今後は万全を期す考えです。」と寺井徹郎取締は語りました。

この時点で受検した遊廓は北新地(五番町)九名、上七軒二十二名、宮川町二十六名で何れも罹病者がなく、たまたま先斗町で一名でてしまった事になります。

今後芸妓の検黴は祗園甲部、乙部、島原が行う予定です。

検査を前に妓乙の松村取締は

「現在芸妓の該当者七十三名で、検査の前日に廃業するものが相当あると思います。却て除外例があるのがいけません。皆その陰にかくれようとするので、その点の判別が苦労です。」

検査の済んだ宮川町榊取締は

「内娘で、ハッキリ旦那の決まっているものでも、此方は認めぬことにしました。旦那の奥さんが二号として認めるというなら除外者とするということにしました。それがため廃業する者は仕方がない。しかし廃業した者が闇でかせごうとするので、この監視が大変で、もし廃業者を客席に侍らした青楼があったら組合は取引を停止することを申してあります。」

記事は宮川町の廃業芸妓は三十余名、祇園甲部は八十余名が廃業するものと見られている、と結んでいます。




by gionchoubu | 2017-06-29 10:47 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 二

f0347663_12295657.jpg
昭和二十一年五月二十五日の京都新聞の記事によると、当時の京都の花街が二つの大きな問題を抱えていた事が分かります。紙面の見出しは

所長さん立合いで 前借証書焼払い 検黴先づ祇園芸妓に あちこちで大恐慌

まずは公娼廃止に伴う置屋と、元娼妓の間に残るの前借金の問題でした。これは宮川町で100万円、祇乙で90万円、府下旧十遊廓の稼ぎ人は1,600、前借金は合計で890万円に上っていたのです。

前借は遊廓によって棒引きの手続きがとられた所や、ぐずついている所や色々でした。
宮川町では既に借金は棒引き、その後そこで働こうと、郷里に帰ろうと、本人の自由意志に任すと榊取締は明言、妓乙の松村取締も小寺松原署立会いのもと、五月二十四日に前借の証書を焼き払いました。

因みに京都で廓から娼妓が居なくなり純然たる花街になったのは上七軒が最初、続いて先斗町、祇園甲部だと思います。昭和一桁代にまず、上七軒、先斗町の順です。大正十五年五月一日『技芸倶楽部』の祇園新地甲部芸舞妓及娼妓名簿をみると、61人の娼妓の名を確認できます。この後甲部の娼妓は暫時減少して行きました。

もう一つの問題、それは昭和二年法律第四十八号として発令された花柳病予防法による芸妓の扱いです。花柳病、その三で、芸妓、雇仲居、酌婦、女給、料理屋、宿屋、果ては女髪結にまで検黴の網を拡張するという噂がたった事を書きましたが、結局そのままで、娼妓以外の検黴は棚上げ常態でした。

今度は違います。カフェー、旅理屋の仲居などに先駆けて、芸妓の検黴が二十三日の各廓組合の役員会で本決まりになり、祇園では舞妓から実施することに決まったのです。

この検黴を実施されるのは十八歳以上、三十歳未満の芸(舞)妓で決まり、祇園、先斗町、上七軒その他の遊廓の姐さん達は大恐慌、なかには鑑札を返上するものまで出ると予想されました。

除外されるのは有夫、もしくは正式の旦那を持っている芸妓で、その場合組合の取り締まり、席主(置屋の主人)そしてその旦那の認証が必要となります。

そして検黴の結果、罹病者の取り扱いについて、遊廓組合が保険組合を作り、その経営の元、八阪病院の分院を作り、これを入院せしめる事に決定、各遊廓とも一両日中に芸妓、席主を集めて言い渡すことになりました。

さてこの結果は如何に、当時の警察と花街の綱引き、次回六月二十二日の京都新聞に載っていましたので、次回お知らせ」します。

意外な結果が待っていたのです。





by gionchoubu | 2017-06-27 12:33 | パンパン、赤線 | Comments(0)

京都パンパン赤線時代 一

f0347663_11071988.jpg

加藤政洋著『敗戦と赤線 国策売春の時代』を読むと赤線とは

集団的な管理売春(組織売春)を黙認するかたちで、戦前の遊廓や私娼街の業者を風俗営業として許可し、営業場所を指定した地域。地域によっては店舗の商業統計上の分類が「特殊飲食店(「特飲店」と略される」)や「特殊喫茶店」とされたことから、特殊飲食街(「特飲街」と略される)と呼ばれることもあった。特に旧遊廓の貸座敷の一階部分に喫茶室やダンスホールを設えるなどの部分的な改築をほどこし、特殊飲料店として使用される例が多かった。尚昭和二十三(1948)年九月一日に施行された風俗営業法にもとずき、個々の店舗は「カフェー」として営業を認められる地域もあった。

という事になります。厳密な期間は、赤線時代は公娼が廃止された昭和二十一年一月二十四日から売春防止法が完全施行された昭和三十三年四月一日までの十二年六十七日間という事になります。

そして京都の区域は七条新地、五番町(北新地、西陣新地)、祇園乙部、島原、中書島、橦木町という事になるのでしょう。

公娼が廃止された翌日、京都新聞の昭和二十一年一月二十五日号に「公娼を廃止」の記事が載り、直接、間接に日本の公娼制度を存続する権利を認め許可を与えるべくすべての法律規則その他の法令はすべて無効にする、と書かれています。又連合軍のサムス大佐は公娼制度に関し、「この制度の最大の弊害は日本国民全体を通じて年々多数の婦女子を公然と経営される法律の保護を受けた娼家に遣込む習慣は存在し得ない」と言いました。

花街の動きも見てみましょう。一ヶ月後の二月二十四日の紙面に、京都新聞主宰で、戦災者を飢餓から寒さから救い厚生の第一歩を踏み出させるのを目的に、祗園甲部、乙部、先斗町、上七軒、宮川町、島原の協賛を受け、厚生新日本の芸能文化再建を兼ねての芸能大会を京都新聞会館で、二月二十五日と二十六の二日に渡って催されるの記事が載りました。

そして三月十六日の紙面で「四条大橋で“夜の女”挙る」の記事が踊ります。

最近四条大橋畔を中心に若い女たちが春の夜を彷徨しているが、府警察部では去る七日から十二日までの六日間彼女等を取調べたところ、五十名を突破する未婚婦人の色遊戯が黄金を代償として演ぜられていた。

五十名の彼女達の年齢、職業、学歴別にすると

十八歳二人、十九歳六人、二十歳十二人、二十一歳九人、二十三歳三人、二十五歳一人、二十六歳三人、二十七歳二人、二十八歳三人、三十三歳三人

職業は元ダンサーが断然多く十八人、次は現職ダンサー十五人、無職七人、会社事務員七人、女給、ホテル?人各二人、女工一ということになっている。

学歴は女学校卒業八人、同中退五人、実務学校卒業六人、同中退三名、高小卒業十四人、尋卒十三人、無就学一人という数字が出ている。

これからみれば全然無智なための行為とは考えられないが、夜の女の堕ちた原因として彼女達は真剣な表情で婚約者と逢って楽しい物語をしているのだと頑張っているものもある。

併し健康診断の結果、十三人が淋病、二名が梅毒をもっている事が判り、今更ながら不自然な生活を疾病カードに露呈している。

五十名中保護者のないのは十三名であとは両親揃ったのが十三名、父だけが七名、母だけが十七名という数字が出ている。出身地は京都が一番多く、京阪電車を利用して大阪、大津方面から出かけてくる者もあり、一ヶ月三百円の契約で、某旅館の一室を貸切っていたチャッカリ娘もあった。

以上が全文です、それにしても、未婚婦人の色遊戯が黄金を代償として演ぜられていた・・・随分回りくどい表現をしたものです。

そして花柳病率30%と非常に高い罹病率です。





by gionchoubu | 2017-06-26 11:07 | パンパン、赤線 | Comments(0)

花柳病 その三

f0347663_11050495.jpg
                      金沢、石坂

花柳病予防法が発令されると、色々な憶測が飛び交ったようです。『技芸倶楽部』
「花柳病予防法と芸妓 昭和三年一月一日から実施」北野文堂

を読むと、内務省の目論見は、花柳病の撲滅には、芸妓、雇仲居、酌婦、女給、料理屋、宿屋、果ては女髪結にまで検黴の網を拡張すると目論んでいるという噂が世間では飛び交っていたようです。

京都市内の遊廓は勿論、雇仲居組合でもこの件に関し協議はするものの、肝心の施行細則や府の取締方針も分からず、経費支出の点も、その他何等具体的成案もないので、全く手のつけようが無かったようです。

参考となるのは、石川県が数年前から芸妓の検黴を実行している事、但し旦那のあるものは、一々その旦那の住所氏名を所轄警察署に届けて認可を受ければ検黴を免れ得るという事でした。

金沢などで、芸妓が娼妓と同じ働きを強要されていたのは『廓のおんな』井上雪著などを読むと分かりますが、これを祇園などの芸妓と比べるには無理があるのは当然で、四人旦那持ちなら四人の名前・住所を届ければならぬか、その中で選ばれた旦那だけを届けるか、届けられた旦那は幸せ者か、いや不幸せ者か、と色んな方面に心配が行ったようです。

北野文堂は旦那のない芸妓が「マアマア何うしましょう、娼妓さんと同じ様に検査をされるのどすか、私そんな事されてはかないません。」と、柳眉を立てて廃業してしまったり、少々都合が悪いけど落籍してしまう事でした。

さて、その頃、京都府保安課の調査によると、府下の芸妓総数2、545名、内市内が1,845名で郡部が700名でした。

市内の部

祇園甲部 718名
祇園乙部 328名
宮川町  421名
先斗町  260名
上七軒   75名
島原遊廓  59名
七条新地  10名

郡部の部

伏見中書島 67名
伏見北恵比寿(撞木町) 7名
綴喜郡橋本遊郭 42名
福知山猪崎新地 92名
宮津新浜新地 99名
舞鶴朝代新地 76名
中舞鶴加津良新地 43名
新舞鶴龍宮新地 31名

遊廓以外に稼ぐ芸妓

宇治町 30名
木津町 40名
亀山町 44名
園部町 56名
綾部町 54名
峰山町 18名
網野町 35名

以前このブログで園部は花街と呼べたか尋ねあぐんでいましたが、これはもう純然たる花街があったと声を大きくして言えます。さらに大正期に網野に数人の芸妓がいた事は把握しておりましたが、昭和の始め網野にもそこそこ規模の花街があった事が読み取れます。

f0347663_11065528.jpg





by gionchoubu | 2017-06-24 11:07 | 私娼 | Comments(0)

花柳病 その二




f0347663_12000330.jpg
                 カストリ出版さんが発掘した四冊の内の一冊

第一条 本法に於いて花柳病と称するは梅毒、淋病及び軟性下疳を云う。

昭和二年法律第四十八号として発令された花柳病予防法の第一条であります。これは八条から成り、当時文明病と呼ばれ、亡国症と例えられた花柳病の撲滅を計らんとこの法律は帝国議会を通過しました。以下概略です。

第二条、内務大臣は市、又は必要と認めた公共団体に対し診療所を設置を命ずることが出来る。

第三条、上記の設置で国庫より、六分の一、乃至二分の一を補助できる。

第四条、既存の診療所をこれに代用できる。

第五条、花柳病に罹っている事を知って売淫をしたなら、三ヶ月以上の懲役、又、花柳病に罹っている事を知り、又知るべくして売淫の媒合又は容止をしたものは、六ヶ月以下の懲役、又は五百円以下の罰金を課せられる。

第六条、花柳病に罹ったものに、医師は適切な処理をしなくてはならない。

第七条、花柳病の売薬は成分、分量等をはっきり記載しなければならない。(偽薬、誇大広告の防止)

第八条、七条に違反したものは五十円以下の罰金。

ざっとこんな具合でした。

この法律が発令された数年後、昭和六年二月に内務省警保局による『公娼と私娼』を開いてみると、

娼妓の定期健診回数は道府県区々によって、一週二回、毎五一回、毎六一回、一週一回の四種類で、大部分が一週一回か、二回とのことで、概ね警察庁が検診、花柳病と判断されれば娼妓病院(駆黴院)に於いて治療します。

公娼の罹病率は高いのが岐阜県3.70%、千葉県3.61%、鳥取県2.96%、大阪府2.70%、大分県2,68%、北海道2.62%、東京府2.57%、静岡県2.29%、青森県と広島県の2・23%

低いのが富山県0.27%、埼玉県0.69%、山形県0・71%、宮崎県0.74%

全国平均は1.82%

これが私娼となると多いいのが兵庫県25.43%、茨城県20.50%、広島県17.85%、新潟県と愛知県の16.66%、宮城県12.50%、青森県11.62%、山口県10.77%

低いのは島根県0.16%、埼玉県1.47%、神奈川県1.62%、静岡県の2.05%、長崎県2.08%、群馬県の2.54%

全国平均4.77倍

京都府の娼妓の罹病率は1.50%と全国平均を下回っています。また全国の花柳病の罹病者の内、淋病が59%、軟性下疳34%、梅毒7%です。

『公娼と私娼』では、私娼の診断は法令で強制できない、さらに、その診断も民間の医者が多いので、私娼の抱主の意向を受けて、手加減をしている医者もいる、との見解を示しています。

という事は、個人で売春している女性はさらに検診を避けると考えられるので、兵庫県や茨城県の私娼と売淫するなら、神社でおみくじを買い中吉をひくより、花柳病をひき当てる可能性の方が高いのを覚悟しなければならなかった事になります。

f0347663_12001166.jpg




by gionchoubu | 2017-06-23 12:06 | 私娼 | Comments(0)

島原ぞめき ウィキペディア(Wikipedia)


f0347663_11245074.jpg
                   桜木太夫 at Hygge


以下英語のウィキペディア(Wikipedia)Shimabara, Kyotoの一部を和訳しました。(大分意訳しています)

島原京都

歴史

嶋原(島原、嶌原)は遊郭として1640年に設立され、後年花街となりました。現在は遊郭(日本では1958年に売春は法律で禁じられました。)としても、又1970年代より花街としても機能していません。

今や、京都の花街の一つと数えられる事はないものの、観光客が訪れるエリアであり、一軒のお茶屋のみ営業しています。

嶋原が出来る以前、豊臣秀吉の許しを得て、1589年に二条万里小路に最初の遊廓として二条柳町が誕生し、江戸時代になると、六条三筋町に移転、さらに1640/41年、嶋原に移りました。

嶋原が出来たのは、原三郎佐衛門が自ら娼家を始める為1640年に開廓、1958年に売春防止法の施行で遊廓としては終焉しましたが、芸者街として1970年代まで存続しました。

嶋原の名の由来には多くの説が存在します。島原大門が肥前の島原城の門とよく似ていたとか、その後、カトリックの拠点として居城を建設しようとした事から勃発した島原の乱に語源を求めるといった様な事です。

徳川の時代、嶋原は“御免の町”(公許の遊郭)、あるいは単にthe quarter(町?)とのみ呼ばれました。

これは、都の至る所にいた私娼と、嶋原で遊ぶ上流階級の人々とを区別する為でした。

嶋原は徳川家により日本の大都市に設営された三つの遊郭の一つで、指定区域にのみ売春を許す目的で公許にしたのです。

その三か所とは即ち京の島原(1640設立)、大阪の新町(1624~44設立)、江戸の吉原(1617設立)の事です。

この様な体制による規制は、売春という物に対して、道徳面から網をかけようとした物でなく、都市の中である種の行いに対し、世間の目から隔離しようとして生まれたと考えられます。

同じように、歌舞伎、浄瑠璃などの娯楽も幕府によって管理され続きました。そして芸者というものが1700年代に遊廓に付随して現れた時、島原にも芸者が生まれ、島原も芸者街の側面を持ちました。

明治維新により、天皇が京都から東京に移ると、経済的に宮廷に支えられていた多くの伝統文化も窮地に陥りました。

五花街が現代の京都に順応しているのに対して、島原は維新後百年をかけ徐々に衰退し、1970年代島原花街は解散、それによって現在、島原の伝統的な行事等は殆ど見られなくなってしまったのです。

他の花街が人の集まる市の中心地に出来たのに対し、島原は市の外れに設営され、不便で孤立した状態が続き、これも衰退に拍車をかけました。

他の京都の花街のように、島原も19世紀の終わりには歌舞練場が出来、青柳踊りも毎年開催されました。

青柳踊りは明治六年から明治十三年まで催され、明治十四年は行なわれませんでした。これは島原での踊りそのものの衰退も原因しています。

歌舞練場ができたのが明治六年そして昭和二年に移転しました。戦後は遊廓事務所として使われ平成八年に取壊されました。

---------------------------------------------------------------------------------------------------

これは日本語のウイキペディアを英訳したものでなく、独自に書かれた労作です。

但し、ここでは訳していませんが、輪違屋の創業を元禄元年と書いています。実際は元禄年間が通説で創業年は特定できません。

また明治六年には歌舞練場はありません。たぶん女紅場と取り違えたのでしょう。又、二代目の歌舞練場が出来た(移転した)のも昭和二年でなく、大正十五年十一月二十日です。

青柳踊りの開催年もわかっておらず、明治六〜八年であろう、というのが識者の見解です。明治六年〜十三年の根拠を知りたいです。

しかしながら、概ねよく纏められていると言うのが実感です。

ただし、日本語版のウイキペディアと同じ間違いをされています。輪違屋さんの太夫さん以外の方が輪違屋の太夫として画像に収められています。しかも太夫=花魁として

A present-day tayu (oiran) from Wachigaya in Shimabara




by gionchoubu | 2017-06-21 11:31 | 島原遊郭 | Comments(0)

祇園ぞめき その十七

f0347663_11362965.jpg
元々魚品が有ったのは縄手新橋下ル、後に冨春軒という陶器、漆器の家具屋になりました。昭和三十一年の住宅地図では切通し、鯖寿司いづうさんの向かい辺に描かれています。松本佐多のお茶屋杏花も有ります。

中西君尾・・・幕末の佐幕、勤皇方の凄惨な戦い、もし、勤皇芸者と呼ばれた彼女達が座敷に上がらなければ、単なる殺伐とした血のやりとりの物語に終始したでしょう。

長州藩士、井上聞多が佐久間象山の開国論に心を動かされ、海軍研究の為に国禁を犯して洋行する前、祇園の愛妓、君尾に別れを告げる為会ったのは一力の東の茶屋、竹の家でした。

「今日まで色々世話になったお其方に別れるのは、わしとしては実に堪らぬ程辛いけども、今更何とも仕方が無い。実はわしは遠からず異国に旅をする事になったから暫らく逢う事が出来ない。そちには種ゝ厄介にもなったので、今日は礼も言いたく、又別れも告げたく参ったのである。」

君尾は両眼に涙をため、潤んだ声で

「御国の御為めとありますれば何とも申上げも致しません。ただ御身を御大切に御成就なされて一日も早うお帰りあそばす事をお祈り致しております。」

悲しみの中、君尾は自分の帯の間からその頃さかんに流行った縫取の紙袋を出すと、

「真にお粗末な品では有りますが、何分急の事とて好い考えもありませず、鏡は女の魂とも言いますゆえ、どうぞこの品を記念(かたみ)と思ふてお納め下さいませ。」

洋行を終えた聞多は郷里山口で、俗論党に切り付けられ、身に数十ヶ所の傷をつけたものの、致命傷となるべく受けた右腹の傷は、君尾の鏡袋のお陰で命を落とす事から免れたのです。

何かと首を傾げる幕末の逸話が多い中、後に聞多が君尾に打ち明けた話を、口述として纏めたものが元になります。私は聞多が君尾を愛する余り、懐にあった鏡袋のお陰にして、語ったのかもしれません。

明治四十五年、君尾の還暦に際し、井上候は其れを祝すため、金一百円を添え

六十ひとつ年のはしこをふみこえて 君を思えはかきりあらめや

の一首を贈りました。

明治45年に還暦なら、慶応三年、『四方の花』の嶋村屋に君尾が載ったのは15歳です。当時14、5歳の芸妓は珍しい事でありません。芸妓は旦那さんが持てる、一人前の女である、と言う意味でもあるのです。

『佐多女聞書』で踊りの名手、松本佐多は

「それから中西君尾はん・・・これは、まァ、もう一つ偉い人で、ボャンとしているように見えて、寺内つァんでも、山縣はんでも、井上馨さんでも、お連れみたいに言うていやはったさうどす。」と述べていました。

明治三十年頃、伊藤博文が祇園中村楼に中西君尾を呼びました。君尾は博文の意を受け、祇園の舞妓十五、六人を並べました。居並ぶ舞妓をずらっと見渡すと、

「おい君尾」

「お気に入ったのが見つかりました?」

「いや気に入ったのはない、どれもこれも山家育ちで」

「あほらしい、この妓どもはどれも祇園のよりぬきばかり、それに山家育ちとは、あんまりやありませんか」

「なに、これが祇園のより抜きばかり、ふん、昔に較べて祇園美人も実に凋落したのう」

君尾は、伊藤公は昔と違って、行かれる先々でいい女に出会えるので、目が肥えてしまい、大抵の女でもいい女よも、美人とも思わないのだろう、と話ました。

私の見解は違います。

その昔、高杉や井上が魚品の二階で祇園の芸妓を侍らしていた時、上がり口で赤合羽にくるまって五合徳利を抱きながら、水洟を垂らして高杉や井上の帰りをじっと待っていた男がありました。同じ長州出身でも家格の違った俊介・・・彼こそ後の伊藤博文となるのです。

二階の嬌声を胸に、やるせない時代の鬱屈とした思い出が、突然希代の成功者の脳裏をよぎり、大勲位をして、こういった大人気ない行動を取らせた様な気がします。

参照:技芸倶楽部、昭和二年三月一日号、季刊ぎをん53号、昭和四十八年


by gionchoubu | 2017-06-19 11:38 | 祇園 | Comments(2)

祇園ぞめき その十七

f0347663_12280666.jpg

幕末にその名を残した京都の名妓といえば、三本木の幾松と、祇園嶋村屋の君尾でしょう。君尾の名は、慶応二年版、祇園新地歌奴名鑑『全盛糸音色』の嶋村屋の部でその名を確認することができます。

昭和二年三月一日号『技芸倶楽部』「維新徒と京美人(一)」東山西人によれば、近藤勇が下河原の料理屋鳥居本の奥の座敷で密会したとき、ふと気がつくと、障子の外の庭で怪しげな気配、カラリト障子を開けると男が佇んでいました。

近藤は走りこんでその男の襟髪をつかんで問い詰めると、男は「イエ滅相もな、如うして立聞き抔致しましょうか、私は箱廻しの万助と申すものでござります。」

この様子を離れ座敷で聞き取った君尾は「コレ万助どん・・・お前さん何う為たのやえな、また粗忽な、よそさんのお座敷に邪魔をしたのか、ホンに仕様のない人や」と言うとピシャリと万助の頬を打ち叩きました。

そして、君尾を初めとして、仲居や他の芸者も駆け寄って謝るので、近藤は万助を離して元の座敷に戻りました。万助は事無きを得たのです。

万助の正体は桂小五郎で、偵察の為庭に入りこんだもの見破られそうになり、君尾の機転で助かったのです。その後、君尾は、頬を叩いて申しわけ無かったと、ひれ伏して桂に詫びたそうです。

桂は君尾の機転を喜び、大いに感謝したといいます。

三本木の幾松も、新撰組の捜索隊が踏み込んだ時、幾松の機転により、床下の穴蔵から桂を逃がした話の方が有名ですが、まるで講談、私は大分脚色されたものと思っています。

現在の鳥居本は八坂神社の鳥居のもと、下河原にあった料理屋を現在地に移したものです。箱廻しの箱は三味線を入れ箱で、芸者の事を箱という事もありました。箱廻しは芸妓の元で働く男衆の事で箱丁とも呼ばれましいた。この丁は甲、乙、丙、丁の序列の丁で、この呼び名で皆からどう思われたか分かります。

さて君尾といえば井上聞多、後の井上馨との逸話が有名です。この井上聞多と君尾を結びつけたのが高杉晋作で、馴染みの魚品に聞多を連れ、馴染みの芸妓をつけてやろうとするが、物堅い聞多は一向無関心の体でぐいぐい酒を飲むばかり。

困った男だと、並み居る芸妓の中で気に入った妓はいないか仲居に意を探らせせると、果たしてお目当ては君尾であったといいます。

君尾も聞多に意が有り二人は結ばれました。井上聞多二十七歳、君尾は十七歳の事だったと言います・・・続く




by gionchoubu | 2017-06-16 12:30 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その十六

f0347663_13480275.jpg
f0347663_13483790.jpg
立て看板には小花とあります・・・当時は芸妓にこういった漢字を普通充てないのですが・・・

高杉晋作に祇園の芸妓いづつの小りか有り・・・は田中緑江さんの著述などで存じ上げていましたものの、それ以上の話はなかなか出てきません。

慶応三年版『四方の花』をみると、確かに祇園のいづゝ屋の芸子に小りかの名があるので、史実を裏付ける資料となるでしょう。この年、いづゝ屋には芸子、まい子が三十五人、義太夫芸妓が六人、新内が一人所属していました。

ただし、前年の慶応二年版『全盛糸の音色』では小りかの名を確認出来ない事も付け加えておきます。

この時、祇園で芸妓の見世は井筒、嶋村屋、若松屋、京屋、鶴屋、万屋、玉屋、井上屋、三浦屋、近江屋、三桝屋、ときわ屋、鶴井筒、柳屋、東いつゝ、八尾屋そしていづゝとなります。

一力茶屋以上とも言われ、祇園一と称された井筒茶屋といづゝはともにイヅツと読むので混同されますが全く別の屋形です。

見世とは見番機能を備えた置屋のようなもので、この見世には基本客ははいりません。客がはいるのは一力、富美代などのお茶屋で、この見世から芸妓や舞妓を呼ぶわけです。

ですから、晋作はいづゝから呼んだ小りかとお茶屋魚品などで遊んだのです。

ただし、井筒の用にお茶屋でありながら、見世でもあるという家もありました。祇園は明治になり、この見世は解体、検番制になりました。大阪では、戦後まで扱い席という名で、このシステムは残りました。

東京ではこのような制度を聞いた事がありません。この〜席は大阪以外、奈良、和歌山でも私自身確認しておりますので、関西独特のものでした。

さて、小りかですが、短い乍らこれを載せたのが『技芸倶楽部』昭和二年五月一日号の「維新と京美人(三)」東山西人で、その部分を抜粋します。

「魚品(うおしな)は元々長州藩のお出入りであったので、維新前後には長州藩のお出入であったので維新前後には長州出身の人が沢山この家で遊んだ。

だから一時魚品を称して長州茶屋と呼んだ位、殊に長州の高杉晋作の如きは連日魚品に尻を据え、気に入りの芸妓数名に囲はれ、昼となく夜となく、乙な爪弾を肴に盃を重ね、放談諧謔の裡密かに天下の形成を視察した。

今日も亦早朝から二階座敷に陣取った高杉、敵妓(あいかた)は井筒の芸妓小りか、此は井筒の店でも屈指の美人、高杉は小りかの愛嬌のみが気に入ったのではない。

常に高杉の意を能く汲み、高杉の為め佐幕党の内情を探知する才の持主であったからである。

そして高杉の意に叶ふた主要の点は其処にあった。小りかは高杉の意を迎ふる為めには密かに身命を賭して、佐幕党の内情探査に努めた。

高が芸妓ではではないか、何程の役に立つものかと頭からケナス事は出来ない
。假令家業は芸妓であっても時と場合には生じか男子の及ばぬ働きを為た。

況して高杉から種々国事を説き聞かされては、一生懸命の四字を真面目に生かしてゐた。高杉は日を経るに従い小りかを愛するの度が自然強くなった。」

なんとなく小柄で、負けん気の強そうな、そして利発が走った細面の若い女性の顔が浮かびます。

それに愛嬌まで加われば、晋作にとって小りかと過ごす時間は、狂おしいほど国事を憂える身にとってこの上ない癒しと、日本を動かすバイタリティの源となったでしょう。


by gionchoubu | 2017-06-15 13:51 | 祇園 | Comments(3)