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大津、柴屋町ぞめき 十七

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『艶本紀行 東海道五十三次』で著者の林美一さんは「こうした色街の話は、関係者の中には記録する者がいないから、第三者が小まめに聞書きをとるしか仕方がない。地方の遊里資料が今日非常に乏しいのも、実際に遊びに行くような人は、野暮な記録を残すような性格の人と違うからである、柴屋町の資料も、見番に道中の下駄や傘などまで残っていたそうだが、戦時中の昭和十八年に書類とともに二束三文で古道具屋に処分されてしまった。」と語っています。

成程、野暮な上、無神経が加わる私には、こういった聞書に向いているのかもしれません。

さて、今回と次回で売春防止法施行後、花街・赤線の両面を持った柴屋町の姿を追ってみたいと思います。

まずは昭和三十三年三月一日滋賀日日新聞より

「大津柴屋町(上、下馬場町)の遊郭七十八業者は湖楽園の五十三業者と寿倶楽部の二十五業者ともにそれぞれ事務所で最後の打合せを行ったのち廃業届けをまとめて大津署へ提出した。

この日の遊廓は朝から従業員がダンス、鏡台などの持物を処分するのにリアカーで持ち出す姿もみられ、業者の役員が郭内部をあちこちと忙しそう。

夜に入っては最後の遊郭というので、どの揚屋ともなじみ客でにぎわい、ひやかし半分の客に“最後どすえ”とよびかける引手の声も活発で、ドタンバの姿をみせていた。

業者の売春は午前零時以後は三月一日というので、それまでで打切り、泊り客は受付けないという徹底的な廃業ぶり。

きょうは一日は午後一時から湖楽置屋組合事務所で、最後まで残った湖楽園四十三人と寿倶楽部の三十人の従業人の合同解散式を行い、各従業婦の合同解散式を行い、各従業員には組合からそれでも一人三百円の弁当代を贈り、あとは各楼主がめいめいに送別会や一人三千円から一万円くらいの“せんべつ”をおくる。


一方貸席専門の大津花町組合の業者十六軒は、従来のような貸席での飲食ができないというので二月末で料理屋への転業?請書を大津署と大津保険所へ提出、みどり会は所属の芸妓は置屋、検番などが廃業したため各自の家から直接営業することになった。」

林美一さんの話を続けると、

「昔を知っている故老たちも次々と亡くなってゆく。明治八年に近江に生まれ、百姓が嫌いで四十二年に家・土地を売り払って二百五十円の金を作り、下柴の株を百七十円で買って遊女屋を始めたという村瀬竹松さんからいろいろと古い話を聞いたが、こんな話を聞けるのもいまのうちだろう。

何しろ十三の年から遊んだというのだから近県の遊郭はみななつかしき古戦場である。

明治二十三年(と、言うことは十五歳)、伊勢へお陰参り行って、通りがかりに関の女郎屋にひょいと上がったという話をしながら、“ええ時代でした。こんなええもん、なんでやめさせるんやろか”と竹松さんは八十七歳とはとても見えぬ若い眼をほころばせる。いつかまた、ゆっくり話を聞きたいものだ。と思いながら辞去したが、早いもので、それからもう丸十七年たってしまった。」

売春防止法施行前の、ごく一般的な男性の声と言うことが出来るでしょう。


by gionchoubu | 2017-01-30 12:27 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十六

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              美幸クラブ・・・名前から見て雇仲倶楽部と考えられます。

秋の大津をどり、昭和三十八年に第十六回が柴屋町歌舞会主催で行われています。振付指導、花柳輔四郎、長唄指導、杵屋君秀、常磐津指導、常磐津文字己喜、鳴物指導、六郷新十郎となっています。

番組は、

一、 長唄出囃子 宝三番叟、
二、 長唄 通天橋
三、 常磐津 戻り橋
四、 民謡お国めぐり、1、お江戸日本橋 2、ソーラン節 3、ぶらぶら節木やり 4、デカンショ節 5、唐人お吉 6、会津磐台山 7、関の五本松 8、おてもやん 9 駒をどり 10、黒田節
フィナーレ 大津をどり 立方全員

この時のプログラムに載る柴屋町花街組合お茶屋は、長谷川、堅田屋、君徳、日比野、松八重、君の家、金俵、中島、山春、榎、田むら、古に志、近江咲、山下、大富、久の家、叶家の十七軒でした。 
   
ちなみに、この五年前の昭和三十三年の『大津商工名鑑』に席貸として十三軒のお茶屋が登録されています。総て下馬場町(下柴屋)で、屋号が出ているのは?君の家のみ、あとは個人名でした。

昭和三十二年の十二月、芸妓を主体とする業者十五軒が組合を離脱、大津花街組合を立ち上げましたと、前回書きましたが、『大津商工名鑑』の十三軒が含まれているはずです。

1999年に淡海文庫から出版された『大津百町物語』に「おみき姉さん」の項があります。

“今では、ほとんど目にすることのない高下駄をはいた粋な女性が柴屋町のおみき姉さん。風呂敷包みを小脇にかかえて銭湯に通う。コキュコキュと音をさせて歩く。いつも黒い毛糸みたいなネットをかぶっている。

「うち(私)、芸子をしてたんでここの毛がのうなってしもてひどいことやねん」頭の前のあたりをおさえてヘアピースをつけているらしい。

おみきさんはこの地に生まれ育った。家がお茶屋だったので、小学校を出るとすぐ芸子の道に入った。

舞子から芸者と、とてもよい時代に仕事ができたという。

昭和三十年当時、大津にも五十人ほどの芸子がいた。おみきさん(本名は美籐あや子さん)は八十四歳の今日まで、「クツ」をはいたことがないという。”

先日、近所の人の聞き取りで、神雷さんの横の路地を突き当たった所に、柴屋町営の銭湯があった事が分かりました。

おみき姉さんが通っていたのはこの銭湯だったと思います。

また柴屋町のケンバ(検番)は今の薬局の横の現在ガレージの所で三階建てでした。一階は芸者の名前の入った札があり、お花が付いている芸妓が裏表の色で分かる仕組み、二階は産婦人科で、売防法施行以前は、接客婦は毎日のように検診を受けました。三階は芸妓の稽古場でした。これも聞き取りで得た情報となります。
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                      検番跡です

by gionchoubu | 2017-01-26 12:17 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(4)

大津、柴屋町ぞめき 十五

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               昭和初期、柴山町にもダンス芸妓がいたことが分かります。

先週、週刊ポストで特集があった、昭和三十年発行、渡辺寛著『全国女性街・ガイド』の大津の欄に

“琵琶湖を売物に発展を目論んだ大津市は案外のさびれ方で、よい芸者は京都からよそ行き<遠出>をつけてやってくる。花街は柴屋町で芸者は二十九名。花代は四百二十円である。
赤線は下柴屋町にあって「赤い灯」をつけた湖楽園系が六十八名。「青い灯」をつけた寿倶楽部系が六十四名。店は五十九軒ほど。”

が総ての記述となっています。

『新大津市史 下』によれば、戦前二百名から三百名いた芸妓は戦時中の統制によって廃業したり、帰郷しており、戦後は二十名をわってしまい、戦前の客筋とかわって、キャンプに出入りして工事、その他に従事するものが多く、オフリミッツの地域としてアメリカ軍兵士は来られないのがたてまえであったが、禁をやぶって廓にかようものも少なくなかった、と書かれています。

そして売春防止法施行直前、下柴屋町に業者約百軒、芸妓二十五名、酌婦約百名がいたと、『全国女性街・ガイド』の数字より、数年の誤差が有るとは言え、そこそこ違う数字に関して、私には確認の方法が見つからないのが悩ましい所です。

現在柴屋町に住み、おじいさんが元貸席業で組合長だった方に直接聞き取りさせて頂いた所、グループは「青い灯」と「赤い灯」でなく、「青い灯」と「白い灯」で青い灯の一派は、おねえちゃんへの歩合が少なく、白い灯の電気が灯る所は、おねえちゃんの取り分が多かったとの事、さらに疑問が広がってしましました。

さて、売春防止法発効する昭和三十三年四月の前年の十二月、芸妓を主体とする業者十五軒が組合を離脱、大津花街組合を立ち上げました。さらに、これより先、芸妓と酌婦とを区別する為に、芸妓に試験制度を設け、試験は柴屋町歌舞会が行う事にしました。

そして運命の四月一日の一月前、柴屋町で湖楽園三階に両派の業者が集り、解散式を行いました。

売春防止法発効時、接客婦は七十三人で、全員が帰郷、しかし業者は滋賀日日新聞の記者に、「二・三年で取締りは緩和されると考えている」と語ったような考えを持つものも少なく有りませんでした。そして湖楽園役員会では九州方面に業者を派遣して女子従業員を募集しました。

前回の社説、“一部の小料理屋などが必要以上に多数の仲居、女中のたぐいを抱え込み、中には遠隔地まで「玉を買いに」出かけているものもあるようで・・・”
という部分はこの事を指すものだったのでしょう。

追記:少し前、英吉ねえさんの“今の丸信さんのとこに梅の屋という女紅場がおした。”の情報と、昭和四十七年の地図のマルシン洋品店の場所と同じところに、大正の地図にも梅の家と書かれているので、梅の家=梅の屋=女紅場書きました。

その後、新修大津市史5に上柴屋町の梅の家席は寄席であると書かれていました。先ほどマルシン(現マンション)並びの大和家さんに確認すると、芝居小屋との事。総ての情報は信頼できるものと思いますので、答えが導きだせない状態陥ってしまいました。


by gionchoubu | 2017-01-23 11:57 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十四

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                       雪の柴屋町

前回に引続き、滋賀日日新聞二月十二日号より・・・

売春防止法全面施行を前に、滋賀県の赤線業者の転業職種として一番希望が多かったのはお茶屋でした。

県売春防止対策本部への届出によると、県内の転業職種は、お茶屋五十五、旅館五十四、料理店三十二、下宿十一、飲食店六、間貸、マージャン屋、あっせん業者一、廃業二でした。

お茶屋希望の業者の目論見としては、客席に芸者を呼び酒食を提供しようというもので、今までの貸席の営業許可でそのまま続けられると多寡をくくっていました。

ところが、これが売春を前提とした偽装転業につながると考えた警察側は一枚上手ですべてお見通し、貸席は料理、飲食を行うことが出来ない、もし業者が飲食物を提供することを建前としているのなら「貸席」としてでなく「料理屋」の許可申請をとれ、今まで出来たのは黙認していたからだが、四月からは一切認めないという厳しい姿勢をとったのです。

これはどういう意味かと言うと、業者の頭にあったお茶屋は貸席と料理屋を兼ねたもの(全国では京都府だけが認めていた)ですが、これは、貸席では芸妓を呼んでもいいが、飲食してのドンチャン騒ぎはもっての外、貸席ではお茶でも飲みながら、芸妓の三味線、踊りでも鑑賞するか、商談にでも利用するしかない事になるのです。

又、二つ以上の風俗営業、もしくは、風俗営業と旅館、公衆浴場、芸妓置屋、雇仲居倶楽部、共同住宅との兼業、併置は認めないという方針も伝えました。警察は偽装転業を芽生えさせさせないという強い意志の元、決して抜け荷は許されないという考え抜かれた方針を提示したのです。

しかしながら、この二つ以上には芸妓置屋とお茶屋も兼業できなくなるので、一月に貸席業者十六軒が大津花街組合を結成したものの、この花街組合に所属の三十四人ネエさん専門の置屋を別に作らなくてはならなくないという問題も出ました。

さて、滋賀日日新聞は三月二日の社説で「白線への移行を防げ」の表題を掲げこの問題に触れています。

赤線は戦後、旧遊廓免許地で売春行為に罰則が伴わない区域、青線は赤線以外で街娼が跋扈する地域、それに対する「白線」はパイセンと呼び、この記事と同紙、二月十一日の記事を併せ読むと、*白線は売春防止法施行後の旧赤線を差すようです。

赤線は広辞苑に載りますものの、青線、白線は見出しがありません。赤線、青線はわりに知られた言葉ですが、白線も説明無しに新聞に書かれているのを考えると、当時は一般に使われていた様です。

*「警察の管理が及ぶ赤線でもなく、青線を含む居稼ぎ型の形態にすら属さず、街頭で客を引く或いは輪タクと行った仲介業者を介してドヤ(安宿)へ遊客し売笑を営む」、と『白線の女』中村三郎編 カストリ出版さんの説明にありますので上記白線の解釈を訂正させて頂きます。(2018年 5月24日)

社説では、一部の小料理屋などが必要以上に多数の仲居、女中のたぐいを抱え込み、中には遠隔地まで「玉を買いに」出かけているものもあるようで注意が必要、需要者側の男性の自覚と良識によって健康な社会を作らなければいけないと望んでいました。



by gionchoubu | 2017-01-20 13:40 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(2)

大津、柴屋町ぞめき 十三

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                      柴山町の売物件


昭和三十三年四月一日売春防止法完全施行直前において、滋賀県の旧遊廓、つまり赤線が、行政の指導の元、業者や従業婦がどんな状況にあったのかを、滋賀日日新聞は克明に追っていきます。

二月六日の紙面では、婦人相談所が一月中に赤線の全従業員戸別訪問したところによると、従業員は昨年末三百一人だったのが、一月末には二百五十人程度に減少、このうち帰郷希望者が百七十人と圧倒的に多く、ついで芸妓希望者が二十五人くらい、結婚するもの十五人ぐらい、その他女中、仲居希望十二、三人、成り行きまかせ、と答えたもの三十人ぐらいだと伝えてます。

県対策本部は、業者が提出した従業婦の転職希望を絡み合わせて実態をつかみ、今後の対策を練る模様。

県下の七つの赤線では、二月まで従業婦を全員解放、三月中に転業準備しようと、一月四日の県貸席連合会で申し合わせましたが、業者の中には三月中は営業しても罰せられないことを良い事に、店を閉めて裏口営業を三十一日まで続けるところも多いいだろうとの事でした。

二月九日には、「売春防止法でネコご難、ネコとりが横行、一匹百円で三味線の皮」にという文言が紙面を踊り、赤線の従業婦から芸妓に転業するなら当然三味線の需要が上がるという事で、一ちょうの三味線が二匹のネコの皮を使ことからネコ取りが横行、八日市市内のある町内では数十匹いネコが数日間に二匹になったとか、愛知郡のある町ではネコが殆ど居なくなったとか、毛は筆になり、肉が加工業や屋台にカシワとして流通するなど、売春防止法余波を伝えています。

二月十一日にも「帰郷組にも指導、県が売春問題で厚生部会」の見出しが載り、一月末に滋賀県の赤線従業婦は二百三十三人で、その内訳が大津、八十九人、草津、三十三人、水口、九人、近江八幡、三人、八日市、二十人、彦根五十四人、長浜二十五人とのことで、転職希望者の希望職種の詳細がのりました。

帰郷希望者百四十四人のうち、県内二十三人、帰郷が百四十四人とのことでした。当然滋賀県より他府県の赤線等で働いて帰郷するものもいるので、他府県との連絡を密にして、再びこの道に入らないように婦人相談所が職業斡旋等に努力するとの事でした。

三十年近く遡りますが、昭和五年六月調べの『公娼と私娼』によると、滋賀県の娼妓三百八十八人の内、滋賀県出身者は二十九人、僅か7%です。矢張り地元で娼妓になるのは可也の抵抗があり、この7%も士が県内でも地元から離れた所で働いていたと見てよいでしょう。

この年、滋賀県出身者の娼妓二百十五人のうち、大阪、京都で働いていたものが、百十七人と54%に達し、地元は避けたいが、余り離れるのも嫌だという娼妓の心理が浮き彫りになります。

因みに東京の娼妓総数二千二十六人の内、滋賀県出身者はわずか4人、東京の遊廓で滋賀県の女にあたる確率は0.2%という事になります。

さて、日日新聞に戻ると、二月十二日「県売春防止対策本部の方針きまる、旅館兼業など禁止、従業婦は引続き雇えぬ」が一面の最初の記事を大きく飾りました。その骨子は

1 売春の恐れのない業種への転業を指導する。
2 二つ以上の風俗営業を営んだり、または風俗営業と他の特定業種と兼業することは認めない。
3 お茶屋は料理店としか認めない
4 各業種への転業は関係法令基準に基いて許可する。
5 従業婦は引続き雇用はしていけない

との方針をきまりました。  詳細は次回に・・・





by gionchoubu | 2017-01-18 13:20 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 十二

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柴屋町女紅場“梅の屋”(大正の地図では梅の家)、その後、丸信になり、現在マンション。
隣がお食事処の大和屋さん。

それでは柴屋町の“英吉ねえさん”の回顧談の後編をお贈りします。

--------------------------------------------------------------------------------

昔の芸妓は芸も仕込みましたがお酒も鍛えたもんどす。“酒に負けては芸妓が勤まらん”いって、そうどすな、私なんか七つの時から一日一合か二号飲んで練習しました。

おかげで一升酒になったんどすが、金屋の庭は広かったので、飲みすぎたら朝早う起きて、タビはだしで庭を走ると気持がなおる。

そんなことでなんぼでも強うなってしもた。

大阪のある会社の方が、来やはると豆腐がすきで、坂本の三橋にモミジ見物は豆腐と酒だけ持って行ったことがおす。

昔のお酒は悪かったなァ。軍人さんに呼ばれて行くと白鶴がよく飲めた。この八十八の年になっても毎日一合か二合飲んどります。

酒を飲むとコタツもいらんし、気も晴れる。酒がないとさみしゅうて、ジッと引き込んでしまいますのや。

四、五年まで一升飲んでも平気で、八十年の間に酔いつぶれたことはおへなんだ。

私の芸のことをいうとおかしおすが、金屋は芸がやかましゅうてな、私の専門は三味線どす。

長唄、常磐津、清元もやり、少々の踊りもできたが、三味線がやっぱりええ。若いころ検番にお師匠がきやはりまっさかい何でもケイコせんなりません。

私の仕込んだ妓もぎょうさんいやはりましたが今出ている人はだれもいまへん。こんなこというの、なんどすが今の芸妓はなってないし、また気の毒どすな。

お客さんにどこへ連れて行ってもらうちゅうこともおへんし、芸妓を温泉へでも連れて行こうかという気のきいたお客もおへんやろ。

あのころはたいがい自前で奉公人の芸妓は少なかった。借金を負うた奉公人でも、よいダンナをひっつかまえるとじき自前になる。

芸の仕込みがきびしかったし十二くらいから仕込んだもんで、年寄った奉公人の妓はどこも置かなんだ。

そのころのお花が一本十四銭。それは私がでてやから明治二十五、六年ごろどす。一昼夜四十四本から四十六本で千本売る妓は、よう動く妓どした。

揚屋がなんでも花一本について二銭くらいの時代どす。それで芸妓の手取りが八割くらいで、残りを検番と置屋が取ったんどっしゃろ。お米が一カマス二斗五升が高うて二円五十銭くらいどした。

芸妓の世帯持ちは気が陰気になっていかんいわれて、私はお針も習わなんだので、今の年で難儀しています。

三十一で世帯をもったんやが割木がなんぼや初めて知りました。のんびりとしとりましたんや。“芸妓は金のこと考えんでもええ”いうて教えられましたんや。

借金があるほどかいしょもんといわれました。お客に“なんぼなんぼ借金があるのどす”というと、だまって払ってくれやはりました。

千円のお金を持てば小金持ちやと評判になったくらいで、お金をためた妓もいやはりましたが、たいがい旦那に家の一つくらいもろうたらええ方で、芸はできてもお金はないというのが普通どしたやろ。

柴屋町の芸妓は半センコで、九つくらいから十二くらいまでで一本になったが旦那をとらせたのは、まァ十五どすな。

芸妓の一番油の乗りきるのは二十一、二から二十五、六、おそくて七まで。“顔がよいと芸がにぶる”とはよういうたもんで、顔がようていばった妓には芸で恥をかかしたもんどす。

芸妓の世界は意地悪いもんどすえ。

それで年上の芸あるものは大事にしてもらうた。年増芸妓の苦労は舞妓をオンバ(お客に世話すること)することで、よいお客だとオンバもよい。本人の舞妓はいやがるが、物を買ってやってエサでつる。

相方が“ねえさんにやってくれ”ということで、年増芸妓にもうるおうてくるのどす。

ようなびく妓もあったがいやがっていうこときかんのもいた。芸一本の芸妓だとなんといっても客をとらんのや。

大阪では一ぺんに客を三人とるようでないと一人前でないというてはるが、大津ではそれほどキツイこともいわなんだ。

一現はしなんだが、知った人がよい客をつれてくると、どの妓をひっかれようかと十人くらい芸妓をみせて相方をつけるのどす。

芸妓の軟派は客をとるが、硬派はとらん、頼み頼んで、くどき落すのどすが、よい客やとおしいというのが郭商売の苦労どころどす。

マクラ金は花代十四銀のころ、よい芸妓で二十円、悪い妓は三円から五円、飛び切って五十円、そんな妓もいた。

そんなことでよい客だと二、三年続かすのどすが、マクラ金は一割が置屋へお礼して、そのあとは腕次第どした。

お客にお金で無心をいわんで、着物を買うてもらう妓があるが、これが賢いのどすえ。

着物ならお茶屋への礼はいらんし、自分が自前になった時に楽になるという考えの妓もおりました。

柴屋町の昔の舞妓の水揚げは安おした。五百円くらいどしたやろ。

今は大阪あたりでは五十万円、百万円の声もききますが、私らの古いもんの考えではお客の筋が問題で、なんぼお金を積んでも、よいかげんな客にはきかんのがあたりまえ。

舞妓というても旦那をつけるのは嫁入りさすようなもんどすさかいなァ。

まァ、これは昔の芸やお茶屋の裏話どすが、やっぱり芸妓の本職は芸どす。今の柴屋町では芸を見分ける人もおへんやろ。

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戦前の話しとして、と断りを入れますが、娼妓は客をとるが、芸妓はとらない、というのは一種のファンタジーで、松川二郎の『全国花街めぐり』でも、芸妓の枕金を特別祝儀という表現で全国の花街の芸妓に対する特別祝儀を載せています。

同書の京都の項の総記で、女郎屋に縛られる“居稼ぎ”の娼妓は別として、京、大阪などの「芸妓・娼妓両本位」の遊郭で、所謂比較的自由な“送りこみ”制度のもと芸妓をしていた大阪の娼妓が

「芸妓さんほど着物にお金が出なくて、収入は変りませんもの。それに芸妓だって娼妓だって、することは結局同じことなんですもの。」

ただし、娼妓は取るお客を選べず、芸妓の客は基本、ある程度以上のステータスがあり、芸妓側の自由意志の部分も有った・・・という違いがあるでしょうが・・・

この新聞記事の存在を文庫で教えてくれた『艶本紀行 東海道五十三次』の林美一さんによると、柴屋町の老名妓英吉さんは、この思い出話が新聞に載った十日後八十八で亡くなられたそうです。

今一度、最初に戻ります。

「私は京都の生れで、六つでここへ子供に来たんのんですさかい柴屋町で八十二、三年生きていることになりますやろ。

耳が遠くなって、目もうすうなり、もうあきまへん。

知ったお方はみな死んでしまはって、独り残されました。」



by gionchoubu | 2017-01-16 14:28 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(2)

大津、柴屋町ぞめき 十一


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小島屋→(料理旅館)大津会館→ビジネスホテル大津会館→現在は営業しておりません。



昭和三十三年二月十六日と十七日の滋賀日日新聞のシリーズ『消えゆく赤線地帯』の七、八に載った「県庁芸妓、おせん “玉のコシ”はなかった」は明治、大正、昭和の八十年に渡って、柴屋町の“英吉ねえさん”として芸妓生活をここで送った、当時八十八歳の若山タミさんの四方山話がとても味わい深いので二回に渡って紹介させて頂きます。

------------------------------------------------------------------------------

私は京都の生れで、六つでここへ子供に来たんのんですさかい柴屋町で八十二、三年生きていることになりますやろ。

耳が遠くなって、目もうすうなり、もうあきまへん。

知ったお方はみな死んでしまはって、独り残されました。

柴屋町もすっかり変ってしもうた。昔の面影がなくなったは惜しいこっちゃ。

上柴は女ばかりで、物いうのに男気がなかったのでこんなことになったんや。

昔は車ひきが“ここが大津の柴屋町どす”といわはったくらい盛んやった。小島屋はんの先代(谷口弁二郎氏)でも生きてはったら、こんなことにならしませんでしたやろ。

私は六つからケイコして十八の年に金屋からツマをとった(芸妓になる)が、はじめて出たのは十四ぐらいどした。

私はブッチョウヅラやから“あの人芸妓にでやはるのか、こわい人やなァ”といわれました。

やめたのは六十四、五だったかいな。“もっと出とい”といわはるがイナカでは年よりの芸妓買わはらしまへん。

しかしなじみはよいもので七十くらいまで私のようなおばあさんを呼んでくれはりました。

そうどすな、昔の柴屋町は上(柴屋)も下(柴屋)も一緒どしたが、ぎょうさん娼妓ができたので上と下に別れたもんどす。

角に門がありましてな。ちょうど島原の角屋の出口の柳のような大きい柳があったことをおぼえていますが、いつのまにか門も柳もないようになりました。

そのころお茶屋では金屋、橘屋、今のうどん屋はんの五、六軒が富永屋のあとで、小稲半兵衛が心中しはったとこや。

半兵衛は呉服屋の手代やといわれてますが、本当は富永屋のオトコシどした。

三階で死にはったが、その部屋へ物をとりに行くと白ヘビがでるいうて、やかましいことどした。小稲はオヤマどす。

小島屋は今の大津会館のとこでちっちゃい茶屋でした。

金屋が一番大きうて、おじいさんが遊芸がすきで、今の丸信さんのとこに梅の屋という女紅場がおした。

金勝、金茂?、金たね、品良というよい舞妓がいやはって、仲居のひいきどした。

そのころ、金屋のおじいさんが、舞妓を十人そろえて出さはりましたし、柴屋町では若手芸妓が九十七人いやはりました。

金繁のおやまさんは不細工やったが、しっかりした人で度胸があるえらいもんどした。

その金繁はんに吉勇というよい芸妓がいやはったし、小島屋のおせんさんもよい芸妓で、ええ客ばっかりひかはった。

四ノ宮の郭にもよい妓がいましたなァ。県庁ができて、柴屋町に移ってきやはりましたが、あのころは大したもんどした。

大津によい芸妓がいるというので、よい客が多かった。

江頭の井狩さん、八幡の西川さん、彦根の前川さん、みんな今の人のお父さんどすが、よう遊ばはりました。

下郷さんがきやはったらお殿様のように金ぶちまでかざったりしました。

県庁の人もよう遊ばはりました。知事さんの川島さん(純幹)のころも遊ばはったが、中井さんの遊び方はちょっとちがう。

陸軍の九連隊でも偉い人がいやはった。内藤連隊長のころや。大きい宴会で、みんな若い芸妓にお酒を飲してよろこんでいやはったがみんなヘベレケになったもんや。

そのころ長浜から船で夜の一時ころ浜大津の大湖社へ着かはったが、今のように芸妓が駅に迎えにゆくようなことはせず、お茶屋で待ったものどす。

小島屋のおせんさんは中井知事さんのヒイキで県庁の芸妓ちいうたぐらい。下郷さんの相手もこの妓でした。

しかし、大津では玉のコシに乗ったいう芸妓はいまへんな。

金繁の吉勇さんはとても賢い妓で、芸妓はだれでもお金にほれるもんやが、あの妓は芸だけで有名な、それはよい芸妓どした。

お客さんが吉勇はんを一ぺん見たら、必ずまた訪ね“吉勇をなんとかならんか”とだれでもがあたりをつけはるが、これにはみんなが困ったもんです。

紅葉館に踊りの名人の猿之助はんが来て、踊らはったら、その地方をしらん顔してやってのけたくらいの腕で、そんな芸妓はちょっとおへん。

それだけ芸一本で、ようできた妓でしたが、ダンナと一人の子供に死なれ、またよそに嫁入れして、ママ子で苦労してやはる。

オヤマは別ピンでないといかんが、芸妓は顔がようても芸ができて、かしこないとあかん。

とにかく昔の柴屋町は楽しおした。みんなよう飲んで、お客ものんびりしてよう遊ばはりましたからなァ。

でも今の柴屋町はもうつぶれてますさかいあきません。

・・・次回に続きます・・・






by gionchoubu | 2017-01-12 11:49 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(2)

大津、柴屋町ぞめき 十

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大津下柴屋芸妓、近江常内、梅之助

『全国遊廓案内』昭和五年刊、によると、上柴地(屋)遊廓も、下柴地(屋)遊廓も店は陰店を張っていて、娼妓は送り込み、廻しは関西式でとらず、遊興は時間又は仕切り花制、一泊は四、五円検討で、この料金に台の物(料理)は含まれていません。

この時期、一泊が京都府の橋本や宮津や龍宮で六、七円なので、滋賀県は柴屋町にかぎらず、彦根でも、八日市でも草津でも四、五円なので、他所に較べ、お値打ちと言えます。大阪の新町は一泊で十円はかかるので、滋賀の倍以上かかったことになります。

さらに、滋賀県は柴屋町以外も、『全国遊廓案内』に記述がある、彦根、八幡、八日市、草津の遊廓とも遊客が娼妓を写真でなく、直接女の顔を屋内で確認できる陰店式を採用していることから判断すると、県として、娼妓の人権を配慮した写真式への指導が緩かったか、もしくは、無かったような気がします。

『公娼と私娼』によれば、昭和四年時、上馬場に営業者11軒、下馬場に営業者82軒、娼妓数129人、公娼と私娼は内務省警保局で編まれたものなので、公には上馬場、下馬場を用いていました。ちなみに昭和四年刊『日本遊里史』は大津柴屋町としています。

昭和四年の『技芸倶楽部』に、下馬場町遊廓が大黒座で第二回温習会として、三月十八日から二十六日まで、「近江八景、大津絵踊」が催される予定である、という記事が載っています。下馬場は元々娼妓中心の遊廓でしたが、温習会を開くほど芸妓の質が上がっていた裏付けと考えて良いでしょう。

師匠は長唄が福富しづ、常磐津が大八木すが、舞踊が北川いし、鳴物が田中徳次郎、出し物は素囃子「舌出三番叟」舞「薮入娘」「桜狩」長唄「多摩川」舞「助六」「将門」「七福神」最後は「近江八景大津絵踊」との事でした。

昭和七年の『技芸倶楽部』に下柴の豆ちよ、豆一、金弥の三芸妓が京都放送局より、「大津絵」「近江小唄」「新大津節」を放送して、好評だったようです。
谷歌水氏作詞の「近江小唄」がこれです。

一、 春は坂本長等のさくら、花をたづねてどこへ行こ、唄の三井寺日暮れに答へりや、鐘に湖国の味を知る

二、 そゞろ歩きは京町通り、いつか中町濱通り、夕べ別れた紺屋ヶ関の、岸につないだ恋の船

三、 八景めぐろか島めぐろか、島は多景島竹生島、近江舞子の小松の濱には、船と別れておよぎたい。

四、 誰に逢ふとてかへりを急ぐ、心矢橋の船頭さん、磯のかもめに言づけしても、それは無駄だよ堅田より

五、 秋は石山月見にゆこか、膳所の城あと粟津原、昔なつかしい唐橋越えりゃ、仇な絃歌が耳につく

六、 冬の湖水はスキーの世界、想い出すさへ腕がなる、鳴るは汽笛か大津の駅は、山へ山への急テンポ

ほぼ同時期に出来た祗園小唄など、四季を小唄に織り込むと、芸妓が座敷で季節を問わず踊れるという大きな利点があります。




by gionchoubu | 2017-01-10 14:24 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 九

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                   柴屋町芸妓の大津絵踊  壽老人

先日、渡辺豪さんがカストリ出版で復刻させた、松川二郎著『歓楽郷めぐり』に大正時代の「大津の柴屋町」の項がありました。

松川によれば、大津は「活気に乏しい町ではあるが、それだけ何処か落ちついたところがあって、旅の歓楽を逐ふ旅客に取っては、どうしても逸することのできない土地の一つであった。歓楽境といふ文字は少し当ってないかも知れないけど、土地の遊びに飽きた京都や大阪の紳士達の遊びにゆく所」と筋金入りの遊び人としての思い入れを語ります。

そして松川はお気に入りの紅葉館に滞在中、大津絵を聞く為に上馬場から呼んだ芸妓の一人、Kとの淡い、少し距離をおいたお付き合いの話をします。柴屋町の花街の話はそぞろで、寧ろこのKとの想いでを振り返る為、柴屋町を選んだような気すらしてきます。

大津ならではの遊びに、汽船やモーターボートやスワンボートに芸妓を乗せ、琵琶湖上で遊ぶ「ボート芸者」の話もでて来ます。一流の芸妓は決してしない事、かならず掟として仲居も同行するなどについて、新旧交差する時代が生んだ遊びが紹介されます。

そして、大津の芸妓や仲居の紙入れの中には、笑絵とともに、かならず一、二枚大津絵がはいっており、げほう大黒が無病長寿、藤娘は良縁を得られると信じられていたそうです。

松川がKと出合った大正七〜九年頃、古老によれば、柴屋町一千年の歴史の中、近代の遊女きっての美人、大学という名の娼妓の話がS33しが日日新聞に載っていました。

当時、遊女の髪が島田、チョウチョと行った時、大学は女優まげの洋髪のインテリで、女学校卒業後大津のある新聞社に女事務員として勤めていたことも、当時の人の好奇心をそそりました。

事情あって君勝楼に三年、三千円の借金で娼妓になり、その人気は一月で千円稼いだ超のつく売れっ子で、君勝楼を太らせたといいます。一時間一円五十銭の時代です。

娼妓ながら県庁のお役人の上柴の席にも呼ばれ、芸者仲間より群を抜いてもてはやされ、大学を買うには、三日前から申し込みがいる程でした。

昭和三十三年、新聞に記事が出た時、四十年をすぎたにも拘らず、大津の古老の脳裏に面影をのこす大学・・・二十四で年期奉公を終えた大学の消息を知るものはおりませんでした。

松川二郎も愛した大津絵節を一部紹介

√げほう梯子ずり、雷太鼓で釣をする。お若衆は鷹をすえ、塗笠おやまは藤の花、座頭のふんどし犬くはえつけァ仰天(びっくり)し、杖をば振上げる、荒気の鬼も発気して、鐘撞木。瓢箪鯰でおさへませう。奴の行列、つり鐘弁慶、矢の根五郎。

おやま、とは関西で遊女の事です。

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                  柴屋町芸妓の大津絵踊 鬼念仏と弁慶


by gionchoubu | 2017-01-07 12:10 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(4)

大津、柴屋町ぞめき 八

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大正四年、中村紅雨著『大津名勝案内』に柴屋町遊廓の項があるので紹介します。

札の辻より五町なり。享禄年中(西暦1528年前後)佐々木氏の青地市右衛門戦功あり、大津近邑を領し、馬場を設け桜を裁へて騎射を為す、当時鍵屋又右衛門と云へるもの請うて此地に茶亭を設け遊女を置きて遊廓と為せり。

慶長以後徳川氏の許可を得て傾城町となし馬場町と名くと、又京極氏大津城主たりし時、轡屋の娘に長柄の朱傘を与へ茶立と称して八町本陣に宿泊せし大名に侍せしめたるにはじまり、元禄年間本曲輪(日本四曲輪の一、四曲輪とは吉原、新町、島原、柴屋)となるとの説あり。

今は上馬場下馬場の二町に分たる、近傍に大黒座あり、市内第一の劇場なり、大黒座前より東数町の間は商家日檐を列ね市内繁華の中心たり。

殊に菱屋町丸屋町の一六市は大津名物の一なり、菱屋町に寄席博秀館あり、階下は歓商場にて各種の物品を即売す、丸屋町には劇場朝日座あり、之と斜に相対して勧商場あり。大黒座より約一町、小川町に青龍寺あり。

この時代の遊廓の案内はどれも当たり障りのない内容で、こちらも柴屋町の由緒を述べただけで、どちらかというと、劇場、寄席の案内のようです。ちなみにグランドメゾン浜大津が大黒座跡です。

大正三年の地図をみると、今回画像に載せた豆信が料理店として下馬場廓の北東角に有り、その南、現在の薬局の所に下馬場の三業組合が載ります。上馬場の三業組合事務所は四ツ辻のすぐ南、東側にあり、大黒座は上馬場廓現在の商店街を東角の梅の家の東に書かれています。

大正十二年の『大阪を中心とせる近県電話帳』には

下馬場町  一、個人名
      九、蛭子屋
十六、島屋
     七一、ナベヤ
     七三、立花屋
     七十、近江咲
     八六 一二三屋    
     六四 下馬場町三業組合遊廓事務所
上馬場町  二、金繁
      三、小島屋
      十、大よし
十一、金繁
十五、金勝
二十、個人名
二三、大房
二九、富久
     三五、小島屋
     三六、中勢
     四一、大辰
     二三、下馬場町三業組合遊廓事務所
同じ貸座敷が複数載るのは、屋号と経営者宅が別々で、二箇所載せた可能性があります。



by gionchoubu | 2017-01-04 14:08 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)