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大阪の湯女風呂 その3

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宮本又次著『上方の研究』にも僅かながら大阪の風呂に関して書かれています。前回の延宝年間の垢すり女のいた十四軒の内、

額風呂はかごや町(京町堀上通り)、灘波風呂(いせや町)、伊勢風呂(いたち風呂)、丁字ぶろ(渡辺すじ)、戎ぶろ(道修町)、柳ぶろ(六間町)(玉屋町)桔梗ぶろ(下博労町)などで、茶屋・風呂屋は長史団左衛門の手下について、傾城屋よりも下位で、人形廻し、猿まわしよりも下風に立っていました。また、灘波新地ももとは風呂屋の湯女からはじまったとの事です。

さて、上村彰行著『日本遊里史』が、当局による大阪の湯女の取締りに関して書いています。

大阪では寛永(1624~1643)と慶安(1648~1651)中に風呂屋、湯女の取締りがありました。明暦三(1657)年、木津川沿岸に古くからあった灘波島と三軒家の湯女を廃止、同年九月、大阪天満両郷風呂屋に対しても命令が下されました。

要約すると、風呂屋の主人が言う事には、女どもに月六回の休暇をやっているのだが、その時、女たちが勝手に客を引き入れ遊女商売をするのは、経営者の預かり知らぬ事、などと言うのは随分勝手な言いぬけである。

今後、毎戸、二、三人以上女を置き、美服を着せ客席に侍らせたら、亭主は入牢を申しつけ、家屋は取り上げるという沙汰でした。

上記の申しつけにもかかわらず、元文五(1740)年八月 町々に茶屋、風呂屋に白人と名付けた遊女同然のものを多く抱え、非合法の商売をする者が多く、傾城町(新町遊郭)から度々訴えがでている。これを止めるように何度もお触れを出すが改まらない。今後は屹度沙汰を下す事を知らせる。

延享元(1744)年にも、五年前にも行ったが、一行に改まらず傾城町から度々苦情が繰り返しくる、前回の申しつけを守るように、の様なお触れが出されています。

さらに、事態は一向に改善しなかった様で、天明八年二月、「茶屋風呂屋共定めの外茶立女、髪洗女等多抱置、外方へ差出、煮売屋、旅籠屋等にも紛敷奉公人差置候趣相聞え〜略〜」非合法遊女は沈静化する所か、拡大している模様が読みとれます。

結局最後は「右之趣容易の事に相心得候はヾ後悔可致候、能々茶屋、風呂屋、煮売屋、旅籠屋共、並三郷町中不残様可触知者也」

と、前回、前々回と同じような文言で締め括っています。

違うのは、取締り対象が茶屋、風呂屋から茶屋、風呂屋、煮売屋、旅籠屋に増えてしまった事だけです。

中野栄三著『入浴と銭湯』では、大阪では幕末まで、湯女風呂の人気が衰えず繁昌を続けた、としています。この所はもうすこし具体例が欲しいものの、私は未だ見ていません。






by gionchoubu | 2017-05-31 11:25 | Comments(0)

大阪の湯女風呂 その二

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                       千年町筋


古今参考南水漫遊初編』に「小三、金五郎説」が有り

元禄の頃、浮名立し“額の小さん、金屋金五郎”の実説を探り見るに、島の内に額ぶろ(風呂)といふ娼家なし。灘波雀とて延宝年中出版の小冊に、其頃市中に垢すり女有りし風呂屋十四間(軒)、湯屋二十二軒と記す。(同時出版灘波鶴にも同断)、其中に、蝋燭風呂道頓堀六間町太左衛門、柳ぶろ六間町善兵衛とありて、額風呂は籠屋町治郎也。

延宝六年牛冬出版の小冊『道しるべ』には、風呂屋十四株内

天満八丁目、大黒風呂(ゆな三人)

同五丁目、扇ぶろ(ゆな三人)

内平野町薬師ぶろ(ゆな三人)

内あんどうじ町はせぶろ(ゆな二人)

太左衛門橋柳ぶろ(ゆな三人)その余は湯女無之

かく記せども、元禄の頃には額風呂にも湯女ありて小三と呼ぶ。その証とするものは元禄年間の冊子風流文車(庫)というものに、額の小三が垢かきする処かきたる図ありて、小さんはその頃名高き湯女と見えたり。

〜略〜

額の小さんは籠屋町にて時めきし湯女なりしが、後に島の内綿屋といへる娼家の妓婦となれり

同じく『古今参考南水漫遊初編』に宝暦元年の島の内ねりもの(妓女の仮装行列)の番付けが載ります。二十七人の練り子(出演者)の内、宇治ふろ・百、千とせぶろ・小蝶、桔梗ぶろ・小たき、大黒ぶろ・岩、柏ふろ・にし、の五人が風呂屋が抱えた妓女という事になります。又お囃子の内にも三弦、薬師ぶろ・ひな、の名がみえます。

『守貞謾稿』(近世風俗志)の島の内の項に「当所の娼妓は、昔の湯屋女の遺風なり。今世、俗事更にこれなきといへども、なお官には垢磨女とこれを称すと云へり。故に往々、置屋に風呂をもって名とする者あり。薬師風呂と云ふもの、文政末か天保初めに絶亡す。大江風呂は天保府命、非官許の妓を禁ず時に亡ぶ。」

そして宝暦元年の上記の練り子を含む全二十七人の名と所属の置屋の名を挙げて、この多くの置屋多くは亡びた、と書いていました。

『古今参考南水漫遊初編』に言う、島の内の“千とせぶろ”を千年風呂と考えると、現在の千年町(せんねんちょう)商店会のある千年町筋にあったと私は推察しています。

それにしても、この辺りは全て宋右衛門町で一括りに町名変更され、千年町、玉屋町、笠屋町等々、ビルの名や看板だけで本当の大阪を伝えてるのは情けない限りです。


by gionchoubu | 2017-05-29 11:08 | Comments(0)

大阪の湯女風呂


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天和二(1682)年刊、『好色一代男』井原西鶴著のさし絵、男が出入りしている所が柘榴口と言われるもので、奥の小部屋が一種のサウナ状態だったと思われます。褌姿でいる所から考えると、湯には入らなかったと思います。垢掻女に素手で垢をだしてもらい、最後に湯でからだを流した・・・あくまで想像です。


湯女の起源は建久二(1191)年、仁西上人が有馬温泉を再興されたときとされ、有馬に十二の坊舎(今でも〜坊という旅館有り)を設け、それぞれの坊に年長の大湯女と年少の小湯女を置き、諸国から来る欲客の世話をさせたのが始りとされています。

『有馬温泉記』に「昔の湯女は白衣紅袴の装束をつけ、歯を染め眉を描きて、恰も上臈の如き姿をなし、専ら高位公家の澡浴せらるる前後、休憩の折に当り、座に侍りて或は碁を囲み、或は琴を弾き、または和歌を詠じ、今様をうたいなどして、つれづれを慰むるを以てわざとせり。」

貴人に接したという当初の江口・神崎の遊女の流れと、平安末期の白拍子という歌舞芸能の遊女群、有馬の湯女などの芸能、教養に重きをおいた遊女達の伝説は、その後、六条三筋の傾城町や初期の京の島原や大坂の新町の、遊女を尊び、時には市井の女を地女と呼んだりするという、江戸の中期にはすでに形骸化した、中世の高級遊女のおぼろげな姿を浮かび上がらせてくれるのであります。

『歴世女装考』によると、「天正十八(1589)、大阪にも、風呂屋といふ事いできて湯女とて、女ども入り来り客の垢をすり髪をあらふ。故に髪洗女ともよべり。髪を洗へば結ひもする故常に櫛をさす。此湯女宝永(1704~1709)中比にいたりては容色を飾り、浴客等が酒のあひてもなし、櫛一枚は常なりゆゑ塗櫛を二枚さして客の多きを見せ、頭かざりとも湯女のしるしともしたるなりけり。然して、稍色を売るにいたり、大湯女、小湯女の名目ありて、大湯女は酌をとり、小湯女は垢をすり髪を洗ふ。こは慶安、承応(1648~1654)の間なり。かくて追々湯女の淫風浪花はさらなり・・・」

延宝九(1681)年完、藤本箕山がそれまでの三十三年をかけて完成させた『色道大鏡』に「風呂屋女篇」で、箕山は江戸では非合法の遊女を置く風呂屋が吉原を圧迫するほど発展したので、「承応二(1653)年八月より風呂屋女停止となりて、ちりちりにわか(別)る。」と述べました。そしてその多くは吉原に吸収されました。

一方「かみがたも、其程々につきてにぎはゝしかりつれど、品をとろへたり。されども、さすが都の風呂には、やうやう垢かき女とて僅の数さだまり、是をゆるさしむ。大坂是におなじ、風呂屋は数さだまり、洛陽に十五軒、大坂に十六軒、この外制する処なり。」

江戸では風呂屋女が制限無く増え、勝山や市野などの歴史に名を残す名妓まで現れました。ところがあまりの繁栄が幕府の怒りを買い、撲滅の憂き目を見たのです。一方京都、大坂では、湯女は売女の主流となる事が無かった故に、細々とその風俗営業が一部黙認されました。

しかし、「大坂の風呂女は、つたなくふつゝかなる事、茶屋女にをとれり。聊か遊興のさたに及ばず。」と箕山は決め付けています。



by gionchoubu | 2017-05-24 14:26 | Comments(0)

京の銭湯史 その六

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旧花街の象徴的な銭湯、島原の千鳥湯(現島原温泉)、中書島の新地湯、五条楽園の梅湯、橋本遊郭の橋本湯など、今も現役の銭湯があり、千鳥湯と橋本の湯は私も頂いた事があります。

渡会恵介著『京の花街』によると、先斗町には明治四十三年創設の鴨川湯がありました。場所は先斗町の中ほどの下樵町、組合直営なので芸舞妓は無料、さらに女性専用なので、歌麿の浮世絵の世界だった様です。

ただし、年功序列の大変厳しい世界なので、お姉さんの背中を流したり、年少の舞妓はさぞかし気苦労が多かった事でしょう。

この鴨川湯、時代とともに朝に限って男性入浴お構い無しになり、正午までは花街関係の男、以後は女性専用になりました。

これを客がききつけて、

「わしも入れてんか」

「何ンぼ、ごひいきでも、こればっかりは・・・」

の世界でしたが、昭和三十六年頃以降次第に町方にも開放され普通の銭湯になりました。今はありません。

祇園の銭湯事情は『ぎをん200号』の「祗園の湯屋」で秦恒平氏が買いておられたので、紹介させて頂きます。

まず、江戸期からの薬湯、松湯、大和湯は江戸期の地図で理解していたものの、唯一手掛かりの無かった亀湯が縄手にあった事が分かりました。さらに現在祇園東、歓亀神社の向かいに清水湯があり、ひろやかに天井も高く、明るい湯だったとの事です。

以前から紹介させていただいている松湯は小ぶりの湯屋で、花街のお風呂屋さんらしく、男湯は女湯の間口の半分、さらに脱衣場の壁は白地に赤い大きな字の披露目団扇が並んでいたとのこと。また松湯とくっつき気味に鷺湯という名の、これ又ちいさな湯があったと書かれています。

氏がまだ小さい頃なので、出勤前の舞子はんが大きな頭のままぷかぷか浮かんだりしているのを見たのはこの松湯か鷺湯だったとのことです。

そのほか四条通りの南一筋目に祇園湯があったとされておりますが、これら総ては廃業されています。その他、氏の家から一番近い「新シ湯」は正確には祇園のエリアから少し外れていますものの今も健在です。

さて、私も、のべ30年に渡り京都市の30軒以上の銭湯を利用している者として、すこしだけ京都の銭湯に対する自分の意見を述べさせていただきます。

まず、全体的にお湯の設定温度が高めだと思います。何個かある湯ぶねの一つはすこし温度を下げると、若い利用者も増えるのではないでしょうか? どの風呂屋もまず湯船に水を足して薄める事はできないのは、厳しい条件で営業されているので、燃費効果の為だと理解しております。

あと、どこの銭湯にも必ずといってある電気風呂を利用されている方は、昔はほんの少しおられましたが、現在まず男風呂で入っている人はいません。

ですから、構造上可能なら、電気風呂を廃し、湯温を3度程下げて頂きたいというのが御願いです。

今までの経験で、一番素敵だったのが、有名な船岡温泉、地下水の沸かし湯の成分が抜群に私の体質にあったのが西院の電気温泉、今の弥生湯です。



by gionchoubu | 2017-05-20 11:24 | Comments(0)

スーパー銭湯のルーツ

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                   吉水温泉入口

明治初期の豪腕知事として辣腕を振るった槙村正直の懐刀として、数々の功績もあった明石博高は元医者でもあり、理化学にも詳しく、慢性病の治療に温泉療養が効果的であると、各地の温泉の成分を調べるという、大変先見の目をもった人でした。

そこで人工でその薬湯を作り、同志を誘い、永観堂の東山天華他僧侶を説き、現在の円山公園の北、左阿彌さんの近く、弁天堂の向かいに吉水温泉を作りました。

金閣寺を模した三層楼の塔がシンボルで、これは発起人の一人に金閣寺の住職がいた為らしく、市中からも良く見え、又高台の三層楼は静養室兼展望台として、京の町を一望することができました。竣工は明治六年八月で、翌九月一日に開業するや否や大変な人気になりました。

温泉の成分は有馬温泉を分析した成分を用い、蒸気罐を用いましたので、京の人は大変珍しがりました。

入り口は長楽寺の方にあり、正面は画像のように唐破風の造り、大額に英文で「人工温鉱泉、主として炭酸鉄を含む」と書かれていました。

さて、ここが順風漫歩に市民の憩いの場になったかと言うと、この人工温泉は意外な方向に向かって行きました。と言いますと、吉水温泉が出来ると、附近に沢山、男女密会の席貸ができ、女連れの放蕩児が出入りするようになり、入り口近くに瞰見楼もでき、吉水温泉も、緑江さんの言葉によると、悪い遊興場になってしまったのです。

明石等の理想は吹き飛び、同志の人々も手を引き、経営は次々と代わり、元々高めの入場料もさらに高くなり、遊楽場として有名になりました。

結局、明治三十九年四月十八日に起きた也阿彌ホテルの火災で吉水温泉も跡形も無く焼けてしまいました。

現在、スーパー銭湯や、人工温泉のラドン湯やトロン湯、温泉入浴剤まで、そのルーツは明石博高にあると私は思います。

さて、吉水温泉の建設中、明石は毎日のように視察にきており、ある日、誰かが初代(現在は二代目)の円山公園の枝垂桜を切ろうとしているのを見たのです。

明石が問いかけると、この男はその附近の雑木とともに枝垂桜も払い下げを受けたので、切って印材にするとのこと。

「印材にして売るといくら位のものや」

「マア五両位になるでしょう」

「それなら私に五両で売ってくれ」

契約は成立、男は伐採の手間が省けると喜びました。

円山公園の有名な枝垂桜を救った人としても、明石博高・・・決して忘れてはならない名前です。

参照:『円山公園上』『円山公園下』田中緑江

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                    吉水温泉遠景

by gionchoubu | 2017-05-19 11:15 | Comments(0)

京の銭湯史 その五

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 一条風呂

今一度、中世から近世にかけての京都の町衆の風呂屋事情を見てみます。京都洛中洛外図の上杉本(1574以前)に描かれた風呂は一条風呂とよばれた公衆浴場で、今の中京区の革堂のすぐ近くにあったとされます。

時代で言えば、この頃、湯は貴重なものと想像され、客は柄杓を用いて体に湯を掛けていた有様が見てとれます。又白装束の髪洗女も中年以上の様で、単に入浴のお世話係りだったようです。

延宝九(1681)年完、藤本箕山がそれまでの三十三年をかけて完成させた『色道大鏡』に「風呂屋女篇」があり

「都はさすがなれば、寛文(1660年代)の初めに、風呂の四天王あり。所謂亀屋の佐津・丁字の吉・丁字の百合・清水の小七是なり。其なかに佐津こそ、殊にすぐれたれ。容貌きよらかにして、装ひ古今に独歩なり。鼬鼠論にくはしくこれをのす。風呂女は、板にたつとたゝざるとあり。是人によらず、家によりてかはれり。板にたつとていやしまれず、たゝざるとて貴しともせず、唯善悪不二と見るべし。但よきとてもあしきとても、自然盃の友なるは、京師のをいへり。」

板にたつ・・・髪洗女として風呂場に立つ、事と思われます。何れにせよ、風呂屋座敷でお酒の相手をしていた事が分かります。

所謂、が付けられる程、亀屋の佐津は人の口に上ったのでしょう。

貞享二(1685)年の『京羽二重』の宝永板(1704~1709)を見ると、当時の風呂屋は

松屋  室町五條ル町
扇   松原堀川東ヘ入町
清水  川原町二條上ル町
堺   松原通からす丸東へ入ル
+大夫  西洞院魚の棚下ル町
柳   西六條木つや橋下ル町
+丁字  高くら六角下ル町
和泉  小河三条上ル丁
大和  車屋町押小路下ル町
伊勢  四条大宮東ヘ入丁
+柳   堀川一條角
釜風呂 冨小路高辻上ル丁
同   同せいくハんし上ル町
同   いのくま綾小路下ル町
同   とミの小路竹や町下ル町
塩風呂 車屋町二條上ル町
同   間ノ町御池下ル町
同   東洞院松原上ル町
池田  川原町三条下ル二丁目
+ゑびす 東洞院六条魚棚下ル
櫻   ゑびす河柳のばゝ西ヘ入
塩風呂 祇園町

少し前に載せた、約三十年後、元文二年(1737)の『洛陽勝覧』と+が一致し、湯女を置き、風俗営業をしていたものと思います。又、丁字風呂は色道大鏡の丁字風呂と同所と思えます。

つまり、当時の京都の風呂は大方が大衆浴場で、ほんの一部が風俗営業をしていたものと思います。釜風呂は蒸し風呂、塩風呂は塩の効能を求めたもので、共に湯女とは無縁と思われます。

そしてソープランドの遠い祖先の風呂屋は、御免の傾城町、島原から苦情が殺到したのは間違無く、

宝永元(1740)年「京都御役所向大概覚書」に有るように、

一、風呂屋あかかき女之事、前々相定之通三人に過べかざる事。

一、 二階座敷を構候儀遊所に紛敷相聞へ候、二階座敷可為無用候、但勝手物置之儀不苦候事。附、向後作事いたし直し候節者絵図可指出事。

一、 火之元之儀、度々被仰出候間、風呂相仕廻候儀暮六つ切に可仕候事。

のお達しがありました。

そして、風呂屋の二階に座敷が有り、四人以上の湯女を置き、遊所として営業していた事が明白となっています。






by gionchoubu | 2017-05-17 10:53 | Comments(0)

京都市のトルコ風呂

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日本の最初のトルコ風呂は昭和二十六年四月一日創業、東銀座の「東京温泉」で延べ千六百坪の建物には蒸し風呂付の大衆浴場のほか、三十の個室も設けられ、レストランや喫茶の設備もある豪華極めたレジャー施設として誕生しました。

トルコ風呂の名称は、この開店を報じた『内外タイムス』の記者がトルコ共和国の蒸し風呂を連想し、「日本初めてトルコ風呂が」との見出しをつけた事によるもので、以後エスニック情緒もあわせ、トルコ風呂の名が一人歩きを始めます。

尤も、この「東京温泉」は正統マッサージのみ、個室は銀行員の初任給が三千円の時代に、個室利用が千二百円と大変な高額ものの、前年勃発の朝鮮戦争の特需成金客で満員御礼の大繁盛。

ただマッサージ嬢は月、七、八万の高給取りで、客の口車には乗らず、健全経営でした。

この成功により、翌二十七年にはトルコ風呂第二号の福岡・中州に「博多温泉トルコ」、東京浅草に「新世界トルコ」、札幌・ススキノに「ススキノ・トルコ・センター」など相次いで開店しました。

そして、昭和三十五年に都内にあった六十七軒が三十六年に八十二軒、三十六年に百十二軒、三十八年に百四十八軒と急成長、明らかに昭和三十三年の売防法完全実施による赤線消滅の影響でした。

ただし、当初サービスの本流は、売春防止法に触れないぎりぎりのサービスがウリで、昭和三十五年当時、正統マッサージのみで来る客もまだまだ居りました。

しかしこの年、警視庁は都内九軒のトルコ風呂を売春容疑で摘発、以後業者と厚生省、警察庁とのいたちごっこが始ります。

昭和四十一年、ベトナム特需もあって、トルコ風呂は全国に七百六軒(都内二百八軒)ただし、調子に乗った業者が永田町の首相官邸裏にトルコ風呂の営業申請をだし、当時の佐藤栄作首相が激怒、トルコ風呂の新設が規制されました。

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ここまで見ると、昭和二十九年“第三回祇園おどり”(現在は祇園をどり)のパンフレットの広告に載った「トルコ娘の美松新温泉」の営業形態はソフトなお色気のみの正統マッサージだった事は、花街のパンフに載ったことでも明らかです。

名物トルコ風呂、アミューズメントセンター美松、二階、ダンス娘の・ダンス美松、一階、ビール娘の・ビーァ美松、地階、地下温泉街・家族風呂

場所は新京極で、最近までゲームセンタ、その前は美松劇場のあった所だったのでしょう。

風俗としてのトルコ風呂があったのは、私の知る限り、島原遊郭の今の松栄さんの駐車場あたり(旧松本楼)一軒で、昭和三十一年の住宅地図に島原温泉KKで載ります。当時を知る人によると、制服姿のマッサージ嬢がいました。

参照:『戦後性風俗大系 わが女神たち』広岡敬一著





by gionchoubu | 2017-05-15 12:00 | Comments(0)

京の銭湯史 その四

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場所は分かりませんが(東京?)明治初年頃(もう少し後でないでしょうか?)とされる風呂屋の二階図です。湯上がりの男どもは、芸者然とした女性達に、体を拭いて貰う者、服を着せてもらう者、髪を整えてもらう者、湯上りの碁にお茶をもらう者。また、女性にふざけかかる者・・・天真爛漫です。


ペリーの遠征記の中で、ハイネのスケッチした下田の公衆浴場を見ると、男女は混浴で、広い洗い場の向うに唐破風の柘榴口があり、そこに湯舟があるようです。

京都の銭湯の歴史を続けると、明治以前は基本混浴が普通でした。

江戸期が終わっても暫らく京では“町触れ”は出されており、明治四年に京都府から出されたものを見てみると、

「湯屋の義は人の身体を清浄にし、養生の一端に可相成事に付、造作向務而美麗清潔を心がけ、銘々職業勉励可致候処、従来の風習として、何町四方には新職不相成など手狭の取りきめ有の由にて、自然株式同様の姿に相成、其造作を怠り、又それが為、湯の善悪にかかわらず、必ず湯銭を一定不可然事に候。

全体物価与申者、上品は価高く、下品は価卑(ひく)き者、自然の理に而、湯屋而己に限り、善悪共なんぞ一定の価たるべき理あらんや。

殊に当府下の湯屋は、旧来男女入込にて、その別(わかち)無之、甚もって風儀の乱れと相成旁々悪弊不少候間、この度一洗の為、会社取ほどき、左の通り、改正申し付け候条、心得違い可相守候。

一、従来の会社取ほどき、肝煎等相廃候□。

一、 是まで仕来の湯屋は、当年十二月かぎり、男女入湯場の区別判然相立可申し立可申候、若心に任さず難渋の次第も候はヽ、男女隔日に入場為致候?。或は時間を限候?、或者男女一方づつにいたし候?。いづれ  共いり混じり致さず候様可取斗候。万一右期限過ならざりに致し置候者は、職業差止め咎方も可申付事。

附り、男女入浴場区別の造作相整しだい、町役□勧業場へ可届出事。

一、 以来新職相始度もの者其、町分え申出、示談の上町役連印願出候はヽ、詮議の何軒にても可聞届□。

   附り、新職の者、男女入浴場区別の義者勿論の事。

一、 造作に美をつくせば財本を費やす事多く、造作粗末なれば財本を費やすこと少なし、湯銭の高下も是に応ず可く。其職業の盛衰湯浴(いりて)、人の多少も可随の理に付、巳来銭湯取極は銘々勝手次第心に任す  可く候事

一、 私に仲間を結び、取締等の名目を附、人の生活を束縛する所業、堅く禁止の事。

右の通り市群中え洩れ無く洩相達るもの也。

辛末八月                           京都府」

町触れは、入浴は体を綺麗にする事が目的で、従来の男女混浴による風儀の乱れを憂い、この悪習を止める様、通達の運びになりました。
          



by gionchoubu | 2017-05-13 12:37 | Comments(0)

京の銭湯史 その三

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                        勝山


天保十一年『祇園新地細見図』を見ると、四条縄手を上ル東に大和湯が、今の松湯ビルの所に松湯(当時、富永町の北を松湯の丁と呼んでいました)が、そして今の花見小路に当たる通り(当時は薬湯の丁)に薬湯が描かれています。。

鴎雨散人『鴨東佳話』によると、その他、亀湯も祇園にありました。

湯女と京の舞妓には不思議な縁が有ります。祇園祭の際に舞妓は勝山に結います。この勝山太夫はもともと艶名を四方に謳われた江戸の丹前風呂の湯女で、明暦三年幕府の湯女禁止後、吉原に移りました。

以前も書きましたが、松浦静山の『甲子夜話続編』によると、勝山が吉原に移り仲之町を道中する時、毅然とした態度で左右を見る事がないと評判になりました。これを聞いた唐犬権兵衛という侠客が「俺が勝山を振り向かせよう」と仲間に約束しました。何をするかと思えば、道中の勝山の後ろに廻り、こともあろうに勝山のマゲの元結を切ってしまったのです。

髪はハラハラととけてしまいました。ところが勝山は少しも驚かず慌てず、近くの茶屋で供の女に髪を丸く巻かせ簪で留め、元通り道中を続けました。

この事は江戸中の評判になり、女どもは競ってその髪型を真似ました。

この髪型は元禄勝山と言い、大きな丸い輪が頭の後ろに巻かれ、その後日本髪の系統の基本の丸髷の原型となりました。一方現代舞妓の勝山の輪の幅は太く、円は小さく纏められています。

もうひとつ現在と湯女の繋がりを見ると、今でも旅館でどてらの様な丹前が提供される事があります。この丹前も丹前風呂からきています。猶、この丹前の由来は、神田堀丹後守の下屋敷前にあった事にあります。

何故祇園祭に舞妓が吉原太夫の勝山を結うのかを説明した物に出会った事はありません。ただ、関西では明治中期に少女が勝山髷を結う風があったので、その名残と考えられます。

さて、都の風呂屋に話を戻すと、元治元(1864)年の『湯屋仲ヶ間九組、株主名前帳』によると、上組五十二株、中組三十一組、下組十九株、川西組二十二株、宮川組十二株、二条組八株、智恩院組七株、粟田組六株、大仏組十六株、合計百五十三株ありました。

この組合制度は明治も続き、明治十二年十一月府県制実施の際、地方税額賦課につき、府より等級設定委員十名を業者の中から選びました。この割り当ては上京区四名、下京区六名、等級一等より四等までの四級にしました。

当時の京都における湯屋業者は、上京区に於て八十七名、下京区に於いて百六名、合計百九十三軒の銭湯がありました。

参照:東西浴場物語、昭和四年、浴場新聞社発行

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                   こちらは年少舞妓の割れしのぶ

by gionchoubu | 2017-05-10 15:14 | Comments(0)

京の銭湯史 その二

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『洛陽勝覧』博望子、元文(1737)に風呂屋の項があります。

太夫風呂 西洞院魚棚下ル西側
     一座四匁、一日揚十六匁、留風呂早五匁

松屋風呂 室町五条上ル町
     一座四匁五分、泊り拾八匁

蛭子風呂 東洞院六条下ル町
     大女郎、拾三匁、小女郎、九匁五分

是は享保銀也。禿を連天神の段也。手代には逢不申候。御客を吟味仕候。今はなし。

いせ風呂 新橋縄手ひかしへ入
     一座四匁、一日揚、五つ詰

柳風呂 堀川一条下ひかしかわ
    一座四匁、一日揚、弐拾匁

池田風呂 七条新地中筋正面上ル町
     今は見せ女郎はかり

風呂屋の女さる(猿)と云は、御客の垢をかくとなん。

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この中で、柳風呂町が現存します。ただ堀川一条では無く、寺町今出川西上ルで、寛永十四(1637)年洛中絵図に柳風呂ノ町と有ります。

その他上記には記載無いものの、現存するものに府庁西に丁字風呂町があり、寛文五(1665)年の『京雀』に「丁子風呂といへる風呂屋のありし故に名とす」とあります。

風呂屋町も千本釈迦堂の東南にあり、寛文後期洛中洛外之絵図に「千本風呂屋町」と書かれています。

その他、新町上立売東入ルにも裏風呂町が今もあり、既に元亀二(1571)年の御借米之記に風呂図子と書かれています。

高島屋のある順風町は江戸期(明治二年以前)に於いて風呂屋町と呼ばれており、前回書いた林又一郎の風呂屋との関連の可能性が出てきました。

又これとは別に現小石町(堺町四条下ル)も京雀に風呂屋丁の表記がありました。

『洛陽勝覧』の太夫風呂は六条三筋時代の傾城町の太夫町の傍、松屋風呂も六条三筋の脇、蛭子風呂は七条新地の近く、伊勢風呂は祇園新地の中、池田風呂は七条新地の中、柳風呂のみ堀川一条で色里の関連は見出せないものの、現柳風呂町は白梅図子遊郭の近くです。

『洛陽勝覧』の風呂屋の項は惣嫁(そうか、街角に立つ私娼)と舞子の間に書かれている所を見ると、矢張り風俗の括りとして捉えられていた様です。

参照:京都市の地名、日本歴史地名大系27、平凡社






by gionchoubu | 2017-05-08 10:36 | Comments(0)