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祇園ぞめき その八

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           富永町、この当たりに玉屋、三升屋など四軒の見世がありました。

滝沢馬琴の『羇旅漫録』の“祇園さし紙”を読み解く事で当時の遊郭・花街祇園のシステムを私なりに説明を試みます。

「おやまも芸子も見世とうちとは別なり。見世とは江戸にていふ見場也。扇九、一力、井筒など茶屋をたれは何屋と定めおくなり。抱のげい子もあり。またじまえのげい子は、別に家ありて住もあれど客あれば必ずその見世へいふてやる。子ども屋は別にあり、是は祇園中廿七軒に限りて御免なり。

おやまは遊女なので、遊女の見世とうち、芸妓の見世とうちがあることになります。見世は見場、つまり検(見)番で花街事務所の事、大概どの花街でも、一花街につき一検番で、祇園も明治以降はそうなりました。

うちは抱えの芸妓、舞妓が住む置屋の事で、その他、一本立ち(自前)の芸妓も、見世を通してお茶屋に使わされます。

同じく遊女も見世に所属しており、見世に応じて、遊女が多い見世、芸妓が多い見世があり、この見世は祇園では二十七軒が許可を受けました。子ども屋は遊女の置屋のことです。

『近世風俗史(守貞謾稿)』では、見世という言葉を使わず、「祇園置屋の名」としており、

「万屋安兵衛 、井筒屋定次郎、吉田屋平三郎、以上祇園町にあり。桜井屋平太郎、常盤屋寅吉、以上松湯町にあり。井筒屋庄兵衛、玉屋市太郎、三升屋勇蔵、近江屋市太郎、京井筒屋寅之助、以上富永町にあり。井上屋吉之助、京屋喜兵衛、万屋嘉吉、以上末吉町にあり。各々祇園新地の内にして一党に似たり。」

つまり夫々の見世が一党として、見番機能をもったグループを形成した様で、祇園は二十七の小さな花街の集合体であったと私は考えています。

あくまで私の見解なので、見世制度を分かり易く教えていただける方がいらっしゃれば、感謝します。

天保十一年『祇園新地細見図』をみると、祇園町(四条通り北側・南側)には上記の三軒の見世以外に一力、きく新、せん九、井筒、きく新などのお茶屋がありました。

松湯町とは切通しの筋の北の部分で、現在松湯ビルの場所に松湯という湯屋がありました。その他、常盤屋、川竹屋、大黒屋の見世の名が見えます。

富永町は今の富美代さんのある筋で、富美代さん側に西から京井筒屋、玉屋、三枡屋、そして反対側の南側に近江屋がありました。

末吉町の筋には北に井上屋、南に京屋がありました。

尚、見世は祇園独自の制度でなく、大坂では昭和まで芸妓扱席として機能しておりました。『全国花街めぐり』の「大阪花柳辞典」で松川二郎は

芸妓扱席「略して“店”といふ、略(ほぼ)東京の芸妓検番に同じものであるが、東京の如く一花街に一検番又二検番といふ如き統一組織でなく、各店が独立した線香場(花代を計算する所)を有って居ること、例へば南地には二十一軒、北陽(北の新地)には九軒の芸妓扱席がある。但し「扱席」と「貸席」(お茶屋の事)と兼業のものがある、たとえば南地で有名な富田屋、大和屋、河合の如きが其実例だが、要するに経営者が同じと云うのみで、貸席の富田屋と芸妓扱席の富田屋とは元来別個の性質のものである。」

と、この制度を説明しています。



by gionchoubu | 2017-03-31 12:19 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その七

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      雪の一力茶屋

寛政二年(1790)年の寛政の手入れから僅か五ヶ月後の同年十一月、祗園町同新地さらに二条新地、北野、七条新地に五年の限りと、島原の差配を受け、島原に口銭を納める事を条件に、初めて売女を置くことが認められました。つまり晴れて公認の遊郭になったのです。そして祗園町と祇園新地は合併して一つの運命共同体になりました。

この五年後の記録は見当たらないものの、文政六(1823)年 の京都の町触に「遊女商売人共義、祇園町、同新地、北野二条、七条新地、右四ヶ所へ先年より差免じ置候後、去る酉年(文化十年=1813)より年限を以て差免じ置候処、今度年限相満ち候ニ付、猶又是迄之通り年限を以て差免じ置候旨」

そしてさらに十年後の天保三(1832)年にも同じ条文が発令されていますので、
1792、1797、1812、1822、1832が更新の年になり、
1797と1812の間に1802年を入れ、更新年度を5年後、5年後、10年後、10年後、10年後と考えると辻褄があいます。

祇園が堂々と遊女渡世を許された翌年の寛政十三年、『祇園細見めい娼都栄』が叶屋喜太郎版元から出されています。これは改正版なので、それ以前も出されているのは間違いありません。ただ私は見たことないので、断言は出来ないものの、こういったものが公認以前の遊所で出されたとは考えにくく、寛政二年
以降に出される様になったものでしょう。

19軒の見世、239名の遊女(おやま)の名が収められており、印には白じん、五ツ(午后八時)泊まり、四ツ(午后十時)泊まり、そして年齢により、本詰、中詰、振袖、さらに印により房中の秘が記されており

「フンスンいふて出す事うけ合」
「スウスウいふて出す事うけ合」
「大至極上上吉の上へきなり」

中には「フンスンいふて出す事うけ合」が三つもついた妓がおり、私には良く分かりませんが、うるさくてしょうがないのでは無いのでしょうか?

見世は一力、井筒店、扇九、三枡屋、うじ屋、京口屋などで、一力にも名山、瀧川、千鳥、紫野など七人の遊女が所属しています。

享和二(1802)年の滝沢馬琴の『羇旅漫録』の“祇園大楼の噂”に「井筒・扇九・一力など座敷広し。客あれば庭へ打水し、釣灯籠へ火を点す。忠臣蔵七段目の道具建の如し。」そして伊勢の古市の妓楼の中で刃傷沙汰(所謂、油屋騒動)があった事を受け、茶屋では刀を刀掛けに掛け、脇差は床の間へ飾り置くようになったと書いています。

そして「本詰めとは、本どしま眉毛なし。中詰とは、中どしまなり。げい子はとしの長少に拘はらずみなげい子と云。祇園町のげいこはうつくしく、おやま(女郎)はおとれり。げい子に勢ありておやまの上座をする。」

“芸子の枕金”では芸子を買う(つまり寝る)事を枕金と呼び、名のある美しい歌妓は二十両~三十両、その次は十両、二十両、いたってあしきは五両、三両で、茶屋を通じてたのみ、ひそかに茶屋で逢うとのこと、仲居や茶屋の娘、舞子も同様だとも記されています。一両を現在の10万円と仮に見積もっても、大変な金額だと分かります。

『羇旅漫録』を読めば、馬琴は超一流のルポライターだった事が分かります。





by gionchoubu | 2017-03-26 10:18 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その六

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大和橋の袂の碑・・・妓女が右褄を取っているので、遊女と知れます。(芸妓なら左褄を取ります)

大和橋は祗園新地形成に大きな意味を持っていました。

というのは、石井琴水の『伝説の都』などによると、貞享年中所司代内藤大和守重頼が木造の橋を架設して大和橋と命名したが、木橋であるゆえ出水の都度流失・・・地頭の寶樹院も困り果て、何とか石造にしたいものの、問題は費用、苦心の末、茶屋渡世の許可を一日千秋の思い出待ち構える内六町のものに計ると、願書通り茶屋渡世三十戸を許せば、その三十戸が割賦で冥加銭を差し出す
といいました。

時の所司代土岐丹後守頼念(よりとし)は、享保十七年、内六町へも茶屋渡世を許可しました。正徳三年、内六町が開発されてから19年後の1732年の事でした。

因みに大和橋は明治四十四年に川幅を狭める為、橋を架け替えられました所、正徳三年の橋は予想外の堅牢であったと『伝説の都』に書いてあります。

大正四年に夏目漱石が、文芸芸妓で名高い磯田多佳のお茶屋、大友を訪れた話が残ります。とすると埋めたてられたはずの土地に有った大友(今のかにかくにの碑のある所)は明治四十四年〜大正四年以前に建てられた事になります。

話を戻すと、これらの茶屋女は表向きは実業の給仕女なれど、その実非公認の遊女で、茶屋一戸につき茶立女一人と決められていました。実業なら大きい茶屋なら何人給仕女がいても良いわけで、わざわざ一人と決められているのは当局でも折込すみ、つまり一軒に付き一人の遊女は見逃す、と言っているに等しい訳です。

しかし、茶屋の方では営業上、何人も女を抱えるわけで、寛延三年(1750)十月には祗園町、宮川町の非合法茶屋女多数が公許の遊郭である島原に送られます。

翌年宝暦元年(1751)祗園町に茶屋株十軒、縄手通に同十軒、宮川町に十五軒、十年間の期限を切って許可。

その後、天明八年(1788)の京都近世で御所、二条城、所司代も全焼したものの、祗園は無事、景気優先で、茶屋株の年限までなくなりました。当局のご都合主義が顕著です。

ところが、又方針転換、寛政二(1790)年、名高い寛政の手入れで、祇園町、祗園新地で発覚した隠売女は、他の現京都市の他の遊所の非合法遊女は島原に送られました。その数千三百人、最末端の遊女として働かされたと言います。









by gionchoubu | 2017-03-23 12:59 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その五

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                       お梶

宝暦頃の洒落本『袂案内』に

祇園町は「客も皆よろしく、或ひは屋敷の留守居なぞ、又は、よろしき町人の小息子、今様の染出し帯幅広、また、其の上に帯の中筋を外の色に継き足し、随分、人に目立たぬやうに長羽織着流し、もっぱら、役者を写し、遊びは、甚だはなやかなり。」

一方「祗園新地、これ又、間を隔てず、遥かに落ちたり。・・・客も又、祇園町より少し劣りて、或ひは小商人の息子、町方の手代、番頭、親方の目を忍び、ひそひそ楽しまる事也。しかし繁昌、祇園町に劣らず、はなやかなる新地也。」

さらに、その先の縄手通りは、茶屋を省略“ほたる”と呼ばれており、夜になると妓が門口にでて来て、往来の人の袖にすがり、肩に取り付き引き止めるような所で、祗園新地より客筋は遥かに劣る、とのことでした。

併し橋(大和橋と思います)を北にわたった縄手は、蛍に比べ、女郎も遥かに上等、ただし京都の地元の人は希で、客は大坂や田舎の人との事。これはここはもう三条大橋の麓、つまり東海道五十三次の終着地で、客は三条大橋周辺の宿屋から商人が遊びに来たのでしょう。かつて三条辺りは宿屋街でした。

もう一つ、京都町奉行与力、神沢杜口(とこう)による、天明年中(1781~1788)に成立したと云われる『翁草』を開いてみましょう。

「芸子と云は、ややよそとせあまり前に初りて、殊に近き世の事なり。余が幼き頃祗園新地はいまだなく、祗園町と知恩院門前の間は郊野なり。〜略〜是今の祗園新地開たる所なり。其頃の祇園町の繁栄云べからず、町並すべて茶屋にて、他商売店はなし、享保中頃より少し衰て、祇園町に余の商売店出来たりとて、無き事の様に沙汰せり。今は茶屋は残り少に成て、遊妓の廻し店多し」

この文が書かれた年が天明初めなら1740年、芸子が現れたのが、矢張り元文以前という事になります。

ここで、それより少し前の祗園で、花車(かしゃ)呼ばれた茶屋の女将を紹介させていただきます。

先ずは、今の八坂神社南門前の水茶屋松屋の女あるじの“お梶”で、十四の年に“こひこひて ことしもあだに くれにけり 涙の氷 あすやとけなん”と詠み、宝永四年(1707)歌集『可知能葉集』を世に送り、小野小町の再来、和歌の天才と謳われました。

そしてお梶の養女“お百合”も又才色兼備の京女で、歌集『小百合葉』があるばかりか、その筆跡の見事さに、人々は争ってその短冊を手にいれたと言います。

そして、お百合の娘が、池大雅と結婚した玉欄で、絵と書は夫の大雅に、和歌は冷泉家について習い、歌集『白芙蓉』を残しました。

このお梶も玉欄も、時代祭りで見る事が出来ます。

参照:『祗園と舞妓』熊谷康次郎


by gionchoubu | 2017-03-11 11:58 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その四

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                      祇園甲部の舞妓

『守貞謾稿』の芸子の項

「げいこ、弾妓なり。すなわち江戸に云ふ芸者なり。昔は芸子これなく。遊女三弦をひく。その後、未熟の遊女は弾くことを得ざる者あり。あるひは尊大を究めて自らこれを弾かず。『一目千軒』に曰く、太夫・天神自ら三弦をひかざる故に幇間女郎を呼ぶなり。また芸子と云ふ者ほかにあり。昔はなかりしに、宝暦元年に始る、云々。『澪標』に曰く、たひこ女郎と云へる者は、揚屋・茶屋へよばれ座敷の興を催すための者なり。琴・三弦・胡弓は云ふもさらなり、昔は女舞も勤めし者なり。享保年中より芸子といふ者出で来たり。云々。しからば大坂は享保、京は宝暦に始まるか。」

幇間女郎(たいこじょろう)座敷で演奏や座興を受け持った者で、芸子と違うのは遊女であったという事です。

さらに『洛陽勝覧』には、既に祗園に大津屋や鳥羽屋という男の幇間持の見世が有り、臍本茶平、すぬ庄兵衛、昆布吉の様な名で役者物まね、三味線、唄などで座敷を盛り上げていました。幇間もすでに祗園を賑やかしていました。

幇間持ち、幇間女郎のどちらが先に世に現れたかは定かでありません。

果たして、祗園に芸子(妓)が現れたのはいつだったのでしょうか?私は『一目千軒』宝暦七(1757)年で島原に芸子の名前がのりますので島原で芸子が現れたのは、吉原がそうだった様に宝暦の初めぐらい、さらに祗園に芸妓が現れたのはさらにその先と考えていました。

ところが『洛陽勝覧』元文二(1737)年の新里(祗園新地)女郎名寄の最後に

芸舞子

ふしえ いせ升出、かけ人形 義太夫引語、舞おとり、物まね人
小さこ 舞しほらし、座斗、大坂出
小まん 同、同
尾上兼松 舞殊外しほらし、切返し津国出、詰半し同

と、載りますので、元文にはすでに芸舞子の存在が祗園に有った事になります。ゆえに享保の終わりには京都に芸子(妓)はいたと考えてもいいでしょう。

そして本居宣長の『在京日記』の宝暦七年の記述に「此ころ宮川町夷の辻子にて、藝子かつ野といへる妓を、子供芝居の役者虎蔵といへるか、きりころし侍る、きりてはかけ落したりしを、程なく大坂にてとらへて来たりとかや、此かつ野といへるは、即宮川町の生れの女にて、二親も其身もよく知りたる者なるか、いと不便なること也とそ思ふ。父母かけなき、思ひやりて哀也」

宣長が、紀行中の京都で、ごく普通に芸子を述べているのを見ると、宝暦に入ると相当世間では芸妓が認識されていた事が分かります。

この在京日記で宣長は宝暦、六年、七年の両年に祗園町と祗園新地が別々に、莫大な費用がかかる“ねりもの”(祗園会の夜の妓女による仮装行列)を催したと記していますので、祗園町のみならず、祇園新地も相当に羽振りが良かったことが想像できます。

その後、明和になると、富永町は単独でねりものを出したりしています。祇園新地の中でも、富永町は特別な存在だったと思います。



by gionchoubu | 2017-03-07 13:01 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その三

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                         富美代さん

寛文六(1666)年、祇園町外六町(そとろくちょう)弁財天町、常盤町、二十一軒町、中之町、川端町、宮川町一丁目が開拓され、つづいて正徳三(1713)年、祗園内六町(うちりくちょう)、元吉町、末吉町、清元町、富永町、橋本町、林下町も開発されました。

『月堂見聞集』の正徳元年(あるいは二年)に「四条大和橋東側新地五御赦免、四条通にも入口付候、東は智(知)恩院前迄築申候、祗園領」開発以前なので当然町名はまだ付けられて無くこういう表現になった模様です。

そして享保十七(1732)年、祗園内六町に茶屋渡世が許されました。これが祇園町に対する祗園新地に当たります。

京都の町名は、本町などの例外はあるものの、殆ど何丁目というのが無く、人名、職業名、寺院名などが由来となります。ところが新地として開かれた宮川町筋一丁目〜五丁目や清水町一丁目〜五丁目は珍しく何丁目を採用しており、七条新地の町名も上二之宮町、十禅師町、聖真子町など総て近江の日吉神社にゆかりのある名がつけられました。

つまり、新地は一度に多くの町名を付ける必要にかられ、つい一丁目、二丁目としてくくりをつけるか、何かに関連を求めたと考えられます。先斗町も開発された新地で、町名には松、梅、柏、などの目出度い名が入っているのは偶然かもしれませんし、何か意図があるのかもしれません。

祗園内六町には元から吉で有りますように、末まで吉で有りますように、富が永く続きますように、という命名者の願いが入っていると私は思います。

一方、江戸の町は巨大な新地のようなもので、当然〜丁目を入れないことには、巨大な町の町名付けを為し得る事は出来なかったはずです。

新地が出来た頃の様子は安政五年(1775)『居行子』に「愚も七、八歳の頃、祗園新地もいまだ建そろはで、そこかしこに草生しげり、薄(すすき)と家と入りまじり、まばらなりしを覚侍る。その辺今は大屋敷の売買には千両、二千両の価となる云々。」といった状況でした。

『洛陽勝覧』を見ると、享保の終わり頃には

祗園町

北側西より、井筒屋、扇屋、若松屋、和泉屋、吉野家、鍵屋、米屋、松代屋の青楼が立ち並んでします。井筒屋は明治まで残った祗園第一等のお茶屋です。

南側東より、十文字屋、扇子屋、大津近江、志水屋、万屋、松屋、扇子屋、吉文字屋、

祗園新地

として挙げられた町名は、富永町、末吉町、日枝町、清元町、元吉町、新橋森下町、橋本町です。

茶屋として、大賀、蝋燭亀、鍵、吉更(桔梗)菊、亀、松芳、林高砂、虎、富田、海老蛭子、山形、梅鉢、近江、伊勢升、帋、玉大いせ、升、住吉、松島、笹、木国があり、新里女郎名寄(名簿)に若詰、中詰、本詰(年齢による遊女の種別)に300人近い女郎の名が載ります。

富田は祗園新地第一等のお茶屋、現在の富美代の前身“ひっこみの富田屋”と呼ばれ、現在の富美代さんから北に大和橋までの敷地があった、富田屋(とんだや)と思われます。





by gionchoubu | 2017-03-06 12:06 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その二

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                        縄手通り

田中緑江さんは『祗園さん 祗園界隈』で三条〜四条間の縄手通りを

「元禄頃にはまだ農家があったり、空地も多く、三条辺までの縄手は追剥が出たと云います。宝永・正徳の頃にこの堤の四条の北の辺に十軒程の小屋、それは取葺屋根、竹垂木の間口狭く、奥行き一軒半計、踏込付の建物、軒に鉄色染(かちんぞめ)の水引暖簾をかけ、長い四角な大行燈を台に揚げてこれに家名を記しました。竈茶棚を置き、お客があると煎茶を出し、煙草を吸付て客を饗応(もてな)しました。この家族は他所に住み夜になると出て来て店をあけて客を迎えますので蛍茶屋と呼ばれました。その女は金巾木綿に模様或は糸入縞等を着、衿に少しの絹物を付けカチン染の前垂をしていました。これが祇園町が花街になる最初の女で、その後四条通始め附近に家が沢山出来、茶立女等が客の求めに応じ酒をすすめる様になりましたが、安永の頃には蛍茶屋はなくなってしまいました。」

『洛陽勝覧』博望子、元文二年(1737)に、

「縄手 大和大路と称す。いにしへの大和大路なれば也。此筋元結多、名物也。東側商売家にして西側多く茶屋也。是をなわての茶屋と云。此辺京中随一繁昌の所なり。茶立女有。

縄手(現在は四条より北を縄手通り、南を大和大路と呼んでいます)は大和大路として、東海道五十三次の最終地三条大橋と、伏見街道を結ぶ機能があり、京中随一繁昌となったのでしょう。元結(もとゆい、もっとい)とは髷の髻(もとどり)を結ぶ細い紐のこと、西側に茶屋があるのは鴨川を望める為でしょう。

そして縄手茶屋として四十七の茶屋の名を揚げています。こちらは売色を主にしていたと思われ、一座四匁とのこと。

大和橋より半町北西頬に金屋という仕出弁当屋あり、名物に九重、八重桜の弁当があり、うどん、蕎麦切り、豆腐、酒は何処でも配達し、毛氈、野風呂、屏風、幕などもレンタルしていました。

又、安永(1772~1782)以前の元文なので蛍茶屋が、菊、和泉、大坂など四十軒近くも有り、非合法な女を置いていました。

その他料理茶屋、さらに芝居茶屋も四条の芝居小屋に近づくにつれ沢山ありました。

面白いのは、新橋縄手東に入った所に、いせ風呂という、猿(背中を垢かく様子に例えて)とよばれた遊女を置いた風呂屋があり、一座四匁、一日揚げ 五つ詰、の記述があることです。

江戸の風呂屋の研究は進んでいるようですが、京都の風呂屋について考察された本は見かけないので、ここに縄手以外の『洛陽勝覧』に載る他の風呂屋の情報を挙げておきます。皆二階に座敷を持ち、売色を主にしていたと思います。当時の風呂屋は蒸風呂で後年今の銭湯スタイルの湯屋に変わっていきました。

太夫風呂 西洞院魚棚下ル西側、一座四匁、一日揚拾六匁、留風呂早五匁

松屋風呂 室町五条上ル町、一座四匁五分、泊まり拾八匁

蛭子風呂 東洞院六条下ル町、大女郎、拾三匁、小女郎、九匁五分

柳風呂  堀川一条ひかしかわ 一座四匁、一日揚 弐拾匁

池田風呂 七条新地中筋正面上ル町

今は見せ女郎はかり



by gionchoubu | 2017-03-03 14:15 | 祇園 | Comments(0)

祇園ぞめき その一

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                     南座の鳥辺山心中

花街としての祗園を一括りで考えるのは無理があると私は考えます。ゆえに

1、 祇園町(八坂神社〜鴨川間の四条通りの北側と南側)
2、 祗園新地(橋本町、元吉町、清本町、末吉町、富永町、弁財天町、
  常磐町、廿一軒町)
3、 縄手(三条よりの縄手通り)
4、 祗園東(祇園町北側の一部と林下町と清本町の一部)
5、 下河原
6、 花見小路四条より南側の区域で四条通りに面した部分(祇園町)を除く

に分けて考えます。

これらの6区域は花街生成の歴史も、花街としての性格も異なっており、それぞれ別に考えていった方が好都合だと思います。

ただし、旧江州膳所藩周りの4、祗園東地域は“祗園東ぞめき”で述べましたし、5の下河原も、“下河原の山根子”で触れたので“祗園ぞめき”より省きます。

さて、江戸期以前は、四条通りは洛中から八坂神社の参道としての機能しか持たなかった様で、東海道に通ずる三条通り、伏見街道に至る五条通り周辺し比べて市街化は鈍く、三条大橋、五条大橋が公儀橋だったのに対し、四条は大橋が江戸期後期まで掛からず、中洲と中州を繋ぎ合わせたような貧弱なもので、何度も流失しており、仮橋とか浮橋とか呼ばれていた様です。

1の祗園町がいつから遊里化したのか、『言経卿記』天正十年(1582)に「清水へ冷泉同道参詣了。清水茶屋、祇園茶屋等ニテ冷泉振舞了」が最初の祇園茶屋の記述かもしれません。

『京都遊廓由緒』によると、元和年間(1615~1620)に、八坂神社の参詣者や東山見物誘客の為、水茶屋、煮売茶屋、料理茶屋にて接客した茶汲女、茶立女、酌取女が遊女化したとあります。

元和五年には、祗園町の近く、八坂法観寺(八坂の塔)の門前に茶立女つきの茶屋渡世が許可されます。御所から見て辰巳の方角に有る為か、辰巳新地とよばれた遊所は下級なれど明治の初めまで続きました。

さて、寛永三(1626)年九月二十九日,祇園町の若松屋の娘、お染が二条城普請奉行の属史、江戸から上京中の菊池半九郎と鳥辺山墓地内の井戸に投身情死を遂げました。

所謂「お染・半九郎」の心中話です。

この年、三代将軍家光が八月二日から九月二十五日まで上洛しており、それから四日後に事件は起こりました。二十一歳の半九郎は、祗園で逢瀬を愉しんだ十七歳の遊女、お染と別れ離れ、江戸に戻るぐらいなら、いっそあの世で添い遂げようと身を投げたのでしょう。

歌舞伎では全く違う脚色になっていますが、「つい仇惚れも誠となりて、ほんの女夫(めおと)になりたいと、思う思いはままならぬ、今はこの見にあいそもこそも、尽きた浮世や、いざ鳥辺野の・・・」二人が情死したのは変りません。

花街祗園の幕開けを告げたお染の命は大変短いものでしたが、歌舞伎の人気芝居として、今も半九郎と手を握り合って舞台で見つめ合っているのです。

参照:『京都市の地名』平凡社、『名作散歩 歌舞伎と京都』京都新聞社、『京の話あれこれ その一』緑江叢書



by gionchoubu | 2017-03-01 16:08 | 祇園 | Comments(0)