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島原遊郭ぞめき 勤皇の志士

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                      祇園、一力前

幕末にかけての幕府の花街、遊廓に対する度重なる弾圧と緩和政策に、島原以外のお茶屋も置屋も、そして芸妓も娼妓も幕府に対する怨嗟が渦巻いていたと見るのが自然だと思います。

洛東の花街の芸妓が概ね勤皇方に肩入れしたのは、例えば祇園などの磨き上げられた花街が、新撰組の粗暴な性質を全般として受け入れられ難かったという面もあるでしょうが、幕府を後ろ盾にした出先機関の連中に気を許す道理が無かったからでしょう。

芹沢鴨は水戸藩士ではあったものの、近藤勇も土方歳三も農家の出で、新撰組の隊員に藩士も多く含まれましたが、同じ位食い扶持を求めて参加した浪人も参じており、原点が粗野で、剣も例えば天然理念流という、勝てれば何をしてもいいという流派の者がいたり、隊員の中で衆道が流行ったり、遊ぶ金も豪商に無心して得たものだったり、幕府の手先である新撰組は、芸妓は勿論、娼妓にとっても、積極的に肩入れする要素は見当たりません。

さて、今の動物園あたりには多くの京屋敷がありましたが、そこから祇園までは散歩がてらに通えますが、島原までは10キロほども有りましょうか、ちょっとした旅行になります。これらの京屋敷の役人が、大阪の北新地や新町、島之内で盛んに催された蔵屋敷の「お振舞の宴」のような宴席を持つ場合、京都では島原で、という分けにはなかなか行かなかったと思います。角屋では厨房設備も整い大宴会も行われましたが、矢張りこの距離は憂鬱です。

京の場合、こういった大きな宴会は左阿弥、也阿弥の様な六阿弥を代表とする寺の屋敷が席貸を営み、こういった需要に応えただろうし、一力、井筒、扇九などの大茶屋も利用されたことでしょう。祇園周辺にはこういった座敷や料理人、接待役が揃っているのです。

次に維新の功績があった三藩と遊里の関係をごく簡単にみていきますと、土佐藩邸の目の前が先斗町。長州藩は北に行けば、実際桂小五郎が幾松と浮名を流した東三本木、南へ行けば矢張り先斗町、祇園、宮川町が控えています。

真偽の程は解かりませんが、当時先斗町にあった五十以上の路地に、一番路地、二番路地などの番号を便宜上つけたのも長州藩士といわれています。(今の路地番と違い四条側から一番、二番とつけられていました。)

薩摩藩は同志社のキャンパスあたりで、洛東の花街まで少しく距離はありますものの、島原に較べればたいした距離ではありません。

幕末、特に祇園と勤皇の志士たちの固い絆も、共通の敵は幕府という接点があったのです。祇園の芸妓にとって島原は支配を受ける側、島原は当然幕府の息がかかった傾城町です。勤皇方も当初は島原で心を開く者はいなかったと思います。勤皇方が洛東を拠点にしたのは、以上のような背景もあったと見てとれます。

徳川幕府は外様大名を仮想敵国に想定し対策を組みました。その中でも西国の旧豊臣勢力は敵国そのもとして備えました。

徳川幕府は歌舞が人心を乱し、それが堕落となり、磐石の体制に楔を打ち込み、やがて崩壊に繋がると本能的に感じ取り、歌舞の形骸化に努めました。

徳川幕府は少しの公許の遊廓を認めるも、全国にあった非公許の遊廓を忌み嫌い、特に天保の遊所整理では弾圧によりこれを消し去りました。


幕府が設立当初抱いた危惧はすべて的を得たものと言わざるを得ません。

徳川を大政奉還に追い込んだのは、旧豊臣勢力と、それを命がけで支えた、遊廓を母体に花街に昇華し、歌舞を身に付けた芸妓連だったのです。



by gionchoubu | 2016-05-28 11:17 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 天明の大火

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   輪違屋

寛政二年(1790)六月には、島原による請願が功をそうし、所司代、太田備中守資愛は、両町奉行から捕史数百名を出し、市中の大々的な隠売女狩を行い、千三百名を捕らえ、島原に婢として送り込まれました。

今回は祇園だろうがどこだろうが、全ての茶立女名義で差し置かれた、茶屋一軒につき一人の茶屋娘以外は全部検挙です。

この時より幕府の遊里統制は幕末まで迷走を続け、一貫性の無い行き当たりばったりと云っていい政策は政権交代まで続きます。

この年十一月、大取締りの僅か五ヶ月で当然、祇園、二条新地、北野七軒、七条新地に五ヶ年の年期をもって正式に公許の遊廓としてこの四箇所を認め、島原には口銭を納めさせ、営業を許したのです。

これは取り締まわれた茶屋街の陳情により実現したのも事実でしょうが、島原とて、茶屋街より総額銀十五貫目を得たところで、あの狭い区域に収容限度を遥かに超えた女を送り込まれても、それだけの客があるわけでも無し、女に食事や寝る場所も与えねばならず、随分困ったはずです。島原は非合法売女の収容所の為に誂えられた訳ではありません。

この寛政二年に四か所の遊所が公許になる二年前、京都では天明の大火があり、京都の市街の八割を焼き尽くしました。当然京都の財政は逼迫しており、大取り締まりの後の当局の豹変には財政が二進も三進も行かなかったのが大きな要因だと私は考えます。

その後、京都も繁栄を遂げ、文化・文政・天保にかけ、京都の遊廓は大繁盛、祇園などで芸妓の台頭が顕著になり全盛期を迎えたのです。

しかし又もや突然、青天の霹靂、日本全国に天保の改革の嵐が吹き荒れました。天保十三年(1842)遊所整理が下されました。江戸では吉原、品川、新宿、千住、板橋、小塚原以外の二十三箇所の非合法遊里が所払い、四千百八十一人の売女は、正業に就くか吉原に行くかの選択を迫られました。

京都では所司代牧野備前守により、折角公許になった遊廓も、六ヶ月以内に業者は他の商売に変えるか、島原に転移を命ぜられ、希望業者は千三十九軒、実際に移ったのは百三十九軒、遊女芸者合わせて五百三十三人でした。

幕府はここで最後の迷走に入ります。天保の遊所整理の八年後の嘉永四年(1851)
所司代脇坂淡路守安宅はまたもや祇園町同新地、二条新地、七条新地の四箇所に制限つきで再び、島原に口銭を払う条件付で遊廓渡世を復活させました。

安政六年(1680)先斗町、五番町、宮川町、五条橋下も公認、慶応三年(1867)所司代松平越中守定敬は従来の期限付許可を外し、上納金を納める事で無制限許可・・・まさに幕府の方針は迷走に継ぐ迷走としか言い様がありません。

このすこし前、安政元年(=寛永七年)四月六日に京都は御所を含む五千軒を焼く大火(寛永七年の大火)があり、こちらも財政悪化が安政六年の遊所許可の動機の一つと私はみています。

島原もたまたま同じ年、安政元年八月に揚屋町と下之町の一部以外全焼、輪違屋は焼け、角屋は免れました。現在輪違屋はこの時の火事の後再建されました。

ちなみに、京の花街「輪違屋物語」では大火を安政三年で再建を安政四年としています。(京都島原文学碑めぐり、島原伝統保存会発行も安政四年。)

安政四年は間違ないと思いますので、大火後約三年後に再建という事になるのでしょう。

大火と京都の遊里統制はもう少し考えて見る必要があるかもしれません。

参照:日本花街史、明田鉄男著



by gionchoubu | 2016-05-25 11:57 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭 茶屋の総年寄

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寛政二年(1790),祇園、二条、七条、北野に公許で遊女渡世が認められるまでの時代を考えると、島原だけの遊廓だけでは、とても旅客を含む京都の遊客の欲求を満たせるだけの遊女の数ではなかったはずです。

島原の最盛期頃、元禄十三年でも、大夫、天神を省く鹿恋と端女郎併せて289人、時代は変わりますが、大正元年には公許の遊女、即ち娼妓だけで2463人おりました。これには非合法の女は含まれておりませんので、島原の規模では物理的にとても需要を満たすことは出来なかったと思います。

六条三筋から江戸期に於いての京都の遊廓史の大部分は、公許の傾城町と非合法の遊女体の取締りのそれでした。明田鉄男著『日本花街史』を見ると、遊女の取り締まりは数多くあれども、業者六人が死罪になったのは貞享二年(1685)東石垣町の取り締まりのみで、この時も遊女は元親にかえされています。

この売女として捕らえられた女は、せいぜい島原に強制的に送られるぐらいで、たいした罪に問われなかった様です。万一捕らえられても大きな刑罰は受けずに済む・・・という気分が蔓延していたなら、馬琴の言う「洛中半ばこれ妓院」といった状況も生まれ易かったと推察されます。

ちなみに、この事件の引き金となったと思われる所業が『武野燭談』に見えます、即ち「石垣茶屋、河原を見おろし、がけ造りにして、四壁金襴緞子にて張、床をば畳をやめて天鷲絨(ビロード)を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止せらる」貞享元年の前年が天和三年ですので、上記の死罪はこの幕府を怖れぬ所業に対する結果と考えられます。傾城町以外の遊女渡世、豪奢な建物、珍膳珍味、当然女も華麗な衣装を用いていたはずでので、さすがに厳罰が下ったものと思われます。

島原は風俗取締りの名目で、唯一の傾城町として僻地に追い遣られたわけです。ところが祇園などが立地の良さを武器に非合法遊里を営み、上客を取り込むのは筋が通りません。

窮余の策として編み出されたのが、島原を各所の廓の茶屋の総年寄にする、というものでした。これは名案でした。島原はこれである程度の金を納めさせたでしょうし、プライドも立ちます。各非合法の廓も茶屋女名目で女を置ける、奉行は島原を宥めつつ、遊女の数を確保する。二条城南西にあった東西奉行所の与力や同心なんかも、近くの五番町、四番町辺りで羽を伸ばしていたかもしれません。

その後も何度も、何度も取り締まりは行われました。しかしながら隠売女はなくなりません。なにより、これでも遊女の絶対数が足りない分けですから。明和七年(1770)の取締りで多くの私娼が捕らえられて、島原に送りこまれています。これは宝暦以降、茶屋名目で、島原に口銭を納める半公認の二条新地、祇園、上七軒、七条新地はこの網にかからずに済んだのだと思います。

この辺りの時代まで、所司代側としても、公認ではない遊所であっても、余り派手な営業をしなければ黙認、という一応それなりの一貫性はありました。



by gionchoubu | 2016-05-22 11:34 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 西門



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島原に宝暦十一年、京都全遊廓の惣年寄、即ち総取締役になったという記述を載せた本があり、以前私はこのブログで、当時島原以外の京都の公許の遊里は伏見の中書島と撞木町のみで、祇園も上七軒もまだ非公許なので、京都全遊廓の総年寄という表現に疑問を呈しました。

今一度、明治五年写『京都府下遊廓由書』の島原を見ると「宝暦十一年辛巳十一月傾城町江洛中其外茶屋惣年寄申付相成候由 旧記無之古伝」、どこにも遊廓の総年寄とは書いてありません。

これは原典を確認する事をせず、著名な書という事で鵜呑みにした私のミスです。

祇園や宮川町も遊女が公許では無いにせよ、茶屋名目で渡世しておりました。島原はその茶屋の総年寄を命ぜられたという事で辻褄が確認できました。

さて、その後の島原は二鐘亭藩山の『見た京物語』に「島原はまわり土塀にて、甚だ淋し。中ノ町と思わしきところ一膳めしの看板あり。一方口にあらず裏へ行きぬけなり。ここに住吉ノ神を祭りあり。出口の柳は大門に向かって右の方にあり。遊女態のいる店にかけるスダレ、布まぜの如く墨にて横筋をぬりてあり、模様に矢の羽などぬりたりあり。」華やかな色里の面影はありません。

ここで書かれているように東の大門一方口だった島原に西門ができましたのは享保十七年(1732)、経営不振打開策として夜見世(夜間)の営業とともに許可を得て打ち出しました。

しかしながら、立地条件の悪さだけはどうする事も出来ませんでした。

享和二年(1802)、滝沢馬琴は『羇旅漫録』で「島原の廓、今は大いにおとろへて、曲輪(くるわ)の土塀なども壊れ倒れ、揚屋町の外は、家も巷も甚だきたなし。大夫の顔色、万事、祇園には劣れり。しかれども人気の温和、古雅なるところは、なかなか祇園の及ぶところにあらず。京都の人は島原へゆかず。道遠くして、往来わづはらはしきゆゑなり。ゆゑに多くは、旅人をも祇園へ誘引す。」

当時の島原の人は大変でしたでしょうが、祇園を含め江戸期の古い建物が火事や時代の流れで失われて行ったのに対し、島原では開設当時から徐々に敷地を増やしてきた角屋や安政四年(1857)に再建された輪違屋、慶応三年(1863)年に再建された大門など江戸期の建物、門が三つも残されているのは、後世の私達にとって大変有り難いもの・・・私はこの島原の立地、そしてこれを後世に伝える人々に感謝しております。

現在石碑のある西門跡は、天保十三(1842)年にこの場所に移されました。ところが昭和五十二年、輪過で全壊、三年後門柱が復元されるも、平成十年再度の輪過で倒壊しました。

参照:吉原と島原、小野武雄著


by gionchoubu | 2016-05-19 13:04 | 島原遊郭 | Comments(2)

祇園東ぞめき 富多愛

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昨年の「祇園をどり」で見事な琴の腕前を披露した、祇園東、富菊の富多愛(とみたえ)さんの先笄(さっこう)姿です。

年少舞妓時代の基本は「割しのぶ」、年長舞妓が主に結う「お福」そして、舞妓最後の髪型がこの先笄です。明治時代初期に町家の娘が奥さんになるとこの髪型にし、お歯黒にしました。

一昨日、観亀神社宵宮際のときは富多愛さんも歯を黒く染めておりました。

舞妓さんは勿論、芸妓さんも結婚するとこの世界を去らなければならず、置屋さんのお母さんが「せめてほんの少しでもお嫁さん気分を」ということでこの先笄姿が舞妓時代の最後を飾る、という由来を以前読んだことがあります。

京都美容文化クラブ『日本の髪型』には“挿し物は、櫛、笄(こうがい)、前挿しは亀甲を使用するのが決まりで、このような根挿しを「よしちょう」と呼んでいます。また地毛のかぶたを使い先笄特有の輪を作ります。”の説明がありました。

京都古布保存会発行『舞妓の美―花街を彩る匠の技―』では“元は江戸時代に関西周辺の商家の奥さんが結っていた髪型です。いわゆる「笄髷」の一種で、髪の毛を笄の周りに巻きつけ、「橋」と呼ばれる細い板状に髪の毛をまとめたものを前から後ろにかけます。橋は「いちどめ」と呼ばれるピンのような形をしたもので、髷の上にとめつけます。そこに鼈甲製の櫛や笄、かんざしを飾り、緋縮緬を髷の中を通してつけるという技巧的な髪型です。”

昭和三十五年、今のところ最後の「祇園ねりもの」で富菊のれい子が公達役で、お花史役で富栄が出ています。この年のねりものの主催者は「祇園ねりもの会」となり、富菊の由来でしょう、富森菊一組合取締が会長になっています。富森菊一氏は市会議員としても活躍されました。

現在、お茶屋兼置屋の「富菊」で富多愛さんの妹分である富津愈(とみつゆ)さんは中学校の時四年間ニュージーランドのパラパラウムに留学して英語を身に付けた新時代の舞妓さんです。

富菊さんの玄関で、外国人の方とお母さんが会話しているのを何度かお見かけしています。外国の方にこの花街という素晴らしい文化を知ってもらう糸口が綻びかけている様です。
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by gionchoubu | 2016-05-15 10:52 | 祇園東 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 芸子現る

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上七軒の芸妓さん, 梅花祭にて

芸者、芸子なるものが世に現れたのは大阪新町が一番早く、享保年間(1728~1735)とされ、続いて京都の島原に宝暦元(1751)年頃誕生したことになります。江戸の吉原が少し遅れて宝暦十二(1762)年頃となります。

お江戸を描いた時代劇で元禄時代の設定で芸者が出てきたら時代考証がおかしいことになります。

ちなみに、吉原で芸者が現れてから数年後、大黒屋秀民が日本初めて、芸者を管理する見板(見番、検番)を立ち上げます。京都は見世、大阪は扱席というシステムをとり、これは娼妓も芸妓も含む見番機能を備えた置屋のようなもので、今の芸能プロダクションと考えていただけるとわかり易いでしょう。

慶応三年の『四方のはな』の嶋村屋を見てみると、芸子41人で幕末物に欠かせない君尾の名前もあります。舞妓は10人、二調(鼓)の舞妓が5人、義太夫芸妓4人、遊女部門に中詰12人、若詰2人、合計74人の大所帯で、こういったグループがいくつもあり、中にはお茶屋機能をもった見世もあり、こうなると見世はひとつの花街のようです。

幇間は大津屋とか鳥羽屋とか幇間の見世に属し、芸者の見世の一部門ではありませんでした。

明治になるとすぐ祇園も見番制を取り、見世は廃止されました。大阪ではその後も長く扱席が残り、戦前でも宗衛門町などに扱席はありました。

大阪を含む関西圏で時々この〜席というのを最近でも見ます。これはこの風を受け、芸妓置屋も〜席と名乗っていたものだと思います。

『一目千軒』ではこの牽頭女郎と芸子が共存していることになります。牽頭女郎は芸娼兼用で、芸子は芸専門が建て前といった所でしょう。

さて、『一目千軒』に登録されていた芸子は

上の町
桔梗屋治助、一人

あげや町
大坂屋太郎右衛門、一人

中の町
一文字屋伊左衛門、四人

下の町
桔梗屋籐右衛門、六人

太夫町
三もんじ屋又左衛門、三人

以上が大夫、天神をかかえた置屋で、それ以外はし女郎格をかかえた置屋が六軒あり、芸子もかかえました。その内、中の町西側に、わちがひやきよ、があり、げいこ、まさご、げいこ、こふじ、を抱えていました。


by gionchoubu | 2016-05-12 11:17 | 島原遊郭 | Comments(0)

祇園ねりもの 世界配信

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世界150ヵ国で放送される海外専用配信局NHKWORLDの京都にフォーカスした番組「CORE KYOTO」で、この版画に関する私の取り組みが英語で紹介されました。(2018年、5月5日)

私が出るのは終盤で、竹笹堂さんの竹中氏の古木版画や古版木の調査・復刻・修復再生事業の一環としての出演です。

祇園東の芸妓、つねさんと舞妓、富久春ちゃんも登場します。ぜひご覧ください。

...

http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/corekyoto/201604270600/

来週ぐらいまでならこのページのネットの動画で配信されています。
Watchでスタートです。


by gionchoubu | 2016-05-08 12:27 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)

島原遊郭ぞめき 一目千軒

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〜千軒とは大変人家が密集していた様子を言ったもので、遊里でいうと今の兵庫県で友君の伝説が残る室津千軒、又琵琶湖の朝妻もかつて高級遊女の白拍子の里で朝妻千軒と言われました。

『一目千軒』は宝暦七年(1757)斜天・呑獅編、八文字屋八左衛門刊とあり、前回のけいせい色三味線、元禄十四年(1701)より五十余年が過ぎました。それでも一目で千軒と例えられた程繁盛していたのでしょう。それでは前回のけいせい色三味線の名寄と較べてみます。*が一目千軒の名寄です。(やりて、と、禿、引舟は外しています)


中の町
一文字屋七郎兵衛  太夫5人、天神16人、かこい16人
一文字屋次郎右衛門 天神3人、かこい6人
*一文じ屋八左衛門 太夫1人、天神6人、はし女郎4人
*一文字屋伊左衛門 太夫1人、天神6人、はし女郎9人

上の町
きゝやう屋八右衛門 太夫1人(引船1人)、天神8人、かこい5人
*桔梗屋治助 太夫10人、天神7人、端女郎10人

中どうじ
大坂屋伝左衛門 天神5人、かこい4人
*山本やつや 太夫1人、天神3人、はし女ろう8人
*鶴屋小右衛門 はし女郎7人

あげ屋町(現在の久坂玄瑞の碑がある角屋の北角だと思われます) 
大坂屋太郎兵衛門 太夫4人(引舟3人)、天神11人、かこい12人
*大坂屋太郎右衛門 太夫4人、天神7人、はし女郎6人

下の町
きゝやう屋喜兵衛門 太夫3人(引舟)、天神12人、かこい10人、
かしわや又十郎 天神2人、かこい1人
*桔梗屋籐右衛門 天神5人、はし女郎5人

そして元禄にはなかった太夫町にも置屋ができた模様で、

太夫町ひがしがは
*三もんじ屋又左衛門 大夫4人、天神11人、はし女ろう12人

そして中どうじ町、中の町にはし女郎が3人おります。

あげ屋は合計19軒で、けいせい色三味線の24軒から減っています。新しく顔を出した茶屋、くつわは次回述べます。

元禄にいた鹿恋はおらず、延享三年(1746)に無くなったと本文にあり、最下層の北向もいません。ただし北向きはもともと中堂寺村住よしや太兵衛が価下直の女郎を商い、あまり繁盛したので、島原が島原の中堂寺町に呼び寄せたのが始まりと書いて有ります。その頃の中堂寺は『京町鑑』によれば、上長福寺町、下長福寺町、上櫛笥町、下櫛笥町、藪之内町、裏片町、四ッ塚町の七町で、今で言うと島原の北、大宮五条の西地域、京都の人ならラーメン横綱の辺りと言った方がピンと来るかもしれません。

前回の「六條ならびに中道(堂)寺傾城町、いつかたへ成とも見計、町はつれへ出し可申候。面むきの家、結構に仕まし由可申付事」の一文を併せて考えてみても、京都の遊里史に、中堂寺村に存在した傾城町を加える必要があるはずです。





by gionchoubu | 2016-05-06 15:58 | 島原遊郭 | Comments(0)

島原遊郭ぞめき けいせい色三味線

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                        大夫道中

「世に聞馴たる鶯の花に啼くも、さのみ身をうつ程にも面白からず。只いつ聞ても魂にこたへて感じまいらすは、島原の投節(なげぶし)、吉原の次節(つぎぶし)、新町の籬節(まがきぶし)」で始まる江島其碩著、『けいせい色三味線』、元禄十四年に「島原女郎惣名寄」が収録されています。

中の町
一文字屋七郎兵衛  太夫5人(引舟5人)、天神16人、かこい16人
一文字屋次郎右衛門 天神3人、かこい6人

上の町
きゝやう屋八右衛門 太夫1人(引船1人)、天神8人、かこい5人

中どうじ
大坂屋伝左衛門 天神5人、かこい4人

あげ屋町角 
大坂屋太郎兵衛門 太夫4人(引舟3人)、天神11人、かこい12人

下の町
きゝやう屋喜兵衛門 太夫3人(引舟)、天神12人、かこい10人、
かしわや又十郎 天神2人、かこい1人

以上が太夫、天神を抱えた置屋7軒で太夫13、天神57人、鹿恋54人です。
太夫町(西洞院)以外の五町にこれらの置屋がありました。引舟は太夫の身の回りのお世話をする女で、かこい格の女郎です。太夫の人数より一人少ないのは、盆前身請廓ヲ出と書いてあり、この名寄の正確性を伺わせるものだと思います。

一方端女郎は30軒で、こちらは揚屋町以外の五町の置屋に184名おりました。この端女郎の置屋として、わちがいや八郎右衛門が載ります。今の輪違屋さんのある中之町にありました。

この輪違屋の当主、高橋利樹氏著『京の花街「輪違屋」物語』に、初代創業が元禄年間(1688~1704)、ただし明治五年までは太夫の置屋で「養花楼」と名乗っていたとの事で、ふたつの輪違屋の関連性ははっきりしません。

洛中洛外図屏風(大阪城天守閣本)に六条三筋時代の傾城町が載りますが、ここにも輪違紋の暖簾を掲げた傾城屋が描かれており、見世の前で、女が遊客を誘っています。矢張り関連性は全くわかりません。

さて、置屋に対して揚屋は揚屋町に二十四軒、六条三筋時代から現在まで歴史を保つ名家、すみや徳右衛門も当然名を連ねています。その他端女郎が入る出口の茶屋と北の茶屋が合わせて二十軒ありました。

ちなみに当時の揚代は太夫七十六匁、天神三十匁、鹿恋十八匁でした。

これを同じ時代の吉原の遊女数と較べてみましょう。同じく『けいせい色三味線』の江戸之巻、吉原女郎惣名寄をみると、総数1750人。島原にはこの他、中堂寺北横町に北向きという最下級の女郎がおり、北向きの人数は把握できないものの、総数308人・・・吉原の規模は島原を遥かに凌ぎます。

当時の吉原にも太夫がまだおりましたが、たったの5人、太夫こうしが99人、さん茶が493人、うめ茶が280人、五寸局が426人、三寸局が44人、なみ局400余り、揚代は太夫七十四匁に対し三寸局は三匁、なみ局にいたってはたった銭百文、庶民も気軽に遊べた様子が汲み取れます。

この後、吉原から太夫は消滅し花魁の世界になります。公家文化の象徴であり、逢状をだしたり、儀式をしたり、逢うだけでもなにかと段取りの多く、その他各方面に心づけを払ったり、手続きを踏むことに意味がある優雅な太夫文化は武家や江戸っ子には受け入れられなかった様です。




by gionchoubu | 2016-05-02 13:54 | 島原遊郭 | Comments(0)