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五条楽園ぞめき その十八

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          五条楽園歌舞練場(五条会館)

昭和三十七年(1962)年の『京都名鑑』花街の覧には、必死に花街としてやっていこうとしている五条楽園の姿がみえますので紹介させていただきます。

五条楽園・・・会長以下、新しい花街つくりに賢明で、10月18日に舞台も落成、5・7月に研究発表会を行い、高瀬川筋に美しい街頭をつけた。芸妓86、お茶屋98、置屋16で、36年10月に温習会を持つ。

この芸妓は本芸妓でなく新研芸妓でしょう。それにしても芸の発表会の温習会をもつのは本腰をいれて芸者町に取り組んでいた様子が伺えます。

さらに翌年の昭和三十八年版には是を裏づけるように

五条楽園・・・芸事への感心がいよいよ高まり、37年1月の始業式などでも、花柳芳恵舞の指導で見事な舞ぶりをみせた。若い妓が多く若い層への人気も高まっている。芸妓90人、置き屋16、お茶屋93で、37年秋にも温習会を持つ。

とあります。

実際京都府で、東京が本拠地の花柳流の浸透は大したもので、今までこのブログで取り上げた中では、上七軒、峰山、綾部、宮津の花街が花柳で、舞鶴の朝代は若柳流でしたが、町の娘さんの習いは花柳が中心だったと聞いております。

この頃の京都の花柳流を調べてみると(京都名鑑の1959舞踊参照)家元寿輔はブラッセル行きなどで忙しく、関西のことは永扇会を率いる分家、芳次郎に任せた形で、京都では桜美会をもつ花柳芳恵舞が中心だったようです。五条楽園小唄も振付を担当したのは花柳芳恵舞でした。

その他、芳曳、芳桜、芳左衛門、芳寛輔、芳麿、双、芳菊次らで、それぞれが自分の会を持ち活躍していました。

当時の京都の邦舞は井上流、花柳流、若柳流、藤間流以外にも、坂東流、楳茂都流、山村流、西川流、吉村流などが競いあっていた様です。

売防止が完全施行された昭和三十三年以降はかつて関西に多かった芸・娼妓(酌婦)二本立ての花街は整備問題と、労働基準法による週休制の実施などが課題として挙っていました。

労基局は

十八歳未満の芸・舞妓その他の使用人に月二回の休暇
十八歳未満の舞妓・女中に午後十一時以後の深夜就業禁止
年季奉公的な契約の禁止
賃金支払い法の明確か

を勧告しました。 


by gionchoubu | 2016-02-28 10:49 | 五条楽園 | Comments(0)

京都私娼考 その八

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                                  伯人(白人)

『京都遊廓由緒』に寛政二年(1790)十一月・祇園町・同新地・二条新地・七条新地・北野上七軒都合四ヶ所江二十軒五ヵ年之間差許相成とあります。

これがこれらの地に正式に遊女渡世の許可が下りた事になります。

ところが享和二年(1802)刊『羇旅漫録』にて滝沢馬琴は「京にて島原の外御免(公許)の遊女町は、五条坂、北野、内野なり。五条坂はあこや(阿古屋)株と称す。又近年あらたに免許ありしは祇園、同新地、二条新地、七条河原(七条新地)」と書いています。

馬琴は清水新地(あこや=五条坂)上七軒(北野)五番町あたりは公許とはっきり馬琴は書いています。近年あらたに免許は『京都遊廓由緒』の寛政二年のことでしょう。これが疑問です。

(ちなみに当時の五条坂は細い道でした。現在の対面で大型バスが通れる広さに拡張されたのは、太平洋戦中、爆撃による延焼を止めるため、民家を強制疎開させ現在の形にしたものです。)

もう一つの疑問は、宝暦十一年(1760)時の所司代は島原を京都遊里の惣年寄に任じたという、これも口伝として『京都遊廓由緒』に載ります。ところが寛政二年まで、洛中・洛外の公認遊廓が無いのなら京都遊里の惣年寄りの意味がありません。伏見の撞木町と中書島は公認ではありましたが、島原がこの二箇所の上にたったということでしょうか?よく分かりません。

上記の疑問はとりあえず置いておいて、京都の私娼に戻りますと、

馬琴は『羇旅漫録』で「京に見世のある妓楼は、縄手、二条新地、北野、内野、御所うら等なり。これらいづれも見世をはる。いづれも賎妓にして、見世はうちつけ格子、畳わずかに三四畳を敷くべし、二条新地に尤も多し。御所裏はむかし御所の下主女、夜行して色をうりよし。今はかゝることはなしといふ。五条坂も見せ付あり」とも述べています。

格子のある三四畳の張見世に何人の遊女がいたのでしょう。又御所裏は前回述べた御霊うらのことと思われます

もう一つ総嫁、つまり東京で言う夜鷹に対する記述もあります。「総嫁は二条より七条までのかはらへいづる。河原にむしろかこいをしてこゝに夜合す。河原の水なき所に石を高くし、そのうへにむしろかこひ“三尺ニ一軒”をするなり。ひるはとりくずして又夜は小屋をかける。総嫁は川ばたにたゝずみ居て往来の人をひく」

公許の島原で太夫、天神、端女郎などの階級があったように、私娼にも白人と呼ばれた上等や総嫁、図子などの下等がいたのであります。しかも河原の石を器用に積んで、莚の屋根を作ったところで夜合するとは、一体どんな男が客となったのでしょう。

一方、上等私娼といえる白人の様子を『当世乙女織』(私娼取締考集録)の一節が記しています。

「まつ湍具は緋綾子を下もへに、ほのかなる風の吹き返し床しく下着は濃き紫の縮緬に祐善絵の白隈、思ひの有りたけを絵にかヽせ、中着は地なしの紅絹裏、上は黒縮緬に白紋、裏は茶苧羅にして袖縁は白繻子の揃へ、抱へ帯なしの千鳥くけ、素足に京草履、櫛は名代の二つ櫛、鼈甲の照りのよきに春正の高蒔絵一枚につき三両より下直を指さす」




by gionchoubu | 2016-02-26 11:23 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その七

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                    佐藤要人著、江戸水茶屋風俗考

幕府は旅籠屋に飯盛女(公文書では食売女)一軒につき二名までと決めたり、東京でも南品川宿に150人と制限を設けたりしています。つまり幕府は飯盛女名目で一軒につき遊女二人、南品川なら全体で150人まで遊女を置いても構わないといっているのと同義で、眼に余るようなら検挙するよ、と言外に匂わしているのです。

旅籠で食事を給仕したり、なにかと旅人の世話をする女性は必要で、本来飯盛女が何人いようが、仲居の仕事なら制限する必要はないはずです。これをわざわざ何人と申しつけるのは、幕府も、宿屋も、御客も、飯盛女=遊女と認識していたことになるのです。

なぜお上がこんな周りくどい言い回しをするかと言うと、幕府は公用や特権者(公家、門跡等)の人馬の宿立てを無賃使用させたり、行政的な責務を宿駅に無償で求めた見返りで、宿場経営の必要な要素として一般の旅行客に維持費を求める事を認めざるを得なかったのです。

公式では絶対だめでも、逃げ道をつくり非公式に認める・・・現在でも色んな所でみられるようです。私は日本しか知りませんが、他国にもどこでもあるのでしょう。ただ日本はこの傾向がすこし過ぎるのかもしれません。

話しを京都に戻すと、茶立(点)女や茶汲女も同じ事がいえます。茶屋があれば、お酒を出したり、料理を運んだりする女がたった一人では、小規模な茶屋でも回るはずがありません。

ところが祇園でも、承応年中、水茶屋も煮売茶屋も料理茶屋でも茶立女や酌取女は一軒につき制限一人、享保年中にもわざわざこれを確認するお達しが渡されています。

つまり茶屋株が許された店は表向きはだめだが、派手に風紀を乱さない限りは私娼を置いてもいいよ、と言っている事になるのです。

と、私は以前から思っているのですが、これをこうだとはっきりと説明してくれている著作等に出会ったことがありません。もし私の曲解ならごめんなさい。

参照:芳賀登著『宿場町』、『講座 日本風俗史 旅風俗 第3集 宿場編』、雄山閣


by gionchoubu | 2016-02-22 11:48 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その六

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                        下御霊神社

「京にて島原の外御免(公許)の遊女町は、五条坂、北野、内野なり。五条坂はあこや(阿古屋)株と称す。又近年あらたに免許ありしは祇園、同新地、二条新地、七条河原等なり。その外西石垣、上宮川町、東石垣、下宮川町、古宮川町、六波羅野、御影堂うら、都市町、平居町、一ノ宮町、三ノ宮町、膳所うら、富永町、末よし町、新ばし、なわて、川ばた、先斗町、壬生、五ばん町、七番町、三ツ石町、六軒町、寺の前、下ノ森、上七軒、しら女の辻、御霊うら、杉本町、野川町、大門(文)寺町、先斗町、川ばた、灘波町、若竹町、新車屋町、丸田町、檀王うら、等、皆私?(かくしばいじょ)也、凡洛中半ば皆妓院なり」

享和二年(1802)刊『羇旅漫録』で滝沢馬琴が京都市中の遊所を書きとめ、洛中は半ば色里だとあきれ返っている箇所です。近年あらたに免許ありしは祇園、同新地、二条新地、七条河原は寛政二年(1790)祇園、二条、七条、北野の遊女屋が公認された事を指しています。

上記の遊所には聞きなれたものも、聞きなれないものもあります。『日本花街史』で明田鉄男氏が町名よりその場所を特定する作業をされていますので、私も参加させていただきます。

まず、これらの私?は馬琴の性格でしょうか、思いつくまま書き並べているのではなく、ちゃんと地区を頭で描いて順序だてて並べているのに気がつきます。

これを大雑把にエリア分けしますと、

1、西石垣、上宮川町、東石垣、下宮川町、古宮川町 石垣、宮川町エリア

2、六原羅野

3、御影堂裏、都市町、平居町、一ノ宮町、三ノ宮町 五条、七条新地エリア

4、膳所うら、富永町、末よし町、新ばし、なわて、川ばた 祇園エリア

5、先斗町

6、壬生

7、五ばん町、七番町、三ツ石町、六軒町、寺の前、下ノ森、上七軒、内野・北野エリア

8、しら女の辻

9、御霊うら

10、杉本町、野川町、大門寺町、先斗町川ばた、灘波町、二条新地エリア

11、若竹町、新車屋町、丸田町、檀王うら

1、は問題ないでしょう

2、を明田鉄男氏は(東山区〜大和大路の松原通りを中心とする一帯)としています。私も異議ありません。

3、の御影堂うら、明田氏は今は無い新善光寺、つまり寺町五条下ルとしております。私も全く同感、分かり易く云えば河原町五条の南東部分で現御影堂町、五条楽園に接していました。この群の一ノ宮町は馬琴が単に二ノ宮町と取り違えたもの。

4,5,6も問題ないでしょう。

7、の三ツ石町は現四番町の一部、七番町も現存、六軒町も此のあたりに六軒町通りが走っています。寺の前を同氏は(南区西九条にこの町名あり)としていますが、私は六軒町と下ノ森間のどこかのお寺だと思います。

8、は白梅辻子、9、は上、下の御霊神社があり同氏は下御霊神社と推察されています。但し上御霊神社の方が古く、絵馬堂もあり(人が多く集まった意味を持ちます)さらに下御霊神社はあまりにも御所に近いので状況的には上御霊神社と考えたいところです。ところが関以男氏の『私娼取締考』に、

御霊うら・・・下御霊神社の付近、加茂川の西側二条大橋と丸太町橋との間なる地域にして退隠せし御局の如き人々の住居せられし所なり。とあり、さらに維新後風紀上の関係より取り払われたともあるので、下御霊神社と断定できそうです。

10、は二条新地群、
杉本町、大文字町、灘波町は二条新地の構成町、先斗町川ばたを明田氏は本家先斗町と考えておられる様ですが、並びからいっても、矢張り二条新地内の新先斗町でしょう。野川町に関して明田氏は不明としています。私は単に馬琴が中川町を誤記したと思います。

若竹町を明田氏は縄手通三条下ル東入ルとされています。私にも特に異論はありませんが、かつて東三本木花街の西に若竹町があった事を可能性として付け加えます。

新車屋町は二条新地の南が遊里化したもの。壇王うらは壇王法林寺で間違ないでしょう。丸田町に関して明田氏も尋ねあぐんでおられる様ですが、新車屋町と壇王の間に新丸太町があります(新とつきますが昔からある町です)ので私は新丸太町の可能性大だと思っています。






by gionchoubu | 2016-02-21 13:27 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その五

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                         東石垣

寛文十年(1670)、京都西町奉行所より洛中洛外に触書がだされました。要約すると、最近京都の町中で遊女を抱えて商売させるものがいる。清水、八坂、祇園、北野門前の茶屋も茶たて女一人しか置いてはいけないのは取り決めているはずだ。以後違反者は厳罰に処す。といったものです。全体文をみると、暗に茶屋株をもって商売するなら、茶点女の名目で一人が目立たぬように遊客を引き入れるなら大目に見る・・・と暗に諭しているように読めなくもありません。

貞享二年(1685)、東石垣で、「遊女数多隠し置、殊更家作美麗を極め、御歴々貴族方彼是被為成候。云々」で茶屋亭主六人死罪、遊女は親元へ返されました。

東石垣(とうせき)は今川端通りになっている四条川端下ルから二丁程の鴨川東岸で、対岸の西石垣(さいせき)がつねに西石垣と表記されたのに対し、東石垣は石垣と表記される事もありました。

東石垣の茶屋の豪奢だったのは『武野燭談』に「石垣茶屋、河原を見おろし、がけ造りにして、四壁金襴緞子にて張、床をば畳をやめて天鵞絨を以包み、天井をば水晶の合天井にして、水をたゞへて金魚を放ち、障子はびゝどろを以て、四方はみえて内はみえぬやうにかまへ、珍膳美味を尽し、美婦是を配膳するほどに、貴賎共に金次第の遊興放埓なりしかば、天和中禁止せらる」

天和は1861〜1683年で貞享二年の取締りもこの京都所司代を、幕府をも怖れぬ所在に罰が下ったと見てとれます。

その後元禄十二年(1697)、元禄十三年(1700)にも隠売女を取り締まる布令がだされました。

そして正徳四年(1714)年にも町触れが出て戒告したにもかかわらず、一向に遊女体のものが無くならないのでとうとう享保三年(1717)、洛中五十三ケ町、洛外新地五十八ケ町の宿老五人組を幕廳に招致して、もし今後隠し遊女が町内から出ればどんな曲事でも仰せ下さいといった証文を出させました。

ところが享保六年に四条石垣町に私娼跋扈の落書きがあり、これを重く見た幕廳は

一、宮川筋其外付近に白人と名付遊女体のもの有、之に付傾城町之者共迷惑之由訴出候、前々申触候処不届に候、梶堅令停止、此上左様之者有之候は、曲事可申付候、右之通可申触者也。

この町触から一年間、多くの白人が捕縛されました。

享保三年に『誉素人一首』というものが刊行されました。これは当時の流行白人百名の絵姿を載せ、抱えぬしの屋号と芸名をも明記したものです。

いかに白人という名の私娼が、堂々と渡世をしていたかの証しでもあります。
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                         西石垣

by gionchoubu | 2016-02-19 13:51 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その四

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  江戸時代遊女が八坂の塔を踊りめぐる「八坂踊り」が流行したと伝えられる。

その後保元・平治(1156~59)には五条東洞院付近より六条に私娼の軒が並びました。遊里に柳を植える風は既にこの時に芽生えたと有ります

一方鎌倉幕府はこういった遊女を処理すべく建久四年1193)に里見義成を遊君別当なる官職を設けこれに当らせました。ところがこれには特殊な取締り規制などなく、ただ遊女一人に年中十五貫文の税金を課すのみだったので、私娼が跋扈跳梁し、五条、六条、九条の通区は遊里の形態を備えました。

これでは当時、遊女にも、これを求める遊客にも公許とか非官許とかいう概念は芽生えず、また意味ももたなかったでしょう。

『猿源氏草紙』に曰く「五条東の洞院なる遊女が家の前を過くる所に、桂花、薄雲、春雨とて其他の遊君十人ばかり立出て、如何に如何に、情けなくも眼のあたりを通らせ給うぞやと云ひて、袂に縋りつ、座敷へ手を引きいれたり」『京都市・府社会調査報告書』収録

その後、こういう時代を経て、天正十七年の柳町二条の傾城町につながるわけです。その間貞和三年(1347)西洞院の傾城屋消失す。『師守記』応永二十九年(1422)夜に入り松扣参る。風流五条の立傾城の体、之を学ぶ。『看聞御記』、その他『狂雲集』に六条と七条の西洞院の両側は十軒のうち四、五軒は遊女屋という下りも見る事が出来ます。(以上、何れも日本花街史、明田鉄男著集録)

そして江戸時代に入り、遊里は柳町から六条三筋時代、ここで本邦最初の私娼取締りを含む元和五ヶ条が元和三年(1617)に発令されます。

一、 傾城町は三筋の廓ただ一つである
一、 客は一日一夜限り(逗留不可)
一、 遊女の衣料は質素に
一、 妓楼建築も美麗であっていけない。
一、 不審な遊客は届け出るように

ここで面白いのは当時の警察機構が自らが進んで私娼や不法業者を取り締まるというより、六条三筋の業者に告発させるという形式がとられた事です。実際多くの訴えが奉行にだされます。

この云わば密告により物事を進めるのは、矢張り戦国時代を経てきた家康の性格によるものが大きかったと思います。時には密告により一国が滅ぶこともあれば、救われることもあったのを家康は骨身に染みて知っていたはずです。

その後明治になって昭和まで、日本の遊里史を大旋廻させたのは外圧でした。明治の遊里史は新政府が「娼妓解放令」をだす契機となったマリアルーズ号事件で始まり、日本の公娼制度が終焉したのも昭和二十一年日本占領連合軍最高司令官が日本政府に対し「公娼制度廃止に関する覚書」を送り、これを日本政府が即座に全面的受け入れをしたことで成就された結果でありました。



by gionchoubu | 2016-02-18 11:31 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その三

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        日中に傘を傘持ちに差させるのは島原太夫の特権の一つでした。(吉野太夫花供養にて)

それではまず、ごくごく簡単ですが京都(伏見区を除いた現在の京都市)の公許の遊女史を見て行きます。前回も申し上げたように天正十七年(1598)柳町に公認の廓が立ち上がり、慶長十三年六条三筋に移転、さらに寛永十七年(1640)現在の島原にうつされました。江戸期において一貫して公認の遊女がいたのはこの流れの中のみという事になります。

寛政二年(1798)に初めて祇園新地、二条新地、七条新地、北野上七軒に期限と人数制限を儲け遊女が公認されます。この人数制限以外の遊女。それ以前の島原以外の京都の遊女はすべて私娼になります。

天保十三年(1843)、いわゆる天保の改革の一環で島原以外の遊廓は公認取り消しされます。ところが安政四年(1857)祇園町以下期限付きで遊廓復活、安政六年には先斗町、五番町、宮川町、五条橋下も公認、その後は幕末の動乱で、幕府も京都所司代も遊女どころではなく、なし崩しに明治を向かえました。

江戸時代というと、現在から見ると遊廓に寛容だったイメージがありますが、幕府は公許の遊廓の新設には極めて消極的で、諸藩も自藩の判断で遊廓を設けることが出来たにもかかわらず、これまた消極的でした。

明治政府はとても厳格な政体に感じます。ところがこと新設の遊廓設置には実に寛大で、自治体も新体制になると堰を切ったように遊廓つくりに励みました。主向きは私娼を排除し風俗管理の為、しかしながら、私娼は市、町、村には実入りがありません。ところが一つ公許の遊廓が誕生させれば、所轄の自治体には労せず多額の税金が流れ込んだのです。是と言った産業、工業のない土地に遊廓新設は経済活性の毒リンゴでありましたし、産業、工業、軍の発達した地域も遊廓新設は必要悪と映りました。そして昭和二十一年、日本占領連合軍の強い意向で公娼制度が終焉を遂げるまで、一度手にしたリンゴを手放した廃娼県はごくごく少数でした。

ここに京都府立総合史料館所蔵の特別資料、近現代資料刊行会による『京都市・府社会調査報告書』:明治36〜昭和19年,1-5(日本近代都市社会調査資料集;4)大正十一年、花柳病予防の見地より京都府警察部衛生課が資料化した『私娼取締考』があります。

京都府保健衛生調査委員であった関以雄が執筆したもので、花柳病には一応触れてはいるものの、内容は明治以前の京都の私娼史そのもので、京都の私娼史に触れるに於いて欠かせない第一級の資料となっております。今回から数回はこの資料を基に京都私娼史を見ていきます。

本編によると、京都に私娼というべき女が現れたのは、鳥羽院の頃(1120)、男子が、筋骨の逞しきや気宇の雄ではなく、黛粉美容で女性の意を得ようとした時代と記します。

この執筆から約八年後、同じく大阪で公娼の衛生の任にあった上村行彰が『日本遊里史』に白拍子の発現として同じような記述をしていますのは、この発想には別に底本のようなものがあるのか、あるいは関以雄の意見を踏襲したものか、私には分かりません。


by gionchoubu | 2016-02-16 12:41 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その二

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                   髪は兵庫髷、江戸時代中期遊女蛍狩の姿

西鶴の『好色一代男』に元禄時代少し前の京都の私娼が出ているそうです。
(錦織剛男著、『遊女と街娼』)

似木、二木(にぼく)・・・清水から八坂あたりの娼婦兼業の茶屋女
見世女・・・京都小川通りの糸やの女
間(あい)の女・・・京都知恩院古門前あたりにいた茶屋女ともつかず傾城でもない。

又、京都では街娼である立君や辻君の事を芝姫と呼ぶこともありました。辻子君というのもこの一派でしょう。さらに京都を含む京阪一帯で、私娼を総嫁といいました。鴨川橋付近の川原に小屋を造り、莚を敷いて戸口に立ち客を待ったといいます。又京都の祇園を含め大阪などでも私娼のことを白人(はくじん)とよびました。

京都の熊野比丘尼については以前とりあげましたので、ここでは略します。

次回に続き遊女職業異名です。

『ごぜ』・・・門付けをしながら各地を回る盲目の女性の旅芸人が、生活の糧に
身を売りました。

『女給』・・・カフェーの女が春を売りました。

『白拍子』・・・立烏帽子、白の水干をきて男舞の舞妓(ブギ)を務めし物が売女の代名詞になりました。

『酌婦』・・・一番手っ取り早い方法で、戦後まで生延びました・

『洗濯女』『菜売』『把針兼』(はしりがね)・・・一夜妻として船上に乗り込みました。名目は船員の洗濯、針仕事や不足がちの菜を売る名目です。

『大道芸人』・・・江戸時代、こうした稼業の傍ら春も売りました。

『茶汲女』『茶点女』・・・茶屋の給仕女が遊女になりました。

『茶摘』・・・薄化粧に手拭の頬かぶり、手甲に赤前垂れの艶な姿。

『機織女』・・・機織の工女で元禄時代からありました。

『帆洗女』・・・江戸の佃島にいたそうです。

『巫女』・・・柳田国男氏が遊女は本来巫女であったと唱えておられました。

『銘酒屋女』・・・明治二十年頃より、東京市内の名所に、表面は銘酒の一杯売りを看板に流行しました。実は売女でした。

『やとな』・・・雇仲居が春を売りました。

『矢場女』・・・楊弓店の女がやがて、艶声で男を呼び入れました。

『遊女歌舞伎』・・・あまりに人気が出て風紀を乱しため、とうとう女性が歌舞伎を演じることが禁じれました。

『綿摘』・・・綿を表面の職として密かに淫を売りました。

『綿帽子』・・・女にふさわしき綿帽の製作を表面の営業としました。先斗町が有名。

上記八割程は宮武外骨の『猥褻風俗辞典』を参考にしました。まだ潜んでいると思いますので、書籍等で出会ったら書き加えると思います。






by gionchoubu | 2016-02-15 16:10 | 私娼 | Comments(0)

京都私娼考 その一

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                 人形使い・・・男共の表情が全てを物が建っています。

京都に公許の廓ができたのは天正十二(1598)年、秀吉の馬の口取りをしていた原三郎左衛門が太閤に直接願い出て柳町二条に廓を開いたとされます。身分の低い者でも、いつも傍にいる馬の口取りだからこそ、太閤秀吉に直訴できた機会が持てたという説があります。

それから都の公許の遊女の歴史が始まる訳で、これが終焉するのは昭和二十一年二月二日に内務省令第三号で「娼妓取締規則」を廃止した時、これにより公娼制度は廃止されました。

昭和三十三年四月一日の所謂売防法完全実施は売春そのものを禁じた法律が罰則を伴ったもので、公娼が消えたのは終戦の翌年1946年だったのです。ですから京都の公娼の歴史は柳橋二条から終戦まで、350年程、仮に最初の公許の遊所を応永四(1392)年の九条の里に求めたとしても公許の遊女の存在は550年、現在までの京都の歴史の限られた期間ということになります。

日本に人が住み始めてから、貧しさなどで身を委ねる女はいくらでもおったでしょうし、現在でも、公娼というものが存在しない限り、そういう行為は総て私娼の範疇にはいるのです。

公許の遊廓が存在した江戸時代において、ほぼ終末まで、日本に存在した軽く600を越した遊所の殆どが非合法で、女は私娼、さらにそれにすら属さない夜鷹、惣嫁、立君が男の袖を引きました。

日本の売春史は私娼史のそれが中心で、公娼の歴史はその一部なのです。

さて、江戸期に於いて、女性が従事していた職業が遊女の意味をもつ場合、もともと実業だったのが、いつの間にか裏の商売になった場合と、当局に提出する場合に必要な、名目としての職業などが挙げられます。

今回と次回は職業女性遊女異名考です。

『足洗女』『出女』『留女』『飯盛女』『飯売女』・・・江戸期に宿場女郎を生み出した背景には幕府は宿場運営の義務、天馬労役を宿場に負担させ、自ら金を出さなかったことにあります。

『足擦り』・・・宿場であんま女が転びました。現在でもある種のマッサージ嬢がこの伝統を受け継いでいると聞きます。

『尼出』『熊野比丘尼』『勧進比丘尼』『仕掛比丘尼』『歌比丘尼』・・・比丘尼は女僧の事、昔の人もこれは世の末だと思っていました。

『大原神子』・・・もちろん巫女も勧進して諸国を回り、春を売りました。巫女遊女起源説もあります。

『踊り子』・・・江戸期、踊りを見せるという名目の売女が江戸中に現れたと云います。近くにはダンサーが官憲の目を掻い潜り、この結果厳しいダンス規制が設けられました。

『髪洗女』『風呂屋者』『髪洗女』『垢すり女』『垢掻女』・・・これら総ては風呂屋で垢すりをしていた女が遊女化したもの。

『傀儡』(くぐつ)『人形使い』・・・もともと人形遣いや曲芸を傍らに淫売をしました。

『芸者』・・・『大正芸妓』は、大正初期に東京や大阪で、なんらの芸無きものが、芸妓鑑札を受け、転び専門芸妓になりました。他に『山猫芸者』『往来芸者』『転び芸者』『昆布巻芸者』など多数。

『提重』(さげじゅう)・・・江戸の明和安永年間に餅などを重箱に入れて提げ歩く行商を表向きに春を売りました。


by gionchoubu | 2016-02-13 11:26 | 私娼 | Comments(0)

猪崎新地ぞめき、城山と浮世小路

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                     昭和二十四年以前の?崎新地

昭和八年の『昭和前期日本商工地図集成第二期』に集録されている『大日本職業別明細図』に福知山市の現在の、中ノ町飲食街と浮世小路辺りにエクボ、オカノ、ヒノデ、ダイヤ、ローマンス、青空、フジヤマ、紅屋、月姫(魚棚町)のカフェーが載り、さらに芸妓置屋の名目で福知倶楽部が登録されています。こちらは雇仲居事務所と見てよいでしょう。

つまり、由良川に架かる音無瀬川を渡った先にあった公許の娼妓、芸妓が占める猪崎新地に対し、街中の中ノ町はヤトナやカフェー女給の私娼街とみてよいでしょう。『大日本職業別明細図』を探しても、ヤトナが入る席貸のような店が見当たりませんので、雇仲居は少数だったのかもしれません。

一方その猪崎新地の妓楼連盟も『昭和前期日本商工地図集成二期』に載りますので総て書き出すと、玉水、大友、一福、松葉、明治亭、黒川楼、魚兼、丸一、於多福、長八、君亭、塩見楼、鴛鴦、辻絹、新橋、川悦、愛富、丸嘉、清月、満多一、一富士、富士家、油屋、春家、若葉、八千代、?貴、都、竹亭、春日亭、梅雪、琴平、里之家、まきのや、旭、植村楼、万?楼、大路楼、良久亭、丸加津、松尾楼、藤田家、開化楼、水月、箕福、松月、明治支店、牛若、花家、山田楼、日進楼、近波楼、富之家、自由亭、杉の家、見晴、招福、栄盛楼、万栄楼、喜楽、金之家、福崎、丸八、大正楼、荻野楼、梅之家、山段楼、吉田楼の六十八軒

その後、戦後を挟み、昭和二十四(1950)年の『福知山市商工名鑑』には猪崎新地の妓楼・お茶屋とも一切載っていません。露天商が載っているにもかかわらずです。但し福知山貸席組合、福知山朝日雇仲居組合は顔を出しています。

そして昭和三十三(1958)年いわゆる売防法が完全施行された年、『福知山市商工名鑑』は娼妓の居ない、純然たる花街としての猪崎新地のお茶屋、芸妓置屋を載せています。

それが

吉富、明治亭、黒川、魚兼、明治支店、新橋、旭、日進、琴平、花屋、八千代、春日、藤乃屋、春屋、松尾、良久亭、栄楽、まきのや、丸八、荻野、ふくさ、志津乃家、清月、丸嘉、萬栄楼、戎屋そして代表者と所在地と電話番号のみで屋号のない一軒のお茶屋を含めた27軒です。

総てのお茶屋の住所が城山1207と754つまりこの二町が免許地に指定されていたということになります。

芸妓置屋の方は城山に初音、千歳、音羽、君亭、青柳、北本に久の家、ことぶき会、さらに芸妓取扱事務として西中ノに福知山芸妓置屋事務所がありますが、こちらは雇仲居の福知倶楽部→福知山雇仲居倶楽部→福知山芸妓倶楽部と名前を変えていったものと思われます。

*昭和三十四年の『京都名鑑』に、福知山芸妓組合、芸妓24、新研15.お茶屋19、置屋13、昭和三十九年版に福谷きみ、芸妓26が記されていました。(2016、3月7日付記)

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             カフェーヒノデの縦筋が中ノ町飲食街、カフェーフジヤの横筋が浮世小路
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                        中ノ町飲食街

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                        浮世小路

by gionchoubu | 2016-02-10 11:40 | 京都の花街・遊廓 | Comments(0)