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島原遊郭ぞめき 梅花楼

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                      右のお茶屋が梅花楼

昭和三十七年版の京都市の職業別電話帳のお茶屋の欄を見ますと、当時の島原には、曙、京楽、角屋、清春、清松、千歳、鶴種、鶴雪、東滝野、本滝野、松栄、松葉、輪違屋と十一軒の個人名で合計二十四軒の登録があります。

昭和四十八年版は、角屋、清春、千歳、鶴種、鶴雪、梅花楼、東滝野、松葉、友月、輪違屋と個人名が四軒の合計の十四軒、梅花楼と友月は昭和三十七年には個人名で登録されていました。

昭和五十九年版には、角屋、清春、鶴種、松葉、輪違屋と個人名三軒と合計八軒に減りました。

そして平成八年島原貸席お茶屋組合が解散、歌舞練場も壊されました。

昭和五十年辺りの島原の状況は『太夫になった京おんな』で花扇太夫が語ってくれます。当時夜の定期観光のコースに角屋が組み込まれており、予約によって午後五時四十分と七時半と八時半の三回の席がありました。当時の花扇太夫は八千代の名を戴き、角屋の太夫として観光客相手に“かしの式”やお茶のお手前を披露していたようです。

その後、お子様が生まれ、輪違屋に移り、花扇の名をもらったとあります。先日、旧丹波口駅後の公園で、定期観光バスは、公園の南辺りに駐車していた、と地元の方に教えていただきました。定期観光のコースから島原が外れた後、京都観光のオフ対策として“京の冬の旅”でギオンコーナーの特別プログラムとして平成の初め頃、二月の週末を中心に、太夫道中が組まれていた時期があり、私も拝見したことがあります。

現在、住吉神社の境内に上記の昭和四十八年に載る下之町の今は無い梅花楼(ばいかろう)の描かれた絵が掲げられています。その横には大門傍らに最近まであった交番の写真と「島原名寄一覧」もありますので、島原にお寄りの際は、住吉神社に詣で、是非これらのご覧下さい

梅花楼は道筋を大門から西に突き当たり右に曲がった角屋北の並びにありました。昭和三十九年公開、東映映画“廓育ち”にもその唐破風の美しい重厚な姿が映し出されています。

梅花楼の勇姿は木村聡著『赤線跡を歩く、完結編』の「京都の赤線跡」で青山均さんが撮影した「西門から胴筋へ向かう通り。(B地点)」でも確認することが出来ます。


by gionchoubu | 2016-06-30 11:43 | 島原遊郭 | Comments(2)

島原遊廓ぞめき 戦前、戦後

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 青木楼の壁一面に張られた目録と青木の団扇

左、青木吉次さんのお店出し、右の芸妓は橋本吉子さん


国民皆兵の精神の元、遊廓とて例外なく、廓内の女性を網羅する大日本国防婦人会何々遊廓分会が次から次へと設立されました。

昭和九年の『技芸倶楽部』207に島原分会の事が書かれています。顧問は組合取締松本由之助、廓内女性二百五十名が入会し、慰問又は配給等に従事していた様子が書かれています。これも時代というものでしょう。

次に、大戦前の島原遊廓について見ていきます。

松本楼が焼失する以前、松本楼の主人は「それでもこのクルワでは太夫本位であるため芸妓も多少は遠慮するらしい。それにクルワには伯人というものがあって平娼妓の上位にいる。別にかわったこともない。衣服がましなくらいと花代がすこしあがるくらいだ。」、とこの当時の島原の伯人を説明しています。(『京都遊廓見聞録』京を語る会、田中泰彦編)

白人(伯人)は祗園などで、江戸期において非官許の上等な遊女を指して言いました。島原の白(伯)人の歴史は古く、かの其山の『色道大鏡』の「丹波口茶屋町之図」を見ると、大宮通りにかけて、多くの白人の住居が描かれています。

昭和十一年、島原廓に太夫十二人、伯人十四人、平娼妓五百九十人、芸妓四十二人、貸座敷百六十軒、但し娼妓の休業者、逃走者等五、六十人ありました。

塔下組合取締は、この太夫が過去二十年で半減したことを憂え、「太夫を殖やそうと思へば何うしても先立つものは金、其処で廓内の情勢より見て、こゝで一番太夫数名増員の為め優に資金を融通仕様といふ人は先づ廓内屈指の揚屋角屋事中川右衛門氏を措いて他に無い、尤も角屋には古来太夫を抱へた例は無い、だから強て角屋に抱へなくても表面名義は何ともなる訳、兎も角少くとも金五萬円を支出して太夫七、八名の増員費に充てる事に為て欲しい」と掟破りの直訴するほど追い詰められていました。(『技芸倶楽部』昭和十一年、七月号)

そして戦後、昭和三十年、渡辺寛著『全国女性街・ガイド』によると、昭和二十八年君太夫が退き、太夫は九重、玉袖、美吉野の三人になったが、昭和三十年に小車、初音の二人が増え五名、揚屋は角屋、輪違屋、青木楼、名の知れた貸席は本滝野、東、北、南滝野、金清、あけぼの、松葉など、と書いています。

以後は『京都年艦』より、

昭和三十四年、地域歓楽街組合長、中川徳右衛門、四月一日にお茶屋、旅館、飲食店を一本化、芸者十九人(この地域歓楽組合長はこの一本化の組合長だと思います。)

昭和三十五年、再び旅館、飲食店を切り離し、お茶屋組合一本となりました。
太夫は小車、松扇、九重、京楽の四人、芸妓二十人

昭和三十六年、七月に玉琴太夫が加わる。芸子十七人、西本願寺の遠忌に五人の太夫で道中様式。

昭和三十七年、芸妓二十人、お茶屋十八軒、玉琴がやめる。太夫は観光“かしの式”などで活躍。

昭和三十八年、玉琴太夫がやめ、太夫は昭和三十五人と同じ四人、芸妓十七、お茶屋十七、

ちなみに京都年鑑に花街の項があったのこの間のみになります。




by gionchoubu | 2016-06-28 16:05 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 松本由之助

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                   松本楼だと思いますが確証はありません。

角屋と並び、島原屈指の揚屋、松本楼は江戸時代の木津屋だったと渡会恵介『京の花街』に書かれています。ただし木津屋は揚屋でなく、太夫を抱えた置屋でした。明治になって角屋が長松楼、輪違屋が養花楼を名乗った様に、木津屋が松本楼となったのかもしれません。

同書によると、弘化年間(1844~47)の頃には木津屋の主人が島原の年寄役であった事、庭園に冷泉院為紀が名付けた“赤帝の松”というのがあった事、松の傍らに桃山時代の井筒があった事、さらに焼失したが、吉野太夫の遺墨などを所有していた事、が書かれていました。

緑江叢書『京の舞踊』に、京舞の篠塚流を初代の父から天保十一年、襲名した二代目文三郎の妻は松本楼の娘で、その子も三代目の文三郎を継いでいます。当然当時の島原は篠塚流でした。

『技芸倶楽部』昭和六年の五月号に松本楼のお茶事という記事が有ります。「島原廓の大茶屋松本楼では例年二の午に際して、庭上に祀りある末広大明神の祭典を行ふと共に、抹茶会の催しあり、今年も亦二月二十日の二の午当日開催されたが、参会雅客非常に多く、午前十時から午後四時迄の予定時間はズッと延長され、遂に夜に入るの盛況であった。お手前はいつもながら一寸他所では見る事の出来ない元禄美人、夫は夫は実に花やかなお茶事で男女の別なく来賓一同大満足であった。」

この頃島原の取締りを勤めた松本由之助は藪之内派の茶人でもありました。(『全国花街めぐり』松川二郎著、ただし松本芳之助と誤記されています)

昭和三年に二度目の太夫道中を高浜虚子は松本楼から見物しています。(「島原の太夫道中」ホトトギス昭和三年八月号)それによれば、虚子らが三階の茶室に案内されているので、三層楼であった事がわかります。

そして松本由之助と思しき人物の描写があります。「松本楼の主人といふのが羽織袴をつけて扇子を持って往来に現れた。わが桟敷に座ってゐる人々は、この主人に挨拶を交すことを以って、群集に対して見栄としてゐるのではないかと思はれるやうに見えた。腹の出っ張ってをる、体格の大きな、頭は角刈りにしてをるこの主人は、鷹揚にそれらに答えて、往来の真中に突立ってゐた。」

松本楼が焼けた時、損害は十萬円、松本由之助も全治一ヶ月の火傷を負いました。現在松本楼を偲ぶものは何もありませんが、島原住吉神社に松本由之助の玉垣が残ります。又『京都遊廓見聞録』京を語る会、田中泰彦篇に昭和七年撮影の島原松本楼の勇姿を偲ぶ事ができます。



by gionchoubu | 2016-06-24 11:57 | 島原遊郭 | Comments(5)

島原遊郭ぞめき 松本楼燃ゆ


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                   君人太夫のお点前                

『京の花街「輪違屋」物語』に、輪違屋の仲居さんの記憶として、角屋、輪違屋さんと並ぶ島原超一流のお茶屋、松本楼が焼失して二人の太夫が無くなったのが昭和二十年の十二月二十八日くらい、と書かれていますが、これはこの仲居さんの記憶違いで、実際は昭和十年二月八日の午前三時四十分で、翌日の京都日出新聞で大きな記事となっています。

「凄惨!紅蓮の炎 太夫二人を呑む 楼主も重傷負ふ」という見出しで、焼けたのは楼主松本由之助、松本楼と隣家長男の営む菓子商で、亡くなったのは松本楼抱の君人(きみんど)太夫(三十五才)と、胡蝶太夫(二十四才)でした。

こちらは新聞記事が誤り、松本楼は揚屋で太夫は抱えておらず、「輪違屋」物語にあるように、青木楼の君人太夫と輪違屋の胡蝶太夫でした。記事中に抱え主として青木たか、高橋徳三郎(輪違屋当主)の名も記されている所から、記者はあまり島原のシステムに馴染みが無かったものと想像されます。

この記事によると、この大楼は建坪百四十二坪、二階に四畳半の部屋が十、座敷が三で、当夜亡くなった二人の太夫以外に雲井太夫と客も泊まっていたが、雲井太夫と客は屋根を伝って厄を免れました。

火事の原因は未だに分かっていません。

新聞には謝近火御見舞を島原貸座敷組合事務所、角屋中川徳右衛門、金清楼、料理屋のみどり屋、そして謹しんで出火御見舞申上候として松本楼、松本由之助、長松堂、松本清三郎が載せています。

松本楼の場所は旅館松栄さんときんせ旅館の道路をはさんだ誠の湯の駐車場の大部分で確かに角屋に告ぐ規模を誇っていました。

さて、亡くなった君人太夫は太夫道中の傘止を三度も経験しており、太夫を勤める傍ら、母と姉と子供の三人を養っていました。

傘止の太夫は太夫道中の殿(しんがり)を務めた名誉ある役で、禿も六~八人就きました。傘止めは普通一回のみですが、君人太夫は三回も務めた事になります。

それ以外にも記録によると大正十四年には髪を横兵庫、うちかけが白地に雲に鳳凰の縫模様で太夫道中に出ていますし、大正十五年にも元禄くづし姿で島原廓内をねり歩きました。

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by gionchoubu | 2016-06-22 16:06 | 島原遊郭 | Comments(4)

島原遊郭ぞめき 金清楼

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                    きんせ カフェのカウンター

昭和五年第一版発行、昭和八年発行版の『京都職業別電話名簿編集局 松園』の貸座敷の欄を見ると、

仲之町  きぬた    上之町  植村楼    
      輪違屋          清栄楼
      富田楼          鶴種
                     白水事(楼)
                     松梅
 
中堂寺町 金清楼     太夫町  喜楽
       松葉楼            島原松本楼
       第三花月楼         西勢楼
       鶴愛             南金清楼
       福本楼
       萬八楼

下之町  河福      揚屋町  松鶴楼
      菊春楼           角屋
      第二清月 
      菊春楼
      梅花楼

これ以外に、屋号でなく個人名で登録されている貸座敷があります。名前と屋号の両方で登録されている所もあります。二重登録を省くと、上記以外に二十七軒の個人名が確認できます。この中には当時島原遊廓の取締り松本楼の松本由之助(よしのすけ)の元で副取締を勤めていた塔下角太郎の名や、下之町の青木楼、太夫町の瀧野も含まれています。

金清楼について・・・

昭和二年に作られた『京都明細図』で確認すると、現在のきんせ旅館の場所(太夫町)に富田ろう(楼)と記されています。

ところが、上記の『松園』によれば、富田楼は仲之町に登録されています。金清楼と南金清楼とも経営者は同じで、金清楼は中堂寺町、南金清楼がきんせ旅館のある太夫町の登録です。

これを無理やり辻褄あわせすると、昭和二年には富田楼が現きんせ旅館の場所にありましたが、昭和八年までに富田楼は仲之町に移り、同年までに第二金清楼がきんせ旅館の場所に移って来て、やがて中堂寺の金清楼は無くなり、第二金清楼が今度は金清楼の名を継ぎ、いまのきんせ旅館の前身なった、とこじつけることしか私には出来ません。

(月刊京都,2014,12月号に、現オーナーさんが「こちらは、大正末期~昭和初期に店主の祖父母が買い取り、洋風に改装」とあり上記の一部が裏づけられました。2018、6月27日付記)

ちなみに昭和三十一年の住宅地図では金清、昭和三十五年に旅館金清、昭和三十九年に旅館きんせ、となっていました。

いずれにせよ、貸座敷跡を旅館兼カフェとして、さらには色んなイベントの場として提供されているのは、大変素晴らしい取り組みで、是非一人でも多くの人に利用して頂きたいと思います。


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                      見事なステンドグラス

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by gionchoubu | 2016-06-20 11:48 | 島原遊郭 | Comments(10)

島原遊郭ぞめき 昭和の島原

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                     大正時代末の島原太夫

昭和の島原遊廓を見てみます。昭和五年発行の『全国遊廓案内』によれば、貸座敷148軒、太夫、伯人、娼妓併せて434人、太夫、伯人は揚屋に送り込み、娼妓は居稼ぎ、太夫が揚屋へ送り込まれる時は、太夫の名を赤漆で書いた黒塗りの長持ちをが男衆によって担ぎ込まれた、その中には夜具から枕箱、煙草盆に至る迄の調度がはいっていた、と島原が傾城町として立ち上げられた時の風習が昭和になっても尚、続いていた事が分かります。。

揚屋に一泊して、翌朝「お座敷拝見」すれば三十円はかかるといいます。当時京都市電の料金が六銭均一ですので、現在の市バスの均一230円から計算すると、一晩12万円弱、この算出が妥当かどうかも分かりません、又この料金が高いのか、安いのかも判断できる材料がありません。そして代表的揚屋が角屋、松本楼、輪違屋、他に花月楼、第二尾崎楼も堂々たる構えの家として紹介されています。

昭和六年、内務省警保局の『公娼と私娼』によれば、業者数146、娼妓数483となり、娼妓数としては京都市では七条新地1、340、北新地(五番町)681に次いで三番目の規模となります。

昭和八年四月一日、『郷土風景、諸国花街号』で田中緑江は「祇園と島原」で昭和七年十一月待末の調査として太夫十四人、伯人三十二人、芸妓六十人、女郎五百二十五人、第一貸座敷百四十、第二小方家六十人としています。緑江さんは当時の島原を、

「この廓の二、三軒だけがズヌケてゐる他、娼妓本位の廓であるために、如何に昔ながらの太夫がおってもそれだけでは廓の品位を保つ事が出来ず、三流廓といってもよい」

「名物の太夫十四人は余りに淋しいがこれ又祗甲の舞妓同様、毎日売切れの太夫でも、よく流行する平娼妓に及ばず、結果種々な物入りだけ嵩むで損と云ふ事になるので太夫を置く家が少なくなって来ているのも時勢の力で仕様がない。」

「昔の様に禿から太夫の見習ひをして太夫になるのではなく、太夫とて鑑札は同じ平娼妓であって抱える時でも太夫にしやうとして抱へるのでもなく、女も又太夫を望んで来るのでもないそうである。平娼妓として契約し、これなら太夫にさせられるのだろうとみてとって太夫の諸心得を教えへるのである。」

「現在立派な太夫の何代目かをついでいるが、お茶と花を活けるのを稽古している丈で、大きい髷、おはぐろをつけた黒い歯、素足でゐる事位が太夫の姿であると云っただけで、多少平娼妓よりも一夜妻として客を満足さす様に努める事は知ってゐる様である。」

そして「太夫らしい太夫はゐないが又、同時にお客らしいお客もゐないのが現代である。」

かつて公家文化の薫り高く、大名をも迎えいれた太夫は学問もあり、品格もあり、遊芸にも達し、貴賓の相手として恥ずからぬ物もおりました。つまり太夫文化を育んだのはお客の方で、多少の小金持ちを相手の太夫なら、それなりの太夫しか育たないという事であります。

「最近の~は」というフレーズは過去、現在、これからも限りなく使われますが、そのうちの幾つかは将にそれを言ってる本人に跳ね返って来る・・・と言わざるを得ません。


by gionchoubu | 2016-06-17 10:48 | 島原遊郭 | Comments(6)

島原遊郭ぞめき 歌舞練場

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                    竣工当時の島原歌舞練場

明治二十八年『京都土産』「遊廓一覧」の島原に貸座敷二十八軒、芸妓十二人、娼妓八十二人、屋形(置屋)七軒、引手茶屋三軒

著名貸座敷、長生楼、養花楼、桔梗楼、紫籐楼となっています。こちらは明田鉄男『日本花街史』から抜粋しているのですが、長生楼は角屋の長松(ちょうよう)楼の事だと思われます。

紫籐楼も名家の一つで、かつては頼山陽、木米、乾山の諸名家と親交があったと伝わります。(技芸倶楽部、大15年,5月号)

出典は分からぬものの、渡会恵介著『京の花街』に明治四十五年ごろの島原は貸座敷八十四戸、太夫三十一人、女郎二百五人、芸妓四十一人がいたとされ、太夫を置いた置屋として、笹尾楼、輪違屋、田村楼、山下楼、西村楼、永原楼、小林楼、田中楼、西勢楼、北尾楼、夕村楼、音籐楼、山田楼、鶴松楼の十四軒を揚げ、笹尾楼の光扇太夫、北尾楼の玉扇太夫、音籐楼の吉野太夫、山田楼の小太夫を明治の四天王と呼んだとあります。

大正時代の島原を考える上で、大正13年11月と刻まれた住吉神社の玉垣が有効な手段となります。

大きな玉垣に発起人 橋本清太郎
          青木忠次郎
          敷島楼
          中川徳右衛門
          尾上松之助
          松本由之助

などがあります。中川徳右衛門は角屋の当主、松本由之助は松本楼の当主、尾上松之助は日本映画の黎明期のスター、“目玉の松ちゃん”で知られた人です。
青木忠次郎は青木楼の当主と思われます、橋本清太郎を含め明らかになれば追記します。

一般の玉垣には

川竹楼  松葉楼  清花楼
輪違屋  松梅楼  銀水楼
西内楼  壽土楼  西勢楼
尾崎楼  松富楼  三国楼
井筒楼  長楽楼  山本楼などが確認され、当時の揚屋、置屋関係と思われます。    

その他、みどり家、柳家などや祇園のいづう(寿司)も名を連ねています。

そして大正十五年十一月二十日、懸案久しかった島原歌舞練場新築が同廓芸妓の歌舞音曲研究機関である養柳会が主として建造されました。


by gionchoubu | 2016-06-15 10:52 | 島原遊郭 | Comments(2)

島原遊郭ぞめき 燈籠

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島原住吉神社の鳥居には明治36年9月と刻まれています。(玉垣は大正13年9月

宝暦七年の『一目千軒』の灯籠の事並作り物に「灯籠むかしありしと也。中比絶侍りしに宝暦四戌のとしより再興せし也。紙ざいく絹ざいくいろいろ有り。八月一日より初り日数は年々によりて極りなし。又作り物も同年に始。」

この燈籠を本居宣長は『在京日記』触れています。宝暦六年の項に「さて灯籠は、端の茶屋より始めて、北向きなと云う渡りまで、町々残るかたなく風流をつくして、華やかなること也や、まして揚屋町は、言うもさら也、中にも目出度く作りなせるのは、上の町の桔梗屋といえる轡かもとの、竜宮城の有様を造れる、言わんかたなく美麗なる物なりし、この家は、去年も宝船を作りて、一番と言われしか、ことしも又、外にならうかたなく見ゆ、全てこの灯籠、何れも紙細工にて、羅絹の類をあしらひ、あるはビードロ等にてかさりなせる、みな中へ火をともしたれば、其光映せる様、いと麗しき物也、夜毎に、亥の時の比まで見せ侍りて、踊り始まれば、仕舞侍る。」

明治の半ば過ぎ、島原は不景気の打開策として復活を話し合われたものにこの燈籠がありました。然るに当時の島原は東部と西部の二派が対立の構図があり、この燈籠の復活も東部が持ち出した処、多数派の西部の反対により実現しなかったようです。その他、樹木を植え土塀を作るという安も中止になりました。

雑誌『花柳』よりこの頃の二人の島原太夫を紹介させて頂きます。

仙太夫(島原廓娼妓) 翁亭の精肉

仙太夫は~略~昨年七月以来大坂新町に太夫(まんた)を稼ぎ居りしも、実家の都合に依り極月に至り島原玉兎(ぎょくと)楼より仙太夫と唱へ娼妓に出ず。女(じょ)は今年二九の春を迎へたる美人にて、蛸薬師の精肉屋翁亭の如く未だ店出より間はなけれども、総てが美麗なると、且風味の妙なるが故、引手夥多の客繁喜きはお目出度とぞ申すべし太夫を牛肉店に批評す。油身の能味を増が故か。

金太夫(島原廓娼妓) 常盤座(新京極)

金太夫は~略~明治八年十月生れなるが、一昨年の九月初て嶋原廓齋藤楼より娼妓となり、先の金太夫の名蹟を次ぎたるものなり。両親はあれども離散して無が如し。性温柔にして愛嬌あり。殊に色至て白く貫目充分あり。幼少より三味線を好し故、今は一角の腕前あり。女(じょ)は娼妓となるの前、伏見街道七条辺の薬剤師の寵妾となり居し事もありて、目下太夫のうちにて最も評判よし。女を常盤座に比す。松の色の緑になるが故、故(ことさら)に常盤の名を用しものなり。されば前金太夫の如く楼(やかた)大切、客大事に・・・」

参照:明治26~27年『花柳』


by gionchoubu | 2016-06-12 11:13 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 明治時代

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島原西門・・・「島原西門が即死、130年保存オジャン、トラックがひっかける」のタイトルがある京都新聞夕刊を見ると、昭和52年11月22日午前10時45分ごろ、門をくぐり抜けようとしたトラックの荷台のホロが、門の梁に引っ掛かった。このショックで土台石に四本の柱を載せただけの西門は屋根から崩れ落ち全壊しました。西門は檜材の四脚門づくりで、観音扉が設けられているが通行人のためにいつも開門していました。

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島原は京都の遊廓を支配下に置き、各所の茶屋遊女屋渡世の鑑札を交付する立場にありました。この制度が明治三年崩れ、直接京都府がこれに変わり、鑑札も府が交付することになりました。

日本三遊廓の一つ、京の遊所の根本として君臨した傾城町西新屋敷島原が、ある日突然、京都の町外れの一遊廓になったわけです。各藩の京屋敷の大宴会も当然姿を消しました。

『売買ひとり案内』明治十一年刊によると、当時の島原青楼に

揚屋町  長松楼 中川徳右衛門
      柴籐楼 高村新七
      万春楼 長谷津弥
      橘仙楼 杉はる
      向栄楼 林芳太郎
      翠?楼 杉岡金之助
中之町  養花楼 高橋源之助
下之町  桔梗楼 安井て衣
上之町  旭楼  上村志な
中堂寺町 松緑楼 小林志な
太夫町  大井楼 井上源七

『京の花街「輪違屋」物語』高橋利樹著には、輪違屋は明治五年当時「養花楼」と名乗っていたとあります。これで行くと長松楼=角屋になり、桔梗楼は桔梗屋な可能性が強いようです。江戸期、島原の揚屋も置屋も~屋だったのがすべて~楼に変わり、その後再び角屋、輪違屋に戻ったのは、何らかの力学が働いたものと思います。

明治十四年『都の花競』大西亀太郎に載る島原太夫を『売買ひとり案内』の町順に合わせ並べてみます。

揚屋町  若鶴太夫 十九年三月
      若紫太夫 十七年二月
      若緑太夫 二十三年五月
      立花太夫 二十年一月
      初紫太夫 二十二年十一月
      松人太夫 十四年
      光扇太夫 十七年
      花紫太夫 十六年一月

中之町  薄雲太夫 二十年六月
      雛?太夫 十八年九月
      色雲太夫 十九年六月
      松扇太夫 二十年九月

下之町  降?太夫 二十八年十一月
      光人太夫 十七年三月

上之町  なし

中堂寺町 初扇太夫 二十五年三月
       東雲太夫 十六年
       末廣太夫 二十六年七月

太夫町  総角太夫 二十年

その他太夫町に里花、花積、高松と太夫の称号が附かない三人が登録されています。総じて若年の太夫が多く見受けられます。一番年嵩でも二十八歳と当時の様子を伝えています。その他芸妓は中之町、中堂寺町、下之町に十七人紹介されています。

明治に入り、島原は衰退します。その打開策の一つとして明治十九年、嶋原は祇園新地に三軒支店を出し太夫を置きます。その内一軒は末吉町の小林で、まもなく小林以外の二軒は廃業したものの、明治二十七年に三景楼というのが出来ています。この顛末は後日祇園ぞめきに場所を移して説明を試みます。

これは前回紹介した、島原が祇園で仮宅を持った際、味を占めた業者が島原に戻ってからも虎視眈々と祇園再進出を狙っていたのかも知れません。

少々畑違いになるものの、『ホトトギス』昭和三年八月号で、高浜虚子が島原太夫道中再訪の際、過去の思い出でとして学生時代に訪れた島原の元気の無い様子を書いています。

「私は嘗て一度此の太夫の道中を見た事がある。其は明治二十六年の事で、高等学校の帽子を被って居る時であった。先ず壬生寺に壬生念仏を見に行って、其時島原に太夫の道中の事を聞いたので、帰りに立ち寄って見た。詳しい事は覚えていないが、なんでも私は菜の花の咲いている道傍の埒のところで見たように覚えている。其時分は此島原もさびれていて、すぐ裏は蛙の鳴いている田甫であったように記憶している。道中を見るのにも壬生寺からとぼとぼと田舎道を散歩して来て、其儘道傍に佇んで見たやうに記憶している。見物人も余り大勢で無く、何だか淋しいものであったやうに記憶している。」

丁度この頃が底で、明治二十七年の日清戦争あたりから島原も息を吹き返します。



by gionchoubu | 2016-06-08 14:06 | 島原遊郭 | Comments(7)

島原遊郭ぞめき 勤皇か佐幕か

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文久三年(1863)近江の水口(みなぐち)藩の公用方が会津藩の公用方に、新撰組の乱暴狼藉は目に余る、という様な話をしました。これを受け新撰組の上部にいる会津藩は、新撰組に注意をいれました。

これを聞いた新撰組局長の芹沢鴨は部下を水口藩に向かわせ、その公用方を引き渡せ、とねじ込みます。水口藩邸では詫び状を入れることでその場を収めました。

しかし、その場しのぎの詫び状の件が水口藩主に知られると首が飛ぶと水口藩士は思い直し、間に人をたてて、詫び状を戻してくれと芹沢に頼みました。

そして水口藩は島原の角屋に芹沢らを招待して手打ちの席を設けました。総勢100人を超える規模、島原の芸妓まさに総揚げの大宴会です。

この席で、最初は機嫌よく楽しんでいた芹沢ですが、飲む程に酒乱の悪癖が顔をだし、角屋の仲居が自分を避けているのを感じ、普段からの角屋側の自分への扱いに対する不満が爆発したものと見えて、部屋に飾ってあった太鼓を二階から投げ落とし、「尽忠報国」と書かれたいつも持ち歩く鉄扇で飾り壺は叩き潰す、さらには階段の飾り欄干を引き抜き、開下で振り回し、帳場から台所まで悪鬼の如く手当たり次第壊しまわり、最後に角屋徳右衛門に七日間の店じまいを申しつけました。

その後、芹沢鴨は大阪の新町遊廓の吉田屋でも事件を引き起こします。新町の吉田屋は島原の角屋と並び称されたほどの名家の揚屋で、角屋と同じく太夫らによる年末の餅つきが有名でした。

同じく文久三年、この新町で自分の思い通りにならない芸妓の首を刎ねる訳にもいかず、髷を切り取るという狼藉を働き、吉田屋事件として、ここでも悪名を残します。(この詳細は、何時になるかわかりませんが、新町ぞめきで詳しく書くつもりです。)

芹沢鴨が暗殺されたとき、島原の角屋は早駕籠でこの朗報を新町の吉田屋伝えたとされますので、当然とは言え、よほど憎まれていたことが解かります。

角屋の北西角に「長州藩志士、久坂玄瑞の密議の角屋」の石標があります。裏面文は「久坂玄瑞の義弟、松蔭死後塾徒を率い尊攘に挺身、文久政変に山口へ七卿落ちを斡旋するも、元治元申子年七月蛤御門の変に遭い、壮烈な死を遂げた、享年二十五、角屋は玄瑞が屢々暗殺の難を避け潜行密議した場所である」との事です。

玄瑞が島原で馴染みになったのが桔梗屋の芸子辰治で、その名は慶応三年の『四方の花』で確認できます。

「さらに幕末の頃には、諸大名をはじめ西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、阪本竜馬、山県有朋、伊藤博文、品川弥次郎、井上聞多、大隈重信、僧 月照などの勤王の志士たちが、軍用金調達のため、鴻池、加島屋などの豪商をこの角屋に招き、しばしば饗宴(宴会)を催したことが伝えられています。そのほか、新撰組の近藤勇や芹沢鴨なども出入し、その刀痕が今も柱に残っています。」

以上は財団法人、角屋保存会が発行した『角屋』から抜粋したものです。

一文は勤皇派に重きが置かれ、新撰組はそのほか、で済まされています。文面にはありませんが、ここに芹沢鴨の蛮行の恨みが凝縮されているように私には思われるのです。

佐幕の新撰組は角屋に刀傷をつけ、勤皇の志士はその功績をたたえる石碑を角屋に残したのです。

参照:京都新撰組案内、武山峯久著


by gionchoubu | 2016-06-06 11:07 | 島原遊郭 | Comments(0)