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清水新地(阿古屋茶屋)

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『京都遊廓由緒』によると清水二、三、四丁目の茶屋街に、寛文十年(1670)西町奉行雨宮対馬守正種は茶屋一軒につき茶立女一人以上置いてはいかぬ、と命じました。これは普通に考えて、茶屋を女一人で切り盛りするのは無理なので、あまり遊女渡世を派手にやるなよ、と釘を刺した訳です。

第一茶屋が正業ならば、茶立女の人数を規制する意味が無いわけで、規制するという事は、茶立女が客を引き込むのを、お上はお目こぼしをしている構図が見えます。

同書では、元禄四年(1691)清水二、三、四丁目に遊女厳禁の達しがだされています。ところが平凡社『京都市の地名』による『元禄覚書』の記述を見ると「茶屋数百六軒清水」は当時の祗園七十一軒を上る勢いです。

この増殖に歯止めを掛けるためか、『元禄覚書』に「宝永四(1707)亥年十月十八日、不届有之、八軒減、除之」と注記があります。

少し時代を経た『京都御役所向大概覚書』の記述を見ると、正徳期にはさらに軒数が増え、清水二丁目29軒、清水三丁目39軒、清水四丁目43軒、茶屋は増えています。

『京都遊廓由緒』には、正徳三年(1713)類焼に依り困難を申立黙認を得た(清水三丁目で火事、類焼茶屋の二丁目での営業を許可)と有ります

『嬉遊笑覧』では正徳五年板の『艶道通鑑』はこの辺りの情景を「清水寺につゞきて北斗堂、霊山寺、法観寺云々、いつしか淫婦(あそびめ)・屠児(にうり)の栖居となり、掻立し法灯は夜店の行灯にかはり、焼しめし香烟は樺焼の匂ひに変ず。鼠鳴が簾をくゞりて、あみ笠の後甲を抓み、暖簾が風に動て家名ぞ人を招く云々」無味乾燥な清水遊所の記述ばかり見てきましたので、骨ばかりの記述に身がついた思いがします。

その後、『日本花街史』では『古久保家文書』を紐解き、寛保三年(1743)顕随という坊主が大津屋という三丁目の茶屋娘を殺害した事件を受け、茶屋に対する規制が強まったとされています。

さらに『京都遊廓由緒』では寛永三年(1750)、茶屋商売一旦差し止め、その後解除、寛政九年(1797)、四丁目が分裂して四丁目と五丁目になる、ともあります。

寛永三年(1750)公に許可され大に繁盛す。天保三年(1832)一旦禁止されましたが、安政四年(1857)清水五丁目の茶屋株を四丁目がひきうけます。そして明治六年廃止されました。

京都遊所競の序列では、最下等の遊所の一つでした。清水新地は別名阿古屋茶屋と呼ばれています。これは芝居の中で、清水新地に阿古屋という遊女が、重要な役割を持った為です。

京都市には本町などの例外はあるものの、〜丁目が非常に少ないのが特徴の一つだと思います。先斗町、七条新地、祗園、二条新地で一気に新地として新しい呼び名をもらった開発区域も、それぞれが固有の町名を頂き、新しい町作りに対する人ゞの意気込みが感ぜられるものです。

新地としての清水が2〜5丁目なのは(1丁目は清水寺自身)何かこう、思い入れの無さみたいな、気合のなさのような物を感じるのは、多分私だけの事でしょう。


by gionchoubu | 2016-08-31 12:42 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

阿古屋新地と辰巳新地

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京都市に存在した数ある遊所の中で一番混沌を究めているのが清水寺の麓にあった遊所で、『京都府下遊廓由緒』では清水(阿古屋新地)と辰巳新地の二箇所としての記述を見ることができるものの、情報は究めて少ないようです。

ここでは、別の資料も鑑みつつ、私の力では不完全は物しか出来ないのは百も承知の上でその歴史を追って見ようと思います。

京都の遊所は八坂神社の門前である祗園、北野天満宮の門前である上七軒が今も花街として栄えておりますが、お寺の門前でも壬生寺門前の遊廓そして清水寺の門前に栄えた遊所がありました。

寺の遊廓が早々と姿を消し、神社の遊所が花街に昇華したのは、神社は一般的に遊女に寛容だという見方は出来ます。私は与しないものの、遊女の起源巫女説なるものも確かにあります。

祭りに遊女、芸妓が参加する事が多いいのが関係しているのか、仏教が遊女に不寛容なのか分かりませんけど、東京でも湯島天神、芝神明、浅草と神社に縁のある花街は多いいのは偶然とは思えません。

京の島原、江戸の吉原、大阪の新町の日本三大遊廓に、非官許ながら伊勢神宮の精進参りの遊廓として繁栄した伊勢古市は、非官許ながら先ほどの三箇所を加えて日本四大遊廓と言われることがあるぐらい多くの参詣客を飲み込みました。

さて、平安朝以来参詣者が多かった清水寺でしたが、応仁の乱以後清水寺の下一体は治安は悪化、盗賊が住み参詣者から強盗を働くといった具合になり、とうとう元和五年板倉所司代は補史を出して盗賊を召し取り、清水二、三、四丁目に茶屋を認めました。『京都遊廓由緒』によると其の後、茶屋女が紛らわしい商売したと書いています―はっきり言うと茶屋女が遊女化したということです

当局としては盗賊の巣になるぐらいなら、非合法の遊所の方がまし、といったところでしょうか、こういった様に強盗が出没する所が遊里化した所に、大阪の南坂町(道頓堀、今の相生橋を下がった場所で、通称髭剃)がありました。

髭剃の由来は、『日本遊里史』によると、無頼漢などが通行人をここに誘拐し金をだすか、出さねば髭をそろうか、と脅迫したことからこう呼ばれたとの事です。

いずれにせよ、強盗がでるからと、これを捕らえ、茶屋を発展させる事で治安を維持するというのが官の頭に描かれてあったのか、それとも時代の趨勢で自然と遊里化したのか解き明かしてくれる書物はありません。

もし、当局の方に、遊女をもって毒を制すという目論みがあったなら、遊里成立の特異な類型と見ていいかもしれません。


by gionchoubu | 2016-08-26 10:30 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

橋本遊郭ぞめき その六

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接客婦と服毒心中、橋本新地(八幡)で登楼の客

二十日午前七時半ごろ府下綴喜郡八幡町橋本新地仲之町八、貸席本H楼・・経営者T氏(三九)・・方で前夜から登楼中の大阪市旭区北清水町、M運送店方自動車運転手N・寛治さん(二十三)が接客業“明美”ことKさん(二十二)―熊本県珠広郡・・勝町生まれ・・と服毒心中しているので、橋本巡査部長派出所員が検視の結果、死後約三時間を経過、劇薬の粉剤をウイスキーと一緒に飲み干したものと見られ、府警鑑識課へ鑑定を依頼した。

同書によると、明美さんは昨年九月から同楼に住込み、あっさりした気のよい女だったが、さる二月郷里の熊本へ帰ると荷造りまでしたのち思い直しとどまっていたもので、そのころからNさんと親しくなり、考えることが多かったという。Nさんは九回ほど明美さんと遊び十八日夜も登楼、十九日夜九時半ごろカーキ色兵隊服、紺ジャンパー、紺ズボン、ゲタばき姿で再び訪れ、二十日午前四時すぎまで明美さんと話していたと同僚は語っており、

男は「明美も死にたいといったから」女は「山のフモトで親を訪ねて泣く小鳩の明美は独ぼっちでさびしい。ダレも救ってくれる人のない不幸な女だ。寛ちゃんのバカ」としたためてあることから、生き別れになって大阪にいるという親を探しあぐねる明美さんと添いとげられないのを悲観して心中を図ったのではないかと同署はみている。

こちらの記事は昭和三十年、四月二十日の京都新聞に記事に載っていたものです。

昭和五年ではありますが『公娼と私娼』によると、京都府の娼妓は熊本県が多かったことになります。又、同書によれば同年の京都府の娼妓4461人の内、20歳未満が11%、20〜25歳の62%、25〜30が24%、30〜35が3%、35才以上は0.3%僅か十二人でした。

ですから明美は熊本出身の二十二歳、ごくごく平均の橋本での接客婦という事になります。

新聞内で橋本新地と記され、橋本遊廓と称されていないのは以前書いたように、戦後は遊廓が制度上存在していないからです。ただし売春自体は違法でない為、旧遊廓地はこの様に〜新地などと呼ばれました(いわゆる赤線です)。明美が接客業となっているのも、公娼制度自体が廃止され、娼妓という称号も無くなっていたからです。

橋本は京阪沿線で大阪との境にあります。京都側には京阪沿線に巨大な七条新地があり、さらに沿線上に中書島もあります。京都の誘客はほぼこの二箇所に吸収され、わざわざ橋本まで足を伸ばす者は少なかったと思われます。

橋本は京阪沿線の大阪側から通っていたと誘客が多かったと想像され、Nもその一人だったのでしょう。

現在、遊廓や赤線の雰囲気とは小説やルポ形式や映画で感じ取るしかありません。

この新聞記事を読むと、遊廓や赤線で遊客が、苦界に身を沈めざるを得なかった女と恋愛感情を持つのは、さして珍しい事でも無かったようです。




by gionchoubu | 2016-08-23 12:12 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 現在の島原


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Hyggeさん、タイル造りは貸座敷独特でお茶屋では用いません。コーヒー、紅茶、スイーツ、そして時間が止まった様な空間も最高です。

現在の島原を歩いてみます。まず大門の前にさらば垣と防火の桶が再現されています。江戸の吉原は二十一回全焼しましたが、その内十三回が遊女の手によるものとされています。

それに引き換え島原は、天明の大火(1788)も免れ、安政の大火(1854)も被害はありませんでした。ところが同年、八月十五日の島原火元の火事で、廓内、角屋の建つ揚屋町と下之町の一部を残し焼けました。

島原に火事の少なかった理由の大きな理由の一つに、島原では遊女の廻しという、遊女が一晩に掛け持ちで客をとらされるという過酷な制度なかった事を挙げられると思います。

さて、大門を潜るとお茶屋鶴種が有るのは嬉しい限りです。映画「廓育ち」の冒頭シーンで非常に印象的に映し出されています。映画では玄関の乳白色の丸い電球に鶴種の文字がはっきりと確認できます。
              
中之町を北に上がれば輪違屋さんがありその北に輪違屋の駐車場があります。ここはもとは熊木というお茶屋さんでした。デイケアセンターはもと島原遊廓事務所と歌舞練場、道を挟んだ向かいは産婦人科でした。

道筋に戻ると、お茶屋松葉さんの建物を改造した“ギャラリーたんとん”があります。

中堂寺町に入ると西がすぐインテリア町家カフェのHyggeさんです。ここも、もと貸座敷でした。二階に小部屋があり、かつて夫々に電気メーターがついていたそうです。下宿として使われていた時代があったのでしょう。

その先、青木楼の南の筋から中堂寺を抜けた北にあり、今シェアハウスに生まれ変わろうとしているお宅も元貸座敷でした。下之町の料理屋、鳥清も以前は貸座敷、今はシェアハウスです。

お茶屋、松栄は旅館松栄から誠の湯を併設して今に至っています。松栄の敷地は旧松本楼、さらに松本楼の一部から島原トルコ温泉の場所は現在松栄の駐車場です。お茶屋本滝野は滝野旅館になり、現在は高校の寮となっています。

角屋、輪違家、きんせ以外、お茶屋の姿をある程度以上留めているのは、鶴種、芳春、松葉家、青木楼、山本楼、鶴雪、豊田屋、そして名前は分かりませんが貸座敷跡のHygge、シェアハウスの鳥清跡そして今シェアハウスに生まれ変わろうとしている中堂寺町の空き家だと思います。

以上はあくまで私の見立てですが、大方あっていると思います。


by gionchoubu | 2016-08-20 11:58 | 島原遊郭 | Comments(9)

島原遊郭ぞめき 島原太夫花の乱 

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吉野太夫花供養

1990(平成二)年は島原にとって色んな事件が起き続きました。まず老朽化が著しく、十数年から使われなくなった365坪余りの歌舞練場、但しこの土地建物は角屋の先代など三人の故人の名義で登録されており、修理しようにも、処分しようにも、法律上は、いったん三人の故人の相続人が財産を継承したあと処分を決めなければなりません。

しかし土地の評価額は二十数億、大変魅力のある土地であり、この年この土地に対すある問題が起きました。(興味のある方は『きょうとTOMORROW、1990、6,7月号、特集・島原太夫花の乱』京都市右京中央図書館に所蔵されています。)微妙な問題を含んでおりますのでここでは書きません。

こういう事情を見ていくと、私の、どうして島原花街の象徴として歌舞練場を残すことが出来なかったのか?という考えは一片の感傷に過ぎないと思えてきます。

もう一つは、当時京都の夜の観光の目玉として、京阪バスと京都市観光協会が主催していた定期観光バスの問題です。

観光バスの参加者は島原の角屋で、太夫による「太夫道中」「かしの式」「御点前」を披露していたのですが、会場の角屋が突然三月末でその使用を断り、歌舞練場も使えず、地元での開催が出来なくなったのです。

結局主催者は、島原から遠く離れた堀川今出川の西陣織会館に会場を移すことで凌ぎましたが、半年契約で、定期観光のコースとしての存続にも関わる大問題でした。

さらに、この定期バスの問題で、それまで島原お茶屋組合に京阪バスから年間二千万円払われていた礼金の内、ごく僅かしか太夫に渡っていないことが分かり、当然太夫側の怒りが爆発しました。

この問題は太夫側が組合と関係なく、直接バス会社と契約することになり、間に入った輪違屋のコストを引いた金額が太夫に入る事でなんとか収まりました。

この余波は、常照寺で例年行われる吉野太夫花供養にも及びました。例年通り太夫の出演を常照寺は島原のお茶屋に申し込んでいたものの、上記の事情で太夫側は反発、参加しない事を決めました。

驚いたのは事情を知らない常照寺、前売り券は完売、住職は輪違屋にかけつけ、差し当たり五十万円の礼金を置いて帰り、吉報を待ちました。花扇太夫は代理人の弁護士と、このお金の返却に訪れました。

結局、今回は太夫側が社会的な影響も鑑み、純粋に吉野太夫の墓参をするということで参加、ただし太夫側は礼金をいただかない、という形でなんとか実現したといいます。

参照:きょうとTOMORROW、1990、6,7月号、特集・島原太夫花の乱


by gionchoubu | 2016-08-14 11:50 | 島原遊郭 | Comments(6)

島原遊郭ぞめき 太夫道中5

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昭和二十四年の道中、簡略化されているのは松本楼が戦前に焼失しましたので、
松本楼が面していた太夫町を省いたのでしょう。

前回は、昭和二十四年の太夫道中の文化・文政時代までの女人の時代風俗をみてきました。今回はその続きで、

明治初期時代 新造 勝代、太夫 駒太郎、太夫 富貴
ここまでが島原芸妓による太夫の扮装で、以下が現役太夫による道中になります。

現代 九重太夫 禿、青木喜久子 同、高井昌子 引舟、千代

   玉袖太夫 禿、高田正美 同、松本善江 引舟、清子

   美吉野太夫 禿、青木功子、同、西本幸子 引舟、満子

   光扇太夫 禿、細村君子、同、若村和子

   尾上太夫 禿、中田薫、太田洋子、北村智栄子、筆蔵京子、小川ハル子、長谷川トシ子、北村ナガ子
 引舟 婦美子

昭和二十四年の『島原太夫道中しるべ』に「八字を踏む由来」(内八文字)が載っています。他の資料等であまりこの件に触れていないようなので抜粋しておきます。

太夫が道中に「八字」をふむ由来について種々言い伝えられているが、何分大きな頭飾りや、大きな着物、打掛を着ているので早く歩けない、当時は御所の人、寺院の僧侶などが正装をして「静かに練りあるく」場面が往々にしてあったので、この風習が島原にも取入られたものと思われる。

この後京都新聞を追いかけると、戦後二回目は昭和二十八年に行なわれています。この翌日の京都新聞を見ますと「後三時から花曇りの空のもと可愛い、子供の如く花車を先頭に行列は組合事務所を出発寛永、正保時代から年代順に文化、文政、明治、現代と移り玉袖、九重、美吉野、火扇、春日、君太夫と禿引きわたり古典艶麗な風俗絵巻をくり展げて同四時過ぎ道中を終った。昔にかえって無料公開というのが効いたのか数万の人が押しかけ道中開始二時間前に大門を閉じるという盛況であった。」

そして、私が調べた限り、島原の廓内で最後となった道中が昭和三十年のもので、矢張り翌日の京都新聞に「三本歯でシャナリ二年ぶりの島原太夫道中」が載ります。

このときも島原の芸妓が寛永〜明治間の太夫風俗に身をかため練り歩いた後、現役太夫である初音、小車、九重、美吉野、玉袖がきらめくカンザシ、素足に黒塗りの三本足の高ゲタ姿で練り歩きました。


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『島原研究』「昭和の島原、太夫道中のひととき」に載る島原太夫道中巡行図



by gionchoubu | 2016-08-11 11:08 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中4

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                  昭和に太夫、芸妓を輩出した青木楼

田中泰彦編『京都遊廓見聞録』に昭和二十二年、十月十七日の「太夫道中道しるべ」、が載ります。本来の太夫道中は例年四月二十一日、なぜ十月十七日なのか、翌日の京都新聞を調べたものの道中には触れていません。

しかも戦後僅か二年、まだどさくさにあったこの時期、絢爛、豪華な歴史絵巻を再開を望めるものか?遊廓に対し大変厳しい目を向けたGHQの監視の中、いわば遊女の行列などを催せる環境があったか甚だ疑問です。

実際戦後、初めて道中が行われたのは昭和二十四年四月二十一年で間違いないと思います。翌日の京都新聞に

「京洛春の行事の一つ、島原太夫の道中が二十一日午後三時同くるわ中ノ町の組合事務所を出発、きんらんどんすの帯しめて二貫目の髪かざりに目もさめるようなアデ姿、一貫目もある黒塗のゲタで八文字を踏みながら、うららかな春の陽の下をくるわ内約二時間にわたって練り歩き、いま売れッ子の太夫尾上がカサ止めを勤めた=写真はしゃなりと太夫道中」

の記事が載ります。さらにこの時出された『島原太夫道中しるべ』に昭和十二年以来、十二年目の太夫道中と書かれているので、戦後初の島原道中は昭和二十四年で断定できます。

2017月7月16日付記、昭和二十一年の九月二十日の新聞によると、前日の十九日、十年ぶりに島原太夫道中が催されましたので上記訂正させて頂きます。

また、昭和二十四年版「島原道中みちしるべ」に載る吉川観方談「時代考証について」は田中泰彦著『京都遊廓見聞録』の「時代考証について」とまったく同じ、なぜ『京都遊廓見聞録』が吉川観方の名を省いたのか不明です。ちなみに同書で、その後無記名で載る「島原太夫道中見物記(大正十四年)」も『技芸倶楽部』の抜粋でした。こちらの著者は(鹿)と文末にあるので、中神鹿城だと思います。

さて、昭和二十四年の道中の構成は

花くるま、十二年の芸妓と二人の後見芸妓

寛永・正保時代 禿 幸子、太夫 久長、太夫 登美若、太夫 三枝

万治・寛久(寛文の誤記)時代、太夫 ひろ子

貞享・元禄時代、太夫 登美丸、太夫 登美加

享保・元文時代、新造 千恵子、太夫 富鶴

安永・天明時代、新造 清子、太夫 久若

文化・文政時代、新造 喜久長、新造 梅千代、太夫 万子

戦後三回行われたと思われる太夫道中の特徴は、吉川観方の時代考証の元、前半に、江戸時代三百年間の女子の服装の移り変わりの順序を芸妓が太夫に扮装して、見せるもの、後半が、過去の道中と同じく現役太夫による太夫道中でした。

ちなみに上記の芸妓の内、ひろ子、登美丸、富鶴、登美若は、実際行われなかった昭和二十二年の「島原太夫道中しるべ」にも顔をだします。この道中しるべには、吉川観方を吉川籐方としており、混乱に輪をかけています。



by gionchoubu | 2016-08-07 11:03 | 島原遊郭 | Comments(0)

祇園ねりもの

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                 京・まつり展―祇園祭などの祭礼文化の魅力

最近の“祗園ねりもの”の話題三つ、

まずは、NHKワールドの世界発信で2016年5月5日に日本以外の150国以上でTV放送されたCore KyotoのWoodblock Prints: Beauty in the Hands of a Trinity of Artists( 京の木版画〜三位一体の美の伝承)30分番組の終盤の5分で私(番組ではRyohei Masawaki、正脇良平)の、ねりもの版画再生の取り組みが先日再放送されました。現在、といっても今から一週間ぐらいなら下記のオフィシャルサイトでインターネット放送されていますので、是非ご覧下さい。


http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/corekyoto/


次に、平成28年5月28日〜7月30日、京都市歴史史料館スポット展示で、

1、 祗園神輿洗ねりもの絵容 天保6年(1835)

2、八阪新地ねり物番附   明治10年(1877)

八坂神社神輿洗?物『園の栄』 昭和10年(1935)

が披露されました。3は、祗園甲部がねりものを催す予定でしたものの、直前の大雨で鴨川が氾濫した為実際は行われなかったと言う、いわく付の番付です。

この3点とも、古地図の収集と研究で知られる大塚隆氏より京都市歴史博物館に寄贈されたもので、大塚コレクションに加われました。

三つ目が、これは京都文化博物館・別館ホールで平成28年7月20日〜24日、「京・まつり展―祇園祭などの祭礼文化の魅力」で主宰、京のまつり研究会(代表 島田崇志氏)です。

こちらは、ねりもの図絵・写真として、

1、 ねりもの絵番付、天保10年、明治26年、昭和11年、29年、35年

2、 ねりもの行列風景の写真 昭和28~35年

パネルの説明は、パネルには記されておりませんでしたが、ねり物研究の第一人者『祗園祭・花街ねりものの歴史』の著者の一人、八反裕太郎先生です。

昭和二十九年のねりもの行列絵番附は、この年のねりものを実際行った祗園東お茶屋組合も所蔵していないもので、私も始めて拝見しました。

この時販売された「明治時代の図絵で楽しむ祗園祭」の8枚絵葉書セット(600円)の内一枚が明治26年の絵番附、「祇園祭ねりもの」4枚セット(300円)に昭和11年のねりもの行列絵番附、昭和11年行列の折の衣装姿、昭和35年のねりもの行列絵番附、昭和35年のねりもの行列(高尾太夫)そして祗園「ねりもの」の説明文に白黒で印刷された上記昭和29年のねりもの行列絵番附です。
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昭和二十九年のねりもの行列絵番附


by gionchoubu | 2016-08-03 15:46 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)