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五番町ぞめき 八

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                         愛染寺
    
私が下宿していたのは千中西に入った北側の愛染寺で玄関には今も当時も交番が有ります。風呂なし、トイレ・水道が共同で三人の大学生が寺の別棟に造られた三室に住んでいました。冬は炬燵のみの暖房で何とか寒さを凌げましたものの、夏は冷房も無く、しかも西日が照りつけ本当に暑かったものです。さらにこのお寺は日蓮で、高齢の庵主さんが早朝の本堂でお経を上げながら木魚を乱れ打ちをするので、必ず目が覚めます。さらにブロック塀を挟んではおりましたが、私の四畳半の二メートル先には墓石並ぶという状況で、一度心霊体験の様な恐い目にあいました。

千中の北西角がホシノレコード店で、こういった小さなレコード店は当時日本には幾らでも有ったものです。千本通りを北に上がり最初の筋を西にはいると、脂身の多いとんかつを出す料理店が有りよく通いました。さらに奥に進むと、当時はまだ有りませんが、昭和六十年頃、カレーのガラム・マッサーラがオープンしたので、カレー好きの私は卒業後も千中を訪ね、この名店によく通いました。まさに衝撃の味で、お母さんと、インドかどっかで修行して独自のカレーを習得した息子さん二人がいつも楽しく口喧嘩する中、スパ一シーながらまろやかな、カレーを堪能しました。後にお嫁さんも店に出ていました。そして後年このお店は白川通りの北の方に移転しました。

千中を北に上がると西側に今も昔もパチンコキングがあります。当時は今の四分の一ぐらいの規模でした。ここの交換用の景品が何故か石鹸で、終了でもすると、多量の石鹸を交換所に以って行かなければならず、重くて大変でした。他店は景品と言えば軽いメダルとかが多く、なぜキングが石鹸だったかは謎です。ちなみに一度この石鹸を風呂で使った事がありましたが、泡はでませんでした。

千中を南に下がると東側にパチンコ西陣センターとパチンコニュー京都があり、その間に喫茶ナポリがありました。さらに数軒下がる小さい旅館で丹後屋があり、その一階が喫茶店となっており、当時モーニングのサンドが安くておいしかった記憶が蘇ります。今は総てありません。

千中を東に行くと、当時一番通った王将が北側にあります。今も昔も王将の天津飯はうまだれですが、千中王将は甘めの甘酢で大好きでした。20年程前でしょうか、王将が王将ニュースというものを無料で店頭で配布しており、王将キャラクターなんかを募集したりしていました。そして王将ニュースには名物店長紹介というコーナーがあり、その第一回の名誉ある店長が、千中王将の田村善三店長だったので嬉しく思いました。

私が住んでいた頃、千本通りの商店街では、毎日「千本ラブの歌」というムード歌謡調の商店街のテーマソングが流れていました。最後が♪ラブ、ラブ、せんぼーん、ラブ♪、というもので、今でも耳につく、中々の名曲でした。

さらに昔の千中付近を田中泰彦著『京の町並み從小路鴨川西部編』で見ると、西陣京極の中の西陣キネマは西陣マキノキネマ、千中ミュージックは京山座、西陣大映は福野家がそれぞれ前身でした、さらに西陣東映もあったようです。その他、昔の雑誌でよく目にする長久座、千本座、寿座、三太郎席などの芝居小屋、寄席などが犇く一大遊興地だった事がわかります。


by gionchoubu | 2016-07-30 11:06 | 五番町 | Comments(0)

五番町ぞめき 七

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左(現イズミヤ)が喫茶マリアのあった場所

私が千中(せんなか)こと、千本中立売に住んでいたのは昭和50年からの4年間で、ここで大学生活を送りました。水上務の『五番町夕霧楼』は読んでいたので、ここが五番町の遊廓跡のすぐ傍と知っていましたが、別にそういった雰囲気は感じ取られず、ただ、やたら個人経営の飲み屋や喫茶店が多い町だと思ったぐらいです。

木村聡著『赤線跡を歩く、完結編』を開き、当時青山均さんが撮られた写真を見ると、大和楼や石梅楼といった貸座敷の建物を含め、まだまだ残っていたはずで、私も数え切れない程その前を通ったのですが、全く記憶にありません。今考えると写真の一枚でも撮っていたらと悔やまれるものの後の祭りです。

旧五番町遊廓内で覚えているのは、元五番町の検番跡に建てられていた成人映画専門の千本日活と、餃子と肉団子定食を良く食べた、カウンターだけの中華料理屋、ぎょうざ天国ぐらいです。スッポン料理の名店、大市は覚えていますが、遊廓の区域の先になります。

こちらも遊廓区域外となりますけれど、むしろ西陣京極がいい雰囲気をだしていました。筋を入るとすぐ左に食堂兼、喫茶店のマリアがあり、異常に朝早くから営業していました。朝六時には開いており、競馬新聞を読んでるおっちゃんがコーヒーを啜っていました。当時湯豆腐定食が天羅つきで350円でした。

筋をはさんだ向かいに太陽軒という小さい中華料理店もありました。当時、京都で冷麺が有名だったのは今出川の太陽軒です。ところが雑誌の取材の記者が、西陣京極の太陽軒に間違えて取材にこられ、たまたまそこに居合わせた私がその様子を見ていると、当然雑誌側にたいする店側の応対がちぐはぐなもので、私も、あの太陽軒はここではありませんよ、と言うのも憚れ、随分居心地悪かった記憶があります。この太陽軒の冷麺はその後ちゃんと、その雑誌に載っておりました。

さらに進むと突き当たりの手前右、照明なしの暗闇で一階はソファー、二階に桟敷のような、矢張りソファーの椅子が無い不思議な喫茶店があり、がんがんプログレッシブロックのレコードをかけていました。当時ロック側からジャズに接近した音楽をプログレッシブロックと呼んでおり、エマーソン、レイク&パーマーが大昇格、逆にジャズからロック側にアプローチしたものをクロスオーバーというジャンルで呼んでいました。ベイスギターのスタンリークラークが好きでした。それにしても今なら消防法で絶対通らない、ほぼ暗闇の喫茶店でした。

西陣京極には西陣キネマと西陣大映という成人映画館あり、西陣キネマは洋物専門でした。さらに千中ミュージックというストリップ劇場もあり、若手の登龍門の劇場と噂されていました。今考えると、一流の踊り子は決して出ない、という意味だと思います。

千中ミュージックのすぐ先に今も現役の京極湯があります。学生の噂では、ストリップの踊り子がその京極湯によく訪れるとの情報が飛び交っていました。ただ私を含め、誰も千中ミュージックに行ったという話しは聞いたことがありません。

私たちが行ったのは千本日活の方で、当時300円でした、先日前を通ると現在も500円で入れる様です、日活ロマンポルノ、東活、大蔵映画などが頭を過ぎります・・・続く



by gionchoubu | 2016-07-28 15:21 | 五番町 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中3


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左より引舟、太夫、傘持

昭和四年刊『全国花街めぐり』で松川二郎は名物「太夫道中」とした一文があります。

「花も漸やく盛りをすぎた四月二十一日に毎年行われる。此日は午前中に大門が閉るから、見物人は朝早くから弁当持参の一日がゝりで出かける。両側の家の階上階下は勿論、中央に太夫の通る道幅だけを明けて、路上に莚や茣蓙を敷いて座りこんでいるところは、まるで御大典拝観の騒ぎそっくりである。それで道中の始るのは欠伸も品切れになった午後の三時過ぎ、先づ八名の芸妓に依って曳かるゝ花車がやって来て、次で禿二人を露払として、太夫は右手に裾を持ち、左り手は斯う懐中に入れて、例の三枚歯黒塗の高下駄を素足に穿いて、カラン、コロン、外八文字を踏んでやってくる。髪は立兵庫もあり、横兵庫もあり、勝山もあり、いろいろである。“曳舟”と名づくる介添が付添ってゐて始終着付などを直してゐる。後ろからさし傘を持った男がつゞく。道中は二丁足らず、出場の大夫は年々の編成の都合にもよるが大抵十五、六名から十七、八名である。最後に善美を尽した真打の太夫が八人の禿を連れて、数万の瞳をながし目に、?々娜々として練ってゆく。これを“傘止”と云ひ、傘止めに出れば爾後間もなく、屹度落籍されるという伝説が、昔から此の里には信ぜられてゐる。」

実をいうと外八文字は花魁の足運び、太夫が歩むのは内八文字、曳船は本来引舟を充てるのですが、そんな事より、松川は実に見事に太夫道中を短い文で再現してくれています。

太夫道中に知識の乏しい現代人にも、その様子が手にとるように分かるのは、一つには松川が島原に精通している訳でもないので、我々に近い目線で、物珍しい行列を興味深く眺めたことが挙げられると思います。何度も太夫道中を見た人なら、返って書けない文章だと思います。当然希代のルポライターとしての観察力、文章力があって書けた名文だと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

島原太夫道中は午後三時過ぎに花車から始ります。島原廓の周囲は丸太で厳重に柵が巡らされ、さらに警備員、警官、憲兵、消防士が警戒、取締りを行うので、大門からの入場しか出来ません。

特別入門の許可があれば別ですが、一般の入場は基本十時には定員で締め切られ、島原内に入れません。仮に朝の七時に入場できたとすると、道中が始るまで八時間も待つことになります。

お茶屋の馴染みの紹介客なら、昼過ぎに許可の印を見せて入場できますが、一般客には大変な忍耐が必要とされ、それでも大変な人気でした。県外は勿論海外からの見物も沢山いました。

太夫道中までの時間、人々は、弁当、鮓、みかん、パンの行商から買い求めたり、郭内で販売された番付などを見ながらじっと待つことになります。

角屋の塀外に救護班と7、8人の看護婦が待機しており、太夫がよく道中に、その衣装と髪飾りの重さに耐え切れず卒倒するのに備えてのことでしたが、見物人の介護にもあたりました。

この太夫道中、実は昭和七年まで、一般観覧料は無料でした。この年初めて赤券五十銭、黄券一円を数日前から売り出し、丸物百貨店では商品の景品に供したといいます。この年有料化になりましたが、例年のように10時にはすべて売り切れました。

この年まで太夫道中は赤字続きで、運営費、設備費、警備、救護班、諸々は総て組合や貸座敷の持ち出しでした。

昭和七年の道中が始ったのは午後三時で、一番柝、二番柝、三番柝響くと、歌舞練場から花笠を冠った十数名の少女と派手な元禄模様の粧ひを凝らした若い芸者衆が花車を曳き、間も無く桔梗屋の羽衣太夫が現れると「羽衣さん好いで」の掛け声がかかり、続いて青木楼の菅太夫、同、尾上太夫、輪違屋の胡蝶太夫、菊春楼の雲井太夫、山中楼の大井太夫、菊春楼の高砂太夫、山中楼の小紫太夫、青木楼の君太夫、小島楼の光春太夫、傘止めは青木楼の浦島太夫で、総て終わったのは午後四時半でした。

参照:『技芸倶楽部』、大正十五年五月号と昭和七年の五月号





by gionchoubu | 2016-07-25 12:29 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中2

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    傘止の吉野太夫

昭和二年五月号の『技芸倶楽部』の「廓漫談」でちどり正が、三年前に江戸学研究の第一人者、当然吉原や岡場所にも大変造詣が深かった三田村鳶魚を太夫道中に案内した時の事が書かれています。

松本楼の二階から望遠鏡で古式豊かな行列を見物した後、松本楼の主人から当時の太夫道中の作法を教えてもらいました。

一、 作法は代々習慣的に伝わるだけで、なんら根拠がない。
二、 髷も何髷に結うといった決まりはなく、順次同じものにならぬ様にするぐらい。
三、 一度傘止め(殿の太夫)にでるともう二度と出ない。
四、 道中に出る太夫は、古い太夫とかお花が多い太夫でなく、屋方、本人、後援者の都合できまる。
五、 太夫の打ち掛けは新調する。
六、 道中に出ない太夫も、お客に花をつけてもらいお茶屋から見物する。

といった具合で、大正末には難しい仕来たりといった物は無かったようです。その後、君人太夫は三回傘止め太夫になったので、三も有名無実になりました。

大正十四年の太夫道中は、『京都遊廓見聞録』の「島原太夫道中見物記」に詳しいので、大正十五年の道中の様子を『技芸倶楽部』五月号から見てみます。

芸妓の花車は若千代、喜長の二人が後見、綱に手を添える芸妓は白衿の正装で、美代子、しげ長、若輝、菊太郎、万子、久長、吉次、登代子、松代、喜三男

太夫はそれぞれ太夫の名を記した二人の禿、傘持ち、引舟(太夫の世話役の女性)を引きつれ歩きます。最後の傘止太夫のみ六人の禿がつきます。

先頭から

長山太夫(髷は立兵庫)
松扇太夫(同、立兵庫)
玉太夫(同、錦祥世)
司太夫(同、兵庫)
小太夫(同、横兵庫)
小雛太夫(同、勝山)
尾上太夫(同、静)
青波太夫(同、寒雀)
玉の井太夫(同、勝山)
君人太夫(同、元禄くずし)
敷島太夫(同、三ッ髷)
胡蝶太夫(同、兵庫)
薄雲太夫(同、芳野髷)
光春太夫(同、投島田)
吉野太夫(同、元禄島田)

別の記事によりますと、この道中、角屋の高塀に登ってタバコを吸っていた
不埒物がおり、消防士に「其様所で煙草を喫ふ事は止して貰いたい、此様に風のきつい日に、而もツイ此間失火のあったその家ではないか、止してくれ、止してくれ」とヤッキになって制ししていた、とありました。











by gionchoubu | 2016-07-21 15:57 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 太夫道中1

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   太夫道中、 戦前の手彩色による絵葉書

角屋十二代中川徳右衛門著『波娜婀娜女』(はなあやめ)では島原の重要行事であった太夫道中を「往古(むかし)は毎月二十一日に廓中の太夫の道中を行ひしものなれども、今は毎年四月二十一日にのみ之を行ふ。但し新しき太夫の店出しありたる日は、何時にても之を行ふことは、今も昔に変らず。総道中の順序は、造花を以て美しく飾りたる花車を多くの芸妓が異装して手に手に扇をかざしながら静かに曳き、其後より太夫は差しかけ傘にて、二人の禿を先に八文字を踏みつゝ、道筋を揚屋町まで練り歩行くなり。殿(しんがり)なるを『傘止』といひ、廓内最も全盛の太夫、之に与る」と、纏めておられます。

十代目の徳右衛門は芹沢鴨の狼藉の時代、十一代目の時、国鉄、丹波口駅を廓内に誘致しています、十三代目は多数の上方浮世絵を含む、多くの資料を収集された方で、現在の角屋は十五代目が引き継がれています。

八文字は八文字を描くように爪先を内側にまわして歩くことで、これを真似た吉原の花魁の外八文字と区別するため、「内八文字」ともいいます。

花車は“かしゃ”と読むと、京都の場合江戸期の島原、祗園などで、茶屋、料亭の女主人の事を指し、“はなぐるま”と呼べば、太夫道中で芸妓連が曳く車のことです。(前回の画像がそうです)

『京都遊廓見聞録』京を語る会、田中泰彦編によると、

「島原の太夫道中は、現在日本に遺された遊里研究上最も重要な行事の一つです。この行列は太夫道中として催されたのでありますが、実は江戸時代三百年間の女子の服装の移り変りの順序を見せようとするもので、着物の寸法、仕立、着ごなしから頭飾髪の結い方など細かく観察して頂ければ仲々に興味のあるものです。頭の差物、着ている着物、帯から履物にいたるまでほとんど全部が実物をそのまま使っています(ただし寛永時代は実物のものが使用にたえないため復原摸造の品を使用)。各時代の風俗とも当時の記録とその時代の画家の描いた絵を中心にして考証したものです。なお、行列に出てくる禿とは当時の女給仕ともいうべき少女で、新造とは太夫候補生、つまり若手の太夫のことです。」

同誌に集録された昭和二十二年の「島原太夫道中しるべ」によると、

一、 寛永・正保時代
二、 万治・寛文時代
三、 貞享・元禄時代
四、 享保・元文時代
五、 安永・天明時代
六、 文化・文政時代
七、 明治初期時代

の、各時代の行列があり(ひろ子、登美丸、梅千代などの名から見て、芸妓が太夫の格好をしたのでしょう)その後に現代として現役の薄雲太夫、如月太夫の名が並びます。

これは、毎年の太夫道中とは各時代の女人風俗を再現するものではなく、この昭和二十二年(あるいはその後あったかもしれませんが)の試みであったはずです。

太夫道中は四月二十一日に催されるのですが、昭和二十二年の「太夫道中しるべ」は十月十七日の日付けです。


by gionchoubu | 2016-07-19 12:48 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 角屋の餅つき

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                         菊川太夫

宝暦七年刊の『一目千軒』の「餅搗の事」・・・餅つきも紋日也、これは揚屋の祝ふ事也、これも日限不定なり、宝暦七年は1757年、このころは島原の揚屋の行事だったと思われます。

しかし廓の餅つきは、現在手に入る資料、書籍を見渡しても、ごく僅かに大阪新町の吉田屋の餅つきの話を見かける以外、総てが角屋の餅つきに関するものです。

そこで今回は角屋側、即ち『角屋研究、第21号』で青木亮人氏が財団法人角屋保存会、中川清生理事長のご教示を中心に纏められた「昭和の島原、太夫道中のひととき」の三、“道中、餅搗などの「見残した夢」”を参照して書かせて戴きます。

同稿によると、矢張り“本来は各揚屋が内輪で正月の鏡餅や雑煮用の餅をついたものであり、公の行事ではなかった。しかし、次第に揚屋に縁の深い太夫や芸妓、幇間らが手伝いに来はじめ、そこで芸妓が舞などを披露するようになり、それが噂を呼んで贔屓客らも見に来るようになったため、たとえば角屋では毎年十二月二五日に公の行事として催すようになったものである。”かつては島原の他の揚屋でも行われていたようです。

さらにその後“餅搗の終盤には男衆や太夫、芸妓などが臼に集り、「千石や万石や」と掛け声を三度かけながら臼の周りを回り、最後は幇間が「打ちましょう、もうひとつせ、祝うて三度」(上方の手締め)を行い、全員で「おめでとうさんどす」と唱えて行事を終える”と纏められています。

田中緑江さんも、「角屋の餅つき」の一部始終を詳しく書いた記述があります。

十二月二十五日、普段角屋に出入りの芸妓達は二つに分かれ、外出着姿で角屋の一階の広い台所に集り、戸棚前に赤毛氈を敷き、見物客を竈側に座らせ、一方は休むまもなく、長唄、常磐津、小唄、清元、浄瑠璃を演奏し、踊ります。もう一方の芸妓は内玄関の庭で本職がついた餅を仲居たちと持ちこねを手伝いました。

踊りの方は「十二月」「梅の春」「万歳」「梅にも春」「廓の寿」「としま」「末広狩」等、以前太鼓持が居たころは、この太鼓持が裸踊りを合間に入れたりしました。

その間太夫衆は奥座敷で、打掛を着ないままこれを見ていたようです。

最後に近くなると、玄関で芸妓数人が三味や鼓で、餅つきに合わせて三番叟や十二月を弾き、千石万石と祝詞を述べ、来客一同に搗きたての善哉を振る舞ったと有ります。

『京の花街』渡会恵介著では、昔は、太鼓持ちが芸妓さんの舞の間に裸踊りをやり、最後に杓文字、れんげ、火箸で囃し、臼の縁を叩いて浮かれまわり、太夫たちも打ちかけ姿で餅こねを手伝いました。仲居は総てお歯黒として赤前垂を締めていました。

角屋の餅つきは近年、角屋を離れ島原の歌舞練場に移り、さらに大門外で時折り催されているようです。画像の餅つきは数年前、祗園のくろちくで催されたものです。

角屋の餅つき・・・この「見残した夢」が「見果てぬ夢」となり、再び嶋原傾城町に、叶うなら角屋に戻ってくることを強く望みます。


by gionchoubu | 2016-07-17 12:32 | 島原遊郭 | Comments(2)

島原遊郭ぞめき 島原八景

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   さらば垣

島原に関して『色道大鏡』に「坤廓八景」というのがあり、これは

壬生残花 朱雀孤月

古塚草露 前塘竹雨

青田暮蛙 丹径雪樵

東寺雲塔 本圀暁鐘   というものです。

又、角屋十二代中川徳右衛門の『波娜婀娜女』(はなあやめ)に島原八景があり

朱雀野垂柳 中道夕照

野寺晨鐘  塵塚櫻花

西口菜花  楼上夜月

衣笠積雪  両所神社

島原伝統保存会が発行した京都島原文学碑めぐりは

1、大門、2、歌舞練場跡記念碑、3、大銀杏、4、島原西門、5、島原住吉神社、6、幸天満宮、7、東

私も戯れに新島原八景を考えてみました。

さらば垣

波娜婀娜女に「東西ともの出口にありて遊戯客を送りてここに別れを惜みけるより此名を付したり、されど今は廃れてあらず。」とあります。今は大門の傍らで、嘗ての繁栄を懐かしんでいる様です。

島原温泉の煙突
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嘗ては千鳥湯といいました。岩風呂の中に観音像が祀ってあります。

歌舞練場跡の大榎
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歌舞練場以前の稲荷社が鎮座した時代からの御神木、樹齢二百年と言われ、今でも静かに島原を見守り続けます。

輪違屋の忍び返し
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島原唯一のお茶屋の意気込みが感じられるようです。

きんせ旅館の鍾馗さん
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関西のお茶屋さんで良く見る鍾馗さん。お茶屋として最大級の大きな鍾馗さんです。

最初の西門跡
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享保十七年(1732)子の年に開かれた最初の西口跡を千本通りから撮りました。お隣は角屋。出入り口が東の大門だけでは不便なので、島原側の請願で開かれました。もしこの西門が今も開かれておれば胴(道)筋で東門と結ばれます。そうなれば交通量も増え、今の状態すら守れなかったでしょう

二代目の西門の跡?
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そして天保十三年(1842)に住吉神社の所に移されました。輪禍については以前書きました。

角屋の犬矢来
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犬走りの上に組まれた犬矢来の原型だと思います。現代の犬矢来は弓型の竹を並べてお茶屋の壁にはわされたものが一般的です。それにしても、この空間が無ければ、随分道筋の西は窮屈な感じがするでしょう。

以上ご笑覧頂けたら幸いです。



by gionchoubu | 2016-07-14 16:14 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 養柳会

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                    大正時代末の島原の芸妓

出口の柳に青柳踊り、柳会に養柳会と、柳は島原の象徴でした。

『技芸倶楽部』によりますと、柳会主催の第十三回常磐津会が昭和六年六月に開かれ「将門」「加賀見山、部屋場」「高砂むこ上ノ巻」「高砂むこ下ノ巻」「松の羽衣」が演目となってます。

昭和十年五月二十六日、第二十回の「常磐津演奏会歌詞」が京都府立史料館に所蔵されていましたので、年二回ほど催されたのでしょう。

同じく京都府立史料館に昭和十一年十一月の十日、十一日に養柳会の「第十回技芸奨励会番組」も書庫にありました。この技芸奨励会は温習会と思います。
目次を見ると、長唄、清元、常磐津と、十番組・・・島原芸妓の心意気がひしひしと伝わる思いです。

戦後の島原は京都市右京中央図書館に昭和三十二年、三十四年、三十五年の京都花街合同舞踊大会で窺い知る事ができます。期間は六月の第一週の三日間で、先斗町、上七軒、祗園甲部、祗園東新地、宮川町そして島原の六花街で、昭和三十二年が第九回ですので昭和二十四年から催されてきたと思います。会場は何れも祗園甲部歌舞練場が会場です。

昭和三十二年の番組を見ると 午後二時の部で、島原は常磐津舞踊「浮かれ小僧」を、語り、志づ子、芳子、記代子、三弦、登美栄、ひろ子、上調子、富菊、踊り手は三日とも狂女、初代、小僧は一日と三日は登代子、二日が千賀子です。

この時祗園甲部は「蛍狩り」で一日、二日、三日、それぞれ立ち方が八人ずつ、計二十四人に重なる名はありません。一方島原は、花街としての芸妓数、立ち方、地方合わせて二十人の規模では限られた舞踊の演目を出すしか有りません。

同年、午後五時の部でも、島原は長唄舞踊「五月雨」を立ち方三日とも千賀勇一人のみが務め、唄は登美若、志津づ子、芳子、ひろ子と、将に総力戦で望んでいます。

昭和三十四年、第十一回は、午後二時、常磐津舞踊、「松廼羽衣」、午後五時半の部、長唄舞踊、「鶯宿梅」

昭和三十五年は第十二回、京都花街国民健康保保険組合設立記念として島原は二時開演が長唄舞踊「色模様五ツ傘」、五時半開宴の部が長唄舞踊「巽八景」

『京都年鑑』によると、昭和三十六年、「横笛」「角兵衛」昭和四十年に「三保の松」ともう一つは記載なすい、昭和四十一年に「関三奴」「豊島」を確認できます。


by gionchoubu | 2016-07-12 16:49 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 桜木太夫とHygge


 
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    島原 Hyggeさん(旧貸座敷)


幕末の名妓 と呼ばれ、
その源氏名は長らく使われてこなかった。
桂小五郎、伊藤博文の深い馴染みであり、
大田垣蓮月の歌友の一人でもあった。
後に尼となり、西賀茂にて隠棲したという。。。

この名跡を襲名した現在19歳、
平成の 桜木太夫 が輪違屋の全面協力により、
ここHyggeにおいでくださることになりました。
現在も営業を続ける 輪違屋 において、
太夫を拝謁することはそう簡単なことではありません。
京都 島原の文化を、ここ島原のHyggeにて体験できることはまたとない機会だと思います。

8月1日(月曜日)
19:00〜20:00

内容

*説明(お話し) 《輪違屋十代目当主》
*かしの式、お点前、胡弓、舞 《桜木太夫》
*お話し等(質問などあればなんでもどうぞ。)


料金
お一人様 五千円 (お飲みもの付き)

参加希望の方はメール、またはお電話でも承ります。
「太夫イベント参加希望」と明記の上、
お名前、ご連絡先を添えて下記までお願いします。

mail@hyggehygge.com
tel 075-708-7956


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以上、Hyggeさんのフェイスブックから貼らして頂きました。勿論私も申し込みさせて頂きました。かしの式は過去一回だけ拝見したことが有りますが、その後中々見る機会がありませんでした。

桜木太夫について最近私も当ブログで紹介させて頂きましたが、補足させて頂きます・・・

輪違屋の天神から太夫に昇格した桜木太夫は教養に富み、中でも和歌と書道の道に優れ、幕末の三名花の一人と謳われました。

森孫六(後に勤皇方に滋賀の石部で惨殺されました)が女房として迎えたいと云った時、太夫が堅気さんの家庭に入ってもうまく行く筈がないので、もし、私を愛してくれているなら妾にしてください、と頼み受け入れられました。

桜木太夫の心音を良しとした輪違屋は、茶碗にさくら木と銘を入れたものを配して毎年四月二十五日に桜木忌を行ったそうです。

いろもかも うき世のほのかに すみ染めの
          そでもこころも かろくなりぬ

年月の 忍車の ゆきやらで
          うしそとひとり 音にこそなけ

輪違屋には桜木太夫が詠んだ短冊がのこるそうです。

参照:田中泰彦著、京を語る会発行、『幕末京都の女性辞典と銅版画』






by gionchoubu | 2016-07-10 11:44 | 島原遊郭 | Comments(2)

島原遊郭ぞめき 廓の花

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昭和六年、島原の踊りの流派が西川流より、花柳流に変ります。

島原廓の歌舞練場で、青木吉子と熊木喜代次の両妓が「傾城」と「卯の花」を舞った時、共に情緒頗る密で好評でした。その際新作として紹介されたのが、この「廓の花」と「島原新小唄」でした。殊に「廓の花」は同廓のお座付きとなって大いに珍重がられました。

「廓の花」作詞 小林竹曳 作曲 杵屋君七郎 振付 花柳芳喜知

古(いにしえ)を今に忍ぶの おもかげは

松の位の 名に高き しき島原の 太夫職

花の容姿(すがた)の うちかけは

他所(よそ)に見ぬぞへ 廓(さと)の花


「島原の小唄」 詩曲 三木玄華 振付 花柳芳喜知

霞む大門 出口の柳  春の小雨に 萌ゑづるふた葉

月もおぼろに 花の宵  たそや行燈(あんど)の 灯ともす頃は

よいやよいよい 島原ェ

花の中之町 桜の吹雪  松の太夫の うちかけ容姿(すがた)

踏むや素足の 八文字 新造かむろが 袖ふる眼もと

よいやよいよい 島原ェ

假視(かし)のお目もじ 今宵の主へ 初の御現(ごげん)と くむ盃に

かけて結ぶの しきぶすま つゝむ情けの 解かせて見たや

よいやよいよい 島原ェ

燃ゆる燭台 火は暗うても 切らぬこころが 女子(おなご)の意気地

意気と気概(はり)なら たてとうす ほんに一ト夜で 別れうものか

よいやよいよい 島原ェ
















by gionchoubu | 2016-07-08 11:16 | 島原遊郭 | Comments(0)