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大津、柴屋町ぞめき 六

f0347663_11000950.jpg

一 髪形を奴子さき甲笄向かせすきわけの類一切不成事
一 差もの前後四本宛櫛甲笄急度差候事
一 履もの華美之拵一切致間舗事
一 暮限り門口より外へ一切出申間舗事
一 芸子 衣類 絽 羽二重 縮緬 総じて花美なる模様之類一切不用事
一 髪飾右同断 但し髪奴子に限り候事
   其外すきわけいろいろの結亂一切不相成事
一 差もの前二本櫛甲笄急度差候事 
   但後笄差事一切不成事
一 履ものぬり下駄之類一切不相成事
  右之條々堅相守可申候以上 

天保十三(1842)年寅五月 町役人

後年人が天保の改革という、日本全国に轟いた水野越前守忠邦の政策で、京の洛中、洛外の遊所は島原以外総て禁止、東京でも吉原と品川、新宿、小塚原、千住、板橋以外の二十余ヶ所が禁止、という厳しいもので、大津の柴屋町も、前述の日日新聞によると禁止の憂き目にあいました。

幸い、この緊急政策は長続きせず、暫時緩和され、なしくずしに明治時代に突入しました。

『大津市志』の「風俗志」によると、明治初年、馬場町で夷谷という茶屋を営んでいた杉本五兵衛という男が、経営が思わしくいかず、お抱え遊女に「首ふり」という芸をさせ、衆目に観覧させたところ、これに人気が出て儲けも出ました。

ところが、町内から、遊女にこんな事をさせるのはどんなものか、と抗議があり、結局、五平は京都の新京極に夷谷座という芝居小屋を建て、遊女に芝居をさせたのが初の女芝居になりました。

この「首ふり」がどんな芸なのかは分かりません。

明治五年十月五日、マリー・ルイーズ号事件が引き金となり、国は娼妓開放令を発しました。これは娼妓、芸者ともに、年期明け前の楼主に対する借金は総てゼロにして芸娼妓とも開放するという条項が中心となっていました。

馬場町でも日賀田平六が遊女を解放したので、明治五年十一月二十七日、滋賀県令、松田道之より褒賞を得ております。その文が、

「其方、儀従来揚屋渡世いたし抱女六人有候所、今般、娼芸妓解放可候旨被仰出候御趣意を厚く奉礼し、早速年期証文は勿論、当人所持之品々無落附与し、外衣類別段相添其親類のものへ引渡し候始末、格別行届候趣奇特之事に候、依て爲褒美金三百疋之候事」

参照:『大津市志』(明治四十四年刊)下巻、第十四章「風俗志」


by gionchoubu | 2016-12-30 11:02 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 五

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曽根崎新地のお初徳兵衛(曽根崎心中)、祗園のお染半九郎、(鳥辺山心中)、先斗町のお俊伝兵衛(近頃河原の達引)、高名な花街には心中物が付きまといます。

√小夜ふけて 八っか七っか明六っの 鐘が敵の半兵衛は・・・

柴屋町にも、長唄で唄いつがれた“小稲・半兵衛”の話が残ります。昔柴屋町の富永屋に小稲という美しいお抱え遊女がおり、阪本の呉服屋の手代、半兵衛と良い仲になりました。しかし小稲の元に通いこんだ半兵衛は郭通いで借金が重なり、にっちもさっちも行かなくなった二人は、次の世で添い遂げようと情死したのです。

富永屋は前回の地図にのっており、後に播光という貸席になり、さらに魚熊料理店となったと言います。二人が死を選んだ部屋は三階で、目の前に琵琶湖が広がり、裏にも長等山が見渡せた絶好の部屋でした。

さて、天保の改革前の遊所を相撲番付に見立てた『諸国遊所競』の上位を見ると、

東の大関 京  島原
  関脇 大阪 島の内
  小結 京  祗園新地
  前頭 越後 新潟
     伊勢 古市
     下関 稲荷町
     江戸 深川新地
     堺  乳守
     羽州 酒田今町

西の大関 大阪 新町
  関脇 京  祇園町
  小結 江戸 深川仲町
  前頭 大坂 北之新地
     大坂 堀江
     宮島 大坂町
     江戸 四谷新宿
     京  宮川町
     大津 柴屋町

江戸の吉原は行司格として順列にはのらず、島原を最高位として、柴屋町もかなりの上位に食い込んでいるのが分かります。

ちなみにこの表のあたりの文化、天保時代の柴屋町の揚屋と茶屋の協定値段を統一した定書がだされており、これに依ると「傾城揚代金二朱ずつ、局女郎銭四百六十文」となっています。


by gionchoubu | 2016-12-28 15:55 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 四

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昭和三十三年の二月十日より、十七回に渡って、滋賀の日日新聞が「消えゆく赤線地帯」(以後S33滋賀日日新聞と表記)という特集記事を連載しました。

この連載が終了したすぐ後、四月一日は売防法が完全施行されたのです。

その第一回で、柴屋町の起源は天慶九年(946年、平将門が乱を起した頃)で、婦留屋という美しい遊女がいた、としております。(柴屋町遊郭由緒の覚=小島屋蔵)

この遊女は、醍醐天皇第四皇子の蝉丸が都を追われ、逢坂山の辺に流された時、蝉丸に従って来た官女であり、天慶九年九月に皇子が死んだのち遊女になったもの、と三井の鎮守逆髪の宮関の兵侍書物にあると伝わっているとし、さらに、柴屋町を郭といったのは、この天慶時代よりずっと以前とのこととしています。

蝉丸は百人一首 “これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関 ” であまりにも有名。

そして柴屋町の郭が天慶以前にできたものなら、柴屋町は日本最古の郭の一つ(ひょっとすると、日本最古の郭)と言ってよいはずです。

さらに、記事には「郭の揚屋、置屋で正月にひのきのコマ札に“笑門”と墨書してかかげられたのは、島原、古市、柴屋町の三遊郭だけだったといわれる。この“笑門”札は郭の氏神の神主が年が押しせまると、氏子の郭のため直々に墨書きして配ったもの、大津では長等神社の神主が授けられたものと伝えられる。」

この笑門は私が、この十年間各地で追い続けているもので、いずれこのブログにも書いてみます。上の画像は祗園の笑門です。

永禄元(1558)年、茶亭の主人たちが大津奉行佐々木氏の家臣日向守から郭御免のお墨付をもらい、郭のしるしに四方(上下馬場町入口と横道の入り口)に冠木門を建てた事も記事で知りました。

尚、その門は、当時の業者名と共に「明治四年未正月改正、柴屋町全図」として『大津市志』(明治四十四年刊)下巻、第十四章「風俗志」で確認することができます。

図には、今津屋嘉兵衛、俵屋佐七持、今津屋権兵衛持、富永屋米二郎持、舟屋忠兵衛持、阪本屋喜兵衛、俵屋伊右衛門持、橘屋大吉持、橘屋伊助、金屋まつ、富永屋米次郎持、俵屋伊衛門、魚屋平六、魚屋平六持、橘屋大吉持、鍵屋いく、富永屋米二郎持、大黒屋たけ、金屋、半右衛門持、今津屋権兵衛、富永屋米次持、井筒屋泰蔵、魚屋籐八、橘屋大吉持、金屋平右衛門、鳥屋まち持

の名が書かれています。


by gionchoubu | 2016-12-26 12:01 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 三

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                     四ッ辻の立派な鍾馗さん

『近江輿地志略』(『新大津市史』収録)は、柴屋町の由来について、

「抑此町を柴屋町といふ事、古来の称にあらず。本名は馬場所といふ。或云ふ、柴屋町とは古薪を売る者多く此地に住す故に名付くと。或云ふ、さにあらで。彼遊女三味線を弾き酒を勤むる間戯言し、笑を作って遊客を悦ばしむるをさして焼くといひ燃するいふ。夫薪柴は焼き燃やすの謂也と。或は云う、恋慕の心をたきつくる意也と、」

こういった、情緒が感じられる説を見ると、自ずと、柴屋町がただの遊女町でなく、品格をもって受け入れられていた事が分かります。さらに本来の馬場町の起源を、

「享禄の頃、佐々木京極家の侍に青地市右衛門といふ者あり。軍術に妙あり。毎度の戦功比類なし。大津の近郷を拝領して今の柴屋町の地に馬場を設け、桜を植えを支へて己が騎射の楽み所となる。」

「然して後、鍵屋又右衛門といふ百姓、此地に於いて竊(ひそか)に遊女をおき、花の頃は来客を受けて必遊宴す。後には又右衛門、市右衛門へ願を遂げ、軒を並べて繁昌す。」

「然して後、慶長年中あらたに訴訟をとげ、台命を蒙(こうむ)りて傾城町とす。上下二町あり。毎年十二月二十日大帳開とて町中の揚屋、くつわや寄合いて事を談ずとなむ。」

「或云ふ、馬場町といふは京極高次の馬場ありし地にして、鍵屋又右衛門と云ふ者乞ひ請けて傾城廓となしたりといへり」

林美一『艶本紀行 東海道五十三次』によれば、西国の大小名が参勤交代の途次本陣に泊まると、酒席の相手に柴屋町の遊女たちが招かれ、長柄の傘をさし、道中をして本陣に乗り込んだとされます。

柴屋町の客はこのような参勤交代の大小名の侍たちが最も多く、次いで大津が近江米の集散地で諸国の蔵屋敷があったために、毎年九月から翌年二月まで、取り扱い役人や仲仕、蔵米の払い下げを許された大津の商人たちなどが、振舞と称して羽織姿のまま柴屋町へ繰り込み遊んだといいます。

『日本永代蔵』貞享五(1688)で井原西鶴は

「この所は北国の舟着、ことさら東海道の繁盛、馬次、かへ駕籠、車を轟かし、人足の働き、蛇の鮨、鬼の角細工、何をしたとて売れまじき事あらず。
近年、問屋町、長者のごとく屋造り、むかしにかはり、二階に撥音やさしく、柴屋町より白女(遊女)よび寄せ、客の遊興、昼夜の限りもなく、天秤の響きわたり、金銀も在る所には瓦石のごとし。」

これらの記述は、柴屋町遊郭が日本四大遊廓の一つとして、充分過ぎる程の歴史と資質を持っていたことを如実に物語っています。



by gionchoubu | 2016-12-23 10:52 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

大津、柴屋町ぞめき 二

この記事はブログのファンのみ閲覧できます

by gionchoubu | 2016-12-20 12:43 | 亡くなった滋賀の遊郭

大津、柴屋町ぞめき 一

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  東海道名所図会の柴屋町

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名所図会はこの場所(四ッ辻)を描いたものと確信しています。

京都の島原、江戸の吉原、大阪の新町を称して日本三大遊廓といいます。これが四大遊廓となると、上記の三箇所に、長崎の丸山、伊勢の古市、もしくは大津の馬場町のどれかを付け加えました。

馬場町の遊里は延宝六(1678)年、藤本箕山が『色道大鏡』の中で「日本遊廓惣目」として挙げた全国二十五か所の有名遊里の一つとして記述がありますので、紹介させて頂きます。

近江国大津遊郭 馬場町

「大津の遊郭は、世に柴屋町といひはし侍れど、馬場町なり。

柴屋町といへるは、遊郭の外下の一町をいふ。柴屋町は、むかし比良・小松わたりの柴を船につみて、爰(ここ)につけてうりたる所なれば、かくいへるなるへし。

抑々(そもそも)江州大津は、帝城を去ること三里、その昔天地帝此所に宮づくりし給ひて、大津宮と申奉りき。

台嶺巍々(たいれいぎぎ)とそびへ、前には湖水洋々たり。所謂大津八町は、都より吾妻におもむく、最初の旅館にして、人馬道路につどひ、往還こゝにしげし。

あやしの出女までも一ふり見えて、恋のしるへなきにしもあらず。」

「大津の傾城、郭中の外へ出ず。天職二十六匁、小天神二十一匁、圍職十六匁、青豆十匁、半夜八匁也。昼隔子(こうし)なし。昼かしなし。夜見世あり。

夜隔子(よごうし)、酉下刻暫時也。夜隔子過て、目利所望の客あれば、其家の内に燈を立、傾城を出す。挙屋の数合十軒、客入に腰物預る。郭の入口四方にこれあり。客の出入昼夜くるしからず。

当郭の傾城、先年は八町の旅館までも出しぬれば、旅人一宿の便ちかく、且洛人おもひよりて、かよう輩も郭中の挙屋をさしをき、八町にのみ宿しければ、其賑ふ事かぎりなし。

されども、いつぞの比よりかは御制禁にて、傾城郭外へ出ず、所に住馴し傾城長も家をさり身を退きなどしてさびわたりたる体。むかしの五分の一もあらず。

凡大津傾城は、物ごとおほやうにて、伏見よりは少まさりたるやうにありつれとも、今かくをとろへたれば、いづれをいづれとわかちがたし。

臥見(ふしみ)は京にちかけれど、其かはりに所の遊客にさせる勇士なし。

大津は京の客たよりに成がたけれど、他の客に折々勇士たえず、傾城も人の口に出る者、二人三人宛ありき。然れども、頃年は他の客も心はたらかず、よき傾城もなく成ゆけば、所の風俗とてしるすべき品もあらず。筆の行衛もさだめがたし。」



by gionchoubu | 2016-12-17 11:50 | 亡くなった滋賀の遊郭 | Comments(0)

島原 輪違屋

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ほんとうの島原の太夫の素晴らしさを知って頂きたく、まいまい京都のコースの一つとして、以下のプランが実現しました。

高額の設定(実は大変なお値打ち)で催行に不安があったのですが、即日定員のお申し込みが有りました。

私の意見としてですが、出来れば今後も続けたいと思っております。


*******************************************************************************************


1月29日(日)11:30〜14:30

【輪違屋】粋を極めた芸妓の最高位・太夫さんとお座敷遊び
〜幕末の空間が残る格式高き島原唯一のお茶屋、十代目当主がご案内〜

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京都で唯一、幕府より公認を受けた
格式高き花街・島原。
そのなかで今も営業を続け、日本でただ一軒
太夫を抱えるお茶屋が、輪違屋です。

襖に道中傘を貼りこんだ「傘の間」や
本物の紅葉が塗り込まれた「紅葉の間」、
近藤勇の屏風など、新選組や志士たちも遊んだ
幕末の空間で、太夫さんとお座敷遊び。

島原の太夫は、知識、品格、遊芸と
すべてにおいて極上、大名や公家たちの
お相手を務めた芸妓の最高位。

可愛らしい禿を引き連れ練り歩く
「太夫道中」や顔見せの儀式「かしの式」、
お点前、舞・胡弓などの技芸。
京料理やお酒を味わいながら、
粋と艶を極めた
絢爛な饗宴を堪能しましょう。

固く閉ざされた「一見さんお断り」の世界へ。
花街を知り尽くした十代目当主の
レクチャー付きなので、
初めての方や女性の方もご安心を。


※飲酒を伴うため、ご参加は
20歳以上の方に限らせていただきます。

開催日時
2017年1月29日(日)11:30〜14:30頃
※開始10分前にはご集合下さい。
集合場所
JR「丹波口」改札口前
※手旗を持ったスタッフがお待ちしております。
参加費用
28,000円 (保険料含む) ※料理、お酒付き
※当日集合時にお支払いください。お釣りのないようお願いします。
定員
20名(先着順・要予約)
※催行人数10名に満たない場合、開催日の7日前までにツアー中止をお願いすることがございます。
参加予約
ページ下【参加予約はコチラから】ボタンをクリック
または、まいまい京都事務局までお電話ください。
電話:075-462-2312
(受付時間10:00〜18:00 ※水・日・祝は定休日)

  • 開催3日前以降のキャンセルは、キャンセル料をいただきます。
    ⇒キャンセル料について詳しくはこちら
  • 定員で締め切りますので、お早めにご予約ください。
  • 予約申込後のキャンセルは、この日の為に準備を重ねてきたガイド・事務局ともに、とても悲しい思いをいたします。キャンセルのないようお願いいたします。
  • 歩きやすい服装と靴でお越しください。
  • 雨天決行です。警報や注意報が発令されるなど荒天時は中止します。中止の場合は、開始時間の2時間前までに連絡いたします。



コースルート

【距離:約0.5km】JR「丹波口」 → 1.島原西門跡 → 2.島原住吉神社 → 3.歌舞練場跡 → 4.輪違屋(お座敷遊び) → (解散)

ガイドさん

高橋 利樹 さん

輪違屋十代目当主。幼き頃より太夫や芸妓とともに暮らし、三味線や鼓の音を子守唄代わりに育つ。太夫や芸妓に芸事を教えるため、自らも芸に精通する。著書に『京の花街 「輪違屋」物語』。
⇒京の花街「輪違屋」物語(Amazon)

担当コース:準備中

担当コースを全てみる


如月太夫 さん

輪違屋に所属する太夫。太夫の名前は『源氏物語』の帖や人名から付けることが通例となっている。

担当コース:準備中

担当コースを全てみる


正脇 良平 さん

祇園の旅館「ギオン福住」支配人。祇園甲部、祇園東、宮川町の芸舞妓の手配、また自らお座敷の司会進行を手がけ、花街文化に親しんできた。全国200箇所以上の花街・花街跡を訪問。現在は専ら「祇園ねりもの」(もう一つの祇園祭として江戸時代中期より絶大な人気を博すも、昭和35年を最後に途絶えた芸妓による仮装行列) の復興を目指して活動中。
花街ぞめき(ブログ)

担当コース:

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満員御礼につき、予約受付は終了いたしました。
キャンセル待ち予約はコチラから。



by gionchoubu | 2016-12-04 12:27 | 島原遊郭 | Comments(2)

橋本遊廓ぞめき その八

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                 橋本程貸座敷と駅の距離が近い遊廓は無いと思います。

昭和三十年十二月二日、橋本遊廓の貸席、初菊の花子という接客婦が、自室で死亡、医師は衰弱死の診断を下しました。花子は同年一月二十日、ブローカーの紹介で前借一万円で初菊に雇われ、十一月二十八日廃業届けを出した後すぐ死亡したことになります。

死亡した時は、衰弱しているにも楼主から客を取ることを強要され、充分な食事を与えられず酷使され、医者にも診せられず、楼主からスリッパで殴られ、暴行されるのを近所の人が仲裁に入り止められた事もありました。

この事件が新聞に報道されたのがきっかけとなり、府婦人相談所の相談件数が増加の一途を辿ったといいます。

以上は錦織剛男著『遊女と街娼』に載る、売防法完全施行の少し前の橋本遊廓の話です。

もう一つ、昭和62年5月号の雑誌太陽で、作家の村松友視さんが『幻の橋本遊廓を行く 蘆刈夢幻』で、橋本の旧貸座敷で旅館業を営む女将からお話を伺っています。

「京阪が開通しましたんが明治三十九年やったかと思いますが、それから大阪のお客さんがおいでんなって。それまでは、ま、土着の人たちだけがお客さんやったんですわ、芸者もいましたしね。当時、大阪あたりでは写真で女の人を選んだそうですが、ここでは“照らし”ゆうて実物を見て相談できる。それでよう流行りまして、一時は八十何軒ありましたんです。もう川の流れみたいに男の人の流れができまして、私ら娘の自分は夕方になったら門へ出んような状態でした・・・」

大阪から京阪沿線で訪れるには、途中、枚方駅下車(現枚方公園駅)の桜新地もありますが、橋本の娼妓数は昭和の初めに500人弱と枚方の百人にくらべ約五倍、桜新地が枚方の町の一部に対し、橋本は下車後、10秒で妓楼という環境が整っています。

大阪は松島も飛田も新町も基本写真で娼妓を選ぶのに対し、桜新地も橋本も陰店というシステムで、直接、顔をみて敵方を選べるのが評判だった事が分かります。写真で娼妓を選ぶのは人権を配慮しての国の基本方針とされていますが、遊廓を公許にしておいて、そんな所に配慮しても主客転倒では無いのでしょうか?

“照らし”は普通、居稼の字を充て、客が娼妓の住む遊女屋に赴くことで、もう一つが“送り込み”、文字道理、娼妓が客の待つ貸座敷に送り込まれる事をいいました。

さらに、当時の娼妓や接客婦の話しになり、

「やっぱり九州が多かったですな、女の人はねえ。北陸の人も見えましたけど、やっぱり九州の女の方が情熱的でよかったのかしら、天草とかの人が多かったですね。でまあ、いまは旅館をやっているんですが、だいぶん有名なとこやったんで、やめて三十年にもなるのにね、男の人がひとりで入っておいでやすと、小指だしてねえ・・・・」

こういった男は、遊び人なのか、ちょっとお抜けになっておられるのか、何にも無い橋本で、ずいぶん淋しい一夜を過ごされた事でしょう。


by gionchoubu | 2016-12-01 12:22 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)