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島原遊郭ぞめき 七不思議

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                        きんせ旅館

「六條ならびに中道(堂)寺傾城町、いつかたへ成とも見計、町はつれへ出し可申候。面むきの家、結構に仕まし由可申付事」『日本花街史』でも『京都の地名』でも板倉所司代が幕府の意向として寛永七年(移転の十年前)にすでに傾城町移転の方針を江戸から示されていた事を指摘しています。

ですから板倉所司代は、この間十年代替地等の準備も終えた上で、移転を命じたものだと考えるのが自然です。

六條三筋の傾城町は堀や塀で囲まれている訳でなく、町の一部として区画を決めていたので、風俗取締りには不向きでありました。ただし突然「すぐ移転しろ」といったのは本当のようで、その移転騒ぎがまるで島原の騒乱様と後世伝えられたのも頷けます。

矢張り『京都市の地名』に、寛永以後万治以前京都全図で、朱雀野の中に「傾城町」書いた町割り図が張り紙で表され、移転があわただしく行われたことが知れる、としています。

移転の理由は、幕府の意向というより、風紀を乱した六条三筋の傾城町にあるとして有無を言わせないよう板倉所司代が一芝居打った様な気がしてなりません。一筋縄でいかない六条三筋の猛者共に有無を言わさず移転命令・・・板倉所司代、大した役者です。

江戸の吉原が葦の茂る不毛地にあった葭(葦)の原がその名の由来とされていますが、嶋原も、朱雀野海原に忽然と姿を現した、世と隔絶したまさに新島だったのです。

「廓の入り口を出口といい、どうもないのに道筋といい、下へゆくのに上之町、上へゆくのに下之町、橋もないのに端女郎、社もないのに天神さん、語りもせぬのに太夫さん」俗謡に歌われる島原七不思議が簡潔に島原遊郭の姿を言い得て妙です。

できた頃の島原は、堀と塀で四方を固めた城郭の様で、これが廓の謂れになります。出入り口は一つ(現在の場所でなく、北の端にありました。)ですから入り口と出口が同じになります。道筋は島原のメインストリート、当初は胴筋を当てました。

上と下が逆なのは、遊郭が鬼門に口をひらいているのを憂えて、丑寅を未申に転じ、上の町を下の町と名付けました。尚享保十年の二月に西口をひらきました。(『一目千軒』の方角之事)

端女郎、天神、太夫は遊女の階級で、当初は上から太夫、五三、三八、天神(北野天満宮の縁日が二五)鹿恋(かこい、鹿はしゝの呼び名があり四、四=十六匁)端女郎の順で、最上級の太夫と最下級の端女郎以外は、呼び名が出来た頃の揚げ代説がありますが、定かでありません。



by gionchoubu | 2016-04-29 10:37 | 島原遊郭 | Comments(0)

嶋原遊廓ぞめき 嶋原と名附けた本当の理由

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  大門、洞筋より

延宝九年(1681)三十三年の年をかけて十八巻から成る『色道大鏡』を完成させた藤本箕山が生まれたのは寛永三年(1626) 、十三の年から廓通いを始めたと本人は書いているので、彼が足を運んだのは傾城町六条三筋の最後の時、そして六条三筋から嶋原に移る頃移転劇を目のあたりにしたはずです。

箕山が色道大鏡第十二『日本遊廓総目』の「洛陽傾城町来由」を書いたのが三十六歳で、京都、大阪新町では飽き足らず、江戸の新吉原で遊んでいた頃です。

嶋原移転辺りを抜粋すると、

「柳町を室町の六条に遷さる。ここにおいて三筋町となづく。此地に居をしむる事四十年、其後大猷院殿の御代、寛永十八年辛巳年、又六条より今の新屋敷に遷さる。此時より、此処を島原ともいふ。或の日(あるひとのいはく)肥前國嶋原陣落去の砌として、郭の構へ一郭一門にして、四方按揚げの堀なるが有馬の城に似たりとて、かくいひしときけど、是はおぼろげの譬へと申べからん。抑(そもそも)、島原という心は、人皇七十四代鳥羽院の御宇に、嶋千歳(しまのせんざい)・和哥前といひしは、是本朝遊女の根元也。この嶋といふ字を取て、此遊郭になづく。原とは広き心を云也。毛詩十七公劉篇、鄭玄曰、広平曰原云々。又或説、肥後国はたれ嶋といふあり。風流嶋と書く。又六條宮の御撰の伊勢物語の真名本には遊嶋(たはれじま)とあり。彼是両様をもって見れば、とかくたはるゝ境地なれば、此嶋のながれにしたひて、嶋原となづけ侍る物ならし。」

色道大鏡巻第一の名目抄、第一人倫門の傾城に「夏の桀王の妹喜、殷の紂王の姐己、皆是傾城なり。其外西施・虞氏・王昭君・楊貴妃など同じく傾城なり。我朝にては、鳥羽院の御時、嶋の千歳・若の前といひし者、是日本遊女の根源也」十二世紀に現れた日本の白拍子は名門の出であり、芸妓を含む技芸者の祖とされています。嶋原の嶋はこの嶋の千歳からとり、原は広き心・・・島原の城は出てきても、箕山は島原の乱と嶋原移転の混乱説に関しては触れることすらしていません。

世に嶋原に関する書物は沢山あり、この嶋原の由来に、島原の乱と嶋原移転の際の混乱説を紹介していない本を探すのが難しいくらい、嶋千歳、若(和歌、哥)の前説を紹介する書物を見つけるのは難しいのが現実です。

嶋原遊郭への移転を体感した、さらにこの時期島原に尤も深い造詣をもっていた島原研究の第一人者である藤本箕山の説がなぜ紹介されないか・・・それはその由来が大変地味で人の心を引かないからだと思います。

一方、嶋原遊郭移転に島原の乱を引っ張り出すのは、譬として大変面白く、万人受けするからだと思います。

そもそも気位の高い都人が、云わば田舎で起こった騒乱の名前を日本第一の傾城町の呼び名にもって来る事があるでしょうか?

嶋原の名前の由来が「嶋千歳と広き心」説を私は信じて疑いません。


by gionchoubu | 2016-04-25 12:24 | 島原遊郭 | Comments(0)

嶋原遊廓ぞめき 西新屋敷傾城町

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  旅館金波さん跡

幕末、維新物での逸話の多くは作り物で、その後歴史小説家によって面白可笑しく書かれた話が一人歩きしたものです。だれ某かが作った事になっている都都逸や唄なども、作者が分からないのをいい事にそれらの歴史上の著名な人物が作ったことになっており、それに纏わる話なんかもついて回っています。

ただし此れを全部つきつめてこれは嘘だ、あれも嘘だと書き並べても虚しいだけで、又、歴史物語も嘘をはがすと全然地味な話になるだけですので、これはこれで良いのではとも思います。ただし事実はべつの所でまとめておく必要もあるでしょうが無視される様な気がします。

島原の由来についてです。島原という町名はなく、正式には西新屋敷傾城町で中之町、上之町、中堂町、太夫町、下之町、揚屋町の六町からなります。この後祇園新地外六町とか祇園新地内六町とかも開発されましたので、この六という数字は何か特別な思いがあるのかもしれません。

昔は舞などの習い事は六歳の六月六日から始めるのが良いとされ、実際多くの人がこの故事に習いました。

島原が六条三筋(ここにも六が顔をだします)の廓から移されたのは、板倉所司代が馬で市中を見回っていると、金蒔絵の立派な駕が通りすぎました。この女乗物で外出の時は所司代に届けでる事になっていたので、不思議思った板倉でしたが、とりあえず馬から下りてこの駕籠が過ぎるのを待ちました。

当然公家の奥方だと思い、帰って調べました。そして乗っていたのが六条三筋の太夫だと分かり板倉は激怒、「町に廓があるからこのような不都合がある。即刻朱雀に移転せよ。」「今夜から明けろ」と命じたのです。

寛永十七年(1640)のことで、この移転騒ぎが寛永十四年の肥前島原の乱が起こったときの大騒ぎに似ているから、又島原が三方海で、出入り口が一つ、さらに天草島原の城も出入り口が一つ、これが塀でかこまれ、出入り口が一つの西新屋敷の傾城町の状況とも合わせ島原と呼ばれるようになったと言うわけです。

この由来は馬琴の享和二年刊『羇旅漫録』にも文政十三年刊『嬉遊笑覧』寛文初年刊『浮世物語』にも書かれ、さらに宝暦七年刊、島原の百科全書といえる『一目千軒』にも「又今島原と呼ぶは、肥前の島原さはがしき時節に六条三筋町を今の朱雀野に引きたる故、異名を斯は付たり。古名は新屋敷とも柳町ともいふ。」江戸期のおいてもこの三説は不動のものだったようです。

はたして板倉所司代は一時の激情のみで島原移転を命じたのか、そしてそもそも島原の名前の本当の由来は・・・次回です。




by gionchoubu | 2016-04-22 11:35 | 島原遊郭 | Comments(0)

幾岡屋さん

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                        幾岡屋さん

『舞妓の美―花街を彩る巧みの技』の「舞妓さんの小間物全てを品揃えできる店―幾岡屋」を読めば舞妓さんの小間物(着物、帯、履物、化粧品以外)を扱うお店の事がよく分かります。

幾岡屋さんの創業は文久二年(1682)で、三本木の酌人(以前彼女は芸妓でない事をブログで書きました)幾松と親しかった2代目当主が、彼女から幾の一文字をもらい屋号にしたとの事、現在地に移ったのは昭和8年と有ります。

花名刺・・・芸妓さん、舞妓さんが御客に渡す名前入りのシールで、一般に千社札と言ったりしますが、正しくは「花名刺」で、幾岡屋さんのオリジナル商品です。大正から昭和にかけて活躍した染織図案家、松村翠鳳来がお茶屋遊びの折りに考案したもの、当時は家紋と名前だけのシンプルなものでした。

デザインは二百種類程で、複数の版を組み合わせて絵柄をつくり、文字入れは文字専門の職人さんが版木を作成、注文主の好みでアレンジをくわえていきます。

芸舞妓さん以外でも、女優さん、踊りの師匠、男性の御客さんが作ることもあるそうです。

その他舞妓さんのお座敷にいくときに、花名刺以外持ち物をいれる道行かごには手拭、扇、鏡などが有り、全てが名前入りの袋にしまわれています。また、お座敷に立つ三日前のご挨拶回りには赤字や金文字で名前をいれた特別なものを使うとの事。

帯揚げ・・・舞妓さん用の帯揚げは、赤地に銀で模様を型紙で摺り出しています。

からげひも・・・舞妓さん、芸妓さんが裾をからげる時に使用する紐、ピンク、赤などは主に舞妓さんが使い、芸妓さんは藤色、水色など落ち行いたものを使用します。昔は腰紐を使っていました。こちらも幾岡屋さんのオリジナル。

ぽっちり・・・以前紹介した舞妓さんの帯止め、珊瑚、メノウ、宝石などが使われ、もう技術的や材料的に制作できないものも多いとききます。幾岡屋さんでは、ぽっちりの制作や修理を承っています。

5代目当主とは一度、6,7年前、ギオンコーナーのオープニングに招待されたとき、同席になり色々お話を伺いました。昭和10年の鴨川氾濫の際、当時11歳で丁稚だったご主人が、祇園の芸妓さんが避難するのを手助けした武勇伝も面白かったし。愛知県の安城市に今も小さい花街があり、とても美しい姉妹の芸妓さんがいる話も楽しかったです。・・・幾岡屋さんでは今も残る全国花街に得意先を持っておられます。


by gionchoubu | 2016-04-20 11:05 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

舞妓さんに会いたい。

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                  岡留、駒子
   
一現さんでも、芸妓さんや舞妓さんを呼ぶ場合、お茶屋さんでは“一現さんお断り”ですが、旅館、ホテル、料理屋を通して呼ぶことができます。ただしこの場合、その旅館、ホテル、料理屋さんが普段から花街とお付き合いがあり、パイプをもっていることが必要です。また、お客さんも施設側より信頼を得ることがたいせつで、その判断は施設側にあります。もしキャンセルや何かかあるとその施設側に責任が及ぶので、施設側も大変慎重です。

老舗の旅館では、祇園甲部ならここ、宮川町ならどこ、という具合に置屋さんとお付き合いがあります。ただし一花街、一置屋が原則で、こっちの置屋がダメなら、あっちの置屋に手配という具合に行きません。ただお付き合いのある置屋さんなら、そのお付き合いのある置屋さんから、別の置屋さんに手配をしてくれます。

また親切な置屋さんですと、その花街から別の花街に声をかけてくれることもあります。ただし一万円程高くなると思ってください。

時間は18:30か20:30過ぎスタートで、その施設から往復の時間も花代に加算されますので、なるべく花街に近い旅館、ホテル、料理屋を選ぶことがコツです。例えば18:30から始めた場合、その席が終わって次の席に20:40には次の席に行って貰わなければならないので、祇園の旅館で祇園から舞妓を呼ぶと1時間40分いてくれますが、嵐山ですと、正味40分ぐらいになってしまいます。

日曜日は花街によって第二、第四日曜日か、第一、第三日曜日が舞妓さんの公休日ですので、手配しにくいと思います。この公休日制が始まったのは」昭和33年だったと思います。京都の条例か何かで決められました。ただし公休日で来てくれることもありますけど、なるべく休んで頂きたいというのが私の本音です。

最初なら、20人以内のグループなら舞妓さん一人でも大変たのしい席になります。音楽はCDで流しまして、2曲ほど舞ってくれてあとは楽しくお話したり、写真を撮ったり・・・とかです。ただしお茶屋遊びをするなら、三味線さんである地方さんも呼ばなければいけません。勿論お客2人でも呼ぶことはできますが、一席いくらなので、一人の負担は増えます。

本来舞妓さんは余りおしゃべりしないのが美徳で、昔はお客さんも心得ており、にぎやかな宴席は芸妓さんが主役でした。現代舞妓はよくお喋りしてくれますが、本来お座敷の花は芸妓さん。2回目からは芸妓さんにウエイトを置くのをお勧めします。

夜より昼のほうが呼びやすいので一応参考まで。

それでは、楽しい一時を・・・



by gionchoubu | 2016-04-17 14:29 | 舞妓・芸妓 | Comments(0)

都をどりと伊勢音頭

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   亀の子踊り

古市の伊勢音頭が亀の子踊りの別名を持つのは、踊りといっても両の手先を胸先三寸のところで、上下に振り動かすことからです。これなら踊りの素養がない娼妓でも簡単に振りを覚えられるということになります。

代表的な備前屋の地方は芸妓六人で左右に胡弓一人づつ、三味線二人、歌二人で、備前屋音頭歌は出だしが、√さくら花、たかゑかくにもさかりとは、いいあわせねど人こころ、うつりやすさよ世の中の、恋のつぼみのひらくまで~、というもので、妓楼によって演奏法も娼妓の出方、引き方も夫々の工夫がありました。

この備前屋は「桜襖」油屋が「重ね扇」杉本屋「菊の寿」で何れも七五調で、歌詞は永く、優雅にできていました。

この亀の子踊りが祇園甲部の都をどりのベースにあるというのは知られた話です。もともと関西の座敷舞は(畳)半畳舞とか一帖舞といわれるように限られたスペースで限られた御客を楽しませる様発達したもので、多くの客に舞台で見せるという発想は必要有りません。

『京の舞踊』で田中緑江さんは「槙村(後の京都府知事)は祇園新地の取締役をしていました杉浦次郎右衛門と相談し、その頃この花街の踊は篠塚流の舞でしたのを三代目井上流の片山春子にここの踊を担当する話になりました。引き受けたものの何をしたらよいのか師匠たちが集り相談の末、下河原のまくづ踊が華でよいが、あれは伊勢音頭を真似たものやから、皆よって伊勢音頭を見に行こうやないかということになり役員から師匠達共々伊勢宇治山田の古市へこれを見学にいきました」と都をどりと亀の子踊りの間に前回述べた東山名所踊り(まくず踊り)が介在していたことを紹介しています。

そして「一行はこの踊子の出るのは華やかでよいのですが、囃方が前に列んでは多くの客がはいれませんので、地方を正面の後列に囃方をその前に並べました。」と都をどりと伊勢音頭の配列の違いを、理由とともに説明してくれました。

明治五年、第一回のみやこ踊りが新橋西入南側の路地(現在旅館ギオン福住辺りか祇園東の置屋岡とめ辺りの内どちらか)の松之家という寄席で催されたのですが、その出演者であった名妓、三宅美代鶴は「アノ時は新橋の松の家という小さな寄席で、踊子は矢張り左右の花道から出ましたけれど、お囃子と地方は正面の雛段に並んでいやはんたんどす。」と回顧しております。

ちなみに松乃家で開催されたのは第一回のみで、二回目からは花見小路西側に新しい会場を求めました。現在は花見小路東側の祇園甲部歌舞練場です。

昨年(2015)年発行『ステージショウの時代』中野正昭編の著者の一人、濱口久仁子氏が第三章「宝塚歌劇の日本舞踊とその周辺」で都をどりと宝塚歌劇の共通項を解き明かす過程で、この亀の子踊りにも触れられています。


by gionchoubu | 2016-04-15 12:42 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

古市伊勢音頭

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                                 備前屋の伊勢音頭

三重県にあった古市遊廓は非公許ながら公許であった江戸の吉原、京の島原、そして大阪の新町の三大遊廓とあわせて四大遊廓の一つに数えられ、寛政六年(1749)古市の大火で焼けた後、これが新築のきっかけを生み、三都の遊廓をしのぐ大廈高楼が軒を並べ、古市は全盛期をむかえます。

「伊勢参り 大神宮にも ちょっと寄り」という川柳がその気分をよく伝えています。

江戸時代、伊勢参りする人は順序としてまず外宮へ参り、古市を通って内宮を参ったもので、実は古市が本来の目的の伊勢参り客も多かったのです。

伊勢音頭は古市の遊廓が名古屋の西小路、富士見ケ原、葛原の三箇所に支店をだし、郷土色をだそうと地元の河崎音頭で遊客をもてなして評判を出しました。これが伊勢の音頭ということで伊勢音頭という名で呼ばれました。

元分三年(1737)に名古屋遊廓が廃止になったとき、古市が出した支店も戻って来る事になり、そのとき持ち帰ったのが伊勢音頭だったのです。

この古市伊勢音頭の発生は野村可通「伊勢古市考」によるものです。

古市では遊女の顔見世としての要素が多分で、たとえば代表的な備前屋ですと、舞台は正面と左右におおきくせり出したもので、踊り手は左右より十名ずつ「よいよいようやな」と掛け声をかけて踊りながら、中央で行き違いになり、反対側の通路に消えていくものです。

遊客はたとえば右から出た前から三番目の妓というような選び方をしたのでしょう。

「京の舞踊」で田中緑江さんは寛延(1748~1750)の頃、備前屋の思いつきで、沢山のお茶屋のうち、大楼の広間に三方に舞台を作り、これに遊女に揃えの衣装を着せ。左右の花道から十人づつ踊りながら出てきて正面で入れ替わって左右に別れは入る、と書いています。

明治時代になると三方がせり上がりの板廊下、拍子木の音と共に朱塗りの欄干が下からせり上がり、上から提灯や造花などが下がってきました。


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by gionchoubu | 2016-04-11 13:16 | 遊郭・花街あれこれ | Comments(0)

東山名所踊り


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                    祇園ねりもので官女姿の江良加世

それでは明治七年の東山名所踊の開催がどのような手続きで開催されたか見てみます。

まず明治七年三月二十五日、(京都)博覧会社に、月見町貸席の平井しけ、より舞芸興行御願所が博覧会社にだされ、四月十四日に京都府知事、長谷信篤に御届書がだされています。

「度旨去ル三月廿五日御願奉申上候処御聞届ニ相成り候ニ付就而者来ル五月三日より相始昼午分四時夜十時限日数二十日之間同廿二日迄興行仕度候ニ則左之場所江建札仕候間何卒御許容被為成下候ハヽ難在可奉存候 以上」

その立札の許可を求めた場所が、堺町御門前、寺町御門前、中立売御門前、三条大橋前、四条小橋前、五条大橋詰、八坂石段下で、この頃の賑やかな場所が分かります。

興行場所は安井前、平野御家席となります。

幸いこの年の東山名所踊は好評だったようで、最終日の五月二十二日に六月三日まで興行の延長の願い(東山名所踊日延御願)がだされています。

この時の博覧会総代の二人の内一人が三井源右衛門となっています。三井源右衛門は、当時美貌で名を馳せた祇園の芸妓江良加代を射止めた人物です。

お佳代の最初に旦那になったのが明治の元勲の一人井上馨、三井源右衛門は第二の旦那でした。ちなみに第三の旦那は大阪の豪商藤田伝三郎、第四の旦那が高鍋藩主秋月長門守の長子秋月種繁・・・蒼々たるメンバーです。

結局加代は源右衛門に落籍され古門前縄手東入ルの妾宅から東京の三井の控家で過ごしたあと京都に戻り大正九年に病死、三井家から立派な葬式をだしてもらっています、

さて、明治七年の東山名所踊りに戻れば、五月三十一日、さらに六月三日までの再延長願いを京都府知事に出しています。

その後、明治八年、十年、十一年、十二年、にも東山名所踊興行之義ニ付御願が出されていますのでこれらの年にも開催されていたことが分かります。

明治八年の分を見ると、踊り手は下河原町、鷲尾町、上弁天町、月見町、清井町合わせた山根子芸妓が十七人、三味線が同じく九人。その他鳴り物や三味線など数人は祇園などから応援に入った形です。

この年のプログラムは、部屋見舞、山姥、娘小町、子持山姥、面うり、信の、樽拾い(実はでつち)、七福神茶摘遊、三番叟、達奴、二人万歳、嵐山、花車、兼道、艶容対之染模様(実はお染久松)、妹背山道行、さらし、相模海土、朝戸出、ましら、朝妻、玉取海士、彌生達遊山(実ハおなつ)咲揃ふ、千代の梅香(実はわん久)でした。

ちなみに明治十年、十一年、十二年に力彌がかけられています。下河原町に純日本旅館力彌さんがありますが、あるいは関連あるかもしれません。

惣(総)踊東山名所踊唱歌

名も高尾 我が罪栂尾までの紅葉げに 通天の橋からみれば 人目も知らぬ男なら うらみも恋もあるまいものを なまぜ近江の水鏡 写して見れば水底は かたい堅田の石山に きつふ乗たりわしゃ乗せられて おもいすごしはわれ唐崎の 一つ前帯しどけなきふりよ たとい粟津と三井寺の鐘ではおもいいる 先の矢橋の風に 比良のゝ雪のくれ√うんらが在所の在所の畝道づたいすべらき申さずやわやわござれじまんするじゃないが穂に穂がさいて野づらの見事さ娘もお婆も赤根いらめいめいに重の染模様子妻ちよきりきりりゝしくかゝげ物見ゆ遊さんは船でこい駕でこいおうがってんじゃ榮よう栄がしつくし申し目出たき御代の印かや所賑ふ春の花幾千代かけて目出たけれ  



by gionchoubu | 2016-04-06 14:52 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)

東山踊り(真葛踊り)

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              東山名所踊りの会場は安井金毘羅前の平野屋だったといいます。

日本の花街の踊りの最初は京都祇園の都をどりと先斗町の鴨川をどりというのが一般的な解釈と思います。第一回京都博覧会に附博覧会として共に明治五年に始まりました。その次は明治十五年に始まった大阪の北新地の浪花踊だと思います。

大阪ではさらにその後明治二十一年南地五花街による芦辺踊、新町遊廓が明治四十一年に始めた浪花踊り、堀江遊廓は木花踊(このはな)を大正三年に初めています。東京には新橋の東をどりが有名で、こちらは大正十四年が最初の開催です。

興味深いのはこれらすべて自分の花街の名を踊りの名につけていない事です。なぜ祇園をどり(現在の祇園をどりは後に分裂した現在の祇園東歌舞会によるもの)北新地踊、堀江踊り、新橋をどりにしなかったかは、きっと関連があるずです。

緑江叢書の『京の舞踊』によると「下河原の真葛踊」の項があり、これは明治五年の都をどりや鴨川をどりの先鞭をつけたものとされ、そうすると此方の方が花街踊りの濫觴と言うことになります。

又の名を東山踊りと言い、分からない事が多いものの、昭和三十年代後半に、島原の角屋の中川徳右衛門氏がその番附を三枚入手され、そのうち二枚が紹介されています。

下河原の遊所は以前も紹介しましたが、下河原の山根子という芸達者な女達が一廓を持った八坂神社南門から高台寺までの遊所で、明治十九年に祇園に併合されました。

京都府立史料館が編纂した『京都府百年の資料』に明治七年~十二年に下河原の総代願人が京都府知事の槇村正直知事に舞芸興行御願所や宣伝の為の立看板の許可とか色々書いて有りますので紹介させて頂きます。

こちらは総て東山名所踊りになっており、真葛(まくず)は出てきません。真葛原とは知恩院より円山公園、現在の鷲尾町あたりをいいます。まくずおどりではすこし響きが良くないので東山名所踊りにしたのかも知れません。

都をどりも、本来は雅おどりとなる予定でしたが、片山春子(後の井上八千代三世)がミヤビの響きがよくないとお歴々を説き伏せミヤコにした経緯があります。片山春子が偉いのは、このお歴々の顔を潰さぬ様このミヤビを自分の会名に頂く形にしたことで、今でも井上流のみやび会は健在です。

もう一つ島原にも明治七年、八年ぐらいに青柳踊があり、片山春子が振り付けをしましたので当時の島原は井上流ということになります。ちなみにこちらも島原踊ではありませんでした。


by gionchoubu | 2016-04-03 12:08 | 京都の花街・遊廓 | Comments(2)

Gion Nerimono,Discovered Photografs


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This distinctive figure is a Geiko.


Discovered photographs.

As a Geishya district, Gion was one body for a long time. However Gion was separated into two bodies between 1881 and 1886.

Main body was named Gion Kobu and separated part , Gion Otsbu (now Gion Higashi ).

Now,there are five Geishya districts in Kyoto and they are called Kyoto Go Kagai or Kyoto five flower districts. Both Gion Kobu and Gion Higashi constitute Kyoto Gokagai together with Kamishichiken, Pontocho and Miyagawacho.

Gion Nerimono had been held by Gion Kobu till 1892. After a long interval of 42 years, Gion Higashi (Gion Otsubu at that time)resumed this splendid parade in1946.

Gion Higashi had Gion Nerimono five times so far and the last one was held in 1960 .Gion Nerimon was originally started after dark. On the other hand Gion Nerimonos procession by Gion Higashi started in the late afternoon.

A couple of years ago, in a storeroom of the Gion Higashi office, over 150 photos which had been taken in the1950s Gion Nerimono were found. And this discovery was reported in the local paper.

Take a look at some of these discovered photographs.


Written by Ryohei Masawaki

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by gionchoubu | 2016-04-01 12:22 | ねりもの Gion Nerimono | Comments(0)